カルロス・フエンテス 安藤哲行訳(集英社文庫)
《あらすじ》
革命騒ぎの最中、グリンゴ爺さんは死に方を求めて、ハリエットは家庭教師としてメキシコにやって来た。ふたりが出会うのは革命派の若き将軍トマス・アローヨと彼につき従う丸顔の女(ラ・ルーナ)。メキシコ革命の戦塵のなかに消息を絶った、『悪魔の辞典』の作者アンブローズ・ビアスの最期の謎を、アメリカ人女性と革命軍士官の愛憎劇をおり混ぜながら描く。メキシコの作家フエンテスのアメリカ批判の書。
《この一文》
”フアレスで国境を越えたとき解放された気分になった。まるで、本当に別世界に入ったみたいだった。いまは確信している。人それぞれの心のなかに隠れた境界があり、それがいちばん越えにくい境界なんだと。なぜなら、人はそこで、自分自身のなかでひとりっきりになりたいと思うが、いつになくはっきりするのは、自分は他人といっしょだということでしかないからだ。
彼は一瞬ためらったあと、続けた。
「それは意外なことだ。恐ろしいことだ。痛ましいことだ。そして、いいことだ」 ”
この本は、買ったまま10年近く保管してきましたが、ついに先日、ビアスの『いのち半ばに』を読んだ後、今こそ読もうという気になりました。『老いぼれグリンゴ』が、ビアスの最期の謎を扱ったものだという本の紹介文の内容を思いだしたからです。フエンテスの作品だと思って、とりあえず手に入れておいて良かった。えらかったぞ、当時の私!
というわけで、久しぶりのラテンアメリカ文学なので、あの独特の波に乗り切れるかどうかが不安でしたが、さすがにフエンテスは凄いです。不安を蹴散らし、例によって予想以上の面白さです。凄いなー。しかし、なんだろう、この感じは。濃い。濃いです。生ぬるかったり、湿ってたり、埃っぽかったり、するんです。時間の流れ方も、どう考えても日本とは違った風に流れているとしか思えません。久しぶりに読んだせいもありますが、圧倒されました。でも、全然不快ではありません。読み終えるといつものように、異常に興奮してしまいます。
さて、物語の主な登場人物は、グリンゴ爺さん、31歳のアメリカ人女性ハリエット、革命軍の若き士官アローヨ。彼ら3人は愛したり憎んだりし合いながら、お互いにそれぞれが失った父親や息子、娘の像を見出しもします。そんな彼らの物語の間に、ビアスの短篇「空とぶ騎手」や「アウル・クリーク橋の一事件」などなどの一文や場面が点々と散りばめられているところも見事です(あー、やっぱり読んでおいてよかった)。そして、彼らに今のことを会話をさせながら、同時に彼らを過去にも存在させているという、この独特の時間の流れ。信じられない。なんでこんな表現がありうるのでしょう。まあ、しゃべっている人物が全然相手の話を聞かず、ひたすら独白しているという感もありますが。しかし、そのやり方がうまいのですね。多分。
また、フエンテスの作品で私がしばしば感じることは、性的描写が強烈なことでしょうか。しかし、それはいやらしさというよりはもっと、抜き差しならない何か、そのまま生でもあり死でもあるような、切実な何かを訴えかけてくるように思います。どこまでも生々しいようでいて、同時に極限まで幻想的でもあるというか。うまく言えませんが、とにかく強烈です。
結末もとてもよかったです。うまい。しかし、正直に告白すると、物語が錯綜していて、「あれ?この人さっき死んでなかったっけ?」「え?それはどういう意味?」という箇所がいくつかありました。イノセンシオ、彼の役割はなんだったのかしら……。いつかまた読み返そう。
物語は実際のメキシコの歴史的時点を舞台にしており、ビアス以外にも実在した人物が登場し、その実際の役割を担っていたりもするので、本の《あらすじ》にあるように、アメリカ批判の書、またはフエンテスのテーマであるメキシコ人としてのアイデンティティとは何かを考えながら読むと、一層興味深いものになると思われます。