《内容》
自然から享けた生命を人為的に奪い去る社会制度=死刑。その撤廃をめざし、若き日のユーゴー(1802-85)が情熱をもやして書きあげたこの作品は、判決をうけてから断頭台にたたされる最後の一瞬にいたるまでの一死刑囚の苦悶をまざまざと描きだし、読む者の心をも焦燥と絶望の狂気へとひきずりこむ。
《この一文》
“死刑の判決はいつも、夜中に、蠟燭の光で、黒い薄暗い室で、冬の雨天の寒い晩にくだされたのではないか。この八月に、朝の八時に、こんなよい天気に、あれらの善良な陪審員らがあって、そんなことがあるものか! ”
朝ふと早起きをしてしまったので、つい手に取って読みかけていたのを最後まで読んでしまった。この作品の途中には、死刑囚である主人公が子供時代にノートル・ダームの釣鐘を見るために塔へ登った時のことを回想し、その時ちょうど鐘が鳴り響き、高所にいた彼はその振動の激しさにおののいて必死で床にへばりついた、という場面があるのだが、これを読んでいる私もまさにそんな心境だった。うっかりすると私の暮らしているこの5階がぐらりと傾いて、そこの窓から滑り落ちてしまいそうだった。目が回るようだった。
時々、写真やテレビ番組などで地球のどこか遠いところ、人の棲まない秘境の映像などが映し出されると心が安らぐことがある。というのも、人っこ一人存在しないそこには一切の罪がないから。どういう種類の害悪にも汚染されていない。罪もなければ罰もない。少なくともそのように見える。
罪があるのは、ただこの人間の社会のうちだけで、我々は絶えず古い罪から新しい罪を生み出し続けるようだ。飽きもせず。それにつれて、我々はまた旧式の罰から新式の罰を与え続けなくてはならない。
そろそろ疲れてもいいころではないだろうか。ところが、いつまでも疲れを知らず、生み出しては葬り去ることを繰り返す。さらに恐ろしいことには、この罪と罰、正義や悪といった概念も、時と場合が違えば簡単に変わりうるもの、逆転さえしかねないものであるということだ。我々は当たり前のような顔をして日々を過ごしているが、いつも極めて不安定な、隙間だらけの床板の上に立っているのではないだろうか。我々が望むと望まぬとにかかわらず、いつでもこの裂け目から落っこちる用意がある。どうしたら、ここから逃れて、もっとしっかりした足場へ立つことができるのだろう。
さて、この作品で取り上げられている死刑制度の是非というのは、非常に難しい問題だと思う。私は今のところどのように考えたらいいのかさえ分からない。ただ、次のような疑問は以前からずっと私を悩ませてはいる。
それは、たとえば何の落ち度もないある人物の権利が、別の誰かによって侵害されたとする。ここで個人としての人間が、被害者に対して同情し、加害者の卑劣な行為に対して憎悪を覚えるのは分かる。問題は、人間が正義ある社会として加害者を罰する時、実際に罪を犯した加害者が罰せられるのは仕方ないこととしても、それでは「加害者を犯行に至らしめるまで放置した社会の罪」はどうなるのだろう。社会は、何によってこの罪を償うのだろう。それとも、社会にはいかなる罪も負わされないのだろうか。
私はこれがいつも気になってしょうがない。だからといって、どうしたらいいのかは全く分からない。
どうしたらよいのかは分からない。けれど、誰もが一度はこのことについて考えてみるべきではなかろうかと思う。我々を覆うこの壮絶な無知と無関心という蛮性が、我々自身を危うくしていることが少なからずあるように思える。
恐ろしさに足が竦んでも、裂け目をのぞいてみなかったら、この場の不安定に気付くことさえ出来ず、いつまでもここから去ることはできないだろう。
こんなことを朝っぱらから考えさせられる、ごく短いながら密度のある強烈な作品でした。
社会の責任を問うということは、社会に依存して制定される法律には不可能でしょうが、時代や場所によって変わる道徳によって適切に為される者とも思われません。道徳も社会に暮らす人間の間の規範ですものね。というとこの世界の外に立つ社会から全く独立した存在に頼らざるを得ないんでしょうが、どうなんでしょう。神?
そもそも社会を罰するというのはどういうことなのでしょう?もちろんその社会を作り上げた成員の一人一人にある程度の責任はあるのでしょうが、ある個人が別の個人の権利を侵害した時全員が等しく罪を負っているわけではないですよね。かといってだれが一番罪が重いのか決定することは、社会に住むものには不可能でしょうし。
こういった問題に直面した時、個々人が出せる答えは全て正しくて全て間違っているのではないでしょうか?複数の人間が話をするとき彼らがある真理を前提にしなければ、相互理解は望めないですよね。でもそんな普遍性のある真理は容易には見つからない。すると真理や正義を否定することが唯一の真理だと考えるものも出てくる。しかしそれでは、他者との関係はありえない。
私も時々こういうことを考えることがあるんです。ノトさんの問題とは少し違うと思いますが。我々が全てある真理を前提にして話し合えたら、社会上の問題のほとんどは解決可能なのではないか。でも、私にはちょっとこれ以上考えられないです。
この薄暗い記事に対して、コメントをいただきどうもありがとうございます!(お名前がありませんが、どちらさまでしょう? でも私の存じ上げている方ですね)
>というとこの世界の外に立つ社会から全く独立した存在に頼らざるを得ないんでしょうが、どうなんでしょう。神?
そうなんですよね、私はそれは「神」なんかではないと思いますが、社会から独立しつつ圧倒的な力を持つ存在の出現によっては可能かもしれないと思います。
>我々が全てある真理を前提にして話し合えたら、社会上の問題のほとんどは解決可能なのではないか
これも、おっしゃる通り。私もそう考えます。そしてまた、それが今はまだ見えないということが問題だというのも仰せの通りかと。
それがために我々は延々と苦しまなくてはならないのですが、ひとまず無力な私としては、この苦しみの果てに何か真理に近いものを得られることをただただ願うばかりです。
ユーゴーの作、読んでみたくなりました。
私は箱根の旅の余韻で『星の王子様』を再読していましたが、この世の中に対するつらい(と言ってしまっていいのか、どうか…)思いというのはどのような人も必ず直面することがあるのだろうと思うのです。個人としての私には現実の社会をどうこうする力はない、けれどもこのままでいいはずがない。というような。
大きな、手に負えないものとしての「社会」があって、私たちの無力感はそこに起因するのだと思うのですが、けれどもやっぱりそれは人間によって生み出されたものです。
若いころ私はいつもそうした種類の無力感に苛まれていましたが、けれども、今は少し違います。ntさんのおっしゃるような「自覚」が、私たちをあと一歩のところで、なんとか踏みとどまらせるんじゃないか、という希望を持っているのです。
かなり楽観的なのですがね、笑。
みなさん、どうもありがとうございます(^^)
*ねこきむちさん
>自分がいたい思いをしないからこそ、他人の死を望む
そうですね、きっと想像力が足りなくて、そうなってしまうんですよね。うーむ、悩ましいですね。
*烏合さん
ユーゴー、おすすめです。
私も最近までこんなに面白い人だって知らなかったのですが、私好みの熱血具合にハマってしまいそうです♪
ところで、楽観って大切ですよね。どうにも出来ないと知りつつも希望を持ち続けることが可能だとしたら、それにはやっぱり理由があると思うんですよね。楽観できるということ自体、すでにある程度の進歩を示しているのだと私も思いたいですね~。
もうひとつところで、私はまだ『星の王子様』を読んだことがないので、そろそろ読みたいです。箱根のミュージアムには行ったことがあるんですけど;(いいですよね、あそこ)
加害者を犯行に至らしめるまで放置した社会の罪はどうすればいいのか...それは国民一人一人がこの問題に関心を持ち、自分の考えを発信し議論して自分のしっかりとした考えを持つことで相殺することができるのではないかと思います!
ちなみにマザーテレサの言葉に愛の反対語は無関心だと言っていたようです
作家の山本周五郎は犯罪の起こる原因として貧困や無知などをあげています
もしそれが正しいのならば人間は誰でも最初は同じであるのに貧困など(それは物質的なものだったり精神的なものだったりもする)で犯罪に手を染めることによって、犯罪者と普通の人とに分かれてしまうことになる...
このことから自分は犯罪者にも愛と慈悲のある裁きを受けさせなけれればならないと思います
それは決して憎しみによるものじゃなくてです
それでも犯罪者にけ何らかの罰を与えなければならないこととは仕方ないですよね被害者のことを考えれば...
死刑には犯罪の抑止効果がないそうですし大きな犯罪をした人を再版防止のために社会から抹殺する必要はなく除外するだけでいいはずですしかもこんな刑はには犯罪者が更正する機会も与えられないじゃないですか
何か長くなってしまったチョコっとコメントするだけにしようかと思ったのに.
この本を読み終わったら自分もブログに書こうかなと思ってます
電車の中でたまにスマホで読むペースなのでいつ読み終わるか分からないけど...
コメントをどうもありがとうございます♪(^_^)
>加害者を犯行に至らしめるまで放置した社会の罪はどうすればいいのか...それは国民一人一人がこの問題に関心を持ち、自分の考えを発信し議論して自分のしっかりとした考えを持つことで相殺することができるのではないかと思います!
おっしゃる通りです。
しかし、「国民一人一人がこの問題に関心を持ち」というところへ至るところからして、かなり難しいのではないかと私は悲観的に考えてしまうのでした…。私たちはなかなかこういうことに深い関心を寄せながら生きることができませんものね。悩ましいですねえ。。。
それにしても、考えてみればスマホでユーゴーが読める時代なんですね!
人間は時代を経て科学技術を進歩させてきましたが、古典文学などに触れると、いまだに精神の問題はなかなかまだ進んでいないような気になりますよね。もちろん進んでいることを私が知らないだけかもしれませんが!><
河曾さんが読み終えられて、ブログに記事をお書きになったら、よければトラックバックをくださいませ~
社会の責任は一人一人がこの問題について考えるだけでは相殺なんかできなくて、これは社会の責任とか言うのではなくてこの問題をどうするかの判断をより正確にするためにするもので死刑についてどうとるべきなのか誰にも正しいことは分からないから行うべきものなんだなと思うようになりました。
それよりも、きちんとした教育を受けさせることができなく犯罪を起こさせる状況を作り犯罪者の一生に、そして被害者に害を被らせてしまうことを止められなかった手前、犯罪者を更正させるという強い義務があると思いました。
後世界で犯罪の抑止力がないからどんどん死刑がなくなってるのはよく考えたら国の条件にで変わってくるのでなんともいえないですね
何はともあれこのような問題について考えることが大切ですよね。調べていると社会問題などにを深く考えないでいる人も結構いるんだなと分かりました。自分も人のことは言えないけど(汗)本当に悩ましいですね。上から言われたことをもうしんして疑うことをしないという人が日本には多いということにも気づいて怖くなりました
日本の政治は国民の意見が反映されにくいのでそれが社会問題とかを考えなくなってしまう原因のひとつなのかなって思ったり(-_-)
はやくよみ終わって記事書きたいなーとは思うんですけど知識の乏しい自分が書いてもいいのか疑問だし文書くの苦手だし時間がかかりそうです(^-^;
少しずつ考えを深めておられるようですね(^_^) 河曾さんのおっしゃる通り、このような問題について考えることがまずは大切だと、私も思います。という私も時々しか考えないでいることを反省したいところですが…;
>知識の乏しい自分が書いてもいいのか疑問だし文書くの苦手だし時間がかかりそう
これについては、私も以前人から励ましていただいたことがあるのですが、知識が乏しくても、文章が苦手でも、読んで感じたことを素直に書くところから始めれば、それを読む人には書いたもの以上の何かが伝わったりすることもあるようですよ!
そんな訳で私は自分の無知も文章のまずさも気にせず(←いや気にはしてますが、恥を忍んで)、本を読んで思ったことは率直に書き残すことにしています。
ですので河曾さんも、どうか時間がかかってもがんばって書いてみてください♪ 私はそれを読みたいです(^_^)
無理してきちんとしたことを書くより素直に書いた方がいいんですね!時間はかかっても書いてみようと思います