半透明記録

もやもや日記

カネ、万能なもの

2010年04月13日 | 学習


最近、いや、もうかなり以前からずっと私を苛立たせているものが、カネ、であります。カネ、あまりに万能なもの。その威力はあまりにも強大かつ強固であるために、私がいくら腹を立てようとも、カネの魔術的なまでに不可思議で強い力に、私はただ押しひしがれる以外にないところがまた頭に来るのでありました。

私がまだ女の子だった頃、「カネだなんて言わないで、お金と言いなさい」と何度となく周囲の善良な人達から注意を受けたものですが、私はどうもいまだにそれを受け入れられなさそうです。だって、カネはカネだろう。カネをありがたく感じる局面はたしかに多いけれど、私にはそのことがそもそも疑問なのです。こんなことを考えたって一文の得にもならないだろうというのはもっともですが、それだけに一層腹が立つのです。


カネとは何だろうか。

たとえば、健康体である程度の能力はあるが職はなく、貯えも目減りする一方で、新たにカネを稼ぐあてもない人間(私に似た誰か)がいるとする。この社会に属する善良な人々はその彼をどう評価するというに、カネを持っていない、持てる期待もできないという点で選別されてしまう傾向にあるのは、私の気のせいではないと思う。この際、彼の人格はあまり評価には関係がない。気のいい人間だろうが何だろうが、カネがなければ、軽蔑されることまではないにしろ(周囲の人々が心優しい場合は)、この社会において正しく立派な人間であるとは認められないことが多い。私の気のせいでなければ。そもそも、私もその考えに同感だ。カネがなければ社会に生きる権利は得られない。これはどうやったって私には否定出来ない。今年の正月、フランツ・トゥンダの衝撃は私をぐうの音も出ないほどに打ちのめしたものだ。


“この社会秩序の中では、ぼくが働くことなど重要ではない。しかしそれだけに、ぼくが収入を得ることは一層必要なのだ。収入のない人間は名前のない人間か、あるいは肉体のない影のようなものなのだ。自分が幽霊のように感じられてくる。これは右に記したことと少しも矛盾しない。ぼくは自分の無為のために良心の呵責を覚えるのではなく、他のすべての人たちの無為には十分報酬が支払われているのに、ぼくの無為は一文の収入にもならないからこそ、呵責を覚えているのだ。生きる権利は金によってしか得られない。”

 ――『果てしなき逃走』ヨーゼフ・ロート


彼がカネさえ持っていれば、生活上のほとんどのことは解決する。唸るほどのカネがあれば、仕事に就いてさえなくていい、場合によっては仕事に就く必要もない。額が大きい場合には、カネがカネを稼いできてくれることもある。そしてそのカネはどういう風に手に入ったものでも、わりと構わないらしい。遺産相続でも、資産運用でも、必死に働いて貯めたものでも、時には不正によって得たものでも。私の主観では、不正によるカネの入手というのは、その額が大きければ大きいほど罪に問われにくくなるような気がするのだが、気のせいだろうか。
いずれにせよ、カネはカネでしかなく、カネがカネである以上、彼にカネがあればあるほど、彼の生き方をとやかく言う人間は少なくなっていくのではないかと思われます。私はそんなにカネを持っていたことがないので、あくまで想像に過ぎませんけれども。

しかし世の中には、「カネでは買えない価値のあるものがある」という意見もあります。いくらカネを持っていても、死を避けられないし、必ずしも真実の愛を得られない…などという。だがしかしよく考えてみると、カネを持っていなくても、やっぱり死を避けられないし、カネがなければ、そもそも愛とか呼ばれるものが発生すらしないことの方が多くはないでしょうか。もちろん貧乏にもよいところはあって、「これ以上失うことへの恐怖心が少ない」という気安さはあります。この感情は私には馴染みのものなので、実体験として報告できます。でも、まあ、それだけですね。他にも美点があったら教えてください。
一方、カネがあれば、欲しいものを手に入れたり、やりたいことが出来る可能性は広がるばかりです。急ぎ過ぎた結論かもしれませんが、「カネで買える価値のあるものの方が多い」。カネがなければこの世は生き辛い、これは事実でありましょう。それは違う! ということならば誰か反論してください。お願いします。私は全力でそれが知りたい!


カネ。これは、ものすごい発明品には違いありません。こんなにも世の中の人々からすんなりと全面的に受け入れられている力は、ほかにあるでしょうか。実体があるようで、ないようなのに、人をしてその人生を捧げてしまえるほどの魅力を放つカネ。人を支配するのに効果的な、カネ。


カネとは一体何だろうか。

こんなことを、ウジウジと唸っているだけの私の生産性の無さよ! 持ってもいないカネのことばかり考えて、カネというものがつくづく嫌になってくる。いっそ宝くじにでも当たらないものだろうかと、私は買ってもない宝くじが当たることを夢想してみる。だって、もしも一等が当たったら、私はもうカネのことなんざ気にしない安楽な人生を送れるんじゃないだろうか。

なんだか我ながら、ろくでなし過ぎて、頭が痛くなってきた……。そうだこんな時は百先生の『大貧帳』でも読もう、と思いましたが、あれあれ?「金は単なる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である」といういつものお言葉が、なんだか今日は……負け惜しみにしか聞こえな…(/o\;)?


ここまで書いてみて、いつかも同じことを書いたような気もしてきました。悩みのつきぬ問題ですねー、いやはや。ほんと、どうしようもない。こんなこと考えたって、一文の得にもならないんですよ。でもですね、

“ぼくは自分の無為のために良心の呵責を覚えるのではなく、他のすべての人たちの無為には十分報酬が支払われているのに、ぼくの無為は一文の収入にもならないからこそ、呵責を覚えているのだ。”


ああ、またここへ戻ってきてしまったぜ。果てしない逃走――。お、終われない……(/o\;)逃げ切れないぞ。。。







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