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『ブラジルから来た少年』

2011年05月28日 | 映像
1978年 イギリス

出演:グレゴリー・ペック/ローレンス・オリヴィエ
監督:フランク・J・シャフナー
音楽:ジェリー・ゴールドスミス


《あらすじ》
第二次大戦から30年、世間からも忘れられかけた年老いたナチ残党追跡者リーバーマンのもとへ、南米から1本の電話がくる。通話相手のアメリカ人青年は、ナチスの残党がそこで結集し、秘密の恐ろしい計画を立てていることを突き止めたと言うのだが……。






いつも思うことですが、ヒトラーおよびナチスって、ちょっと悪く描かれ過ぎじゃないですかね。悪の化身とか、悪魔の申し子みたいに描かれすぎると、実際のところはどうだったのかと気になってしまいます。物語のキャラクターとして、そのように描くのにはたしかに魅力ある素材だということは分かるんですけれども。

私はなにも彼らを肯定するつもりはありませんが、酷いことが起こって、その責任を特定の誰かにすべて押し付けておけばいいや、自分たちは何も知らなかったし、ただの被害者だったんだ、それで片が付いた、あるいは相手を「悪」と断罪することによってさも自分が「善なる者」であるような錯覚、というふうな気配を感じることもあるわけです。そういうことは歴史が悲劇を証明している、のかもしれませんが、その「歴史」の信憑性って、どのくらいのものかな、と私などは思ったりもするんですよね。報道資料や個人の手記や発言の記録などは一面的で、あまり当てにならなかったりするということを、最近になって身にしみて感じていますしね。結局は誰もが好き勝手なことを、自分の都合のいいようなことを言っているだけではないか、なんてね。いや、それを検証するのが、そういうのを含めて検証したのが、「歴史」なのかもしれませんけど。膨大な情報のなかからどれを残すのか。そこには何の思惑も入り込まないものだろうか。とか。
事実をその通りの大きさで評価するのは難しい。物事の善し悪しを判断するのは、私には難しいのです。



それはともかく、この『ブラジルから来た少年』。上に書いたように、ヒトラーやナチの残党が登場します。ジャンルとしては、オカルトサスペンスとでも言えますかね。

南米に潜伏しているナチの残党は、ある計画を立てます。それは「2年以内に、ヨーロッパおよびアメリカで94人の男を殺す」というもの。「94人」という人数は正確ではないかもしれませんが、100人弱の男たち、その職業はだいたいが公務員で、年の離れた若い妻を持つ、ごく普通の男たちです。奇妙な計画でした。

ネタバレをしますと(ご注意ください!)、この奇妙な計画の目的は、この世界にふたたびヒトラーを再生させることです。ナチスの医師メンゲレは、潜伏先の南米の密林の中で、生前のヒトラーから採取した細胞から100体近いクローンを生み出します。生み出されたこどもたちは、各国の、特定の条件を満たす家庭の養子となるのです。遺伝的な同一性だけでなく、生育環境の同一性にもこだわっているあたりが、慎重なんですね。
そしてこどもたちが成長して父親との別離を経験しなくてはならない年頃になり、そのためのあの奇妙な暗殺計画だったというわけです。果たして、ヒトラーはふたたびこの世に飛び出してくるのだろうか。というお話。



この計画の目的が明らかになるところくらいまでが、ハラハラします。各地で目撃される問題の少年たちは、当然ながらそっくり同じ風貌ですが、その少年の風貌が非常に印象的です。よくこんな男の子を見つけてきたものだと、感心してしまいました。忘れがたい顔つきをしています。

それから、グレゴリー・ペックが医師メンゲレ役を演じているのですが、大スターの彼は、ただでさえ大柄で目立つ姿をしていますが、それにしてもスターのオーラが出過ぎていて圧倒的存在感を放っていました。すごい迫力。これぞ狂気。最後の場面なんかは凄まじかったですね。

そして、ローレンス・オリヴィエ演じるリーバーマン。この人の思想的バランスの良さが、このお話の肝でしょうね。リーバーマンは、過去の犯罪的行為は許さない、けれども、犯罪者の遺伝子をそのまま受け継いでいるがまだ何事も為していない者の、その未来までをも断罪しようという気はありません。この点については、私はもうちょっと深く考えたいところですが、いまのところ、まだ掘り下げることができていませんので、今後の課題としておきます。(でも……最後のアメリカで遭遇した「少年」のアレは犯罪ですよねー。仇討ち無罪? いやでも、犬、怖いわー……)



最後まで飽きさせない、見事な映画でした!









『バトル・オブ・シリコンバレー』

2011年04月30日 | 映像

1999年 アメリカ

原作 : ポ-ル・フレイバ-ガ- /マイケル・スウェイン
監督 : マ-ティン・バ-ク
出演:ノア・ワイリー/アンソニー・マイケル・ホール



《あらすじ》
『バトル・オブ・シリコンバレー』(Pirates of Silicon Valley)は1999年にアメリカで製作されたドキュメンタリータッチのフィクションドラマ。
Appleを設立したスティーブ・ジョブズとMicrosoftを設立したビル・ゲイツが、若き日にいかにして世界を変えたかを描いた作品。綿密な取材を基にした様々なエピソードからPC業界で最も有名なカリスマの姿の背景が分かる一作。

《この一文》
“それよりデニーズへ行こうぜ! ”



これはあくまでフィクションです。しかし、ここで描かれていたジョブズとゲイツという二人の人物像には説得力があって、なかなか面白かったです。

ジョブズはいかにしてApple社を一大企業にまで成長させたのか。またゲイツはいかにしてMicrosoft社を。まだ年若い二人が時代の先端を競い合って、彼らがそれぞれに目指した理想に向かってどのように走ったのかを描いていました。ジョブズの教祖っぷりが、独裁者っぷりが、ほんとうにイカレていて恐ろしかった! あんな上司は絶対に嫌だっ!! まだゲイツのほうが愛嬌があって話も通じそうなだけマシだったな……まあ、かくいう私はもう10年以上もMacを愛用しつづけているわけですが。でも、あの人物像がマジなら、ウォズニャックさんが出て行った理由も分かるってものですわー。

ジョブズの友人でもあり起業からの同志でもあったウォズニャック氏(しかしジョブズからすれば彼は部下に過ぎなかったのだろうか)は強権的で天才特有の(?)奇行に走るジョブズの尻拭いに疲労困憊、そして同時に凄まじい勢いで資産価値を跳ね上げるApple社にもついていけない庶民な彼は、とうとうジョブズと袂を分ってしまいます。この人が一番まとも。

そんなウォズさんも気の毒でしたが、それよりもなにが気の毒かといって、私が一番気の毒に思ったのは、ゼロックスのエンジニア達です。彼らが心血を注いで開発した新しいシステムは、不幸にも彼らの上司には全く理解されず、その上なぜかゼロックスの上司の口利きでそれを見学にやってきたApple社の面々に詳細を説明させられて、まんまと丸ごと持っていかれてしまうのです。Appleはそれで大儲け。うわー、なんて気の毒なんだ!

しかし、ジョブズのやり方だけがえげつないわけではなく、ゲイツもまた同じ様な手段をとります。この作品におけるゲイツは賢いので(実際も賢いのだろうけど)、驚いたことにあのジョブズを手玉に取ってだまくらかすんですね。末恐ろしいですねー。
けれどおそらくジョブズやゲイツのみならず、きっとこの時代のこの業界の誰もが、どうやって相手を出し抜くか、その果てしない競争に参加していたに違いありません。そういった熾烈な戦いを乗り切ったものだけが栄光を掴みとれる世界、もちろん自分たち独自でも研究開発の努力はするけれど、ときには出来もしないことを出来ると言ってハッタリをかましたり(まさかマイクロソフト社の始まりがあんなことになっていたなんて…)、これぞという技術や情報に対しては盗みとることも辞さないという態度には、ほとほと感心しました。道理で私は金持ちになれないわけだ。そういう点からすると、たしかにジョブズやゲイツは時代の寵児であり、新しいものに対する嗅覚、金儲けの才能がふんだんに備わっていたのだろうというふうに、この映画を見ることができました。

ちなみに制作は1999年。ちょっと古いですね。当時と今とでは、両社の状況は違っています。この作品では、ジョブズがクビになるまでが描かれていました。その後の復帰までは範囲外。あのまま潰れるんじゃないかと思っていたAppleが、まさかの盛り返し、そして現在に至るということを思いながら見ると、違った感慨がありましたね。ジョブズがまたいなくなったら、Appleはどうなっちまうのですかね。気が狂っとるとしか思えないけど(注:映画では。これはあくまでフィクション…と思いたい;)、素晴らしい才能とカリスマを持った人物であるというのは、やっぱり妥当な評価なんだろうなあ。

いや、しかし、それにしても、この映画のジョブズにはほんとうに関わりたくない感じです。真夜中に、社員たちは既にもう何十時間と休みなく働きつづけて朦朧としている時に、こっそり見回りにきていて、うっかりボンヤリしたり作業が進んでいなかったりしていようものなら「この給料泥棒がっ! お前のやっていることは裏切りだっっ!!!」とか喚いて作業中のコンピュータの電源を引っこ抜くような上司(←ジョブズ)とか、絶対に嫌だわー! 怖いわー! 恐ろしいワー!!


というわけで、面白かったです! 良作。






『インセプション』

2011年03月11日 | 映像

キャスト:レオナルド・ディカプリオ/渡辺謙/ジョゼフ・ゴードン=レヴィット/マリオン・コティヤール/エレン・ペイジ/トム・ハーディ/キリアン・マーフィー/トム・ベレンジャー/ディリーブ・ラオ/マイケル・ケイン

監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン




《あらすじ》
コブは、人が一番無防備になる状態、つまり眠っている時に夢を通して潜在意識に侵入し、他人のアイディアを盗み出すという犯罪分野におけるトップ・スペシャリスト。そんな彼に、「インセプション」と呼ばれる最高難度のミッションが与えられ、コブをリーダーとする最強の犯罪チームは、命を賭けた、究極のミッションに挑む――。


《この一言》
“ 夢に、実際の記憶を混ぜるな! 夢か現実か分からなくなる ”






うおおおおお、面白かった…!!!


と、観終えるとすでに真夜中となっておりましたが、私は思わず叫んだのでありました。物語が終わり、エンドロールが始まるあの瞬間に、いや実を言うと劇中からずっと、これほど心ごと体ごと震えたのはいつ以来だろう。すごいものを観たという感激が、一晩経った今も私を覆い尽くしています。私はまだあの世界からすっかり抜け出せていない。

この映画には優れたところがたくさんあって、どの点についても夢中になれる完成度がありました。たとえば息つく暇もない急展開のスピード感、徹底的にスタイリッシュな映像美、やや複雑な構造を持ちつつも物語の軸は貫き通してある素晴らしいストーリー、それから配役の良さ、他にもまだたくさんあると思う。多くを与えてくれる映画でした。まったくもって痺れたぜ。

しかし、落ち着いて振り返ってみると、いくらか奇妙な点はある。たとえば、サイトーさん(渡辺謙)。彼の背後には巨大な権力が控えているらしく、電話一本で国の法律をねじ曲げることすら可能、また、ひとつの航空会社を買い取ってしまうくらいのことも朝飯前。そんなサイトーさんの属する組織が、あるライバル企業の崩壊を目論むところからこの物語は始まるわけですが、そんなに強大な権力を持つ彼らなら、ライバル企業の御曹司の心くらいは夢に侵入せずとも覆せそうじゃない?(しかもその坊ちゃんはみるからに単純そうな男だし)と思ったりしました。それについては何か説明があったかな。よく覚えてないけど、他に選択肢はなかったのだろうか? 偏屈そうな父親の方の夢に潜り込むというほうがまだ納得がいった気がする。だけどそれだとミッションコンプリートが難しいんだろうな。そうか、だから坊ちゃんが標的になったのか。そうだったのかもしれんな。うんうん。

ついでに、坊ちゃんを夢に落とすため彼に催眠剤を投入する必要があってサイトーさんは航空会社を買い取り、その買い取った飛行機の中で一服盛るのですが、サイトーさんたちのライバルたる巨大組織の御曹司が、たった一機の専用機(これが修理中?という設定だったような)しか持っていないなんてことがあるだろうか。予備が何台もあるだろうよ、普通。おまけにいくらファーストクラス席だからって、ボディーガードも付けずに民間機にひとりで乗り込んだりするんだろうか。ここはちょっと不思議だった。もちろん、そんなことは観ている間にはちっとも思いませんでしたけどね。この映画には、そんな些細な疑問点をぶっ飛ばす大いなる魅力が溢れているのです。

とは言うものの、実はまだ気になるところがあった(私は本当に嫌な観客だ)。もうひとつ気になったのは、コブ(レオ様)の人物造形。この人、トラウマ抱え過ぎでしょ。そんな状態でこんなお仕事をしてちゃいけません! ほらみろ、失敗ばかりしてるじゃないの! てか、どうしてこの人がリーダーなの? このコブさんの役割って何だったのかしら…アーサーはどうしてミス連発のコブに性懲りもなく付いてくの? 今回の超絶難度のミッション「インセプション(植え付け)」だって、こう言ってしまってはなんだが…あの……ユスフさん(ディリーブ・ラオ。ひとりで危険の中をかなり頑張っていた!)とイームスさん(トム・ハーディ。この人が居なかったら、ミッションは悲惨なことになっていたと思われる。大胆かつ緻密、有能すぎて余裕でマジ惚れするレベル)、それにアーサー(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット。頑張っていたがちょっと間抜けな感じしてよろしかったです)、それからあの設計係の女の子:アリアドネ(エレン・ペイジ。おせっかいだけど優秀で単純で可愛い)だけで事足りたのでは?? 要するに、レオ様いらなくね??(←ああ言っちまった!)とか思ったりしてしまいました。まあ、もちろんそれではお話が盛り上がらないわけですが。やっぱりトラウマを抱えたヒーローは必要ですよね。うんうん。それに、このどうも役に立ったのか立たなかったのか、足を引っ張っただけのようにも思えるリーダー:コブさんの抱えていた深いトラウマこそが、私がこの映画から受けるもっとも印象的な部分なのです。痛みすら覚える。




どこからが夢で、どこまでが現実なのか。


これはいつの世の人々にとっても重要な問題のひとつであるでしょうが、私にも重要な問題です。私もそれがとても気になっている。

階層化された夢。
ひとつ階層を降りるごとに意識の深いところへ、脳の働きはいっそう高速化し、深ければ深いほどにその階層での経過時間は長く感じられるようになる。と、設定してあります。何階層にもなった夢の世界をもっと深くまで。どこまで深く潜っていくのか。
また、その夢の世界では、構造物なども好きにデザインできるのです。派手に折れ曲がる都市。永遠に登り続ける閉じたパラドックスの階段。スペクタクルですね。

そして、そうした夢の世界で行われる「インセプション」と呼ばれる【発想の植え付け】が、この物語の主軸になっているわけですが、映画では二つの「インセプション」が扱われていました。


***ここから先はネタバレになりますので、ご注意ください。***


一つ目の「インセプション」は、御曹司ロバートの深層心理に潜入し、彼の父親が築いた一大帝国を、父親の死後に引き継ぐだろうロバート自ら崩壊しようとするアイディアを【植え付ける】作戦。ロバートの心理が起こす防衛反応によって銃撃戦が繰り広げられたり、夢の中で「これは夢だ」とわざと気づかせてみたり、深い夢を見ていても、上の階層で起こっている「現実」が下の階層まで影響力を及ぼし得たりもする。ロバートの心の最深部で【植え付け】を行えば、ロバートが夢から目ざめた時、そのアイディアを自分で思いついたとしか認識できないというのが面白いところ。

もう一つの「インセプション」は、チームのリーダー:コブが、かつて彼の妻に対して行った【植え付け】。彼と妻のモラは、とても深く愛し合う一種の理想的なカップルだった。ある時ふたりは一緒に眠りの中へ入り込む。同じ夢の、深く、深くまで降りていったかれらはそこで長い年月を信じられないほどの幸福の中で過ごす。しかし、もう現実に戻らねばならないと考えるコブと、それに反対する妻モラ。妻を夢の世界から抜け出させるために、コブは妻を自らそのようにしむけるような「インセプション」を施したのだった。【植え付け】は成功したかに見えたが、現実に戻った妻は(何十年という歳月をともに過ごした記憶を持ちながら、目ざめた彼らの魂はふたたび若い肉体に戻った)、その「現実」さえも「抜け出すべき夢の世界」だと誤認していた。そしてモラはその夢から抜け出すために、目覚めを意味する「死」に飛び込むのであった。

悲しい物語です。私はとても悲しい。けれども同時に羨ましくもある。コブとモラのように、ふたりで長い長い時を一緒に、なにもかも自分たちの思い通りになる世界で過ごせたら、それはどんなにか幸福なことでしょう。彼らは夢の中で幸福だったんだ。50年もふたりだけでいて、幸せだったんだ。

おそらくコブの失敗は、「これは現実じゃない」という否定的な感情を【植え付け】てしまったことでしょうね。私はこのあいだも思ったのだけれど、夢と、現実と、その両方を満たすべきなのです。両方を同様に幸福にしてやるのです。そうすれば、どちらかに一方に逃げ込んだり、どちらか一方をただの幻だとがっかりしなくて済むはずだ。どちらが夢で、どこまでが現実だとしても、それは別に構わないだろう? その両方を楽しみさえすれば、その両方を愛しさえすれば。そして同時に、同じ夢を見てくれる誰かを、心から愛し信じることができれば。

それが出来なかったというところに悲しみがあるのかもしれない。私もきっとモラのようになるだろうな。夢に留まることを選ぶような気がする。夢の中の幸福な半世紀を手放して、果して現実の世界に耐えられるのだろうか。夢の世界を知りながら、長い年月が経たという感触がたしかにあるのに、目ざめた先の現実を現実として受け入れられるだろうか。あれほどの幸福が、すべて夢でしかなかった、ただの幻だった、そんなことを信じられるだろうか。
【植え付け】がなくても、モラはいずれはやはり死んでしまったのかもしれないな。悲しい物語だ。コブにしてみても、モラを愛して、彼女との幸福な長い年月を過ごした後で、両方の世界で彼女を失ってしまって、自分だけでどうやって生きていったらいいのだろう。そんな孤独の中でどうやって生きていったらいいのだろうね。夢の中にだけでも、モラを留めておきたいという気持ちは、彼の罪悪感を除いても、私には理解できるような気がする。孤独には耐えられない。そこが夢でも現実でも。




チームのメンバーはそれぞれ「トーテム」という自分だけのアイテムを持っていて、それの感触で今いるのが夢なのか現実なのかを判断します。コブさんのトーテムは「コマ」。コマが回りつづければ、そこはまだ夢の中。

コマを回してみる。
くるくるくるくるくるくるくるくるくる――。

回りつづけている、これは夢だ!

という新しい遊びがK氏と私の間で流行りそうな予感。でもコマがない。持ってない。もしも私にもコマがあって、それが回りつづけていても、あるいは回りつづけなくても、私はどちらでも構わない。私は君の夢を見ている、君が私の夢を見ているのか、あるいは誰かが私や君の夢を。楽しければそれでいい。どこからが夢でどこまでが現実でもいい。ここが誰かの夢の中なら、どうか、すべての階層を幸福で満たしてください。











『ギャラクシー★クエスト』

2011年02月18日 | 映像


1999年 アメリカ

出演: トニー・シャルーブ/シガニー・ウィーバー/ダリル・ミッチェル/エンリコ・コラントーニ/サム・ロックウェル
監督: ディーン・パリソット



《あらすじ》
放送打ち切りから20年を経た今も熱狂的なファンを持つSF番組「ギャラクシー・クエスト」。 今日もある都市で、ファン集会が開かれていた。が、招待された出演者の前に奇妙な4人組が現れ、 “自分たちの星を侵略者から守って欲しい”と助けを求めてきた。 最初は冗談と思った出演者たちだったが、彼らは本当の異星人で、番組そのままの宇宙船も用意していた……。


《この一言》
“これを書いたシナリオライターは死ね!! ”




何か映画でも観ようよ! ということを前から言っていたのですが、今日の午後、ユキさんのおうちで映画鑑賞会を開かせてもらいました。そして、私はおすすめの『ギャラクシー★クエスト』を持っていったわけです。この映画は実に素晴らしい名作なのですが、有名作品かというと、残念ながらそうでもないのではないかと思います。私はかつてこれを劇場で観ましたが、『スター・トレック』のパロディという宣伝文句に釣られて観に行って、それはたしかにそうだったのですが、この映画自体の持つすごいパワーに圧倒されたものです。懐かしいな。その後、DVDを買って何度も観た。そして今日もまた観る。

ところで、ブログを始めてからも何度もこの映画を観ているのに、驚いたことにまだ記事を書いたことがないようなのです。おかしいなぁ、書いたと思ったんだけどなぁ。少なくともここ何年かで2回は観ているのに、変だなぁ。ともかく、それではそろそろ書いておきましょうかね。


さて、物語は明快かつ簡潔、それでいて深みもひねりもあり、ユーモアと夢と希望と愛情に溢れています。主人公たちは、かつての大ヒットテレビドラマ「ギャラクシー・クエスト」シリーズの俳優ですが、ドラマはとっくに打ち切られ、いまやすっかり落ちぶれて、熱心なオタクファンを相手にしたサイン会で生計を立てる日々。そんな状況にもかかわらずいまだに人気者気取りのダガート艦長を演じるジェイソンは、ひょんなことから他のクルーを演じる俳優仲間たちから嫌われ疎まれていることを知る。そこへ、ドラマ「ギャラクシー・クエスト」を受信し、《歴史的ドキュメンタリー》だと信じる異星人サーミアンが、遠い惑星からはるばる地球へやってきてダガート艦長に助けを求めるのだが……というお話。


もう、ほんとうに、何度観ても、心の上昇気流を巻き起こす、素晴らしい作品です。ここにあるのはなんだろう、この清々しさはなんだろうか。たとえば、登場人物たちのバラバラになっていた友情の回復があるし、それぞれの役者としての、また人生に対する自信の回復があるし、誠実さへの尊厳の獲得があるし、未知なる冒険への夢があるし、過去に対する愛着と、未来への希望がある。ユーモアもある。ユーモラスでありながら、同時にとても真剣なメッセージを与えてもくれます。あらゆるものが、ここにはある。実に、実に優れた脚本です。上映時間がたったの100分ほどしかないということが信じられないくらいに、あらゆる要素がうまく編まれているのです。私などは何度も観ているのに、今回もうっかり泣きそうになってしまいました。良い意味で、いまどき珍しいくらいの王道(と言っても、なんだかんだでもう10年以上前の作品なのか…)。ともかく真っ直ぐな映画です。私はこれが大好きなんだよな!

魅力的な要素が詰まった本作ですが、私がもっとも心を打たれるのは、この映画全体にみなぎる「情熱」です。面白い映画を作ろうという製作者の情熱がほとばしっているのです。それが要所要所にあらわれていて、たぶん私はそこに感激してしまうのだと思います。たぎるような「情熱」をもって、友情を、愛情を、誠実を、冒険を、夢を、希望を、それらの大切さと美しさを描いていると思うんですよねー。しかも「情熱」的なだけではなく、素晴らしい形に仕上がっているんですよ。すごいんだ、これが。


そういうわけで、元気を出したい時にはこの映画を観るのがよいと思っています。私は上のようなことで、やたらめったら感激してしまいますが、もっと単純に誰でも楽しめる映画でありましょう。なにしろ笑えるし、泣ける。ズバッとストレートに伝わってくるものがある映画です。見終わった時の爽快感は素晴らしいものがあるんですよね。

一緒に観ていたユキさんはこれが初めての視聴でしたが、とても喜んでくださいました。普段はSF映画をあまり観ないということですが、これはかなり面白かった、SF初心者でもSFが苦手な人でもこれならすんなり入っていけるのではないか、と言ってもらえました。へへへ、よかった☆ 



面白いところはいろいろありますが、私はやはり、シガニー・ウィーバーの熱演にはシビレてたまりません。めっちゃお色気役(出演当時50歳!見えない!!)で、胸の谷間全開のセクシーな衣装に身を包んでいるのですが、少しもエロくない。お年を召しているからエロくないというわけではないんだけど、なにかこう、エロスよりも悲哀を感じさせるのです、最初は。しかしその彼女が強烈に魅力的なのです。《「命令を復唱するだけの役柄」という詰まらない役を演じる女優という役》、この複雑な役柄を非常に魅力的に演じているんですよね。お話がすすむにつれて、詰まらない役を演じていた彼女が、最後には本当に魅力的な役者になっていくのが圧巻です。もちろん、これはここに登場するほかの役者さんについても同様のことが言えるわけですが。最後はみんな素晴らしい役者になり、素晴らしい人生を取り戻すのです。映画って、お芝居って、物語って、夢を見るって、希望を持つって、この人生って、本当に素晴らしいんだな! と心から思えてきます。私をポジティブにする貴重な映画のうちのひとつです。いやはやこれはなかなか凄いことだぞ。

人間の心の働きの美しい面についてを思い出させてくれる作品。オススメです!!


ネバー・ギブアップ!
ネバー・サレンダー!!

私たちは、心だけでも、ずっと遠く信じるところまで、きっと行けるはず。ですよね?













『未来世紀ブラジル』

2011年01月30日 | 映像

1985年 イギリス

監督:テリー・ギリアム
出演:ジョナサン・プライス/ロバート・デ・ニーロ/イアン・ホルム/キム・グライスト


《あらすじ》
20世紀のどこかの国。情報局の小官吏サムの慰めはヒーローになった自分が天使のような娘と大空を飛ぶ夢想に耽ることだった。ある日、書類の印字ミスから善良な靴職人が大物テロリストと間違われて処刑されてしまう。後処理のため未亡人のアパートを訪れたサムは、そこで夢の中の娘に出会う……。
『バロン』『12モンキーズ』の奇才テリー・ギリアム監督がイマジネーション溢れる映像で悪夢のような世界を描いたカルト的人気の伝説的作品。


《この一文》
“このほうがいい。
 身ひとつでどこでも行ける。
 書類に縛られるのはまっぴらだ。 ”





まるで狂気の世界。何度観ても凄い映画だ。この気持ちの悪さは何度味わっても慣れることができない。気が、変になりそう……。


《テリー・ギリアム祭り》第3弾というわけで、『Dr.パルナサスの鏡』『バンデットQ』に引き続き、傑作『未来世紀ブラジル』を観てみました。私がこの映画を観るのは多分これが4回目か5回目かと思いますが、何度観ても強烈な印象を与えてくれますね! あー、気が重くて夕飯が喉を通らなそうだよ!(食ったけど!) いかん、葬式の場面のことはもう忘れるんだ…! うぐぐ……ぐぉぉ!

気持ち悪いけど、しかし、やっぱり格好良い映画だなぁ! 薄暗い【情報局】も不気味でいい感じだし、タトル(ロバート・デ・ニーロ)もよく分からんけどイカしてるし、役人が終業時にみなロングコートに帽子を被ってぞろぞろと出て行くところなんかもカッコイイ。そう言えば、いつも思うんですけど、あの【情報局】の人たちが使っている「端末機」はめちゃくちゃ格好良いですよね。ああいうの、欲しいなぁ。ああいうモニターだったら、そしてああいう昔のタイプライターみたいなカタカタしたキーボードだったら、すごくいろいろ捗りそう!…みたいな(気分的に)(気のせいだろうけど)。
ま、しかし、格好良いけど、やはりとても恐ろしく不気味な物語であります。


これはまるで、なかなか目ざめることができない悪夢のような世界です。毒々しいまでに鮮やかに描かれる、そこらじゅうが狂気に満ちた世界。ブラックユーモアの面白さはもちろんありますが、同じようにブラックユーモア連発の『バンデットQ』がファンタスティックで明るい雰囲気なのに比べると、この『ブラジル』のほうはほとんど笑えません。私はとにかく、めちゃくちゃ恐ろしい。怖い。マジで怖い。


主人公のサムは【情報記録局】に勤める小官吏である。彼自身は家柄も良く頭脳も明晰であるにもかかわらず、退屈で平凡なこの【記録局】の仕事に満足していた。ところが、亡くなった父が有力者であったこともあり、サムに対してもやはりその出世を願う母親の手回しによって、知らぬうちに【情報剥奪局】へ昇進することになる。サムはいったんはその昇進を断ったものの、偶然その実在を知った「夢の女」ジルの身元を知る権限を得るために【剥奪局】に転属することに決める。


この物語には恐ろしいところがいくつもありますが、まずはあらゆる物事が書類によって管理されていて、書類に書かれた情報こそが絶対であって事実はそれに合わせてねじ曲げられるのが普通であるということ。書類の印字ミスでテロリストと間違われ、人違いであるかどうかを問われる以前に処罰を受けてしまう暗黒社会。書類さえ整っていればあとは万事オールクリアー。なんか実際にもどっかで聞いたことあるような状況ですが、いやはや恐ろしすぎますね。

また、そういった管理体制に反抗する勢力によるテロが頻発しており、街のあちらこちらで突然に爆発が起こり、被害にあったレストランには怪我人が続出しますが、その脇では一家が何事もなかったかのように食事を続行していたりするという、人々の社会に対する徹底的な無関心がうかがえるのも恐ろしいところです。ここに加えて恐ろしいのは、テロリストの姿がハッキリとは描かれないこと。どうやらそういう勢力が存在するらしいことしか分かりません。で、それに対応する体制側のトップの姿も描かれないところも、さらに恐ろしい。世の中の仕組みが本当はどのようになっているのだかが、極めてアヤフヤ。これまた実際にどっかで聞いたことあるような恐ろしさですね。

さらに、身体の表面的な美しさに異常なまでに執着する一方で、インテリア無視で建物内部を縦横無尽に走る太い配管の存在には無頓着であるような人々の歪んだ美意識なんかも恐ろしくてたまりません。サムのお母さん(とその友達の女性)の整形マニアっぷりは、いつみても、本当に、恐ろしくて恐ろしくて、もうダメって感じです。で、終盤あたりのお葬式のシーンのグロさはもうトラウマものですよ。あー、ここは何度観てもグロイわぁ。うわぁ……今までだってこのシーンを忘れたことはなかったけど、あらためて観ると、うへぇ…ぐわぁ……整形技術が悪だと言うつもりは毛頭ありませんが、なにごとも行き過ぎはよくないということなんでしょうか。

と、上にあげた3つの恐ろしい点については、私は以前から恐ろしいと思っていたのですが、今回久しぶりに見直してみて新たに恐ろしいと感じたのは、主人公のサムの狂いっぷりでしょうか。どうしてだかこれまでは気がつかなかったのですが、よく見ると、この人、かなりおかしいんです。めっちゃ怖い。けど、この「おかしさ」が重要なのかもしれませんね。観客にはサムの挙動が「おかしく」見えると思うのです。特に、夢の女ジルとの出会いの場面なんかではそれが顕著でありました。


サムは、書類の処理ミスによって誤って処刑されてしまった靴職人の家を訪れて、その未亡人に取り過ぎた費用(この世界では罪人は自身で刑罰にかかる諸経費を支払うことに決まっている)を小切手で返却しにいくが、そこで彼はいつも夢のなかで自分に助けを求めている美女の姿を発見する。彼女は靴職人の部屋の上階に住むトラック運転手ジルだった。ジルは、靴職人の逮捕が誤認であることを目撃し、それを役所に訴えようとしており、そのことによって彼女もまた逮捕されようとしていることを知ったサムは、どうにかして彼女を助けようとするが――。


夢で会った女を愛して、それに姿がそっくりな現実の女をも愛する。そして彼女のピンチを救いたくて奮闘するサムですが、やることなすことが裏目に出てしまいます。サムのジルに対する態度は、初対面でいきなり愛を打ち明けたり、被害妄想でトラックを暴走させたりするなど、最初のうちこそ不気味なほどに挙動不審なものですが、物語が進むにつれそれは次第に薄らいでゆきます。これは、サムが官僚的世界の気持ち悪さから脱却しつつあることをあらわしていたのでしょうか。そうかもしれない。今まで気がつかなかったな。

もうひとつ今回気がついたことは、サムの部屋の暖房が壊れて修理を頼んだら、もぐりの修理屋タトル(デ・ニーロ)が現われて違法修理をしてくれるのですが(勝手に修理するのが違法であるところがまた恐ろしい)、正規の修繕サービスの人間は修繕するどころか逆に部屋中をめちゃくちゃにしてしまうところが恐ろしい。そしてこの正規の修繕サービスの二人組は、何やら全身透明なビニールで覆われた作業着を着ている。おやおや、またまた「透明ビニール」だよ……。こないだ観た『バンデットQ』でも、暗黒城の悪魔達はこの透明ビニールで覆われた部屋で作業してるんですよね。なんだか知りませんが、ギリアム作品においては、この「透明ビニール」は悪のイメージらしい。な、なぜ…? どうしてなの??
それから、家事を自動でやってくれるメカに対する嫌悪感も、『バンデットQ』に引続き、ここでもやはりみられました。冒頭で寝過ごしたサムが、自動装置によって用意されているはずのコーヒーとトーストを口にする場面で、不具合があってコーヒーもトーストもいい加減な状態で出されてくるという。『バンデットQ』では、悪魔たちがやたらとハイテク派だったんですよね。あと、テレビのショー番組に対しても批判的な感じ。このへんについては、なんとなく面白いので、いずれもうすこし深く考えてみたいところです。



というように興味深い点はいくつもありますが、何と言ってもこの映画の最大の見所は、やはり「夢」の描写。物語のところどころに、サムの夢が、その現実とリンクする形で何度も挿入され、この夢の描写はとても幻想的で強く印象に残ります。鎧兜に槍を装備した巨大なサムライと戦ったり、地中から生えてくる2本の腕に足を掴まれたりしながらも、檻にとらわれた美女を救おうと、夢のなかのサムは戦います。夢と現実が何度も交差するうちに、どちらが夢で、どちらが現実なのか分からなくなるようです。そして、あの結末。(以下の1段落、ややネタバレ注意)

どちらが夢で、どちらが現実なのか。
この物語の主題は、この「夢」ということでもありましょうが、なかなか目を覚ますことのできない悪夢のような現実を描いた作品であるとすると、サムがその現実のなかで最後に見た「夢」は、閉ざされた悪夢的世界から彼が脱出するための唯一の手段であり、その夢のなかにあって、彼はあるいはようやく救われたとも言えるのでしょうか。どうなんだろうか。そう考えたいけれども、しかし、それにしてもこの後味の悪さよ……。恐ろしすぎるぜ、ほんと。あー、もうダメだ。。。




今のところ観たことのあるテリー・ギリアム作品のなかでは、この『未来世紀ブラジル』が最も素晴らしいというのが私の意見です。気持ち悪いだの恐ろしいだの言いつつも、なんだかんだで何度も観てしまう。そして何度観ても、そのたびごとに発見があり、考えさせられることがあるんですね。こんなに素晴らしい映画なのに、DVDが廃盤になりがちなのは何故なのだろう。おかしいなぁ。ま、私はもう持ってるからいいんだけどさ。この現代社会の抱える歪みに鋭く迫った名作だと思うのだがなぁ。…そのために、かえって世の中に出回らないんだったりして……なんつって。はは、そんな恐ろしいことがあるはずないよね?

ジョージ・オーウェルの小説『1984』との類似を指摘されたりもするらしい本作ですが、実際いくらか『1984』にインスパイアされて作ったと聞いたような気もしますが、私はザミャーチンの『われら』にも似ていると思いましたね。「恩人」とか思い出しちゃうかんじ。あと、あの結末の感じも『われら』っぽい。要するに、ものすごく私の好きな種類の物語で、それが素晴らしい映像になっているというわけですから、私はこの『未来世紀ブラジル』を、たぶんそのうちまた何度か観直すことでしょう。面白い。面白いですよ!



さっき軽く調べたところによると、『バンデットQ』『未来世紀ブラジル』『バロン』は「夢」にまつわる3部作なんだそうです。えっ、じゃあ『バロン』も観なきゃだわ! 大昔にテレビで放送されていたのを観た記憶はおぼろげに(かなりおぼろげに)ありますが、内容はほとんど覚えてないので、近いうちにちゃんと観てみようと思います。結構楽しかった印象があるんだけど、どうだったかなー?








『バンデットQ』

2011年01月15日 | 映像

1981年 イギリス

出演:デイヴィット・ラッパポート/ケニー・デイカー/マルコム・ディクソン/マイク・エドモンズ/ショーン・コネリー
監督:テリー・ギリアム
製作総指揮:ジョージ・ハリスン/デニス・オブライエン


《あらすじ》
両親から疎外されている少年が、自分の部屋で6人の小人に出会う。少年は彼らに導かれ、魔法の地図で時空を超えた旅に出かけるのだった。シャーウッドの森からタイタニック号まで目まぐるしく変わる舞台。王やナポレオン、巨大な海坊主、悪魔から神まで登場するSFファンタジーの傑作。

《この一言》
“悪は何のためにあるの? ”




『Dr.パルナサスの鏡』の面白さを、まだ観ていないK氏に熱く語っていたら、この『バンデットQ』(原題は“Time Bandits”。邦題のQってなんです?)の話になりました。K氏はこの映画が好きで何度も観ているため、さすがによく内容を覚えているのが悔しい。というのも、私もやはりこれを何度か観ていて、面白かったという感触は強くあるものの、「えーと、最初の方のクローゼットから馬がバーンッと飛び出してくるところが面白いよね、それで暗黒のお城で鳥籠みたいなところに閉じ込められて、あとは……なんか結末が超ブラックだった記憶が…オーブンレンジが爆発して…みたいな。。。」ときわめて断片的なところしか覚えていないのです。相変わらずすさまじい忘却力に我ながら驚愕。しかしその強力な忘却力のおかげで、私は今回もまたこの映画を存分に楽しむことができたというわけです。だけど、こうもひどく忘れてしまっていちいち見返していたのでは、まだ観ていない映画も沢山あるというのに、少しも先に進めないなぁ……(ヽ´ω`)やれやれ。


さて、久々の『バンデットQ』ですが、やっぱり非常に面白かったです。ちょうど30年前の映画になりますが、映像的な古さは若干あっても、内容は色褪せません。面白い。ほんと、こんなに面白い映画をどうして私は忘れてしまうのかしら;(ま、もういいか)
ちなみにギリアム監督作品としては、うちにはこの『バンデットQ』と『未来世紀ブラジル』のDVDがあります。持ってるとすぐに観られて便利。


少年ケビンは、ある晩自分の部屋に現われた6人の小人とともに、小人たちが神様から盗んで来た不思議な地図をたよりに、時空を超えた冒険に繰り出します。ナポレオンから宝物を奪ったり、ロビン・フッドにその宝物を取上げられたり、タイタニック号が沈没したり、船で暮らす鬼の夫婦に食われそうになったり、アガメムノン王の息子になりそこねたり――。次から次へと舞台が変わるので、とても面白い。

そして、その物語の合間にはとてもイギリスらしいブラック・ジョークが盛り込まれていて愉快です。悪魔は神から世界を奪ってやろうと画策し日頃から神の悪口を言っているのですが、その内容には爆笑しましたね。「神はテクノロジーに疎い。奴はシリコン革命を知らない!」と、コンピュータの力で世界を創り直そうと悪魔は考えているんですね。で、なぜか悪魔はいつも暗黒城の狭い一室で、全面透明ビニールに覆われた椅子に座っている。ケビンの両親もまた、居間では汚れ防止なのか何なのか知りませんがビニールで覆ったソファに座る最新家電マニアとして描かれていました。いつまでもシートを剥がさないのは悪ってことなんでしょうか? あっ、私も時々家電の操作部分のフィルムを貼ったままにしてるわ! これは悪魔的行動だったのか~(/o\;)しまった~~! でも、何故~~??

悪魔がこのようにユーモラスに描かれる一方で、神もまた負けていません。詳しく書くとネタバレになるのでやめておきますが、初登場シーンが笑える! だめだ、面白い!!

このあたりは実にイギリスらしい感じですね。さすがイギリス。ブラック・ユーモアとSFドラマのレベルが高くていいですね~。

あ、あと、ショーン・コネリーがちょい役(アガメムノン王)で出てきました。ちょい役でも格好良い。両親からほとんど関心を持たれずに育ったケビンにとってはこのアガメムノンこそが理想的な親の姿であっただろうに、そこからもやはり引き離され、そしてあの結末というのはどう考えたらいいのでしょうね。この映画で分からないところがあるとすれば、何と言ってもあの結末。あれはどういうことなんだろう? 前回観た時も分からなかったけど、今回も分からないや。だが、この放り出され感が、いい。と思う。



というわけで、久しぶりに観たら、やっぱりすごく面白かったです。こうしてみると、ストーリーもシンプルながらよく出来ていて、終わりまでずっと飽きさせません。また、魅力的なキャラクターも次々に登場、全編を通して不思議で奇妙な雰囲気が満ちていて、本当に素晴らしい映画であると言えましょう(それを何故あんなにも忘れてしまえるのか、私は…うぅ;)。
やっぱ、テリー・ギリアムって面白いなぁ。よし、次は『未来世紀ブラジル』を(久々に)観ちゃうぞ!!







『Dr.パルナサスの鏡』

2011年01月13日 | 映像

2009年 イギリス/カナダ

出演:クリストファー・プラマー/リリー・コール/ヒース・レジャー/トム・ウェイツ/アンドリュー・ガーフィールド/ヴァーン・J・トロイヤー
監督:テリー・ギリアム



《あらすじ》
2007年、ロンドン。パルナサス博士が率いる旅芸人の一座が街にやって来た。博士の出し物は、人が秘かに心に隠し持つ欲望の世界を、鏡の向こうで形にしてみせる「イマジナリウム」。博士の鏡をくぐりぬけると、そこにはどんな願いも叶う摩訶不思議な迷宮が待っている。
しかし、1000歳になるという博士には、悲しい秘密があった。それは、たった独りの娘が16歳になったときには悪魔に差出す約束をしたこと。タイムリミットは三日後に迫った娘の誕生日。一座に加わった記憶喪失の青年トニーとともに、博士は、鏡の迷宮で最後の賭けに出る。彼らは娘を守ることができるのか――?





パルナサス博士は人里離れた山奥の寺院で、世界を存続させるために、終わらない物語を語り続けている。物語をやめてしまったら、世界が終わってしまうと信じて。そこへ悪魔が現われて、パルナサス博士たちの口を封じるのだが、それで世界が終わることはなかった。博士たちの行為の無意味を証明して勝ち誇ったように嘲笑う悪魔を前に、博士は言う。「そうか、やはり、そうではないかと思っていたが。…我々のほかにも居るのだ! 物語を語りつづけている誰かが……!」。

借りて来たDVDで観たために、そしてその時にメモを取らなかったために、上の引用は正確ではありませんが、私はこの場面でかなり感動したことは書いておきましょう。語られ続ける物語がある。今も、誰かが、どこかで、この世界の為に、物語を語り続けている。そう思うだけで、私の胸は一杯になり、目には涙が溢れるのです。私はこの場面で、むせび泣きたかった!! そのくらいに感激したことをいつまでも覚えておきたい。


そんな感じで当時私は激しく感激したものの、この映画を観てからもう1ヶ月ほど経ちますが、ちょっと感想を書けないでいました。できればもう一度観てから書きたかったけど、私はいまのところこのDVDを持っていないので、とりあえず思い出せるところだけでも書いておきましょうかね。

さて、この作品は、テリー・ギリアム監督作品としては、個人的には久々の衝撃的映画でした。私はこういうのが好きだ。こういうのが大変に好きだ。

映像の美しさはもちろんですが、この映画の中には、観客の心を震わせるような真からのメッセージがあったのではないかと思います。公式サイトによると、ギリアム監督は「なかなか思い通りの映画を作る予算が捻出できずにいた状況を、誰も自分の物語に聞く耳を持たなくなったパルナサス博士に重ね合わせた点で本作を“自伝的な映画”と位置づける」と書かれてありました。なるほど。「誰も自分の物語に聞く耳を持たなくなった」と思ったら、その嘆きを嘆きながら語って欲しい。とにかく諦めずに語りつづけて欲しい。多くの人が耳を貸さなくなったとしても、どこかに必ず居るはずなのです。語られ続ける物語を聞きたいと思っている人々が、語り手の心の底から発される物語を、世界を形作ってくれる物語を探し求めている人々が、どこかに、しかも大勢存在しているはずなのです。

だから諦めずに語りつづけて欲しい。そうすれば、いつか誰かが、私が、必ずそれを見つけますから。この世界のすべてを、美しさと醜さ、豊かな色彩と暗闇を、深さと広さを、幻想と現実の狭間を、この世界のすべてを語り尽くすつもりで、夢と情熱のすべてを語り尽くすつもりで、諦めずに語りつづけて欲しい。その世界を、その本当の言葉で語って欲しい。私はそういう物語を聞きたい! 私は、そういう物語を聞きたいんだ!!

聞きたがっている聞き手のもとへ、物語は必ずや届くようになっているのです。こういった美しい世界の真相への、この映画はひとつの証明になったのではないかと私は思うのでありました。ああ、ちょっと思い出しただけでひどく感情が爆発してしまいますね。面白かったなぁ!


ところで、キャストについてですが、ヒース・レジャーが急逝したために「トニー」の役を別の何人かが代役したことは聞いていましたが、ジュード・ロウには全然気がつかなかった! 不覚! 梯子をのぼっていたあの男か~。うーむ、少しも気がつかなかったぜ…。ジョニー・デップは「あ、なんか急にこの人、ジョニー・デップみたいになった!」とか思っていたら、その通りデップさんだったようです。あともうひとりコリン・ファレルが「トニー」役で出ています。レジャー氏の死は残念ですが、このめまぐるしく変化する「トニー」という役柄は、素晴らしいものでした。

あとは、パルナサス博士が素敵。侘しい、頑固そうなおじいさんなのですが、その存在が全面的にファンタスティックで素晴らしい。さすが主役!(←でも最終盤まではほとんど空気)! 悪魔と契約して、うっかり不死を手に入れてしまうあたりがご愛嬌。結末では、心温まるようでいて少し寂しいような悲しいような感じがしますが、ギリアム作品にしては相当明るい終わり方だったのではないかと思いますが、いかが。私はこの終わり方も非常に気に入りました。素晴らしいエンディングですわ!

あー、面白かったなぁ! 面白かった! やっぱりもう一度観たい。








『カナディアン・エクスプレス』

2011年01月11日 | 映像

1990 アメリカ
出演: ジーン・ハックマン/アン・アーチャー/ジェームズ・シッキング
監督: ピーター・ハイアムズ


《あらすじ》
マフィアの大物が関与した殺人現場を目撃した女性が、カナダの山荘に身を隠していることを突きとめたLAの検察官は、証人の彼女を保護しに行く。だが組織の殺し屋たちに襲撃されたふたりは大陸横断特急列車に逃げ込み…。





最初にこの映画を観たのはたしか中学生の時で、家族と映画を観に行った、2本立てのうちの1本でした。どちらかというともう1本の映画の方がメインで、この『カナディアン・エクスプレス』はおまけの抱き合わせ的なB級映画だったかと記憶しています。ところが、そのわりに『カナディアン・エクスプレス』は面白かった。「意外と面白かったな!」という当時の記憶は今も強く残っています。その後何年か前にもう一度観て、今回はたぶん3度目。物語の大筋は覚えていましたが、細かい部分については私らしくキレイサッパリ忘れてしまっていたので、このたびも楽しく観ることができました。


とにかく、列車に乗ってマフィアの追手と追いかけっこする、という映画です。あまりお金は掛かっていなさそうなところがいいですね。一番派手だったのは、冒頭附近でヘリが墜落するところでしょうか。あとはひたすら列車の通路を行き来している感じです。こう書いてしまうと、地味極まりない映画かと思われるかもしれませんが、まあその通り地味極まりなかったんですけど、でも、なんか面白いんですよねー。

それで、主演のジーン・ハックマンが結構癖のある役柄で、イライラさせられるんだ、これが。あなたがチョロチョロするもんだから、余計ピンチに追い込まれるではないの!! ちっとはじっとしてろよ! とマフィアの手下に追われ今まさに殺されかかっている女(アン・アーチャー)でなくとも言いたくなりますわ。「食堂車へ行って、ちょっと食べ物を取ってくる」とか言いつつ、結局何も取ってこないしね…(ヽ´ω`)おいこら。だが、その間抜けさがいい(たぶんシナリオ的に)。

K氏と一緒に観ていて、「これってさー、最初のところで自動車を乗り捨てて列車に乗り込むふりをして、土壇場で列車から降りて再び自動車に乗って近くの街まで行った方が、よくない?」と、映画の前提をすべて否定するような意見を言い合ったのですが、でも、まあ、自動車で逃げたとしても、どのみちピンチになったんだろうな。スパイがいたのではなー(あ、ネタバレ)。そう考えると意外と穴のない綿密なシナリオだったんですね。あっさりしたエンディングも最高です。


物語はスイスイとテンポ良く進んでいきますし、無意味なロマンスやお色気シーンもなく、地味ながら意外性に満ちた展開もあり、なかなかの良作ではないかと! 10年くらい経ったら、細部を忘れてしまってまた観そうな予感。

今回少し調べてみたところによると、この映画は『その女を殺せ』(1952)という映画のリメイクなんだそうで、元の作品は評判の名作らしいです。なんと、それは一度観てみたいですね。


今年こそ、もうちょっとたくさん映画を観たいな!









『ロビン・フッド』

2011年01月03日 | 映像


キャスト: ラッセル・クロウ、ケイト・ブランシェット、ウィリアム・ハート
監督:リドリー・スコット

《あらすじ》
中世英国の伝説上の義賊ロビン・フッドの闘いを描いた歴史活劇。12世紀末、十字軍の兵士としてフランスで戦っていたロビンは、帰国途上でスパイの急襲に遭い致命傷を負った英国の騎士ロクスリーから「家宝の剣を故郷に持ち帰って欲しい」という遺言を受ける。そこで仲間とともに、彼の父親が領主を務めるノッティンガムを訪れたロビンだったが、自らを受け入れてくれたロクスリー家で自分の出自を知り、王に蜂起しようとする地方貴族と団結、英国侵略を目論むフランスの陰謀に巻き込まれていく。




父がしきりに「『ロビン・フッド』を観に行こうや」と言うので、「えー、エンタメか…そういう気分でもないけど、観せてもらえるんならいいかな」と正月早々卑しい心を発揮して、連れて行ってもらいました。そういう感じで私は当初あまりこの映画には期待していなかったのですが、観てみたら、お、面白かったYO!(^o^;) 舐めててごめんね、スコット監督。


というわけで、以下、ネタばれ御免で感想を。これから観るおつもりの方はご注意ください。

まずは良かったところから。


*物語の進行するテンポがいい。メリハリがあり、非常にスムーズ。
*主演のラッセル・クロウが格好いい。
*エンドロールのアニメーションが素晴らしい。

というところですかね。

物語のテンポが良いというのは大事ですよね。2時間しかないんだから要点だけでいい。でも、さすがに端折り過ぎで、ところどころ「え?」という箇所はありましたけれども。まあだいたい理解できた。ご都合主義的展開なのはよろしい。また、マリアン(ケイト・ブランシェット)とのロマンスもあっさり風味に描かれていて好感。
ところで、私はこの映画を観て、帰宅し、風呂に入るまで「ロビン・フッド」と「ウィリアム・テル」を混同しておりました。「子供の頭に乗っけたリンゴを射る場面がなかったなぁ…これはその事件の前を描いた物語だったんだなぁ、きっと」と思っていましたが、別人でしたわ!(風呂場で気がついた!) はは! 単に「弓の名手つながり」というだけでした。そうか、ロビン・フッドは伝説の義賊なんですね…(恥;)。

ストーリーに関しては、ちょっと考えたい点があります。「王の圧政に苦しむ民を救うヒーローの物語」。それはいいのですが、なにか引っかかる。

ロビン・フッドは、幼いころに自分を捨てたと思っていた石工の父が実は「民の平等と自由」を叫び多くの人から支持されそのために処刑されたことを、運命の導きによって出会ったロクスリー卿から聞かされます。そしてロビンは父の遺志を受け継ぎ、ふたたび「平等と自由」を叫び、ロクスリー卿をはじめとする北部の貴族たちと結束するという流れ。

物語では、獅子心王リチャードが戦死したあとに王となった弟ジョンが、その尊大さと愚かさ、卑劣さのために徹底的に馬鹿にされた描かれ方をします。まったくもうひどい男なんですね、このジョン王は。なのでジョン王による苛酷な税の取り立てに苦しむ地方の貴族たちも蜂起したくなるというものですよ。トップがアホだと、国が滅びますからね。税を取るなら、それなりの見返りを寄こせというわけです。ここではその見返りとして「自由と平等」を求めていました。

ここにまず引っかかる。どうしてあの貴族たちは本気で王に刃向かうことができなかったのか。すぐ目の前まで接近したあの時に、しかもその直前までは王に対して蜂起する気満々だったのに、そこで刺し殺してしまえばよかったじゃん! と私などは思うわけですが(←我ながらひどい!)、そうはしなかった。なぜだろう? あの時代がどういう時代だったのか私はよく知りませんが、前王リチャードなんかは十字軍遠征なぞをやらかし、遠くの地でまで虐殺の限りを尽くしていたのに、そして民衆や兵士、騎士に至ってさえ物のようにその死も軽く扱われているようなのに、アホでもカスでもジョン王が王であるからにはわずかばかりの忠誠心が働いてしまったのでしょうか。うーむ。いずれにせよ、このときちょうど攻めてこようとしていたフランス軍に団結して立ち向かってくれれば、民衆に「自由と平等を約束する」というジョン王の口車に乗せられてしまう貴族の方々は、あまりにも信じやすく純朴すぎるというほかはありませんね。

もうひとつ引っかかるのは、その純朴な北部の貴族の面々が、実はロビンの父親の代から、その「自由・平等」思想を支持していたという点。ロビンとその父親は平民だから、圧政を強いてくる支配者に反抗するのはよく分かる。人間は平等だと思いたい彼らの気持ちを理解できる。しかし、かりにも貴族階級にあるものがいかに純朴な人柄であるとはいえ、自分の階級を危なくするそんな思想に賛同できるだろうか? そんな聖人のような領主さまがいますかね? 昔はいたのかしら。いたらいいなぁ、という伝説ならあるかな。そういうことなのかな。うん、そうかもしれない。物語は、あり得ないけれどそうあってほしいことを描けばいいんだ。それでいいんだ。そう考えれば、結末のあのひとつの小さくもあたたかいユートピア的集落の完成は納得できる。貴族も平民もない、富の不平等もない、そういう社会。これは理解できるかな。

しかし、それをそのように理解したうえでなお引っかかるのは、今、ここで、このテーマがこんな風に映画で描かれることの意味です。現代の、この時点において、「圧政から民衆を救うヒーロー」が一定の説得力を持って語られてしまうことに、私はとても引っかかりを感じてしまいました。「ああ、かつては我々にもこんな苦しい時代があったものだなぁ!」とか「こうした過去の偉大な人々のおかげで我々は自由と平等を手に入れられたんだなぁ!」という気持ちでは全然ないんですよ。むしろ、「この物語は12世紀、今我々は21世紀に生きていて、いまだにほんとうの自由も平等も知らないのではないか…」。こういう気持ちがして仕方がないのです。あの牧歌的で平和な美しい結末も、違って見えてくるような気もする。私だけでしょうか。私がネガティブなだけでしょうか。見せかけの自由や平等はあるように思えても、すっかり自由で平等かというとそうではないのではないだろうか。

希望に満ちているように見えたあの結末ですが、人間は結局これまでその思想を実現するには至っておらないのかという悲壮感さえ覚えてしまいますが、そういえば、この映画のテーマは「けっして諦めるな」ということでありました。おっと、うまくできてるぜ!!



次に二つ目の良いところ、ラッセル・クロウがかっこいい件について。この作品では、ラッセル・クロウ氏が非常に魅力的なカリスマとしてのロビン・フッドを見事に演じているわけですが、ちょっと格好良すぎるんですよ。そしてちょっと正し過ぎる。寡黙で実直、控えめな態度、でもときどき驚くほど図々しくて大胆。恋愛には少し奥手なところもあり。という完全無欠の超人でした。うっかりするとクマさんのようなクロウ氏ですが、あんまり格好いいので惚れそうになりました。恐ろしいな!


三つ目の良いところ、エンドロールのアニメーション。映画の場面をいくつか切り取って、油彩で塗りつけたような荒々しくハッキリとした色彩のダイナミックなアニメーションが流れていきました。スピード感が素晴らしく、物語がすべて終わった後にも劇中のワクワク感を新たに甦らせる効果がありましたね。これは素晴らしかった!


あっ、もうひとつ良かったところというか、面白かったところがありました。それは、フランス軍がスパイを活用して内部対立をあおり、その隙をついてうまうまとイギリスに攻め込もうと大船団でやってくる場面。当たり前と言えば当たり前なのですが、この時代の船はみな手漕ぎ! 手漕ぎですよ!! ドーバー海峡を渡ってきたの? あそこはたしかにそれほどの距離は無いらしいけど、それにしてもがんばり過ぎ!

フランスの王様なんか、あんなにずる賢くて、あんなに権勢を誇っていそうなのに、手漕ぎの船でやってくるよりほかになかったんですね。もちろん、王様自身は漕いだりしませんけれども、手漕ぎの船で一生懸命海を渡ってきたのに、あっさり沿岸部で撃退されてしまうなんて、ちょっと気の毒ですわね。なぜだか私はそこがツボでした。面白くてたまらなかった。テクノロジーの進歩って素晴らしいですよね! よかった、人類にもちゃんと進歩があるよ!
…しかし、その技術的進歩のおかげで戦争のあり方もまた高度化してしまっているんだろうなぁ。ひとりが別のひとりを素手で、手に持った武器で滅ぼしていたところからは違った段階で我々はまだ滅ぼしあうんだ。いかん、また暗くなってきた。エンターテイメント映画でここまで暗くなれる私って、正月早々いったい何なんですかね? 暗くなってる場合じゃないんだぜ! 一説によると、我々の住むこの銀河は、あと20億年ほどでお隣のアンドロメダ銀河と衝突しはじめるらしいですよ。くだらんいがみ合いをしている場合じゃないんですよ。はやく技術をもっと進めて対策を講じないと、人類はすっかり滅んじまいますぜ! さあ! さあ!


最後は宇宙の話を持ち出して、我ながら何が何やらという感想文になってしまいましたが、『ロビン・フッド』はなかなか面白い映画でありました!







『マッド・シティ』

2010年12月16日 | 映像


1997年 アメリカ
監督:コスタ=ガブラス
出演:ダスティン・ホフマン ジョン・トラボルタ


《あらすじ》
そのTVスクープは、残酷な事件へのプロローグ。ダスティン・ホフマン、ジョン・トラボルタ競演。 メディアの真実に迫る、衝撃の問題作。

地方局で取材記者を務めるマックス・ブラケットは、キー局への返り咲きを狙ってた。ある日、アシスタントを連れて自然博物館へ取材に出向き、そこで人質事件に巻き込まれる。犯人は、博物館の元警備員サム・ベイリー。経費削減のために解雇された彼は、再就職を頼みに館長に会いに来たのだが、つい興奮して発砲してしまったのだ…。ニュース記者と銃撃犯の運命的な出会いは、やがて全米が注目する取り返しのつかない事件へと発展していく。現代社会の狂気を描いた衝撃作。






コスタ=ガブラスは怒っている。

コスタ=ガブラスの作品の中では、誰も救われないし、誰も許されない。ガブラス先生の厳しい非難は現代社会を生きる我々全てに向けて激しく炸裂するのであった。一緒に観ていたK氏はしばらく無口になりました。私もまた……


さて、『Z』『ミッシング』に続いて、この『マッド・シティ』を観てみました。ガブラス監督作品としては、この映画が現時点ではもっとも入手しやすく、また気軽にレンタルすることもできるようです。そういうわけでちょっと借りてきた。でもやっぱり持っていてもいい作品だな。今度買おう。
ちなみに私は傑作『Z』については過去に記事を書きましたが、『告白』『戒厳令』は持っているけどまだ観ておらず、『ミッシング』については観たけど記事を書けませんでした。けっこう辛かったので。そのうちちゃんとまとめておきたいと思うものの、見直す勇気が涌いて来ない…(/o\;) ぐさーっと刺さるのは『Z』も同様でしたが、『ミッシング』も刺さりましたね。あの場面のジャック・レモンの顔が忘れられないぜ……。後味の悪さということでは、この人の映画はなかなか安定感があります。観終わると、私などはとにかく謝りたくなるのです。無能で無責任な大衆として生きていてスミマセン! みたいな……


『マッド・シティ』は私が既に観た2作品と比べると、ややソフトな仕上がりになっていた気がします。ガブラス先生の攻撃力が若干低めに抑えられているような感触がありました。しかしやはり観賞後、無闇に謝罪したくなるところは変わりませんでした。

この映画はダスティン・ホフマンとジョン・トラボルタという2大スターの競演ということもあり、しかもパッケージのデザインもなんだか痛快アクションみたいな構図に見えなくもないので、うっかりするといわゆる娯楽映画として観るつもりになる人もいるかもしれません。

しかし、だとしたら、危険!

いえ、実際この映画にはガブラス作品らしいテンポの良い展開と巧みな構成による痺れるような格好よさがありますし、また軽妙なユーモアもそこここに盛り込まれてもいますが、それだけでは終わりません。これはかなりシリアスな社会派ドラマであり、ここでは登場人物の全員が(主役も脇役もその他大勢も全て)一様に非難されているし、もう一歩進んで、これは映画でありながら、それをただ面白可笑しく鑑賞しようとする観客の態度そのものまで批判されているような気持ちになる映画なのです。

ガブラス先生は全てを批判する。私を、あなたを、現代社会を歪んだままにしておく全ての人間を批判します。権力者も、ただの一般民衆も、誰もその批判の矛先から逃れることはできません。もちろん中には正義の人も登場しますが、彼らもまたその無力さのために結局は滅んでしまうのです。さあ、どうする? さあ、どうするんだ? 何にも考えないで、いつもどこかで誰かが苦しんでいるのに、その脇で自分さえよければいいのか? 人は誰だって生きる為に必死で、自分の利益になることだけしていたいし、当面自分には関係なさそうな問題からは目を背けたくなったって仕方がないさ。しかし、今、お前がピンチに陥ったぞ。さあ、どうする? 誰が悪いんだ? 私か? お前か? そうだ、私が悪いんだ、あいつも悪いんだ、お前だって悪かったんだ。皆がこんなふうに放っておいたんだ! どうするんだ? 今頃になって泣きわめくのか? なぜだ、なんでこの世の中はこんなふうになってしまったと思っているのだ! そんなふうにしておいたのは、我々自身だというのに……。


地方のテレビ局の取材記者マックス(ダスティン・ホフマン)は、新米助手と共に取材に出向いた自然博物館で思わぬ事件に遭遇する。銃を持った男が、館長と見学に訪れていた子供たちを人質にとって立てこもり、しかも事故的に発射された銃弾で、警備員がひとり負傷してしまった。これをスクープできれば、自分も再び全国ネットワークへと帰ることができるぞ、と考えるマックスは、事件が大きくなってしまったことに動揺する犯人、この博物館の元警備員である男サム(ジョン・トラボルタ)と交渉を開始するのであった。

マックスは最初は自分の出世のために事件を利用しようと考えるものの、次第に自分ではそのつもりもなく犯人となってしまったサムに同情し、なんとか報道の力によって世間の同情を買い、サムの罪を軽くしてやれないものだろうかと考えるようになる。元々マックスにはそのような人道を重く見る性質があり、地方局に左遷されたのもそもそもはそれが原因でもあったのだ。マックスは「立てこもり犯のインタビュー生中継」を企画し、サムがごく普通の男であること、家族を愛し子供が二人いること、だから人質の子供たちにも親切にしていること、事件を起こしたのは不運に見舞われてやむなくのことであったということなどを伝え、世間の同情がサムに集まってきたかにみえたが……

立てこもり現場である博物館前では、なぜか群衆がお祭り騒ぎを始めたり(いつの間にか屋台とか出てるし;)、警察の人間までがこの事件を出世のえさにしようと考えたり、報道関係者にいたっては、捏造、やらせ、不法侵入、なんでもありで、とにかく自局の視聴率を上げる為に手段を選ばず報道し、民衆を煽ります。現在でもよく見られるこのような光景が、映画の中でも露骨に繰り広げられます。


答えは用意されていません。だから、この映画を観ても、スッキリするなんてことはなさそうです。しかし、胸に突き刺さるものがあることを、確かに感じるでしょう。この刺さったものを、どうするか。考えたってどうせ自分にはどうにも出来ないから、突き刺さっているもののことなんて忘れてしまうか? それとも、どうせ何にもならなくとも、とりあえず何らかを考えてみるか? さあ、どうする? どうする? さあ、どうしよう。どうしたらいいんだ!