半透明記録

もやもや日記

お知らせ

『ツルバミ』YUKIDOKE vol.2 始めました /【詳しくはこちらからどうぞ!】→→*『ツルバミ』参加者募集のお知らせ(9/13) / *業務連絡用 掲示板をつくりました(9/21)→→ yukidoke_BBS/

《フランク・ブラングィン展》に行ってきた

2010年04月18日 | 旅の記録

フランク・ブラングィン展






土曜日に、お友達のKさんに誘われて、上野の国立西洋美術館へ行ってきました。この日は朝は雨で、しかもものすごく寒かったのですが、待ち合わせの正午ころには晴れ間も見えて、上野公園はなかなか気持ちの良い空気でした。桜はほぼ散っていましたが、新しい緑が美しいですね。


さて、Kさんと落ち合うなりすぐに《フランク・ブラングィン展》をじっくり観てまわり、さらに「挿絵本から壁画まで――世紀末の美的生活空間とブラングィン」という、先日私が読了した『コルヴォー男爵』の河村錠一郎先生の講演を聴いてきました。面白かった!

ブラングィンは、油彩、エッチング、リトグラフ、木版画、陶器や家具あるいは壁画というインテリアデザイン、本の装丁などなど、幅広く芸術活動を行った多才な人であったらしく、展示品はどれも興味深いものばかりで楽しめました。
松方幸次郎(川崎造船所の初代社長、大金持ちの美術コレクター)との親交も深く、ブラングィンの作品の多くを松方氏が蒐集し、さらに《共楽美術館》という松方氏のコレクションを展示するための大美術館設立の計画にもブラングィンは深く関わったらしい(しかし、関東大震災と金融危機により頓挫)。
へー。

展示品を観ていくと、カーペット、皿、本の装丁などなどに葡萄のモチーフが多用されていることに気がつきましたが、ブラングィンさんは葡萄が好きだったんですかね? でも、葡萄というのは、何となくあのアール・ヌーヴォーな時代の雰囲気がありますよね。


私がもっとも惹き付けられたのは、おそらくこの展示会の目玉であるだろう大きな油彩《海賊バカニーア》、同じく《白鳥》の2作品です。展示室に入ると、まず目が吸い寄せられるほど、強烈に鮮やかな色彩。これはすごい。




《海賊バカニーア》は、かなり大きな作品なのですが、暗く深い海の色に対して朱色のような明るい旗、白くて汚れた舟、鮮やかなぼろをまとった屈強な男たち、ほとんど肌色のぼんやりとした遠景。

《白鳥》もまた、わりと大きな作品で、木陰に二羽の白鳥、手前が暗い草の影、ナスタチュームの花のオレンジ色、ひろげた翼の内側と胴体にはそのオレンジ色が反射し、陽のあたる部分の羽根は真っ白、奥はやはり肌色のようなぼんやりとした感じ。

あと、《煙草をくわえた男》という油彩も面白くて、これは帽子をかぶったおじさんが煙草をくわえているのですが、帽子のひさしが顔の上3分の1くらいに大きく影を作っていて、ほぼ正面を向いたおじさんの鼻の部分が、ものすごく浮き上がって見えました。私は斜めからこの絵を見た時には、てっきり立体になっていると思いましたよ。ものすごい陰影。絵って不思議ですねー。ブラングィンの作品は、ほかのものでも結構こんな感じで浮き上がって見えるのが(壁画装飾のための習作とか。よく見るとやっぱりただの平面なのでした)、かなり面白かったです。

ともかく、この《海賊バカニーア》と《白鳥》の2作品はすごく気持ちの良い絵でした。こういう絵とともに暮らせたら、きっと楽しいでしょうね。そう思うにつけても、私は美術品を美術館で展示することの不思議について少し考えてしまいます。美術館に置いてくれるからこそ私のような者も美術品に触れることができるわけですが、個人蔵を期間限定で貸し出すならともかく、美術館が作品を所蔵するとなると、美術品とともに生活するという喜びは失われてしまいますよね。そういう時のために複製があるんですかね。どうなんですかね。まあ、私としては、一瞬だけでもこれらの絵とともにある暮らしを夢見られて楽しかったです。


常設展を観る前に、河村先生の講演を聴きます。
コンスタンチノープル(イスタンブール)の地理から始まり、ブラングィンがかつてボスポラス海峡を抜けてルーマニアあたりまで行ったことがある、というお話だったと思いますが、時間が90分しかなかったので、大急ぎでお話が進んで行きました。ブラングィンが活躍した時代の背景や、同時代の芸術家たちとその影響関係、その中でのブラングィン作品の独特な魅力などについてが、私にも少しばかり分かりました。
予定時刻を30分近く延長してもなおお話し足らない感じで講演が終了し、私は持参した『コルヴォー男爵』に河村先生のサインをいただいてきました。良い記念になりましたね。


常設展では、松方コレクションを展示していましたが、すでに情報過多となった私とKさんは、閉館時刻も迫っていることもあり、じっくり観るというよりもすいすいと流れるように展示室を流れていきました。私はいくつか「あ、これ、いいなー」と思う絵があったのですが、もう…よく思い出せません; うーむ。すごいコレクションだということはよく分かりましたが。


館内をようやく一周して、ミュージアムショップでお買い物。お店には、なぜかベルギーのお菓子やビールが並んでいるので「何故?」と思ったら、ブラングィンさんはベルギー生まれの英国人だったんだそうです。あー、それで!
私はそしてビアグラスの可愛らしさに負けて思わず2つ購入。可愛い。Kさんがお買い求めのビールと合わせて、シロクマの小さなバッグをおまけに貰いました。
私はビールは飲めないので、このグラスにはアイスでも盛って、小さなサンデーでも作ろうかなと思っています(なんのためのビアグラス;)。


画像では小さく見えますが、口はそこそこ大きなグラス
可愛い





日も暮れてきた上野をそぞろ歩き、そのまま上野広小路あたりの韓国料理屋さんへ。私には初めての料理がいくつかあって、美味しかったです。というか、ものすごく満腹になりました。チャプチェって旨いものですね。

というわけで、土曜は非常に文化的で楽しい一日となりました。Kさん、どうもありがとう~~!






『コルヴォー男爵 フレデリック・ロルフの生涯』

2010年04月16日 | 読書日記ーその他の文学

河村錠一郎(試論社)




《内容》
ビアズリー、ワイルドが活躍した世紀末に妖しくその名を馳せた一人の作家がいた。コルヴォー男爵、本名ウィリアム・フレデリック・ロルフ。D・H・ロレンス、W・H・オーデンらに絶賛されながらも忘れ去られた男の、美と背徳の生涯。


《この一文》
“文明社会の定義そのものともいえる「偽りの構造」を攻撃するのに、ロルフは偽りをもってした。爵位詐称の象徴する意味はそこにある。馴れ合いを拒否し、その生から「何となく」や「涼しげなスマートさ」や「それなりに」を振り捨てた男、権力に抗った男――。 ”




試論社は私が個人的にちょっとしたご縁のある出版社で、そこのKさんとお茶をしていた時に(要するに私はKさんと友達なのです)、ふとこの『コルヴォー男爵』の話になりました。私は以前に試論社の出版書籍一覧を見ていて、この紫のような青のようなかなり印象的な表紙カバーが強く脳裏に刻まれていたのですが、「忘れ去られた男の生涯」という内容もすごく面白そうだよね、と申し上げたところ、なんとKさんは一冊私に譲って下さいました。わーっ、そういうつもりではなかったのですが、Kさん、どうもありがとう!

さて、頂いた本だから、あるいは友人が関わっている本だから、そういう理由で褒めようというわけではありませんが(私は極力率直でありたいので、まったくそんな気持ちがないとは言い切れませんが、しかしそれでもやはり)、この本は装丁からしてとても凝っていて美しい本でした。
まず、先にも述べましたが、表紙カバーの色合いが強烈に印象的です。そして、カバーを取ると、本の本体には真っ黒な背景にロルフの肖像(モノクロ写真の人物像を輪郭に沿ってクッキリと切り抜いて)が大きく配置されていて、すごく格好良い。さらに、本を開くと、見返しには金色で美しい人物画が置かれてあります。
私は正直なところ、本の装丁そのものにはさほどこだわりのない人間なのですが、それでもやはり美しい本を美しいと思えるだけの感性や、それを喜ぶような性質はいくらか備わっています。私が持っている本の中では、これはエレンブルグの『わが回想』と並ぶ美しさですね。


内容について以外のことをだいぶ書いてしまいましたが、私にしてみれば、その本がどうやって私のもとへやってきたのかも重要なことなので、記録しておきたかったのです。私は偶然を信じません。やはりこれも偶然の出会いではなかったと、「今このタイミングで読まなければならない本」であったと、読んだら分かりました。そういうわけで、私はこの本に関わった多くの方々に感謝を捧げたい気持ちです。
ちなみに明日の土曜には、国立西洋美術館で著者の河村先生の講演会があり、またしてもKさんのご厚意で私はその講演会を聴きに行ける予定なのでした。楽しみ!




さて、本題です。
コルヴォー男爵、本名ウィリアム・フレデリック・ロルフ、優れた才能を有しながらも世に出られず、争いの種をまき散らし、いくつかの偽名と身分詐称の上に不遇の人生を送った人物。絶えず浴びせられる屈辱と、忍びがたい赤貧という闇の中に身を置きながら、輝かしい美の世界を描き切るだけの精神を持ち合わせた人物。

私は普段は随筆などを少し読む程度で、小説以外の文章はほとんど読まないのですが、この本は、《コルヴォー男爵》という謎に満ちた人物の生涯を、その埋もれた著作(作品の内容は作者の実生活や実体験と緊密に関わっているらしい)や、破棄されることを前提に美しい少年たちとの交わりなどをあけすけに書いたロルフの書簡などを引用しつつ、読者がその特異な魅力にぐいぐいと惹き付けられるように紹介してくれています。また、ロルフの著作をめぐる人物が、時に小説の登場人物のように登場するので、私にはとても読みやすかったです。


それにしても驚くのは、光と影と真っ二つに引き裂かれたような、同時にそのいずれでもあるというような、コルヴォー男爵/フレデリック・ロルフの生涯です。
巨大な才能と願望を持ちながら、誰からもほとんど認められることなく、何一つ手にすることのないまま世を去ることになったこのロルフ氏の生涯はあまりに凄まじく、まるで物語のようでした。いっそただの物語であれば良かったのに、と思うほどの悲惨に覆われた彼の生涯ですが、不屈のロルフ氏は、逆に彼の物語の中に、彼の求めたすべてを描き出し、その世界のうちに美と幸福を実現したようにも思われます。そこが凄い。そこが素晴らしい。ただ者ではありません。普通の精神力ではない。

赤貧にのたうちまわりながらも素晴らしい作品を世に残した人物と言えば、ヴィリエ・ド・リラダンが浮かびますが、彼は落ちぶれたとはいえ本物の貴族であって、作品もいまだ世の中に広く読まれているのに対し、コルヴォー男爵は貴族でもなければ(著者による、この身分詐称についての解釈には納得)作品も広く読まれたとは到底言えないのが実に悲しい。こうやって埋もれていった輝きが、これまでどのくらいあったのだろうか、どのくらいの才能が浮かびあがることなく沈んでいったのだろうか。なんという悲しさでしょうか。けれどもまだ、コルヴォーはすっかり忘れられたわけではないのですね。それをこの本が証明していました。そうして私のところまでやってきました。胸が詰まりました。


本書では、ロルフの著作『ハドリアヌス七世』『自らを象って』『全一への希求と追慕』などいくつかの作品が部分的に引用されていますが、そのどれもがものすごく面白そうです。
それから、ロルフの書簡の内容もまた興味深いものです。カトリックの熱烈な信者であり神父になることが生涯の夢であったロルフでしたが、その一方で裸体の美しい少年の写真を撮ったり肉体的に交わったりすることに無上の喜びを感じているらしいこともうかがえました。人間というのは実に複雑なものですね。

引用された文章のなかでも私が特に気に入ったのは、作家コルヴォーの想像力の秘密に迫るために引用された『自らを象って』のなかの、ドン・フェデリーコが少年トトに、トトが語る物語の出所を訊ねる場面です。

“ ……ぼくは無から創造することのできる万能の神ではありません。
 ワインを作るのに、ぼくには葡萄と清潔な足が要るのです。   ”

そう語る少年トト。水の中に真逆さまに、底まで目を開けて潜るというトト。美しいトト。

涙で目が曇りました。できれば全篇通して読みたいものです。日本では翻訳されていないのでしょうか。どうにかして読めないかしらと、私はなにかジリジリするのでありました。




ある人物の生涯を追うことで、創作、芸術、社会、あるいはそれ以上のことについて考えさせられる一冊です。






UJ4に岸辺露伴先生が!

2010年04月15日 | 読書日記ー漫画

ウルトラジャンプ4月号




ここしばらく暗い記事ばかりで、さすがの私もちょっとへこたれてきたので、このあたりで軽い話題を!



さて、先月の末に本屋さんへ買いに行った時は、どうしてだか見当たらなかったのですが、こないだの日曜に池袋へ行ったら今度は置いてあったので、ウルトラジャンプの4月号を即買いしてきました。

荒木先生の『スティール・ボール・ラン』を連載中のウルトラジャンプですが、私は普段は買っていません。しかし、今月号には「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」が掲載されると聞いては、黙っているわけにはいきませんでした。なんとなく。私は第4部って好きさ。他の部も大好きだが。

この雑誌には他にも『ジョジョ』通算100巻記念の小冊子が付いていましたよ。UJ連載中の作家先生方が、それぞれにお祝いのジョジョ絵(でないものも含む)を披露してました。




しかし、この「岸部露伴 ルーブルへ行く」。早速読んでみたのですが、うん、怖くて不気味で良い感じ。億泰とかもチラッと出てるしね。
…でも、よく見たら……


これって…3号連続掲載の第1回じゃないですか~!!
   (←To be continued)キタコレ(´;ω;`)



とほほ…。あと2号も買えってことか。ちくしょう、表紙をよく見てなかったぜ……(←ちゃんと書いてある;)。



「岸部露伴 ルーヴルへ行く」は、去年ルーヴル美術館の企画展で展示された、荒木飛呂彦先生のフルカラー漫画。フルカラーですよ、フルカラー! フルカラーで123ページ! 超すごい!
ウルトラジャンプ4月号では、巻頭の数ページ以外はモノクロですが、単行本で出るなら、是非フルカラーで読みたいですね。





「征服の事実」

2010年04月14日 | 読書日記ー日本

大杉栄(青空文庫)


《内容》
過去と現在とおよび近き将来との数万あるいは数千年間の人類社会の根本事実たる征服を説く。


《この一文》
“ 敏感と聡明とを誇るとともに、個人の権威の至上を叫ぶ文芸の徒よ。講君の敏感と聡明とが、この征服の事実と、およびそれに対する反抗とに触れざる限り、諸君の作物は遊びである、戯れである。われわれの日常生活にまで圧迫して来る、この事実の重さを忘れしめんとする、あきらめである。組織的瞞着の有力なる一分子である。”







ほんとうはこのへんで踏みとどまりたいのですが、なんか、ダメっぽい…。私はどこへ向かおうとしているのやら分かりませんが、気の済むまでは、というか行けそうなところまではとりあえず行ってみるか!


先日読んだ大杉栄の「鎖工場」があまりに衝撃的だったので、K氏にも青空文庫のリンクを貼ったメールを送りつけたところ、早速読んでくれたらしいのです。それまでは私ひとりが「鎖が…鎖がですね…」とつぶやいていたのですが、それ以後、彼もまた私と顔をあわせるたびに「鎖…」と暗くなっているのでした。すまんね。

小説「鎖工場」では、工場(というひとつの社会)の中で鎖に縛られている人間のタイプを的確に分類しているのですが、自分たちは一体どのタイプに属するだろうか、多分時々鎖を作る手を休めてはぼんやりと夢を見ているあのタイプかしら……などと話し合いながら、このところの我々は飯を食ったりしています。なんつー暗い食卓!! 消化に悪いですね、ほんとスミマセン。

それからしばらくして、今度はK氏から「「征服の事実」を読んだら、なんか大杉さんが君みたいなことを書いてるのでますます凹んだ…」と言われたので、私も読んでみました。K氏が言うのは、「征服の事実」のこの部分だそうです。


“ ここに初期の人類は、自然の富饒の間に暖かい空気の下に、動物のような生活を送りながらも、なお多少環境を変更し、または他の肉食獣を避けもしくは欺くに足る知識もあり、非常な速度で繁殖することができた。そして血族関係から生じた各集団の人口が多くなって、互いに接触し衝突するようになれば、その集団は思うままに四方八方に移住した。かくして長い間、原始人類の間に、安楽と平和とが続いた。この時代が、昔からよく言う、いわゆる黄金時代であったのである。”



あー、なるほど。たしかに私もそんなことをよく言ってるかも。凹む、か。うん、凹みますねえ。
私はユゴーの『死刑囚最後の日』を読んだ時にも、ちょっと違うけど似たような、ひと気のない世界への憧れのようなことを書きました。まあ私に限らず、文明があるから(しかもそれが一個じゃないから、価値観の相違で)揉めるんじゃないの? あと地上に人が多すぎるんじゃないの?という疑問は、誰しもの心に根付いているのではないかと思われますが、どうなのでしょうか。フリオ・フレニトやエンス・ボートが目指した世界というのも、ひょっとするとこういうものに近かったのかもしれない(…いや、違うかな、やっぱり。でもこの問題は一部分ではあるのかも……。エレンブルグ:『フリオ・フレニトの遍歴』『トラストDE』参照。私はまだこれらを正しく読みこなせてはいないのです)、となると私がこういうものに惹かれるのにもなるほど一貫性があるね、などと話しては、またしても食卓を限りなく暗く沈鬱なものにしているのでした。



さて前置きが長くなってしまいましたが、私は大杉栄という人をついこないだまで知らなかったというのに、その存在感が急激に増してきていて、この迫力に立ち向かおうとするだけで正直疲れています。つ、疲れるわ。けれども、何と言うか、これは今のような時代にこそ一度読まれるべき代物ではないか、そういう気配がするので、疲れるけれどももうちょっと読んでみようと思います。結構面白いんですよ。ええ、ほんと疲れますけどね。ほんの短い文章なのに、なぜこれほど疲れるのか……。内容理解のために気持ちを奮い立たせるべきところかもしれませんが、なんだかひたすら打ちひしがれてしまいます。うなだれてしまいます。

そういうわけで私はやたらと疲れてしまって、内容についてじっくり考えをまとめたりする気力と能力が出てきそうにないので、長文をそっくり引用して、今日のところはひとまずおしまいにしたいと思います。そのうちに私のくたびれた脳髄にもわずかでもひらめきが発生すればよいのですけれど――。



“ 歴史は複雑だ。けれどもその複雑を一貫する単純はある。たとえば征服の形式はいろいろある。しかし古今を通じて、いっさいの社会には、必ずその両極に、征服者の階級と被征服者の階級とが控えている。
 再び『共産党宣言』を借りれば、「ギリシャの自由民と奴隷、ローマの貴族と平民、中世の領主と農奴、同業組合員と被雇職人」はすなわちこれである。そして近世に至って、社会は、資本家てう征服階級と、労働者てう被征服階級との両極に分れた。
 社会は進歩した。したがって征服の方法も発達した。暴力と瞞着との方法は、ますます巧妙に組織立てられた。
 政治! 法律! 宗教! 教育! 道徳! 軍隊! 警察! 裁判! 議会! 科学! 哲学! 文芸! その他いっさいの社会的諸制度!!
 そして両極たる征服階級と被征服階級との中間にある諸階級の人々は、原始時代のかの知識者と同じく、あるいは意識的にあるいは無意識的に、これらの組識的暴力と瞞着との協力者となり補助者となっている。
 この征服の事実は、過去と現在とおよび近き将来との数万あるいは数千年間の、人類社会の根本事実である。この征服のことが明瞭に意識されない間は、社会の出来事の何ものも、正当に理解することは許されない。
 敏感と聡明とを誇るとともに、個人の権威の至上を叫ぶ文芸の徒よ。講君の敏感と聡明とが、この征服の事実と、およびそれに対する反抗とに触れざる限り、諸君の作物は遊びである、戯れである。われわれの日常生活にまで圧迫して来る、この事実の重さを忘れしめんとする、あきらめである。組織的瞞着の有力なる一分子である。”



最後の段落がとくに強烈。この部分は「生の拡充」へと続いているので、そこであらためていくらか考察できるといいなぁ…。でもたぶん私には「考察」とか無理ですけど; ああ、なんて骨なし能なし野郎なんだ! うーん、うーん……。







カネ、万能なもの

2010年04月13日 | 学習


最近、いや、もうかなり以前からずっと私を苛立たせているものが、カネ、であります。カネ、あまりに万能なもの。その威力はあまりにも強大かつ強固であるために、私がいくら腹を立てようとも、カネの魔術的なまでに不可思議で強い力に、私はただ押しひしがれる以外にないところがまた頭に来るのでありました。

私がまだ女の子だった頃、「カネだなんて言わないで、お金と言いなさい」と何度となく周囲の善良な人達から注意を受けたものですが、私はどうもいまだにそれを受け入れられなさそうです。だって、カネはカネだろう。カネをありがたく感じる局面はたしかに多いけれど、私にはそのことがそもそも疑問なのです。こんなことを考えたって一文の得にもならないだろうというのはもっともですが、それだけに一層腹が立つのです。


カネとは何だろうか。

たとえば、健康体である程度の能力はあるが職はなく、貯えも目減りする一方で、新たにカネを稼ぐあてもない人間(私に似た誰か)がいるとする。この社会に属する善良な人々はその彼をどう評価するというに、カネを持っていない、持てる期待もできないという点で選別されてしまう傾向にあるのは、私の気のせいではないと思う。この際、彼の人格はあまり評価には関係がない。気のいい人間だろうが何だろうが、カネがなければ、軽蔑されることまではないにしろ(周囲の人々が心優しい場合は)、この社会において正しく立派な人間であるとは認められないことが多い。私の気のせいでなければ。そもそも、私もその考えに同感だ。カネがなければ社会に生きる権利は得られない。これはどうやったって私には否定出来ない。今年の正月、フランツ・トゥンダの衝撃は私をぐうの音も出ないほどに打ちのめしたものだ。


“この社会秩序の中では、ぼくが働くことなど重要ではない。しかしそれだけに、ぼくが収入を得ることは一層必要なのだ。収入のない人間は名前のない人間か、あるいは肉体のない影のようなものなのだ。自分が幽霊のように感じられてくる。これは右に記したことと少しも矛盾しない。ぼくは自分の無為のために良心の呵責を覚えるのではなく、他のすべての人たちの無為には十分報酬が支払われているのに、ぼくの無為は一文の収入にもならないからこそ、呵責を覚えているのだ。生きる権利は金によってしか得られない。”

 ――『果てしなき逃走』ヨーゼフ・ロート


彼がカネさえ持っていれば、生活上のほとんどのことは解決する。唸るほどのカネがあれば、仕事に就いてさえなくていい、場合によっては仕事に就く必要もない。額が大きい場合には、カネがカネを稼いできてくれることもある。そしてそのカネはどういう風に手に入ったものでも、わりと構わないらしい。遺産相続でも、資産運用でも、必死に働いて貯めたものでも、時には不正によって得たものでも。私の主観では、不正によるカネの入手というのは、その額が大きければ大きいほど罪に問われにくくなるような気がするのだが、気のせいだろうか。
いずれにせよ、カネはカネでしかなく、カネがカネである以上、彼にカネがあればあるほど、彼の生き方をとやかく言う人間は少なくなっていくのではないかと思われます。私はそんなにカネを持っていたことがないので、あくまで想像に過ぎませんけれども。

しかし世の中には、「カネでは買えない価値のあるものがある」という意見もあります。いくらカネを持っていても、死を避けられないし、必ずしも真実の愛を得られない…などという。だがしかしよく考えてみると、カネを持っていなくても、やっぱり死を避けられないし、カネがなければ、そもそも愛とか呼ばれるものが発生すらしないことの方が多くはないでしょうか。もちろん貧乏にもよいところはあって、「これ以上失うことへの恐怖心が少ない」という気安さはあります。この感情は私には馴染みのものなので、実体験として報告できます。でも、まあ、それだけですね。他にも美点があったら教えてください。
一方、カネがあれば、欲しいものを手に入れたり、やりたいことが出来る可能性は広がるばかりです。急ぎ過ぎた結論かもしれませんが、「カネで買える価値のあるものの方が多い」。カネがなければこの世は生き辛い、これは事実でありましょう。それは違う! ということならば誰か反論してください。お願いします。私は全力でそれが知りたい!


カネ。これは、ものすごい発明品には違いありません。こんなにも世の中の人々からすんなりと全面的に受け入れられている力は、ほかにあるでしょうか。実体があるようで、ないようなのに、人をしてその人生を捧げてしまえるほどの魅力を放つカネ。人を支配するのに効果的な、カネ。


カネとは一体何だろうか。

こんなことを、ウジウジと唸っているだけの私の生産性の無さよ! 持ってもいないカネのことばかり考えて、カネというものがつくづく嫌になってくる。いっそ宝くじにでも当たらないものだろうかと、私は買ってもない宝くじが当たることを夢想してみる。だって、もしも一等が当たったら、私はもうカネのことなんざ気にしない安楽な人生を送れるんじゃないだろうか。

なんだか我ながら、ろくでなし過ぎて、頭が痛くなってきた……。そうだこんな時は百先生の『大貧帳』でも読もう、と思いましたが、あれあれ?「金は単なる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である」といういつものお言葉が、なんだか今日は……負け惜しみにしか聞こえな…(/o\;)?


ここまで書いてみて、いつかも同じことを書いたような気もしてきました。悩みのつきぬ問題ですねー、いやはや。ほんと、どうしようもない。こんなこと考えたって、一文の得にもならないんですよ。でもですね、

“ぼくは自分の無為のために良心の呵責を覚えるのではなく、他のすべての人たちの無為には十分報酬が支払われているのに、ぼくの無為は一文の収入にもならないからこそ、呵責を覚えているのだ。”


ああ、またここへ戻ってきてしまったぜ。果てしない逃走――。お、終われない……(/o\;)逃げ切れないぞ。。。







ちょっとお花見に行ってきた

2010年04月12日 | 旅の記録

実は昨日見た桜ではないけれど、これもいちおう今年の桜




昨日は、友人と軽く花見がてら、一緒に食事をしてきました。いつもなら詳細に記録しておくところですが、情報量が多すぎてまとめられないので、今回は簡単に。忘れたくないことだけ書き留めておくことにします。箇条書き、のつもりでしたが、それでも結構長くなってしまったかな……;





* 昼間はものすごく暖かかった。途中の小さな公園の一画には、ぼんぼりのような2色の八重桜が枝垂れて咲いていた。


* ランチに入ったお店で、美味しいコース料理とともに赤ワインを一杯頼んだ。珍しく私はあまり酔わなかった。あまり量は飲めないけど、やっぱりワインは好きだなぁ。


* おいしく楽しく食事をして、おしゃべりをして店を出た。例によって猛烈にしゃべりまくった。私のもやもやは、友人の知性の輝きに照らされて、いくぶんスッキリしたものとなって返ってきた。ありがたい。あれは同情というよりも「共感」であったのだ。そうか、なるほど…。
「ちょっと長居してしまった。3時くらい?」と思ったら、4時近かった。長居し過ぎ、堪能し過ぎ。


* 花見も終わりかけの桜並木の坂道をゆるゆると下る。
 桜の木の下のベンチに腰掛けたおばあさんの傍らには乳母車が置かれていて、赤ちゃんが中にいるのかと思いきや、真っ白い大きな猫が布にくるまれて大人しく座っていた。やたらと和む。植物園の手前で、赤い首輪をつけたふっくらした可愛い猫とすれ違った。相変わらず、猫多発地帯。


* 植物園には時間が遅くて入園できなかったので、その外周を、まだまだおしゃべりを続けながらグルリと歩く。外周を一周したことはなかったが、このあたりは私にはとても懐かしい場所なので、初めて通る道の知らない家並にさえ、いくらかしみじみとした。


* 植物園の周りを周り切って、駅の方向へ向かうと、そこもまた私にはとても思い出のある場所なのだが、この時もいつかのように道沿いの桜がはらはらと盛大に花びらを散らせていた。夕方になってやや曇り、友人がこれからのお天気を携帯で調べてくれている間、私たちは小さな丁字路に立ち止まり、歩き出したときに強まった風が、雪みたいに花びらを散らせていた。ほんとうに雪のようだった。いつかこの日のことを思い出すとき、私はきっとこのことをまず最初に思い出すだろう。懐かしすぎる土地で、懐かしさと若干の後悔のために私の心は密かにキリキリと痛んでいたけれど、新しく美しい思い出が追加されたから、なんだかもうしばらくはまた大丈夫なような気がした。


* 池袋へ。そして当然、本屋へ。そして、友人によるレクチャーを拝聴。相変わらず友人の語り口は情熱的かつ魅力的なので、私はたまらず数冊購入。その会話の流れで、私自身は漫画(特に恋愛もの)には「まったり感」とか「和み」を求めているらしいことが判明。これは自分でも驚いた。ドロドロしたのは嫌だとか言ってみる。しかし同じ口で私は小説は暗黒なのが好きだと言うのであった。まあ私は恋愛小説を読まないから単純には比べられないのだけれど。でも小説では、私が究極に美しいと思っているある愛を描いた短編では、最後に二人は死にます。死あるのみ!…全然まったりできないぜ。


* 池袋では夕食も一緒に。タイ料理屋さんでは、お得なセットメニューが美味しかった。そしてお店の女の子が猛烈に可愛かった(タイから来た女の子?)。ここでもやっぱりおしゃべりの続き。


* 帰宅。頭の中にいっぱい詰まっていた私は、やっぱり夜はなかなか寝付けなかった。興奮し過ぎ。情報を、情報を整理しなくては。と思いつつ、買ってきた漫画を早速読み始め、和みつつ転げ回り、興奮した私は夜中になぜかオネエ言葉で友人にメールを出してしまう。ただいまループ読み中。



というわけで、楽しい一日でした♪ お花見にぎりぎりで間に合って良かったです。

相手との対話によって、自分ひとりで考えていたときにはハッキリしなかった事柄が、ある程度まとまった形として現れてくるというのがいつものことながら面白いです。やっぱり人と会うのは楽しいものですね(^_^)




【ミズオト】作品 追加公開のお知らせ

2010年04月11日 | 同人誌をつくろう!

本日、同人誌YUKIDOKE-vol.3 【ミズオト】に、1作品追加いたしました!
追加公開した作品は、こちら。



『魔法と黒猫』(前編)/(後編)… 入江ほとりさん
 (↑こちらからリンクしております)
    

    




入江ほとりさんによる、私も大好きなアノ猫と思われる大猫が登場する不思議な味わいの長編小説です。
前編と後編とに分かれておりますので、ご覧の際はご注意くださいませ♪

感想などいただけるとありがたいです(^_^)
週末に、ぜひどうぞ!!




さて、今回の【ミズオト】参加作品は、これにて出揃いました。みなさん、どうもお疲れさまでした♪ いやー、それにしても、今回の私の進行っぷりは、これまで以上にヘロヘロでしたね(/o\;) 同人のみなさま、どうもスミマセンでした! でもとりあえず、どうにかウェブ版は完了して良かったです。冊子版の方は、なんか…実は……まだ全然やる気が出ないのですが、そのうちやる気が出たらやろうかな、という消極的な気持ちでおります; ス~ミ~マ~セ~ン~~。





咳と花

2010年04月10日 | もやもや日記
ヨコハマヒザクラ というらしい




あんまり自分のことばかり書くのもあれなんですが、よく考えると私はいつも自分のことしか書いていなかったなと思い至ったので、今日も気にせず思いついたことを書いておこうと思います。


さて、どうやら月のはじめの週には私はとても感情的になりがちであるらしいことが、過去ログを見るとよく分かります。頭が冴えているのか気が変になっているのか分かりませんが、そういう時にはどうしてだか突然あるまとまった考えが押し寄せてきて、私はまるでゴホゴホと咳でもするように一気にそれを吐き出すのでした。

先日も、さまざまなきっかけが突如として結びつき合って、私はひとつの薄暗い熱情にとらわれてしまい、負の気迫に満ちた文章を書き殴ったところ、ここにも多くのコメントをいただき、また幾人かの友人から個別にメールをもらったりしてしましました。みなさん一様に私を慰めてくださいましたが、ご心配をおかけしてスミマセンでした。あれは持病の発作のようなもので放っておいても大丈夫なのですが、暖かいお言葉の数々に私は心が暖まると同時に、あまり乱暴にものを書くのもほどほどにしないとなと反省したりもしました。いや、ほんとうにスミマセン。
謝りついでにもうひとつ謝っておきますと、実はああいう時の私は、書いている時こそワナワナと震える程の激情を感じているものの、書き終わってしまえばスッキリサッパリと気分爽快なんですね。書いた内容のことなども、自分ではほとんど気にしていなかったりします。ひどいですね、ただのストレス解消ですね。付き合わされる方の身にもなれ、という話ですよね。いや、本当にスミマセンでした…!!


でも面白かったのは、私のあの手の文章には、ある種の吸引力があるのかもしれないということです。「この人大丈夫かしら?」的な、優しい方々の心に訴えるような何かがあるのかもしれません。実際、のたうちまわっている時の私の文章は客観的に見れば面白いものがあります。何をそんなに興奮しているの?みたいな、まあとにかく勢いだけはある。だいぶ過去の記事を忘れた頃に読み返したりすると、私は自分でも時々そう思います。そして、内容は暗ければ暗いほど面白いみたいですね、なんだか。

しかし、今回もっと面白かったのは、私が咳が止まらないみたいにゴロゴロと転げ回って吐き出したトゲトゲしい言葉に対して、返ってきたものは全然別の柔らかくて温かい言葉だったことです。まるで花びらがはらはらと散るように、花のような言葉が私の上に降り注いだのでした。驚きました。不思議でした。やっぱり世の中には優しい人の方が多いのだと思います。それなのに、私ときたら…。もし私が誰かがあんな風に書いているのを目にしても、「大丈夫かな?」と思いはしても、コメントを残したりメールを送ったりするかどうかは怪しいものです(←ほんとヒドい奴;)。

というわけで、私は咳のような息苦しい文章をまき散らしただけでしたが、優しいお言葉をたくさんいただいて、時々は私も人の心を和ませるような、柔らかくて美しい、花のような言葉も綴ってみたくなりました。しみじみと、読むと心が温まるような、そんな美しい言葉を。時々は。
…む、無理かな。私は咳専門っぽいしな(おそらく今後も性懲りもなく激暗記事を書き続けることでしょう)。でも、たまには。どうにかこうにか捻りだして!



近所の桜は、だいぶ散ってきました。お花見の季節もそろそろ終わりになりますね。花びらが静かに散るような、ああいう感じの。あんな静かで美しい言葉を。あんな風であろうとしたら、どんな心が必要なんだろう。私にはまだ分かりませんが、しかし、たしかに私の中にそれは降り積もっています。







【やっぱり】ニワトリが居る?

2010年04月08日 | もやもや日記



先日の記事の続きになりますが、私は家にいると時々、どこかからニワトリのような鳥の鳴き声が聞こえてくることを不思議に思っているのです。K氏が「あれは玩具だ」と断定して、事態は収まったかにみえたのですが――


昨日は曇っていて、今にも雨が降り出しそうだと思いながら、私は窓辺に佇んでいました。同じ棟に住む、うちの上階かそれともお隣かは分かりませんが、どこかから何人もの小さな子供たちが遊ぶ声が聞こえてきます。

私の今の住まいは密閉性の高い静かな集合住宅ですが、窓のすぐ近くだと、あるいは窓を開けたりすると、ご近所の生活音もいくらか聞こえるのです。きっとあの子らは天気が悪いので、外へ出られないのだなと思って聞いていました。

するとその時、私の耳に驚くべき言葉が飛び込んできたのです。

 「あっ、たーまーごーー!」
 「たまご、うまれたよーー」
 「わーーあったかーい」



…な、なん…だ…と?





ちなみに、今朝も早くからケコケコという音が聞こえました。でも、生きたニワトリが居るにしては、普段は静かなんですよねー。
謎は深まるばかりであります……









『Ergo Proxy(エルゴプラクシー)』

2010年04月07日 | 映像(アニメーション)

Ergo Proxy



《あらすじ》
汚染された外界から遮断されたドーム型都市ロムド、その中でオートレイヴと呼ばれるロボットとともに模範的な良き市民として暮らす人々。秩序に守られた平穏なロムドに、コギトウィルスと呼ばれる感染するとオートレイヴに自我を発生させるウィルスが蔓延し、市民情報局のリル・メイヤーはオートレイヴ暴走事件と市民虐殺事件を追うなかで、謎の怪物プラクシーと出会う。リルはその謎を追い、真実を求めてロムドの外の世界へと飛び出す。

《このひと言》

“ 一番消したい自分だけが残る ”






2006年、manglobe(マングローブ)原作・制作のオリジナルアニメ。manglobeのオリジナルアニメというと、『サムライ・チャンプルー』ですね。あれも結構じわじわと面白かったのですが、こちらの『Ergo Proxy』はびりびりと面白かったです。久しぶりにシビレました。すっげーカッコいいッ!!

これはSFサイコサスペンスらしいのですが、どういう感じなのかを簡単に申しますと、ザミャーチンの『われら』とル=グウィンの『ゲド戦記 影とのたたかい』、それに自我を持ち始めたロボット…的SF、救世主とか神との対峙とかをミックスして云々、というようなお話です。うーん、ちょっと違うかな。ともかく、内容は結構哲学的でまどろっこしく、私にはついていけないところもいくらかありましたが、でも面白かったです。


私はこのアニメの世界の中へもの凄い勢いで飲み込まれましたが、率直に言うと、結末はもう少しどうにかならなかったのかなぁ、こういうgdgdラストはなぁ、あと一歩というところで燃え尽きたのかしら…という感じ。いや、でもそれでもそれなりに、悲しみに満ちていながらも(そして多くの疑問をそのままに残しながらも)希望を感じさせる良い結末でしたし、何と言っても前半までの展開がマジで神レベルなのです! スッゲー!のです。震えるほどに魅力的でした。面白かったなぁ! 《楽園》と思われたロムドへの疑惑がその崩壊を加速させていくという、私の大好きな滅亡もの。

結末に向けての多少のやっつけ感は否めませんが、登場人物はみな、それぞれの存在理由を求めて苦悩の中へ飛び込んでいきます。自分はいったい何者なのか、失った記憶を取り戻すことの意味は、真実はどこにあるのか。この世界と自分との関係。自分ともう一人の自分との関係――。こう書き出してしまうといささか陳腐に感じる気もしますが、これは廃れない問いかけであり、やはりここでも彼らの苦悩は私の心にも深く入り込んでくるものでした。
私はここで解答は得られませんでしたが、そんな簡単に答えを教えてもらえるなんて思うのは甘過ぎますよね。うむ。だからあの結末にも満足です。


ストーリーもさることながら、私の心を奪ったのは、まずはこのシリーズの画面の美しさでしょうか。絵とかうますぎます。格好良すぎます。まいった。色彩に乏しいながらも、恐ろしく美しい背景、人物、その他諸々の設定がすごすぎます。
特にキャラクター造形が素晴らしいです。

主人公のひとりであるリル・メイヤーの美しいことと言ったら! 彼女は尊大で、とても面倒くさいタイプのお嬢さんなのですが、でもカッコイイ!



もう一人の主人公、ビンセント・ロウは物語の序盤ではひたすら線目で描かれているのですが、序盤の終わりの方で初めて目を見開く場面があって、それが愕然とするほどにカッコいいんですね。シビレタ。シビレマシタ。



それから、コギトウィルスに感染し、感情を持つようになった愛玩用オートレイヴの少女ピノがすごく可愛い。き、着ぐるみが……!!



ピノ以外のオートレイヴのデザインも最高です。とにかく格好良い。ああ、格好良い。
 





そして、極めつけに格好良いのがオープニングテーマです。もう死ぬ程カッコイイのです。やばカッコイイぜ! これを観るだけでも満足できます。格好良いなぁ~。つべとニコニコでOPの高画質版を見つけた私は、ループ再生の真っ最中です。なんてカッコイイんだろ! これは、これだけでも一見の価値ありです。私がこれまでに観たアニメのオープニングのなかでは一番カッコいいかもしれません。曲と映像の合致率が素晴らしい。あー、カッコイイ……。

 
YouTube: Ergo Proxy OP [HD]
 (←ここからリンク)



というわけで、とにかくひたすらに格好良いアニメシリーズです。とにかくひたすらにシビレました。ビジュアル的には『少女革命ウテナ』以来のインパクトでしたね。いやー、格好良かった。マジでカッコよかった。

 私は美しいアニメが好きだ~~~っ!

と、今日も絶叫して終わる…(/o\;)