半透明記録

もやもや日記

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ザッへに帰れ

2006年12月23日 | もやもや日記
今朝は、起きるなり、昨日の晩に録画しておいた「NHKスペシャルーロシア・蘇る大国」を見ました。よりによって、朝起きるなり、その番組ですよ。そして、それがきっかけで、そのまま「朝から生討論!」に発展。気が付けば、軽く正午をまわっています。もう13時じゃないか! 声も涸れるわけだぜ。しかし、たった半日の討論で疲れを感じるとは、私も衰えたものです。

さて、番組では現在のロシアの経済がどのような状況にあるのか、資本と権力の関係はどうなっているのか、そしてロシアはどこへ向かおうとしているのかということなどについてまとめていました。近年、突然沸いて出た富豪たちは、高級品に群がり、富豪とまではいかないもののようやく羽振りがよくなってきた株屋の男性などにとってはロシアの未来は明るいようです。
そのような物質的な豊かさをもたらしたプーチン政権を熱狂的に称賛し支持する「ナーシ」と呼ばれる若者の集団についても取り上げられています。思い込みや決めつけによって安易に判断することは避けたいところですが、直感的に「まるでヒットラー・ユーゲント」と思います。もちろん、決めつけは良くない。ところで、この「ナーシ」の幹部になると、「ガスプロム」の株券が貰えるらしい……。うーむ。
その一方で……。

という感じで、非常に興味深い番組でした。未見で興味のあるかたは再放送でごらんになるとよいでしょう。


さあ、この番組が土曜日の私に火をつけたのは、言うまでもありません。「労働」「資本」「権力」「権益」「搾取」などなどの言葉は、私の着火材です。すぐに燃えますよ。
私はもちろん資本主義が悪いなどと言うつもりは毛頭ありませんが、金を余るほどに持った人々が、個人的な欲望を剥き出しにしては、せっかくの資金をろくでもないことに使っているのを見ると、暗澹とするだけです。これは、私個人の問題でもあります。額の多少はあれ、金というエネルギーを何に使うのか。1億円の携帯電話(番組で紹介されてましたが、とても金ピカなんです。あれを耳にあてて通話するのは、さすがにちょっと恥ずかしいと思うくらいに)を買って、そのことで人類の未来が少しでも明るくなるのか、ということです。この問題に関しては、私自身としても猛烈に反省すべきところです。そんなことに金を使って、いったい何になるというのか。薬の研究とか、宇宙開発とか、そもそも教育とか、使うべきところは沢山あるというのに。

他人が欲望を丸出しにしているのを見ることほどみじめなことはないのではないでしょうか。それはまるで私の姿。私も恥ずかし気もなくそんな面をさらしているのだと思うと、実に辛い。そして、私をさらにみじめで悲しいものにするのは、欲望に目がくらんでいる間は、人類の未来どころか他人の目すら問題にならないということなのです。なんという恥知らずだろう。浅ましいことだ。

そうやって、復讐に燃えたり(なぜか日本の年金問題や労働問題にも議論が発展。私は怒りのあまり、仮想の皇帝となって粛正の雨霰を降らせたのでした。なかでも、そのときは冴えた思いつきだと思えたのは、儲からないと分かっていて就職したはずなのに、どういう錯覚からか予算を盛大に私的流用する公務員(ほんのわずかであると信じるが)や、二言目には「即戦力求む」と言っては人間を育てようとせずに一攫千金を狙うかのごとき資本家を、みんな集めて、廃坑になった金山での強制労働に就かせ、それほど言うならその夢を現実にしてやり、リアルに一攫千金のチャンスを与えようという「慈善事業」の計画です。結局いつものように、私が皇帝になったら大変なことになるだろうという結論で落ち着きましたが)、また一方では私自身の、あまりにも欲望に狂わされがちな心の弱さ(まず激しやすいというところが致命的)をしきりに猛省するうちにたどりついたところが、ある人の遺した言葉「仕事(ザッへ)に帰れ」ということです。

ドイツの学者マックス・ウェーバーは名講演『職業としての学問』のなかで、こう言いました。

”「日々の要求」に--人間関係のうえでもまた職業のうえでも--従おう。”
                  (尾高邦雄訳 岩波文庫)

と。それが人類に進歩をもたらすだろう、考えられるうちでもっとも確実な生き方。思想や、強烈な力を持った指導者などを安易に求めずに、地道に自らの進むべき道を、必要なものだけを自力で用意して携えて行く。なんという単純さ。そして、ここには悲しみがない。どこからも誰からも奪って来なくて良いのです。受け継ぐことはあっても。
当時のドイツでは、さきほどのロシアの若者集団「ナーシ」ではありませんが、事実や学問のかわりに認識や体験、政策を求め、それを与えてくれるような急進的な指導者を求める若者が存在し、この講演はそんな彼らにたいして語られたものだそうです。

私の理解力は足りていないかもしれませんが、これはヴォルテールの『カンディード』にも似ているような気がしました。主人公カンディードは(また作者のヴォルテール自身も)、ありとあらゆる思想を考え抜いた末、最終的には畑を耕していました。そして、空いた時間に議論をしたり、本を読んだりするのです。なんという確実な生活。

自分にできること、やるべきことをやらずに、楽をしてどこかから誰かから奪ってこようというのは、私には滅びの道であるようにしか思えません。どうでしょうか。



私は、さっそく来年の目標を「ザッへに帰れ!」とすることにしました。私はもっと、本当の意味で自分を支えられる仕事をしたい。それをもっと真剣に考えることにする。明けた瞬間から私の精神世界に劇的な転換が起こった、記念すべきこの一年の締めくくりとしては、まったくなかなか良い考えではないですか。来年も良い年になりそうです。