このあいだ、珍しくネコが私に構ってくれました。
感激の写真。
日頃からネコに対しては過剰な愛情を示している私ですが、相手にとっては迷惑とまではいかないものの(←多分)完全なる無関心をきめこまれています。ところが、このあいだの飼いネコは、飼いネコであるためか人懐っこくて、驚いたことに私の膝の上にまで乗ってくれました。わあ~!
しかし、ネコ氏の立ち去った跡には大量の毛が付着しておりました。きっと毛づくろいをしてほしかったのでしょう。そう言えば以前にも、ちょうど毛の生え変わる季節に、近所のネコさんにすり寄られ、ブーツの紐をかけるための鋲の部分が毛だらけになった記憶がよみがえります(要するに、「私」と言うよりは、毛を取るための「ブラシ」を欲していたらしいのです)。
ふふ。まあ、それでも良いのです。
愛することが美しいのは、それが一方通行であるときに限るのです。何か返されることを期待しているとき、それはもはやそのものを愛していないに等しいのです。それは単なる利害関係に過ぎません。
私が猫を愛することは、相手が私を好きか嫌いかにかかわりません。愛するという行為は、そのように美しくもあり、また恐ろしくもあるものですね。猫にどれだけ素っ気なくされたとしても、私としては追いかけずにはいられないのですから。そして、瞬間的に気まぐれに示される好意的態度によってどれだけ猫に利用されたとしても(そして無情に捨てられようとも)、やはり私としては追いかけずにはいられないのです。
つまり愛を捧げるというのは、こういうことなのです。いや、愛は捧げることしかできない性質のものなのです。おお、思わぬ真理に到達してしまって驚きを隠せないではないですか。
以上、猫にまつわる私の偏った愛情論でした。
(「愛する」ことについてはいくらか述べることができましたが、「愛される」ことに関してはまた別に考えなくてはならないところでありましょう。いつか私が猫から愛されるようになった日には、少し考えられるかもしれませんが、どうもそんな日は来るような気がしないのでした。おそらくこれが「宿命」と呼ばれるものなのでしょう)