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『エミリーにバラを』

2007年11月03日 | 読書日記ー英米
ウィリアム・フォークナー 龍口直太郎訳(「ノーベル文学賞全集11」所収)

《あらすじ》《この一文》

“ミス・エミリー・グリアソンが死んだとき、わたしたちの町の人間は、みんなこぞって彼女の葬式に参列した。男たちは、いわば倒れた記念碑にたいする敬愛の情みたいなものから、女たちはたいてい、彼女の家の内部を見たいという好奇心から、そこへ出かけていった。彼女の家の内部は、すくなくとも過去十年間、庭師兼料理人の老僕をのぞけば、だれ一人見たものがいなかったのだ。   ”



とうとうフォークナーを読みました。
先日、幸運に恵まれた私は『ノーベル文学賞全集11』つまりラーゲルクヴィストの『刑吏』と『こびと』を収めた貴重なこの本を手に入れることができたのです。
それで嬉しさのあまり、それまでに何度となく図書館で借りたにもかかわらずまったく見ようとさえしなかったフォークナーを、つい読んでみようという気になりました。

この本には、フォークナーの『兵士の報酬』(長篇)、『エミリーにバラを』『あの夕陽』『乾燥の九月』(短篇)の4作品が収められています。

で、どうだったかと言うと、『エミリーにバラを』は面白かった。
『兵士の報酬』はまだ読んでいません。
『あの夕陽』、『乾燥の九月』は、どういう話だったのかさえまったく分かりませんでした。それはもう驚くほどに分かりません。今のところ、フォークナー氏は私に用がないようです。でも、今後はどうなるか分かりません。なぜなら、『エミリーにバラを』はちょっと面白かったから。

ごく短いこの『エミリーにバラを』という作品は、思わず《あらすじ》と《この一文》として一緒に引用した冒頭そのまま「そういう話」でした。

町の変わり者のエミリーが死んだ。
彼女は町の中でただひとり変わらない前時代の象徴のような存在であり、誰とも打ち解けず常に傲然と、町中の人間が彼女の暮らしぶりに興味をもつなかで、しかしそれについてほとんどいっさいを知られることなく生きて、死んだ。

こういう話でした。奇妙な物語ではありますが、それほど奇妙というわけでもなく、話の筋としては展開を容易に予測できる物語です。
ところが、これが、なんというか、妙な印象を残すようなのです。読み終えてすぐには別になんとも思わなかったのですが、一晩たってみると、なんだか妙な気持ちになりました。

この妙な静けさは何でしょうか。突き放したような冷たさと言うか。いや、それとはちょっと違うような、妙な感じ。
ひとつの作品を読んだだけでは、この人のことを知ることはできないかもしれません。このあとに続く短篇『あの夕陽』も『乾燥の九月』も何かちょっと『エミリー』とは違った感触に思えましたし。その2作品について、私はまったく理解できなかったという点では明らかに違う感触と言えましょう。

『エミリーにバラを』が面白かったと言って、どこがどのように面白かったのかをうまく説明することはできません。しかしひとつ確実なのは、この物語のこの場面の印象があまりに強かったので、当分のあいだ私から去ることはないだろうということです。


“いままで暗かった窓の一つが明るくなり、灯りを背にしたミス・エミリーのすわった姿が窓枠にくっきりとうかびあがり、彼女のそり身の胴体(トルソー)は偶像のそれのごとく不動にかまえていた。   ”


ただひとつの文章を、言葉を見出すためだけにでも、長いもの短いものにかかわらず目に入る限りの物語を読むことには、たしかに意味があるようです。おそらくこの印象がいつかふたたび私を別のフォークナー作品に導くだろう、という予感がする。