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『チャンドス卿の手紙 他十篇』

2007年10月14日 | 読書日記ードイツ
ホフマンスタール著 檜山哲彦訳(岩波文庫)

《内容》
何ごとかを語ろうにも「言葉が腐れ茸のように口のなかで崩れてしまう」思いに、チャンドス卿は詩文の筆を放棄する。――言葉と物とが乖離した現代的状況をいち早くとらえた「チャンドス卿の手紙」こそは、新しい表現を求めて苦悩する20世紀文学の原点である。ホフマンスタール(1874-1929)の文学の核心をなす散文作品11篇を精選。


《この一文》
“それ以来、あなたには理解していただけないような生活をおくっています。精神も思考もなく日々が流れてゆきます。もちろん、隣人や親戚や、この王国に住むほとんどの地主貴族とほぼ変りのない生活ですが。
            ――「チャンドス卿の手紙」より  ”


“自分自身を見いだそうとするのなら、内面へおりてゆく必要はないのだ。自分自身は外部に見いだすことができる、外部に。ぼくらの魂は、実体をもたない虹に似て、とめがたく崩れゆく存在の絶壁のうえにかかっているのだ。ぼくらの自我をぼくらは所有しているわけではない。自我は外から吹き寄せてくる。久しくぼくらを離れていて、そして、かすかな風のそよぎにのってぼくらに戻ってくるのだ。じつにそれが――ぼくらの「自我」なるもの!
            ――「詩についての対話」より  ”


“生あるものはなんであれいつか、いかなる風景もいつか、完璧に、おのれを開示することがある。ただしかし、深く揺り動かされた心にたいしてのみ。
            ――「ギリシャの瞬間」より  ”



帯を見ると、この本を買ったのは2000年の秋のことだったようです。
あの当時に関しては、果てしない薄暗がりと改良されるべく解体された左の手のひらというほとんどふたつの記憶しかないのだけれど、そのころの私がどうやってこの本を手に入れたのか、それを手に取ったのは左手を解体したかった右手だったのか、もしかしたら何によってでもよいから解体されたかった左手だったのだろうか、としょうもないことをふと考えました。

いずれにせよ、私はこの本を購入以来一度も開かずに7年間も放置していたことだけははっきりとしています。
どうしてそんなことができたのだろう。読んでみれば、ここにある物語はいずれも、私にはあまりにもよく分かるものばかり。いえ、分かるというよりも、……分かるというよりも、なにかうまく言えないけれど、興味深いもの。やみくもに面白かったです。どうして今まで読まなかったのだろう。


さて、ホフマンスタールと言えば「バッソンピエール」。「バッソンピエール元帥の体験」という題で、この短篇集にも収められていますが、ほかのドイツ小説集にもこの物語は必ずと言っていいほど必ず収められています。よって、私はこの作品に限っては既に4、5回は読んでいると思います(このバッソンピエールには元ネタがあるらしいことは、今回のあとがきで初めて知りました)。
その他の作品は、たぶんこれが初めてでした。そしていずれに対しても、異常に惹き付けられます。


とにかく、物語の多くはドイツ文学らしく静かで限りなく美しい色彩豊かな描写から始まります(ホフマンスタールはウィーンの生れだそうです)が、あるところから突然に陰うつで湿っぽく息もつけぬほどの閉塞的状況へ疾走する展開には参りました。とくに最初の「第六七二夜のメルヘン」などは、もうほとんど裏切りです。タイトルからの連想ではもっとロマンチックな物語になるのかと思いきや、なんですかあの結末は。あまりに恐ろしくて息苦しい。信じられない、だまされた、ああ、だけど面白かったのです。

「ルツィドール」というお話が唯一ちょっと明るかったでしょうか。これもものすごく面白い物語でした。男装させられた女の子の恋の物語です。

全体を貫いているものには、「目に見えるものの、その奥に潜むものを見るようになり、そしてそのことがそれまで自らが世界に対してとってきた認識のありかたを一変させてしまう瞬間」というようなものがある、という主張だったでしょうか。そのあたりは非常に魅力的で面白い。何と言っても、この人の語り口は見た目よりもかなり情熱的なので、激情家の私としては共感するなというのは全く不可能なことであります。面白い。これは面白い。


行ったこともなければ、その名前も知らない深い森に、だけどたしかに住んでいたという記憶があり、今でもなお時々はそこへ帰ってゆくつもりになるような空想に耽ってしまうタイプの人間にはうってつけの物語かもしれません。
そしてそのような者が愛するだろうこの秋という季節にはぴったりの物語であるでしょう。
つまり、私にはぴったりの物語でした。

面白かった。