
《内容》
自然から享けた生命を人為的に奪い去る社会制度=死刑。その撤廃をめざし、若き日のユーゴー(1802-85)が情熱をもやして書きあげたこの作品は、判決をうけてから断頭台にたたされる最後の一瞬にいたるまでの一死刑囚の苦悶をまざまざと描きだし、読む者の心をも焦燥と絶望の狂気へとひきずりこむ。
《この一文》
“死刑の判決はいつも、夜中に、蠟燭の光で、黒い薄暗い室で、冬の雨天の寒い晩にくだされたのではないか。この八月に、朝の八時に、こんなよい天気に、あれらの善良な陪審員らがあって、そんなことがあるものか! ”
朝ふと早起きをしてしまったので、つい手に取って読みかけていたのを最後まで読んでしまった。この作品の途中には、死刑囚である主人公が子供時代にノートル・ダームの釣鐘を見るために塔へ登った時のことを回想し、その時ちょうど鐘が鳴り響き、高所にいた彼はその振動の激しさにおののいて必死で床にへばりついた、という場面があるのだが、これを読んでいる私もまさにそんな心境だった。うっかりすると私の暮らしているこの5階がぐらりと傾いて、そこの窓から滑り落ちてしまいそうだった。目が回るようだった。
時々、写真やテレビ番組などで地球のどこか遠いところ、人の棲まない秘境の映像などが映し出されると心が安らぐことがある。というのも、人っこ一人存在しないそこには一切の罪がないから。どういう種類の害悪にも汚染されていない。罪もなければ罰もない。少なくともそのように見える。
罪があるのは、ただこの人間の社会のうちだけで、我々は絶えず古い罪から新しい罪を生み出し続けるようだ。飽きもせず。それにつれて、我々はまた旧式の罰から新式の罰を与え続けなくてはならない。
そろそろ疲れてもいいころではないだろうか。ところが、いつまでも疲れを知らず、生み出しては葬り去ることを繰り返す。さらに恐ろしいことには、この罪と罰、正義や悪といった概念も、時と場合が違えば簡単に変わりうるもの、逆転さえしかねないものであるということだ。我々は当たり前のような顔をして日々を過ごしているが、いつも極めて不安定な、隙間だらけの床板の上に立っているのではないだろうか。我々が望むと望まぬとにかかわらず、いつでもこの裂け目から落っこちる用意がある。どうしたら、ここから逃れて、もっとしっかりした足場へ立つことができるのだろう。
さて、この作品で取り上げられている死刑制度の是非というのは、非常に難しい問題だと思う。私は今のところどのように考えたらいいのかさえ分からない。ただ、次のような疑問は以前からずっと私を悩ませてはいる。
それは、たとえば何の落ち度もないある人物の権利が、別の誰かによって侵害されたとする。ここで個人としての人間が、被害者に対して同情し、加害者の卑劣な行為に対して憎悪を覚えるのは分かる。問題は、人間が正義ある社会として加害者を罰する時、実際に罪を犯した加害者が罰せられるのは仕方ないこととしても、それでは「加害者を犯行に至らしめるまで放置した社会の罪」はどうなるのだろう。社会は、何によってこの罪を償うのだろう。それとも、社会にはいかなる罪も負わされないのだろうか。
私はこれがいつも気になってしょうがない。だからといって、どうしたらいいのかは全く分からない。
どうしたらよいのかは分からない。けれど、誰もが一度はこのことについて考えてみるべきではなかろうかと思う。我々を覆うこの壮絶な無知と無関心という蛮性が、我々自身を危うくしていることが少なからずあるように思える。
恐ろしさに足が竦んでも、裂け目をのぞいてみなかったら、この場の不安定に気付くことさえ出来ず、いつまでもここから去ることはできないだろう。
こんなことを朝っぱらから考えさせられる、ごく短いながら密度のある強烈な作品でした。
社会の責任を問うということは、社会に依存して制定される法律には不可能でしょうが、時代や場所によって変わる道徳によって適切に為される者とも思われません。道徳も社会に暮らす人間の間の規範ですものね。というとこの世界の外に立つ社会から全く独立した存在に頼らざるを得ないんでしょうが、どうなんでしょう。神?
そもそも社会を罰するというのはどういうことなのでしょう?もちろんその社会を作り上げた成員の一人一人にある程度の責任はあるのでしょうが、ある個人が別の個人の権利を侵害した時全員が等しく罪を負っているわけではないですよね。かといってだれが一番罪が重いのか決定することは、社会に住むものには不可能でしょうし。
こういった問題に直面した時、個々人が出せる答えは全て正しくて全て間違っているのではないでしょうか?複数の人間が話をするとき彼らがある真理を前提にしなければ、相互理解は望めないですよね。でもそんな普遍性のある真理は容易には見つからない。すると真理や正義を否定することが唯一の真理だと考えるものも出てくる。しかしそれでは、他者との関係はありえない。
私も時々こういうことを考えることがあるんです。ノトさんの問題とは少し違うと思いますが。我々が全てある真理を前提にして話し合えたら、社会上の問題のほとんどは解決可能なのではないか。でも、私にはちょっとこれ以上考えられないです。
この薄暗い記事に対して、コメントをいただきどうもありがとうございます!(お名前がありませんが、どちらさまでしょう? でも私の存じ上げている方ですね)
>というとこの世界の外に立つ社会から全く独立した存在に頼らざるを得ないんでしょうが、どうなんでしょう。神?
そうなんですよね、私はそれは「神」なんかではないと思いますが、社会から独立しつつ圧倒的な力を持つ存在の出現によっては可能かもしれないと思います。
>我々が全てある真理を前提にして話し合えたら、社会上の問題のほとんどは解決可能なのではないか
これも、おっしゃる通り。私もそう考えます。そしてまた、それが今はまだ見えないということが問題だというのも仰せの通りかと。
それがために我々は延々と苦しまなくてはならないのですが、ひとまず無力な私としては、この苦しみの果てに何か真理に近いものを得られることをただただ願うばかりです。
ユーゴーの作、読んでみたくなりました。
私は箱根の旅の余韻で『星の王子様』を再読していましたが、この世の中に対するつらい(と言ってしまっていいのか、どうか…)思いというのはどのような人も必ず直面することがあるのだろうと思うのです。個人としての私には現実の社会をどうこうする力はない、けれどもこのままでいいはずがない。というような。
大きな、手に負えないものとしての「社会」があって、私たちの無力感はそこに起因するのだと思うのですが、けれどもやっぱりそれは人間によって生み出されたものです。
若いころ私はいつもそうした種類の無力感に苛まれていましたが、けれども、今は少し違います。ntさんのおっしゃるような「自覚」が、私たちをあと一歩のところで、なんとか踏みとどまらせるんじゃないか、という希望を持っているのです。
かなり楽観的なのですがね、笑。
みなさん、どうもありがとうございます(^^)
*ねこきむちさん
>自分がいたい思いをしないからこそ、他人の死を望む
そうですね、きっと想像力が足りなくて、そうなってしまうんですよね。うーむ、悩ましいですね。
*烏合さん
ユーゴー、おすすめです。
私も最近までこんなに面白い人だって知らなかったのですが、私好みの熱血具合にハマってしまいそうです♪
ところで、楽観って大切ですよね。どうにも出来ないと知りつつも希望を持ち続けることが可能だとしたら、それにはやっぱり理由があると思うんですよね。楽観できるということ自体、すでにある程度の進歩を示しているのだと私も思いたいですね~。
もうひとつところで、私はまだ『星の王子様』を読んだことがないので、そろそろ読みたいです。箱根のミュージアムには行ったことがあるんですけど;(いいですよね、あそこ)
加害者を犯行に至らしめるまで放置した社会の罪はどうすればいいのか...それは国民一人一人がこの問題に関心を持ち、自分の考えを発信し議論して自分のしっかりとした考えを持つことで相殺することができるのではないかと思います!
ちなみにマザーテレサの言葉に愛の反対語は無関心だと言っていたようです
作家の山本周五郎は犯罪の起こる原因として貧困や無知などをあげています
もしそれが正しいのならば人間は誰でも最初は同じであるのに貧困など(それは物質的なものだったり精神的なものだったりもする)で犯罪に手を染めることによって、犯罪者と普通の人とに分かれてしまうことになる...
このことから自分は犯罪者にも愛と慈悲のある裁きを受けさせなけれればならないと思います
それは決して憎しみによるものじゃなくてです
それでも犯罪者にけ何らかの罰を与えなければならないこととは仕方ないですよね被害者のことを考えれば...
死刑には犯罪の抑止効果がないそうですし大きな犯罪をした人を再版防止のために社会から抹殺する必要はなく除外するだけでいいはずですしかもこんな刑はには犯罪者が更正する機会も与えられないじゃないですか
何か長くなってしまったチョコっとコメントするだけにしようかと思ったのに.
この本を読み終わったら自分もブログに書こうかなと思ってます
電車の中でたまにスマホで読むペースなのでいつ読み終わるか分からないけど...
コメントをどうもありがとうございます♪(^_^)
>加害者を犯行に至らしめるまで放置した社会の罪はどうすればいいのか...それは国民一人一人がこの問題に関心を持ち、自分の考えを発信し議論して自分のしっかりとした考えを持つことで相殺することができるのではないかと思います!
おっしゃる通りです。
しかし、「国民一人一人がこの問題に関心を持ち」というところへ至るところからして、かなり難しいのではないかと私は悲観的に考えてしまうのでした…。私たちはなかなかこういうことに深い関心を寄せながら生きることができませんものね。悩ましいですねえ。。。
それにしても、考えてみればスマホでユーゴーが読める時代なんですね!
人間は時代を経て科学技術を進歩させてきましたが、古典文学などに触れると、いまだに精神の問題はなかなかまだ進んでいないような気になりますよね。もちろん進んでいることを私が知らないだけかもしれませんが!><
河曾さんが読み終えられて、ブログに記事をお書きになったら、よければトラックバックをくださいませ~
社会の責任は一人一人がこの問題について考えるだけでは相殺なんかできなくて、これは社会の責任とか言うのではなくてこの問題をどうするかの判断をより正確にするためにするもので死刑についてどうとるべきなのか誰にも正しいことは分からないから行うべきものなんだなと思うようになりました。
それよりも、きちんとした教育を受けさせることができなく犯罪を起こさせる状況を作り犯罪者の一生に、そして被害者に害を被らせてしまうことを止められなかった手前、犯罪者を更正させるという強い義務があると思いました。
後世界で犯罪の抑止力がないからどんどん死刑がなくなってるのはよく考えたら国の条件にで変わってくるのでなんともいえないですね
何はともあれこのような問題について考えることが大切ですよね。調べていると社会問題などにを深く考えないでいる人も結構いるんだなと分かりました。自分も人のことは言えないけど(汗)本当に悩ましいですね。上から言われたことをもうしんして疑うことをしないという人が日本には多いということにも気づいて怖くなりました
日本の政治は国民の意見が反映されにくいのでそれが社会問題とかを考えなくなってしまう原因のひとつなのかなって思ったり(-_-)
はやくよみ終わって記事書きたいなーとは思うんですけど知識の乏しい自分が書いてもいいのか疑問だし文書くの苦手だし時間がかかりそうです(^-^;
少しずつ考えを深めておられるようですね(^_^) 河曾さんのおっしゃる通り、このような問題について考えることがまずは大切だと、私も思います。という私も時々しか考えないでいることを反省したいところですが…;
>知識の乏しい自分が書いてもいいのか疑問だし文書くの苦手だし時間がかかりそう
これについては、私も以前人から励ましていただいたことがあるのですが、知識が乏しくても、文章が苦手でも、読んで感じたことを素直に書くところから始めれば、それを読む人には書いたもの以上の何かが伝わったりすることもあるようですよ!
そんな訳で私は自分の無知も文章のまずさも気にせず(←いや気にはしてますが、恥を忍んで)、本を読んで思ったことは率直に書き残すことにしています。
ですので河曾さんも、どうか時間がかかってもがんばって書いてみてください♪ 私はそれを読みたいです(^_^)
無理してきちんとしたことを書くより素直に書いた方がいいんですね!時間はかかっても書いてみようと思います
それからもうひとつ書き忘れましたが、記録に残しておくと、あとで自分で作品を振り返ったときなどにも便利ですよ。
「あー、あの時はこう思ったんだった」と思考の変化を実感できますし、時間をおいてみると自分の文章がまるで他人のもののように感じられて、客観的に善し悪しを判断できるようにもなりますしね。
私も時々過去記事を読み直しては、かつての自分の論理展開の無茶ぶりについていけなくなったりしておりますorz^^;
というわけで、まずは短いメモ程度からでも書いてみることをおすすめします~(^_^)♪
この前ユゴーが影響を受けたと言われるチェーザレベッカリーアの犯罪と刑罰という本を本屋で衝動買いしてしまって読んでるんですけど凄くおすすめです!
刑罰の存在意義は最大多数の最大幸福原理にあると言うようなことが書いてありました
自分はこれを読むまで色々な先入観があったから幸福のために刑罰があるなんて思いもしませんでした!いまの日本もそれに倣ってるらしいですが微塵にもそんなことを感じさせないどころか被害者だけの幸福に見えるけど全く違う何かを求めるのと第三者の報道された犯罪者に対する怒りを晴らすことをしていて逆方向に進んでいるので改善してほしい...
犯罪の多い最初のうちは厳しい方がいいが、教育や育成環境改善等で犯罪が減ればそれに応じて刑罰の重さを減らしていくべきであまりにも不当な刑があるとそれが新たな犯罪を生むという論もすごい説得力がありました
友達に魚心に水心という諺を教えてもらったんですけどこれはユゴーの他の本に書かれてて暴力にも愛でかえせば自然ともっと強い愛が帰ってくるんですよね 暴力に暴力を返したらどんどん連鎖していくようで...
そうだ!今思い付いたんですけどマスコミが被害者の視点で報じて視聴率をとるのではなくて極悪犯が更正していいいとになりましたっていう感じのニュースみたいなもの流せばドラマ風になって良さそう(・・;)実際レミゼのストーリーだって人を惹き付けてるし!
電池切れちゃいましたか;おつかれですっ!
>いまの日本もそれに倣ってるらしいですが微塵にもそんなことを感じさせないどころか被害者だけの幸福に見えるけど全く違う何かを求めるのと第三者の報道された犯罪者に対する怒りを晴らすことをしていて逆方向に進んでいるので改善してほしい...
これはどういうことでしょうか?
「全く違う何か」とは何でしょう?
「第三者の報道された犯罪者に対する怒りを晴らすことをしていて逆方向」というものよく分かりません。
でも、まあ、おっしゃるように現在の日本の刑罰が不可思議なありようをしているというのは、私もちょっと思いますかね。ときどき首をひねるようなことがありますもんねー。
>暴力にも愛でかえせば自然ともっと強い愛が帰ってくるんですよね
そうあってほしいですが、実際はどうでしょうか。「自然と」などと期待するのは厳しいと思いますね。「愛」を捧げても「愛」が返ってこないことさえあるというのに、「暴力」の前で「愛」が何だと言うのです。そもそも「愛」って何ですかね?
>マスコミが被害者の視点で報じて視聴率をとるのではなくて極悪犯が更正していいいとになりましたっていう感じのニュースみたいなもの流せばドラマ風になって良さそう
そんなこと(極悪犯が更生していい人になりました)が起こりえますかね?
もちろんそういうこともあるにはあるでしょうが、最初から更生する気持がない人物に対してはどうしたらいいのでしょう??
そもそも、マスコミがそんなニュースを流しても、私には全然信じられませんしね…(^_^;)ある種の人々にとっては、なんの影響力もないです。
うぅ、ネガティブな意見ばかりで申し訳ないです。
でも、もしもそれでも可能なんだ!とおっしゃるなら、どうか私を説得してみてくださいませね!
被害者だけの幸福に見えるけど全く違う何かというのは報復感情てきなもの?といった意味でいいました
報復感情を満足させることも求めることも幸せを求めるときの大きな妨げとなる復讐心からきてるものだと思ってるので復習よりも他のものを求めるべきなんですよね・・・たとえばなんでそんな事件が起きたのか解明しようとしたり、もうこんな悲劇が起きないようにどうすればいいのか模索したり ↓参考にしてください(http://www.counselingservice.jp/lecture/lec393.html)
幸せというのは絶対的で人それぞれ違うからあなたの価値観を押し付けないでと言われたらおしまいなんですけど他にも幸せになる方法はあるだろうし最大多数の最大幸福原理ということですから最大多数の人間がそうなるべきで被害者だけの報復感情のために犯人の生きる権利を奪うのはどうかなと思うんです
ヨーロッパとかの国では被害者が幸せになる方法を模索した結果死刑を廃止して報復感情を満足させるのとはちがった方法で被害者を癒すことにした訳ですしね
第三者の報道された犯罪者に対する怒りを晴らすことをしていて逆方向というのは大衆感情のことです
例えば何かの事件をニュースで見た時にこんなことする馬鹿なやつは死ねみたいなことを思う感情のこと
実際死刑判決の多さが世論に左右されてるんですよね
詳しいことはめんどくさいんで割愛しますけど・・・
死刑囚最後の日にも新聞か何か忘れたけど紙みたいなのを配っている場面が出てきますが事件を被害者側からだけの目線で報じることでたくさんの人の興味を引いて第三者に怒りを植え付けさせる
そうして報じる紙の売上を上げるみたいなことをしていて死刑が間接的に金儲けのために利用されてると自分は感じてます
何か原因をひとつに決めつけて第三者の怒りを煽るより深く考えさせるようなものがいいな
秋葉原の事件の時だって犯人はオタクだとかどうでもいいことばかり報道して、何が一番問題なのかというのは社会的弱者(派遣で給料低いひと)がなぜお金持ちではなく電気街で楽しそうにしている一般人を殺したのだかとか考えさせるべきですね
>「愛」を捧げても「愛」が返ってこないことさえあるというのに、「暴力」の前で「愛」が何だと言うのです。
ここでの愛は相手のことを思いやる気持ちという意味で言いました
ヒューマニズム的?なものです
長期的に見たらですよ! 返ってこないことのほうが多いかもしれないけれどずっとこっちも愛をもって接すればいつか帰ってくるように思えます その愛よりも強い憎しみや恨みがあれば難しいですけど・・・反省する死刑囚も少なくもないらしいです
普通に話していると彼らも善良らしいですし何より同じ人間なのだから・・・
逆に暴力に暴力で応じれば負の連鎖がおきますよ 誰かが我慢して連鎖を止めなきゃいけないと思います
>そんなこと(極悪犯が更生していい人になりました)が起こりえますかね?
永山事件なんか見てると可能性は否定できませんよ
ちょっと調べてみてくださいね・w・
ユゴーの代表作であるレ・ミゼラブルのジャンバルジャンだってミリエル司教に寝るものや食事を提供してもらったり良くしてもらったのに銀の燭台を盗んじゃって(もちろん最初から更生する気持がない心が荒んだ人物です)、それでも司教が辛抱強く愛を注いだから予想もしなかったような大きな愛多くの人に注がれたじゃないですか・・・その有名なエピソードがユゴーの愛を持って接すれば愛が返ってくる可能性は否定しちゃいけないという主張をよく表してると思います
あくまでも可能性です 返ってこないことの方が多くても犯人を更生させるべきなんです
うまくいかないことのほうが多くても社会には責任があるんじゃないですか?社会の責任はどうやって果たしますか?完全に果たすことは出来なくても犯人に対して教えなきゃいけない 事件を止められなかった手前一人一人の事件の責任を
ああなんか眠いんで文章めちゃくちゃや!反論できてるのかな;;
>マスコミが被害者の視点で報じて視聴率をとるのではなくて極悪犯が更正していいいとになりましたっていう感じのニュースみたいなもの流せばドラマ風になって良さそう
これはその場のどうしようもない思いつきでテケトーに書いたんで気にしないで欲しいんですが自分(他のある種の人たちの一人)からすれば絶対悪が存在するから私たちはそれを強く批判して社会の害を取り除こうとでも言いたげな今のマスコミの報道の仕方の方が信じられませんね
だいたい古舘一郎やみのもんたとかの安っぽい演技かかったアナウンサーのいうことなんて素直に信じてる人は騙されてますよ 彼らは金儲けのためにやってるわけですから・・ 郵政民営化がなされてその一環でNHKも民営化されてどこの情報も信じられませんな
一年前自分の知り合いが逮捕されてすべての会社のメディアでそれが取り上げられて二つくらい?の番組でワイドショーがやってて報道はそんなに酷いものだったわけではなかったですけど、どちらかと言えば教育よりも犯人のせいにするといった感じですごい違和感がありましたね 友達や親のその事件に対する反応も自分にとってはすごく不可解なものでした 誰も自分にも責任のホンの少しの一端があるとも考えてない 事件が起きたあと講習会みたいなのに参加させられてNPO法人の人が来て話を聞きましたが本当に理解してる人は、何が起こったのか理解しようと努力している人は少なかったです
自分はただ事実をありのままに伝えてくれるものが欲しいです 冷静になってみるとやっぱり左にも右にも偏らないようなイデオロギーがないような事件の伝え方が理想です
おぉ・・・久しぶりにPCなので長くなってしまった!PCだとスラスラ書けるからいいんだけど
事件を止められなかった手前一人一人の事件の責任は犯人を更正ことはで相殺はできないとしてもやるべき最低の義務の一つだと思いますね 死刑はそれを無視してる...
人間がどんな行動をとるのかも人格さえもほとんどすべて環境に依存するという考えが自分の根本に流れているんですよね
だから死刑にも反対だし、最近大坂で有名になっちゃた橋下さんとかの考えかたは根本的なところから違うし自分からしたら危険な思想を持った人物なんですよね(笑)
自分は本当に何も知らない人だから専門的なこともしらないけども憲法の25条に実質的なことで反してしまうような 健康で文化的な最低限度の生活を甘く見ている感じの教育法と政治思想はちょっとなあと思っちゃったり(^_^;)
事件を止められなかった手前一人一人の事件の責任は犯人を更正ことはで相殺はできないとしてもやるべき最低の義務の一つだと思いますね 死刑はそれを無視してる...
人間がどんな行動をとるのかも人格さえもほとんどすべて環境に依存するという考えが自分の根本に流れているんですよね
だから死刑にも反対だし、最近大坂で有名になっちゃた橋下さんとかの考えかたは根本的なところから違うし自分からしたら危険な思想を持った人物なんですよね(笑)
自分は本当に何も知らない人だから専門的なこともしらないけども憲法の25条に実質的なことで反してしまうような 健康で文化的な最低限度の生活を甘く見ている感じというか意図して無意味な格差を作ろうとの教育法と政治思想はちょっとなあと思っちゃったり(^_^;)
詳しい反論ありがとうございます。
今度はよく分かりましたよ。
まず、
>自分はただ事実をありのままに伝えてくれるものが欲しいです 冷静になってみるとやっぱり左にも右にも偏らないようなイデオロギーがないような事件の伝え方が理想です
これには私も全面的に同意です。私の好きな映画に『マッド・シティ』(コスタ=ガブラス監督)というのがありますが、このようなテーマを扱っていたかと。
→参照:マッドシティ感想
http://blog.goo.ne.jp/ntmym/e/346a1b9154e475e5efbb1b6c981b8587
コスタ=ガブラス作品は、河曾さんにはおすすめしたいですね。それこそ、社会における個々人の責任を、全方位無差別攻撃といった鋭さで批判的に描いているような感じです。ほかに、『Z』『ミッシング』なども面白いですよ(^_^)…ただ、いずれも入手困難です……
→参照:ミッシング http://blog.goo.ne.jp/ntmym/e/737ddaa9461c6b6f41300be3d4a73586
そして、全体的には私にも河曾さんのおっしゃる理想のことは理解もできますし、部分的には共感もできます。
ただ、私は河曾さんよりももっとずっと絶望しているので、人間社会における「愛(思いやり)による救済」なんて期待しないし、憎しみ合い傷つけ合い、滅びるように滅びていけばいいと思っているんですよね。
こういう相手を説得しようと思ったら、結構大変ですよ(^o^;)スミマセン
それから、社会は、犯罪者をその環境によって生み出してしまった責任を果たさねばならないというのにも部分的には同意します。我々が社会の一員として存在し続けるなら、ということです。
が、まず「社会」とは何なのか? それが果すべき責任が「更生」だとして、「更生」とは何か? それは本当に「正しい」のか? 「社会」が存在する限り、どうしてもその内部に馴染むことができない「不適合者」もまた存在しうるだろうけれど、そういった「不適合」を「更生」あるいは「矯正」することの是非は?? はじめから「更生」を望まない「死刑囚」に対してはどうすればいいのか??
ということなどを、私は考えてしまうため、素直に河曾さんの意見に賛同することができないのですね。
ここから以前の別の議論に少し戻りますが、私としてはやはり、個人が生きる上で、これまでの社会のあり方(協力し合わなければ生きることすら難しいために、時には隷属すら受け入れながらその一員となっている)から能力的に完全に独立できなければ、「刑罰の存在意義は最大多数の最大幸福原理にある」という問題についても考えられないような気がしますね。なんというか、利害が絡む以上、公正な裁きなんて存在しえない気がするのです。
お話をうかがうと、河曾さんは今は加害者側に近い立場から物事をお考えのようですが、試しに被害者側の立場からも見てみるのはいかがでしょう?
たとえば、はじめから死刑になるために重犯罪をおかした人物が、自らそのことを認めて死刑判決を受け入れている場合。そして、あなたがその陰惨な事件の被害者である場合。
その場合においても、復讐心よりも愛情で、思いやりで、慈愛の心で返すためには、私たちにはどのくらいの精神レベルの高さが要求されるんでしょうね。私もできればそんな風にあってほしいと、ありたいと思いますけれども。
いずれにしても、河曾さんのご意見は、私にも刺激となりました。返信がいちいち遅くて申し訳ないです!
アマゾンなんか見てるとみんなあんまし有名ではないみたいですねぇ..映画に詳しくない人はこのような作品があるとは知らないから今流行ってるアクションものだけが映画だと思っちゃいますね...自分は音楽鑑賞が好きなのですが音楽も同じ感じですね 隠れた名作というか...
そういえばその映画の感想見てて自分の正体不明の不安の一つに自分が変えようと行動しても大きな権力などの力に潰されてしまうし考えてるだけだと自分にある罪は少しも消えていかないし何より周りは無関心でなんとも思っちゃいないし考えることを放棄するどころかそれをすることを変わったひとのすることだと思ってる...みたいな無力感があるのかもしれないと思いました!たまにそういう気分になっちゃうんですよ無闇に謝りたいけど謝る人がいないだからずっと責め続けられるみたいな
うーん自分もこんな社会潰れちまえよこの野郎って今でも心の底では思ってたりするんですけどね(笑)
でもだれかミリエル司教のような暴力が返ってきても自分の信念で愛が、他人への思いやりがあってそれを暴力を振るってきた人も気付いて暴力の連鎖が止まればなあという甘い期待もあったりするのです
《「社会」が存在する限り、 どうしてもその内部に馴染むことができない「不適合者」..
そうですね、それが正しいことだとも言えませんね
人為的に作られた社会の勝手な道徳をおしつけるようなことになるのかもしれない うーむこれについては考えてなかった 凄く難しい問いです(*_*) モラルを作ることは否定しないが絶対的なものになることを忘れてはならないとどこかで読んだきおくが...どのように社会は責任をとればいいんだろう?少なくともなぜその事件が起きてしまったか考えることくらいはしなくちゃいけないけれどそれでも少しも補ったことにはならない...ぐはっ難しい問題でよくわからなくなってきた(--;)
最大多数の幸福原理とうたったものも支配体制においてだと多くの人が幸福を求めるあまり利害関係てきに最小少数の最大不幸みたいなことが起きるということですかね?
利害が絡む以上、公正な裁きなんて存在しえない というのは自分も思ってることですけど公平さを追求する観点でいけば本当は人を裁いてはいけないのかもしれないかもしれないですね
被害者側の立場からですね...どうしても想像できないんですよねなんど想像しようとしてもこれはあくまでも予測に過ぎない本当のものではないような気持ちになっちゃうんです
ただ自分が直接の被害者だったらそれが正しくなくとかに関わらず暴力で仕返ししようと思うのはまちがいないです でも自分が直接の被害者でない場合で冷静に考えるとどうなんだろうって感じです 第三者が裁く場合は 復讐心よりも愛情で、思いやりで、慈愛の心で一番みんなのためになるように返すことが望ましいように思います いずれにしろ被害をうけたひとが不利益を被らないようにしなければならないとは思うので何か他に復讐以外でほしょうをしなきゃいけないと思います どうなんでしょう 長い目で見れば被害者の復習心は消えていくんですかね そこがいくら想像してもわからないことなんですよ...結局真面目に考えたうえで死刑にさんせいするひとは復習心は何があろうとも消えないと考えてるのかもしれないですね 自分はそう思わないですけど実際人によって違うだろうしなってみなければわからないことですからね
読み始めたばっかですけどベッカリーアの主張はあくまでも社会全体で見た話だと断りが書いてあるので支配があることが前提で少数の人は無視してる感じですね
とにかく被害者からの立場からも考えてみようと思います(^-^;
難しいですよね、私にも全然分かりませんわ…気持が暗くなるばかり(^_^;)
>公平さを追求する観点でいけば本当は人を裁いてはいけないのかもしれない
これはほんとうに難しい問題ですね。そうは言ってもどうにかしなくてはいけないんですものね。その世界でがんばっている人たちには頭が下がりますよ!(^o^;)