イリヤ・エレンブルグ 原子林二郎訳(ソヴェト文化社)
《あらすじ》
巴里の陋巷の安ホテル――それは人生の縮図だ。落魄した亡命政客、売春婦、革命家、スパイ、生活の波に押し流された小市民、こうした人達の織りなす現実界の布はあまりにも侘しい。エレンブルグの「黄昏の巴里」はこうした世界をとりあげて、彼一流の感覚的な筆致で描破したものだ。彼の描く第一次大戦後の巴里の動揺は、そのまま第二次大戦後の今日の現実にあてはまるものではなからうか。それは自棄と絶望、愛情と憎悪にむれかへつてゐる。それだけにこの作品はかぎりなく哀しい。だが黒々とした魂の闇の裡に、よりよき未来へ、よりよき世界への郷愁がのたうちもだへてゐることを蔽ふことができない。(あとがきより)
《この一文》
“……が、メイは間もなく苦つぽい笑を浮べた。まるで天に唾を吐くやうなものぢやないか!……自分の生きてゐる時代が若いからといつて、腹を立てていゝものだらうか? どうもさうらしい。まるで絵葉書かなんかみたいなものだ。たつたそれだけだ。だが僕達の運命は独特だ。ジャングルから開墾地を作り上げたのだ。これも又芸術と言へるのぢやないだらうか? いゝや、僕達は幸福だ。僕は新しい時代に生れたのだ。この素晴らしい時代と共に生きてゐるのだ!……”
本書の翻訳は、1933年に発行された原題「モスクワは涙を信じない」(ソ連国立芸術文学出版所版)によるものとのこと。「モスクワは涙を信じない」って言葉があるんだ、モスクワの人達は涙を信じないんだ。そして事実正しいんだ。泣いちゃいけないんだ、生活しなくちゃならないんだ。そのときは信じない者も信ずるようになるだろうよ。モスクワは愛することだけを知っている。だから涙を流して悲しむ必要がないんだ……という文章がこの作品の中にあります。この頃のエレンブルグは故郷へ帰りたかったのでしょうか。どうかな。真意ははかりかねますが、しかし、深い悲しみがあるのはたしかです。
哀しい。とにかく哀しい。エレンブルグは初期の小説『フリオ・フレニトの遍歴』、『トラスト・DE』以降の作品は、少なくとも日本ではあまり高く評価されていないように感じますが、この『黄昏の巴里』を読んでみて、その理由がなんとなくですが分かってきたような気がします。哀しいんです。ただただ哀しい。フレニトやエンス・ボートのように、世の中に絶望するあまりそれを丸ごと滅ぼしてしまえ! という強烈なキャラクターが出てくることもなく、初期ではしばしば見られた弾けるようなおどけたようなユーモアもなく、ただひたすらに悲しくみじめな人々の様子を描いているのです。真顔の文学と言った感じ。どうしてしまったんだ。悲しくて、悲しくて、すっきりしません。
けれども、私にはこの『黄昏の巴里』はとても心を打つ小説でありました。
舞台は突然の不景気に襲われた(恐らく世界恐慌)直後のパリ。安ホテル『モンブラン』に住む人々のそれぞれの人生を、悲しみを描いています。「仕事がない」「金がない」、そのために人々は転落し、楽しみも、希望も、信頼も、愛情も、自尊心さえ失ってゆきます。目も当てられぬような悲惨。それもこれも、金もなく、仕事もないからなのです。こんなことってあるでしょうか。そんなことのために人生から滑り落ちなくてはならないとしたら、人生っていったいなんだっていうんでしょう。あまりに悲しくて、あまりに不条理なので、私は真夜中に読みはじめて60ページまで読んだところで寝入ったのですが、その夜は一晩中うなされました。ひどい夢を見た。そして、滅入ったまま読み進め、最後の30ページほどのところまではずっと深く滅入ったままでした。これは、あまりに悲しい。どうして世の中はこんなに悲しいんだろう。どうして人の世はこんなにみじめなんだろう?
最後の30ページまでは、というのは、最後の最後には物語の終わりがあるからです。悲しみはひとまず終わりました。そこにはいくらかの希望と安堵感がありました。私は物語の終わりを好みませんが、しかし、新しく始めるためには一度終わらなければならないということは分かっています。特にこの場合には、お話は終わってしまって良かったのです。
さて、主人公の一人にメイという画家がいるのですが、彼は絵の勉強をするためにロシアの地からパリへとやってきました。そして1年間を『モンブラン』で暮らすようになります。彼の存在のみが、この作品の真っ暗さのなかで、ほんのりと優しく光っています。私は、エレンブルグがいったいどのような気持ちで「彼」を生み出したのだろうか、また「彼」を結末ではパリから去らせ、恋人を残したまま故郷へと帰らせたのだろうかと想像しては、どうしてだか涙があふれてくるのを止めることができません。
エレンブルグの別の小説『十三本のパイプ』に「外交官のパイプ」という短篇があり、私はそのお話が大好きなのですが、その中にもペンキ塗りの男が登場します。彼はもう一人のメイ、メイはもう一人のペンキ塗りと言えましょう。人生を、人生そのものとして愛し、生きる男です。何に対してもこだわらず、とらわれず、鳥のように軽やかに、生活を、そのときそのときを愛し、いつも前を向いて生きてゆく男です。彼はあまりに純で幸福そうなので、周りの人からは馬鹿にされています。でも、人々が絶望し転げ落ちてゆく中で、彼だけが幸福に、生活の中を生きていけるのです。彼は自分の描く絵をむやみに売ったりしません。金に換えることよりも、絵は絵であって、それが誰かの心を動かすことを望んでいるのです。痛ましいほどに心の美しい人物。そのメイをパリに留まらせておくことができない、この悲しみ。故郷を離れパリで暮らし、パリの現実を見つめつづけたエレンブルグが、メイをパリに留まらせておくことができなかったという、この悲しみ。メイが美しく、朗らかに描かれれば描かれるほどに、私は悲しくて悲しくて悲しくてもう仕方がありませんでした。
ところで、エレンブルグ作品では、汚れ荒みきった世界にあって、希望を象徴する存在として描かれる人物には、画家や絵に関わる人物が多いような気がします。一方で、詩人や作家はろくでなしが多い。絵は世界の美そのものを描き出そうとするのに対して、言葉は世界の美しさを描き出そうとしても、同時に別の意味を、汚れた面をも織り込まずにいられないということの暗示なのでしょうか。もうちょっと他の作品も読んでみてから、また考察してみようと思います。
メイのほかにもう一人印象的だった人物が、ドイツ人の菓子売りクプファーです。クプファーは甘いもの嫌いのくせに菓子を売り、愚にもつかぬ論文を書き綴り、人の顔を見ればとにかく嫌味を言うような男として描かれます。メイがパリの『モンブラン』を去ったのに対し、クプファーは『モンブラン』など燃やしてしまえばいいと願いながらもそこに留まり、実際に彼が手を下したわけではないですが結果としてその通り『モンブラン』は焼失し、クプファーは捕らえられ、警察署長の取り調べに対して「僕はもううんざりしましたよ」と言って退場します。
私には、このクプファーのように、世の中を動かそうとする大きな流れがいくつかあるのに、そのどちらの正しさも信じられず、どうしたらいいのか分からず、ただ四方八方に当たり散らすしか出来ない人物の気持ちが分かるような気がします。(もっとも、作中人物の中で性質として一番私に近いと感じたのは、ロシアから流れてきた元貴族のゴルベフの奥さんエレーナでしたけど。もう死んでいるのに、勇気がないためにすっかり死んでしまうことができなくて、と言って生きていく希望も持てなくて、仕方なく暮らしているエレーナ。もちろん最後は破滅します)
クプファーは、彼自身を含め『モンブラン』の住人全員を見渡す一種の傍観者として描かれています。メイが希望の心を集めて造ったエレンブルグのひとつの面を表す人物ならば、クプファーは次々と襲う混乱と絶望の中で諦めて傍観者に徹するエレンブルグのもう別の面を表す人物と言えるかもしれません。心が引き裂かれています。
期待していた以上に、素晴らしい作品でした。私はエレンブルグが好きだ。この人の絶望と憎悪ゆえに、この人を愛します。この人の言葉に込められた深い絶望と激しい憎悪におののいてうなだれてしまいますが、こぼれ落ちる涙は、この人がそれでもなお抑えられなかった人類への希望と愛とを私に教えてくれるからです。私はよく泣くけれども、それはただ悲しくて泣くのではない。美しいから泣くんだ。
というわけで私は泣きながら物語を読みましたが、読み終える頃に、この本があまりの古さのためにバラバラと壊れてしまったことにもまた涙を禁じ得なかったのでありました。手放す気はないので、どうにか修復しようと思います。