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『死刑囚最後の日』

2008年08月19日 | 読書日記ーフランス
ユーゴー作 豊島与志雄訳(岩波文庫)



《内容》
自然から享けた生命を人為的に奪い去る社会制度=死刑。その撤廃をめざし、若き日のユーゴー(1802-85)が情熱をもやして書きあげたこの作品は、判決をうけてから断頭台にたたされる最後の一瞬にいたるまでの一死刑囚の苦悶をまざまざと描きだし、読む者の心をも焦燥と絶望の狂気へとひきずりこむ。

《この一文》
“死刑の判決はいつも、夜中に、蠟燭の光で、黒い薄暗い室で、冬の雨天の寒い晩にくだされたのではないか。この八月に、朝の八時に、こんなよい天気に、あれらの善良な陪審員らがあって、そんなことがあるものか! ”




朝ふと早起きをしてしまったので、つい手に取って読みかけていたのを最後まで読んでしまった。この作品の途中には、死刑囚である主人公が子供時代にノートル・ダームの釣鐘を見るために塔へ登った時のことを回想し、その時ちょうど鐘が鳴り響き、高所にいた彼はその振動の激しさにおののいて必死で床にへばりついた、という場面があるのだが、これを読んでいる私もまさにそんな心境だった。うっかりすると私の暮らしているこの5階がぐらりと傾いて、そこの窓から滑り落ちてしまいそうだった。目が回るようだった。

時々、写真やテレビ番組などで地球のどこか遠いところ、人の棲まない秘境の映像などが映し出されると心が安らぐことがある。というのも、人っこ一人存在しないそこには一切の罪がないから。どういう種類の害悪にも汚染されていない。罪もなければ罰もない。少なくともそのように見える。
罪があるのは、ただこの人間の社会のうちだけで、我々は絶えず古い罪から新しい罪を生み出し続けるようだ。飽きもせず。それにつれて、我々はまた旧式の罰から新式の罰を与え続けなくてはならない。
そろそろ疲れてもいいころではないだろうか。ところが、いつまでも疲れを知らず、生み出しては葬り去ることを繰り返す。さらに恐ろしいことには、この罪と罰、正義や悪といった概念も、時と場合が違えば簡単に変わりうるもの、逆転さえしかねないものであるということだ。我々は当たり前のような顔をして日々を過ごしているが、いつも極めて不安定な、隙間だらけの床板の上に立っているのではないだろうか。我々が望むと望まぬとにかかわらず、いつでもこの裂け目から落っこちる用意がある。どうしたら、ここから逃れて、もっとしっかりした足場へ立つことができるのだろう。


さて、この作品で取り上げられている死刑制度の是非というのは、非常に難しい問題だと思う。私は今のところどのように考えたらいいのかさえ分からない。ただ、次のような疑問は以前からずっと私を悩ませてはいる。
それは、たとえば何の落ち度もないある人物の権利が、別の誰かによって侵害されたとする。ここで個人としての人間が、被害者に対して同情し、加害者の卑劣な行為に対して憎悪を覚えるのは分かる。問題は、人間が正義ある社会として加害者を罰する時、実際に罪を犯した加害者が罰せられるのは仕方ないこととしても、それでは「加害者を犯行に至らしめるまで放置した社会の罪」はどうなるのだろう。社会は、何によってこの罪を償うのだろう。それとも、社会にはいかなる罪も負わされないのだろうか。
私はこれがいつも気になってしょうがない。だからといって、どうしたらいいのかは全く分からない。

どうしたらよいのかは分からない。けれど、誰もが一度はこのことについて考えてみるべきではなかろうかと思う。我々を覆うこの壮絶な無知と無関心という蛮性が、我々自身を危うくしていることが少なからずあるように思える。
恐ろしさに足が竦んでも、裂け目をのぞいてみなかったら、この場の不安定に気付くことさえ出来ず、いつまでもここから去ることはできないだろう。


こんなことを朝っぱらから考えさせられる、ごく短いながら密度のある強烈な作品でした。