半透明記録

もやもや日記

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山に登るか眺めるか

2007年10月02日 | もやもや日記
この月曜日は自主的休暇ということにして、朝から映画を観てきました。『めがね』という作品を観てきました。『かもめ食堂』のスタッフとキャストによる新しい作品です。これについての感想は別のところで書くかもしれませんが、書けないかもしれません。

一言だけ書くならば、「この映画の世界はずいぶんのんびりしていて、そういう生活をいつのまにか忘れきってしまっていることに気付き、それを取り戻したいと思う人は多いのかもしれない」と思うと同時に、「こののんびりさというのは、一時のファッション、単に今からしばらくは続くだろう、そして遠からず収束するだろう流行に過ぎない世界」なのかな、とも感じました。「何かをわかったような気持ちになれる」映画かもしれません。あるいは「わからないままでもいいと諦められる」映画かもしれません。

『めがね』という映画にはそれなりにじんわりと感じるものがあったのですが、上のようにやや否定的に考えてしまうようになったのには訳があります。夜になってみたドキュメンタリー番組によって、『めがね』のもたらしたそのほのかな感動はあっさりと吹き飛ばされてしまったからです。

私がみたのは「NHKハイビジョン特集 数学者はキノコ狩りの夢を見る ~ポアンカレ予想・100年の格闘~ 」という番組です。タイトルが面白そうだったので、あらかじめ見るつもりで見ました。

私は高校数学で完全なる挫折を味わい、それ以来筋金入りの数学コンプレックスを抱えているので、現代数学の世界がどのようになっているのかなんて興味さえ持てなかったわけですが、この番組をみると、芸術などほかの分野で人々が多くの努力を費やしてきた姿やその成果が美しかったのと同じように、数学の世界でもやはり多くの才能ある人々がその人生を賭けて問題に取り組む姿やそれによって証明された理論は美しいのだということを認めざるをえませんでした。

《ポアンカレ予想》というのは、「長い1本の紐を持って、宇宙を一周してまたもとの位置へ帰ってきたとき、これまでの経路にわたしてきた紐をたぐりよせると、すべて回収できるならば、宇宙の形は丸いと言える」というようなことなんだそうです。すごいことを考えるものです。

20世紀の初頭にこれを言い出したのが、フランスの数学者・哲学者その他いろいろの知の巨人アンリ・ポアンカレさんです。彼は、自分の言い出したことながら、これを証明することが出来ず。以後、およそ100年の長きに渡って、世界中の多くの数学者を泥沼の苦しみに陥れた難問中の難問として、この《ポアンカレ予想》は解かれないままきたそうです。

ところが、2002年にネット上に「解けた」と言って論文が掲載され、その論文を書いた研究者には数学界最高の栄誉であるフィールズ賞が贈られることに決定されますが、なんと当事者が異例の辞退、しかも行方をくらますという事態に発展します。いったい何があったのか。という番組でした。

私はこのことは、そう言えばニュースで読んだことがありました。この話だとはすぐには気が付きませんでしたけど。証明を成し遂げたのはロシアの数学者で、やっぱロシアの人って変わってるな、そもそも数学者だしやっぱり変わってる人が多いんだな、くらいにしか思っていませんでした。まさか、そんな偉業を成し遂げた人だとは思いもしませんでした。そしてまさかそんなにも苦しい道のりを孤独に耐えて乗り越えた人だとは。

このロシアの数学者というのが、グレゴリ・ペレリマンという人です。まだ若い数学者です。恐ろしいほどの才能の持ち主なんだそうです。

番組によると、ペレリマン氏の証明に至るまでには、さまざまな研究者による蓄積があったようです。それは残念ながらいずれも証明を達成するには至らず、不完全な失敗ばかりでしたが、そういう積み重ねの上に、《ポアンカレ予想》は解決に至ったと言えないこともないようです。

《ポアンカレ予想》というのは、位相幾何学(トポロジー)という分野の問題だそうで、それは20世紀に栄えた新しい数学なんだそうです。その分野の優れた研究家たちがあらゆる角度からアプローチを試みるのですが、いずれも失敗。しかし、どうにか少しの前進を果たすことができたのは常に「これまでとは違った考え方をする」研究者でした。

3次元の世界の問題であるこの問題を、まずはもっと高次元の世界で考えた上で3次元へ戻そうとする人があり(フィールズ賞受賞)、そもそも宇宙の形と言うがそれはどのくらいの種類が考え得るかを問い、それは最大で8種類の形状の組み合わせになるはずと提案した人あり(やはりフィールズ賞受賞。このサーストン博士という人は私には実に魅力的な人物にうつりました。とにかく明るく、楽しそう)、問題解決まであと一歩にせまる、最高レベルの知性が想像力の限界に挑戦し続けた成果がありました。

そして、とうとう証明を成し遂げることになるペレリマン博士のものすごいところは、これまで当然の如く「位相幾何学の問題だ」と思われてきたこの問題を、位相幾何学から飛び出しただけでなく、物理の分野などからこれを証明したことらしいです。彼は物理の才能もずば抜けていただけでなく、興味も深かったらしい。
証明の説明会が開かれた時、世界中の研究者が集まり、彼の証明を聞いたそうです。皆、もう《ポアンカレ予想》が解かれてしまった、しかも自分以外の人間によって…という失意と同時に、その証明が「どうやら正しいらしい。だが、まったく理解できない!」という事実に衝撃を受けたのだそうです。というのも、皆さんはトポロジーの専門家過ぎたんだそうです。ペレリマン博士の言うことが全く知識の外のことのようで理解できず、それを検証するのに、その後数年間もかかったらしい。
笑ってはいけない、と思いましたが、つい笑ってしまいました。専門家というのはどうしても視野を狭めがちで、分野外のことはさっぱり分かりません!ということになりやすいものなのでしょうか。何の専門家でもなくどの分野のこともさっぱり分かりません!という私が笑ってる場合ではないのでありますが…
しかし、我々が「知りたいと願う」ことは、いずれもどこかでその根元を同じくしているとするならば、同時にあちこちで考えていることを統合してまとめる力というのが、時々は必要になってくるのかもしれません。ペレリマン博士には、つまりそれがあったと言えるのでしょう。そこが、ものすごいところです。

しかし、偉業を成し遂げたというペレリマン氏は、今はもともとの陽気な性格を一変させ、すっかり引きこもってしまいます。一人の人間をそれほどまでに変えてしまう問題。恐ろしいです。
誰にも知り得なかったことを知る、見えなかったものを見た人というのは、もう前とは同じように世間を見ることができなくなるものでしょうか。
なんとなくチェーホフの「黒衣の僧」やストルガツキーの「蟻塚」なんかを思い出しました。悲しみが横たわっています。人類にとっては素晴らしいことであるはずなのに、どうしてだか、悲しみを感じてしまいます。それは、どうしてなんだろう。分からないですけれど。いや、分からないからなんだ。たぶん。分からないことが悲しいのだけれど、分かろうとしないことはもっと悲しいような気がする。どっちも大差ははないけれど。


番組では、最初に《ポアンカレ予想》について説明してくれたフランスの数学者の先生がこう言っていました。

「たとえば登山家が、この山に登ることで命を失うことになっても構わないと言うのと同じように、我々数学者も、この問題を解くことに生涯を捧げ、解けるのなら命さえ失っても構わない。そう思うのです」


それはたとえば数学でも、文学でも、音楽でも、その他のなんだったとしても、もし山が見えたなら、私もやはり登りたいと思う。結局は一歩も動くことができなくて、ただ眺めているのと変わらないで終わったとしても、それでも登りたいと思うくらいはしたい。置いていかれることを悲しみたくないというのなら、どうしても。
だけれども、本当に私がそこを目指し、ここから一歩でも先へ進みたいと思うのならば、私はもっと周りをよく見て、私の届く範囲外のことをも知ろうと努力しなければならないかもしれません。
そうしたら、同じことを知りたいと願っている遠くの誰かと、ふと目が合ったりするかもしれません。

そうなったら楽しいだろうと思うので、私はまずはよく回る首とよく見える目が欲しくなりました。あ、それからよく聴こえる耳も。孤独に耐える精神力と情熱も。それから何よりもまず、知性が必要です。どうしたら手に入るのか見当もつかないけれど、私にはなにも諦められそうにありません。怠け者のくせに、欲望ばかりが膨れ上がります。


ここまで考えて、あらためて『めがね』の話に戻ると、あれはつまり「のんびりだろうがせかせかだろうが、自分に合った時間の流れを取り戻せ」ということを言いたかったのかも。やっぱりこの映画については、あらためて別で書くことにします。

ああ、なんだか長い記事になってしまったな。