半透明記録

もやもや日記

『白魔(びゃくま)』

2014年02月15日 | 読書日記ー英米

マッケン 南條竹則 訳(光文社古典新訳文庫)



《内容》
緑色の手帳に残された少女の手記。彼女は迷い込んだ森のなかで「白い人」に魅せられ、導かれて……。(「白魔」)
平凡な毎日を送るロンドンの銀行員にウェールズの田舎の記憶が甦り、やがて“本当の自分”に覚醒していく。(「生活のかけら」) 魔の世界を幻視する、珠玉の幻想怪奇短編!


《この一文》
“全財産を貧しい者に与えても、慈愛がないことだってあり得る。それと同様に、あらゆる犯罪を犯さずにいても、罪人だということがあり得るんだ ”
  「白魔」より

“こうして、来る日も来る日も、彼は灰色の幻の世界に生きていた。その世界は死に等しいが、なぜか我々多くの人間には生(せい)と呼ばれて、それで通っている。ダーネルにとって、真(まこと)の生は狂気とも思われただろう。時折、その世界の光輝(ひかり)が行く手に影やおぼろな物の姿を投ずると、ダーネルは不安にかられて、平凡な出来事や関心事からなる、彼が健全な“現実”とでも呼んだであろうものの中に逃げ場を求めた。(中略)
 ともかく、こうしてダーネルは、来る日も来る日も死を生ととりちがえ、狂気を正気と、無意味な、はかない幻影を真の存在と見誤って暮らしていた。彼は自分がシェパーズ・ブッシュに住むシティの会社員だと本気で考えていて――正当な相続によって己のものである王国の神秘と、遠く遥かに輝きを放つ栄光とを忘れていた。”
  「生活のかけら」より





アーサー・マッケンは前から一度読んでみたいと思っていたので読んでみたところ、ところどころにものすごくハッとさせられる文章が出てきて私を打ちのめしたのは事実ですが、全体としては今のところどうも私には合わないというか、ちょっと私にはマッケンさんは行き過ぎていてついていけないな…という感想でした。マッケンさんにとってはいわゆる「実生活」がよほど辛いものだったんでしょうか。お金を稼いだりその使い道を考えたりすることなどをあれこれと全否定し過ぎのような。そしてなんだか科学を否定し過ぎというか。一般的な人間関係についての見方もわりと批判的な感じ。気持ちは分かる。気持ちは分かるが、でもそこまで言うことはないような気も私にはするのです。どうしたんだろう、いったい何があったんだろう?

さて、「白魔」は前置きの部分がとても面白かったのですが、肝心の「緑色の手帳」のところからが私にはさっぱり分からず…。でも、悪とは何かという論理は非常に興味深かったです。私もずっと心に引っかかっていた問題でしたが、すごく納得させられました。

「生活のかけら」のほうはより興味深く読めた作品でしたが、最後がやや物足りず。「えっ、それからが知りたいところなのに!」というところで終わっていました。あと、それがこの作品にとって重要な設定であることは承知していますが、でも実は自分が美しい王国の正当な相続者、みたいなところが、まあ分かるんですけど、なんだか少し悲しくなるようでもありました。なんでだろうな。私は毒されているのかな、この無意味ではかない「現実」という幻影に。

けれども、やはりたしかにハッとさせられるところがある。この人が世界に見ていたものが、ちらちらと私にも見えるような気にさせられる。ある美しさが、ある懐かしさが、ある純粋さが、それが胸の奥底を燃やすような感じはある。たぶんそれがこの人の魅力なんでしょうね。だけど私はこの「現実」の中にも確かに美しいものがあると信じたいのであった。


もしかしたら、いつかはもう少し深くこの人を理解できるようになるかもしれませんが、今のところは何とも言えません。でも、なんとなくは分かった。とりあえずそれで満足。









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