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『モロー博士の島』

2010年09月21日 | 読書日記ー英米

H.G.ウェルズ作 橋本槙矩・鈴木万里訳(岩波文庫)



《あらすじ》
南米の海域で難破し漂流していたプレンディックは、運良くモントゴメリという男に助けられる。しかし彼について上陸した島では、奇妙な人々が歩き回っており、その島の主であるモロー博士にはなにやら重大な秘密があるらしく……。


《この一文》
“「そのとおり。しかしわしの考え方は他の人たちと違うのだ。君は物質主義者だろうが」
 「私は物質主義者なんかではありません」私はかっとして反論した。
 「わしの目にはそう見える。我々の意見が分かれるのはこの苦痛という問題点だ。目に見える、あるいは耳に聞こえる苦痛というものが君の胸を締めつける限り、あるいは自分の苦痛に左右される限り、苦痛と罪を結びつけて考える限り、君自身が動物がどう感じるか分かったつもりの動物なんだ。この苦痛というものは……」 ”



 


このあいだ読んだビオイ=カサレスの『脱獄計画』の解説に『モロー博士の島』の影響が云々と書いてあったので、ちょうど書棚にこの本を発見したこともあって(持っていることを知らなかった;)読んでみました。この岩波文庫には他に9篇の作品が収録されていますが、今回は飛ばし。そのうち読もう。


というわけで、「モロー博士の島」です。とても有名なお話ですが、私は初めて読みました。読み始めるとたしかに『脱獄計画』との類似があちらこちらに確認できました。なるほど、「モロー博士の島」を念頭に置くと、『脱獄計画』の構造はまたさらに奥行きを増しますね。これは面白いな。両者をじっくりと読み比べるのも面白そうですが、まずは「モロー博士の島」に集中して読んでいくことにしました。

最後まで読んでみて思うことには、このウェルズという人は、なにかこの世で嫌な目にでもあったんですかね…。いえ、他の作品をいくつか読んだことがあったから知ってたけど、なにこの薄暗い世界観は。皮肉がきついのはイギリス人だからなのでしょうか。いずれにせよ、この「モロー博士の島」の暗く痛ましい雰囲気は、ものすごく私の好みにフィットします。実に面白い。

 *****

主人公のプレンディックは難破、漂流し、モントゴメリという医術の心得がある男に救助され、彼の目的地であった絶海の孤島にともに上陸し、そこで奇妙に動物めいた人々を目撃する。モントゴメリはその島の主であるモロー博士の助手であり、博士はかつて非人道的な動物実験のスキャンダルで英国を追われた著名な科学者であった。今この島で博士はさまざまな動物を改造し、人間を造り出そうとしていたのだ。

 *****


物語はプレンディックが孤島で奇妙な体験をして、その後ふたたび英国へ帰ってくるまでを勢い良く描いています。迫力ある描写に、ハラハラしながら読むことができました。不気味な孤島で、マッドな科学者の秘密の実験、その実験体との奇妙な交流、次々に襲ってくる危機。冒頭でプレンディックが最終的には英国に帰ることは明かされているので、この人が死ぬことはないと思いつつも、恐ろしいことが次から次へと起こるので、なかなかドキドキしました。

また、ここで巻き起こる事件それ自体よりも恐ろしかったのは、この島で行われている博士の実験は実際とても奇妙で嫌悪すべきものであるのに、狂気に取り憑かれているはずの博士自身はなぜかそれほどには狂っているように見えないということでしょうか。たしかに博士の行動は常軌を逸していますが、博士は博士なりの信念や理想に基づいて突き進んでいて、そのような人物に対してどうやって倫理を説くのか、そもそもこちらの倫理観そのものを厳しく問われているような気持ちになります。
たとえば博士のように動物を人間に、なんてことでなくても、技術的に可能であるが倫理的にはきわどい行動があるとして、「技術的に可能」である行為を「倫理」でもって抑制することはできるのか。揺らいでくる、あやふやさが恐ろしい。


いくつもの事件が派手に展開した後でプレンディックはどうにか英国に帰り着きますが、そこからの彼の心情の変化がこの物語のキモのひとつと言えましょう。私にはここが一番面白かったですね。

モロー博士は改造した動物たちに暗示をかけ、いくつもの掟で縛り、人間として生きるように仕向けますが、いずれも次第にもとの獣に戻っていってしまうことに絶望しています。
プレンディックは英国に帰って、もとの人間の世界に戻るわけですが、街ゆく人々の顔の奥底にはやはり獣の姿が隠されているのではないかという妄想に悩まされるのでした。

人間を人間にしているのは何なのか。それが理性と呼ぶものだとして、理性とは何なのか。どういうものであるのか。分からなくて恐ろしい。
最後に示された一文に、私はいくぶん無力感を覚えながら、賛同せざるをえないのでありました。


 私はふと思うのだ。人間の理性の根源は日々の気苦労や罪
 の中にではなく、宇宙の広大な法則の中にこそ求められる
 べきではないかと。








『二壜の調味料』

2010年03月01日 | 読書日記ー英米

ロード・ダンセイニ 小林晋 訳(早川書房)




《あらすじ》
調味料のセールスをしているスメザーズが、ふとしたことから同居することになった青年リンリーは、ずばぬけて明晰な頭脳の持ち主だった。彼は警察の依頼で難事件の調査をはじめ、スメザーズは助手役を務めることに。数々の怪事件の真相を、リンリーは優れた思考能力で解き明かしていくのだった――江戸川乱歩が「奇妙な味」の代表作として絶賛したきわめて異様な余韻を残す表題作など、探偵リンリーが活躍するシリーズ短篇9篇を含む全26篇を収録。
アイルランドの巨匠によるブラックユーモアとツイストにあふれたミステリ短篇集、待望の邦訳!

《この一文》
“ わたくしのことを覚えていらっしゃるかどうか。リンリーさんに関するお話を一つ二つ披露した者です。名前はスメザーズです。素晴らしい頭脳の持ち主リンリーさんのことは記憶にとどめておく価値がありますが、わたくしのことは覚えていらっしゃらないでしょう。それでも多くのお宅にお邪魔したことはあるのですよ。覚えている方もいらっしゃるかもしれませんが、わたくしはナムヌモのセールスをやっています。
 ――「二人の暗殺者」より ”



ロード・ダンセイニと言えば、『ペガーナの神々』『妖精族のむすめ』などなど、古典ファンタジーの大物です。…と、まだよく知らないくせに言ってみる; でも有名人なのは間違いありません。『魔法使いの弟子』なら、私も読んだことがありました。そのダンセイニによるミステリ……。それはいったいどういうものなのか、私はまったく見当がつかず、興味津々だったので、古書店にて定価の半額で売られている本書を見つけた時、一瞬の迷いもなく購入しました。そしてこの判断は正しく、この本は大当たりでした。


さて、有名なのは表題作の「二壜の調味料」とのこと。どうやらシリーズ物であるらしく、これはその第1作目。主な登場人物は、調味料ナムヌモのセールスをしているスメザーズ、その同居人でオクスフォード大学を出たばかりの頭脳明晰な青年リンリー、それからリンリーの頭脳を頼りにしてときどき尋ねてくるスコットランド・ヤードのアルトン警部。

というわけで、私は早速読んでみましたが、これは、なるほど、「奇妙な味」です。どこがどのように奇妙なのか、ここで書いてしまっては詰まらないので実際に読んでみてくださいとしか申し上げようもありませんが、しかし、ともかく、なるほど奇妙な感じなのです。これは…ミステリなの…か? いや、事件があり、推理があり、解決があるからには確かにミステリなのですけれども、すっきりするようなしないような感じが独特の読み応えです。

私はひとまずスメザーズとリンリーのシリーズ9篇を読み終えましたが、好き嫌いで判断するならば、これは非常に好きな種類のお話であったと言えます。表題作を読み終えた段階で、すでにかなり興奮しました。物語は一貫してスメザーズの視点によって語られるという形式をとっていますが、その語り口が非常に魅力的です。スメザーズとリンリーとの間の一定の距離を保ちつつも品よく深まって行く信頼関係のようなものも、実にうまく語られています。これは面白い。やたら面白い。スメザーズという人物の造形がすごくいい。


シリーズ以外の短篇も半分くらいは読みましたが、いずれもじわじわと面白みが伝わってくるような作品ばかりで、なかなか楽しめそうです。ただ収録作品数が多いので、一息で読んでしまうよりも、少しずつ読み進めるのが良さそうです。嬉しいことですね。

ダンセイニという人について、私はまだよく知らなかったのですが、それにしても、こんなに引き出しの多い人であることが分かったのは良かったです。その他のファンタジー作品も、いよいよ読んでみたくなりました。





『肩胛骨は翼のなごり』

2010年01月15日 | 読書日記ー英米

デイヴィッド・アーモンド 山田順子訳
(創元推理文庫)


《あらすじ》
引っ越してきたばかりの家。古びたガレージの茶箱のうしろの暗い陰に、ぼくは彼をみつけた。ほこりまみれでやせおとろえ、髪や肩にはアオバエの死骸が散らばっている。「なにが望みだ?」しわがれきしんだ声。アスピリンやテイクアウトの中国料理、アオバエや蜘蛛の死骸を食べ、ブラウンエールを飲む。フクロウたちが彼に餌を運ぶ。誰も知らない不可思議な存在。彼はいったい何? ぼくは隣に住む変わり者の少女ミナと一緒に彼をかくまうが……
命の不思議と生の喜びに満ちた、素晴らしい物語。カーネギー賞、ウイットブレット賞受賞の傑作。

《この一文》
“「進化に終わりはない」ミナはいった。そしてすっと膝を進め、ぼくのそばに寄ってきた。「あたしたちは前進する覚悟をしなければならない。でもそれは、あたしたちが永久に存在するということを意味するわけではない」 ”




「きっとこうなるだろう」「こうなればいい」と思いながら読んでいって、実際にその通りの結末を迎えましたが、そこには意外性がなかったかと言えば大ありで、予想通りの物語の中には、それ以上のものが込められていました。実に感動的な物語です。

主人公の少年マイケルは、引越し先の庭にある崩れかけたガレージの奥に、不可思議な人物を見つけます。よぼよぼで、薄汚れた、不可思議なその人物は、ぼろぼろの黒いスーツを着ているが、背中のあたりには膨らみがある。

と、このあたりで私はガルシア=マルケスの「大きな翼のある、ひどく年取った男」を連想しましたが、あとがきの訳者による解説にも、作者のガルシア=マルケスなどとの影響関係についてちらっと言及されていました。ガルシア=マルケスのこの短篇は、かつて私を、その当時の私にとってはあまりにも奇妙で不思議で濃密な世界観によって激しく驚愕させたものでしたが、この『肩胛骨は翼のなごり』は、同じような題材を扱い、同じように奇妙で不可思議な世界を描いてはいますが、もっと透明で、もっと優しく、もっと読みやすかったです。もともとはこれが児童文学として書かれたものだからかもしれません。飛ぶような勢いで読めました。

マイケルの生まれたばかりの妹は具合が悪く、新しい家の片付けもあって、お父さんもお母さんもイライラしている。入院してしまった赤ちゃんが心配で、家族が疲れてしまう。そして、その家のガレージには、翼のある男がいて。

物語はもちろん、不思議な出来事が起こったりして、ハッピーエンドを迎えます。それ自体には目新しさはありません。しかし、そこへ至るまでのマイケルの心情が、さっぱりと、かつ丁寧に描かれているので、読者は彼の心がたしかに成長していくのを目の当たりにできるのでした。そしてこのマイケルの成長の仕方が、このバランスの取り方が、なんだかとても良いのです。私はけっこう感動してしまった。

マイケルは、生きることの悲しみ、残酷さ、醜さについて知りながら、同時に生きていることの喜び、優しさ、美しさを認めていきます。ああ、私にはうまく説明できないですが、この物語の中では、こういうことが、もっと印象的に、もっとよく分かる感じに書かれてあるのです。すべてを同時に成立させることはできるんだ、というような。残酷さも優しさも、ただ、見る位置の違いからくる同じもののことなんだ、というような。


「言葉がとても美しくて」と、私は友人から聞いていたのですが、たしかに言葉がとても美しいです。透き通るような。穏やかに満ちてくるような。胸がいっぱいになるお話でした。






『ジーヴズの事件簿』

2009年08月27日 | 読書日記ー英米

P・G・ウッドハウス 岩永正勝・小山太一編訳
(「P・G・ウッドハウス全集1」文芸春秋)



《内容》
いかなるトラブルも瞬時に解決。適切な服を選ぶのも二日酔いの特効薬もお手の物。それが世界に名だたる天才執事ジーヴズである。気のいい粗忽な若主人バーティを襲う難題を奇策の数々で見事切り抜けてみせる活躍、よりぬきの全12篇に加え、名コンビ誕生の原型となった短編を収録。

《この一文》
“不注意にもドアが半開きのままで、二歩と進まないうちにジーヴズの言葉が僕の鼓膜を直撃した。
「すぐに分かるだろう。ミスター・ウースターは」ジーヴズは代わりの男に言っていた。「とても明るく優しい方だが、知性はゼロ。頭脳皆無。精神的には取るに足らない――全く取るに足らん」
 うむ、いったい何ということだ!
 本来ならば、すぐさま飛び込んで頭ごなしに叱り飛ばしてやるところだろう。が、ジーヴズを怒鳴りつけて思い知らせてやれる人間なんているのだろうか。僕としては、そんなことをする気持ちにもならなかった。帽子とステッキを角ばった声で命じて外に飛び出しただけだ。
  ――「ジーヴズとグロソップ一家」より ”





ジーヴズものには以前から興味があったのですが、なかなか手に取るまでには至らず、月日はただ過ぎてしまったのですが、先日とうとう読みました。

イギリスのユーモア小説として名高い、若主人バーティとその執事ジーヴズが登場するP・G・ウッドハウスによる一連の作品。今回私は短編集を読んでみたわけですが、なるほど面白い。これは毎晩ひとつずつ読みたくなるような感じのものですね。

とにかく、気さくでいい奴なんだけれど、ふらふらと遊び歩き落ち着きはなく、あまり利口とは言いがたい貴族階級の若主人バーティと、優れた知性と品格でもって彼を完璧にサポート、というよりも完全に主導権を握り主人を思うがままに誘導する執事のジーヴズ。多分、彼らの主従関係が時に逆転してみえるところが、このシリーズの面白さのひとつかと思われます。

この短編集に収められた作品では、物語は主にバーティによって語られますが、このバーティという人物はいかにもイギリス的に間抜けな人物として描かれているので楽しめます。自分でもちょっと知性が足りないかな…と自覚しているんですね。なので、どうしてもジーヴズに反抗できない。時々意地を張って反抗してみても、必ず完敗する…。しかしそんなバーティですが、優秀なジーヴズがいるおかげで何不自由なく快適に暮らしていけることは理解しているので、あっさり敗北を認めます。そのさっぱり感が好ましい。

そして問題の執事ジーヴズですが、初めて読んだとき、私はこの人があまり物語の前面には登場せず、事件の始まりと終わりの方でちょろっとしか出てこないことに驚きました。もうちょっと派手に活躍するんだと思っていたのです。正直、はじめの2作品くらいは、そのためにちょっと退屈かなと思いましたが、でもその控えめさこそがいいんだということは3作品目くらいに差し掛かるところで私にも分かってきました。何しろ彼は執事なのです。影で静かに動き回り、主人をサポートするのが役目なのです。たしかにこんな執事がいたら、快適に暮らせそうです。

あまり表に出てこないジーヴズですが、この作品集には1編だけ、ジーヴズの視点で語られる作品があって、これが新鮮で楽しく読めました。ジーヴズがどうしていちいちバーティの結婚話を妨害するのかがようやく分かった……! そうだったのか、なるほど。奥さまなんかがいたら、いいようにバーティを操ることができなくなりますものね。快適な独身者の共同生活が台無しです。にしても、ほんと思うがままにバーティを操っているなぁ。派手な格好が嫌いで、そのことで主人とやり合うジーヴズは、なんか可愛い。対立の原因となった目にするのも嫌な主人の派手な靴下やスパッツを、バーティが自らの過ちを認めて謝ってくるのを見越してさっさと処分してしまっているあたりがもうたまりません。


さて、私がここで一番面白いと思ったのは「トゥイング騒動記」というお話。
バーティの親友ビンゴがアホで面白い。このお話に関しては、本当に声を上げて笑ってしまいました。ビンゴという男は極端に惚れっぽくて、毎度そのことでトラブルを持ち込むやっかいな友人なのですが、どこか憎めない人物です。恋の障害に立ち塞がれる度に、バーティにすがり(←もちろんジーヴズの頭脳をあてにして)、うまく立ち回ろうとします。大概は努力の甲斐もなく振られてしまいますが、立ち直りのはやさだけは一級品です。
ビンゴが女の子のハートを射止めようとして企画したお芝居【やったぜ、トゥイング!】に爆笑です。いやー、ほんとバカだな、この人。



というわけで、結構楽しかったので、他の作品もぜひ読んでみたいところ。
勝田文さんがジーヴズを漫画化してらっしゃるので、そちらもいよいよ読んでみたい。勝田さんの作風はすごくジーヴズものに合うと思います! 楽しみ!

やっぱユーモアって大切だよなー。うんうん。





『ファーザーランド』

2009年07月31日 | 読書日記ー英米


ロバート・ハリス 後藤安彦訳
(文春文庫)


《あらすじ》
ベルリン、1964年。ヒトラー総裁75歳の誕生祝賀行事を一週間後に控え、ジョゼフ・F・ケネディ米大統領がデタント交渉に訪れようという冬の朝、老人の死体が湖畔で発見された。男は古参のナチ党員で………第二次世界大戦勝利から20年、ヨーロッパ全土を支配下におさめる大ナチ帝国を舞台に展開される気宇壮大な政治ミステリー。


《この一文》
“過去のことも、自分の属している世界のことも、自分自身のことも、何もかもまったく知らないで、自分の人生を生きるとは、ひどく滑稽なことだと、マルヒはそのあとで思った。それでいて、そんな生き方をするのはじつにたやすいのだ! ”




同じ人による『アルハンゲリスクの亡霊』という上下巻の小説を、以前読んだのですが、こちらの『ファーザーランド』もなかなか面白かった。とてもドラマチック。もしもドイツが第二次大戦で勝利していたら――という設定に興味津々だった私は、いつか読んでみたいと思っていたのです。

かつてUボートの乗組員であり、現在はベルリン刑事警察の捜査官、大隊指揮官のマルヒは、有能だがやや反抗的傾向がありゲシュタポから目をつけられている40歳代の男前という設定です。そして、無能だが実直で信頼できる友人でもある同僚。跳ねっ返りの若い美貌のアメリカ人女性記者。マルヒの行く先々に現れる親衛隊。マルヒの離婚した妻とその息子。そして湖畔で見つかった老人の死体。事件を追ううちに、隠されていた壮大な秘密が明らかになり、マルヒもその周囲の人々の運命も激流の中に飲み込まれていく……というお話です。典型的な政治サスペンスという感じ。

もしドイツが第二次大戦で勝っていたら――という設定ですが、私はそれを楽しみにしていたはずでしたが、読んでみた感触では、なぜその設定が必要だったのかいまいち分かりません。いや、物語はハラハラさせられるし、ものすごく盛り上がって面白いのですが、架空のドイツを舞台にしなければならなかった理由はあまり感じられないよなーと思ってしまいます。もちろん、私が歴史に疎いせいもありますが。実在の人物が多く登場するので、詳しい人が読めばもっとすっごく楽しめたのかも。しまった。私にはまだ早かったのか……。
それから、アルハンゲリスクの時のスターリンの描き方が迫力あって強烈だったので(あまり出てこないけど)、今回もインパクトのあるヒトラー像を期待していたのですがねー。(以下の一文→ネタバレ注意!)ヒトラーは出てこなかったよ(/o\;)


でも、とりあえずある種の閉塞空間で、自分の生きる環境に疑問を抱き、別の人生の可能性を考えたりするひとりの人間の物語としては面白かったです。

『アルハンゲリスクの亡霊』でもそうだった気がしますが、この作者は巨大な謎と秘密をめぐって複雑に錯綜する人間関係を描くのがうまいようです。緊迫感があります。また、謎が謎を呼び、最後まで事態が二転三転して、真相や事件の顛末を予測できません。クライマックスでは本当に気が抜けませんでした。

たまにはこういうのも面白いものですね。政治サスペンスとかミステリーとか、私は映画ではたまに観たりするのですがね。『ボーン・アイデンティティ』以下のシリーズも面白かったし。
小説では、このジャンルの名作と言えば、ほかには何があるのでしょうか。トム・クランシーとか? ジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』なんかも結構面白かったんですけどねー。あとは何でしょう。おすすめとかあれば、どうか教えてくださいませ!




ジェラルド・カーシュ 3つの短篇

2009年02月15日 | 読書日記ー英米

ジュディス・メリル編 吉田誠一訳(創元推理文庫)



*「不安全金庫」(『年刊SF傑作選3』所収)
*「カシェルとの契約」(『年刊SF傑作選4』所収)
*「遠からぬところ」(『年刊SF傑作選6』所収)

《この一文》
“ひょっとすると、ぼくの仲間のうち一人ぐらいは、平和と静けさが訪れるまで生きのびられるかもしれない。平和な時代など、ぼくは知らない。だが、いつかそういう時代がやってきて、だれかがこんなことを言うかもしれない――「子供らよ。当時われわれは手榴弾を投げ合っていたのだ、今おまえたちがボールを投げ合っているようにね。そのころ、マーティンという少年がいて、勇敢に戦い……」
 そうなるかもしれない。そうなってほしいものだ。人がほんとうに存在するのは、思い出されるときだけだ。ぼくは全力を尽くして、みんなといっしょに戦ったのだ。死んだ仲間のもとへ行かなければならない。だが、暗闇のなかで、ぼくだと分かるだろうか。」
     ―――「遠からぬところ」より ”



ジェラルド・カーシュの短篇3本。
最近とっても気になっている英国の作家 ジェラルド・カーシュの作品を読みたくて、あれこれと探ってみました。どうやら、私がこれまでに読んだ短篇集に収められていた作品以外にも、いくつかの作品が古い本や雑誌に掲載されていたらしい。そこで早速、図書館で借りられるものから借りてきました。

『年刊SF傑作選』というアンソロジーのシリーズが、かつて創元推理文庫から出ていたようで、そちらにカーシュの3つの作品が収められています。カーシュという人は、作品によって随分と雰囲気が変わる人だなと漠然と感じていた私ですが、この3つの短篇もやはりそれぞれがだいぶ違った印象を与えてくれました。


まずは「不安全金庫」。
ピーター・パーフレメントはかつて原子物理学の分野でちょっとばかり名を馳せたこともあるが、老人となった現在は諜報部から目を付けられている。そんな身の上になったのは、彼がかつて「弗素八〇+(プラス)」という物質を作り上げたことによると言う。「弗素八〇+(プラス)」は寒天のような固い灰色の物質で、潜在的には、天体の衝突に匹敵するエネルギーを有している。潜在的には――。つまりほとんどあり得ないような「ある条件」が揃わなければ「弗素八〇+(プラス)」はその能力を発揮しないのであるが、ちょっとした手違いからその条件が整ってしまい………というお話。

パーフレメント卿が間抜けで可笑しいのですが、結末にはどことなく哀愁が漂います。地球が吹き飛んでしまうかもしれない危機を回避できるのかという焦燥感を煽らるのですが、思わぬ地味な結末が皮肉です。結構面白かった。


次に「カシェルとの契約」。
主人公アイラ・ノクスンは物書きで、金に困っている。原稿料を前借りしようと考えて、小型パルプ雑誌を刊行する経営者兼編集者であるモーン・カシェルに会いに行く。そこで、新しい小説用のネタを披露しながら、アイラはカシェルに「俺の5年分の時間を売ろう」と吹っかけ……というお話。

これは要約するのは難しいです。主人公はカシェルと「時間を切り売りする契約」を結びます。読んでいる間は「なるほど、なるほど」と楽しく読みましたが、落ち着いて考えるとサッパリ意味が分かりません。なんか騙されているような気がする……。詐欺的小説。でも、読んでいるうちはそれに気が付かないというか。繰り返し読むとカラクリが見えてくるかもしれません。いずれにせよ、カーシュらしい絶妙な語り口によって、ぐいぐいと引き込まれる一品。特に、アイラのネタのひとつとして披露される「未来を夢見る少女と過去に憧れる老婆の話」が面白かったです。


最後に「遠からぬところ」。
あとひと月で15歳になるマーティンには家もなにもない。その夜、彼はゲリラ部隊に加わっていて、彼は自由民のひとりだった。平和を知らず戦闘の中に生きる彼には、満15歳になる日は訪れず、あしたか、あさってには、名前も忘れ去られてしまうだろう……というお話。

初っ端から恐ろしく暗いです。どうやらこの世界では長らく戦争状態が続いているらしく、若者たちには家も家族も希望もなく、しかしそれでも果敢にゲリラの使命を果たそうと命を懸けている。この夜は、敵の弾薬倉庫からダイナマイトや導火線や雷管をとってこなければならない。最後までひとつの笑いどころもなく、夢も希望もないまま、しかし若者たちの切実さと優しさだけがほんの瞬間だけきらめく物語です。ただ死んでいくだけの世界にあっても。
こういう悲しすぎる物語をあっさりと語ってしまうところがジェラルド・カーシュの魅力です。何も大げさなことを言わなくても、その激しさは痛いほどに伝わってくるのでした。この人は愉快で軽妙でありながら、同時に深刻で誠実で、喜びと同じように悲しみを見透す目を持っているようです。不思議な人なのですね。


というわけで、『年刊SF傑作選』に収録のカーシュ短篇は、なかなかバランスのとれた品揃えだったかと思われます。私はさらに、昔のミステリマガジンに載った短篇も地道に探してみるつもりです。
ついでに、この『年刊SF傑作選』は、ほかの収録作品も面白いので、がんばって全部読みたい! 再版されないかなあ。




『犯罪王 カームジン』

2009年02月02日 | 読書日記ー英米

あるいは世界一の大ぼら吹き

ジェラルド・カーシュ 駒月雅子訳(角川書店)




《あらすじ》
あっと驚く方法でペテン師をぎゃふんと言わせ、卑劣な恐喝者を完全犯罪で闇に葬り、芸術的犯行で大金をかすめとっては幽霊とわたりあう。
イギリス首相チャーチルも愛読したと言われるカームジンの荒唐無稽、抱腹絶倒の活躍の数々! もしもこの話が真実なら、当代きっての大犯罪者。もしも嘘っぱちなら、史上まれにみる大ぼら吹き。さて、あなたなら、どう思う……?

《この一文》
“「とんちきめ!」カームジンが言った。「頭の悪いのに限って、何も信じようとしない。いいか、うすのろには二種類いる。なんでもかんでも鵜呑みにするやつと、なんにも信じないやつだ。きみはあとのほうの部類だよ。我が輩がせっかくいろいろ話してやっても、聞き流すだけで笑っておしまい。どうせ半分も信じていないんだろう。いいか、これでも我が輩は正直者として通ってるんだぞ」
  ―――「カームジンとあの世を信じない男」より ”



シリーズすべての話を読破してしまった時、その喪失感ははかり知れないものがあります。ここに収められた17篇は、「カームジンもの」の全作ということです。なんてこった! これ以上もう読めないだなんて! そんなこと、聞きたくなかった!!

しかし、こういう時にこそ私の数少ない優れた能力を発揮すべきなのであります。それはつまり、最高に面白かったという愉快な感情のみを記憶に残して、ストーリーのほうは速やかに忘れてしまうこと。すると半年ほど経てば、私はほとんど新しい本を読むように、この本を読み直すことができるに違いないのです。それくらいに私は忘れっぽい。ミステリーやサスペンスの読者として、私ほど恵まれた読者はいないかもしれません。誰が犯人だったか、どんなトリックだったかを繰り返しハラハラしながら楽しめるわけですから。
そう思って、私は自分を慰めることにしました。

「カームジン」のこのシリーズのいくつかは別の本にも収められていて、私はそれで初めて読みました(『廃墟の歌声』)。そしてたちまちカームジンの虜になったちょうどその時に、この本が出版されたというわけです。なんという幸運! これが運命的出会いというやつです。もちろん即座に単行本を買い求めました。

ジェラルド・カーシュの作品はいずれも奇抜で奇妙な物語ばかりです。もの凄く面白い。テンポも良く、人を飽きさせません。そして、あっと驚くような結末。特にこのカームジンのシリーズでは流れるように巧妙な語り口、鮮やかな展開、ユーモアが溢れ出るなかに時々ぴりっと皮肉がまざるという、どこからどう読んでも面白いとしか言えない珠玉の短篇集です。わー、面白い! 私はひたすら薄笑いを浮かべ、時には声を上げて笑いながら読み進めました。一気に読んでしまうのはもったいなかったので、およそ3日かけて読みました。うーむ、面白いなあ。

語り手は作者本人のジェラルド・カーシュとなっており、彼はその友人で正体不明の大男、大犯罪者か大ぼら吹きかというカームジンの驚くべき過去の完全犯罪の数々を聞かせてもらう、というお話。カームジンがかつては大胆な手口で大金を手に入れていたという華々しい物語を語りながらも、現在は落ちぶれて(?)お茶代さえままならず、やはり貧乏にあえぐ物書きカーシュ(カームジンの冒険譚を出版社に売って小銭をかせいでいるらしい)に煙草をねだる有り様。そのギャップがたまらなく面白い。しかし、カームジンの話があながちまったくの嘘とも言い切れないだろうことには、彼は時々恐るべき能力の片鱗をちらっと見せたりするのであった。

愉快、痛快なこのシリーズの中には、カーシュの美意識のようなものも感じられて、実に読みごたえがあります。カーシュとカームジンのやりとりは、とぼけていながらも何か品性を感じさせます。貧乏でも気高いというか。高潔さとは何かということについて少し考えさせられました。
特別収録されたカームジンものでないその他の短篇「埋もれた予言」「イノシシの幸運日」も、カーシュらしい奇想が満載で非常に面白かったです。

さて、私はまだこの人の短篇しか読んだことがありませんが、どうやら長編もあるらしいので、いずれ読みたいところです(でも翻訳はないっぽい?)。
これぞ楽しい読書。



『動物農場』

2008年10月28日 | 読書日記ー英米
ジョージ・オーウェル 高畠文夫訳(角川文庫)


《あらすじ》
「荘園農場」のジョーンズ氏が眠った後、農場の建物のそこらじゅうから大納屋へと動物たちが集まった。目的はみんなの尊敬を集めている中白種の豚 メージャー爺さんの夢の話を聞くこと。爺さんの驚くべき話を聞いて衝撃を受けた動物たちは、ついに革命を起こし、農場からジョーンズ氏を追い出し、「荘園農場」あらため「動物農場」を自力で切り盛りしてゆく。ここにはじめて動物たちによる平等で輝かしい希望に満ちた社会が訪れたかに見えたが――。

《この一文》
“丘の中腹を見下ろしているクローバーの目は、涙でいっぱいだった。もし彼女が、自分の思いを口に出すことができたとしたら、それは、次のような言葉となっていたであろう。「今から何年か前に、わたしたちが人間たちを打ち破ろうといっしょうけんめいに頑張っていたとき、わたしたちは、けっしてこんな状態を目ざしていたのではなかったんだわ。メージャー爺さんが、わたしたちを奮起させ、反乱を思い立たせてくれたあの晩、わたしたちが心に描いていたのは、けっして、こんな恐ろしい、むごたらしい場面ではなかったはずよ。もしわたしが、自分で未来像というものを抱いていたとしたら、それは、動物たちが飢えと鞭から解放され、みんなが平等で、おのおのが自分の能力に応じて働き、メージャー爺さんの演説のあったあの晩、ひとかえりのみなし児のアヒルのひなたちを、わたしが前脚で守ってやったように、強いものが弱いものを守ってやる、といった動物社会の像だった。ところが、現実は、それとはおよそ正反対で――なぜだか、わたしにはわからないんだけれど――」  ”



1984年』を読んだ時、私はそれがしばしば言われているような単純な「反共小説」とだけ読むことは不可能だと思ったのですが、スターリン独裁下のソビエトを批判するために書かれたと言われるこの『動物農場』も、単にそれだけでは済まない普遍性を備えていると感じます。これは多分、私でなくとも、読んでみれば自ずと感じられることではないかと思います。
たとえば、本書のあとに収められた開高健氏による「24金の率直――オーウェル瞥見」でも、ここにはあらゆる時代と思想を超えうる、ある完璧な定理が実現されていると述べられています。さらに開高氏によると、

  この作品は左であれ、右であれを問うことなく、ある現実に
 たいする痛烈な証言であり、予言である。コミュニズムであれ、
 ナチズムであれ、民族主義であれ、さては宗教革命であれ、い
 っさいの革命、または理想、または信仰のたどる命運の、その
 本質についての、悲惨で透明な凝視である。理想は追求されね
 ばならず、追求されるだろうが、反対物を排除した瞬間から、
 着実に、確実に、潮のように避けようなく変質がはじまる。


と、『動物農場』の核心でもあり、同時に人類がその歴史上でひたすら繰り返している「権力構造」がもたらすひとつの形式について的確に説明がされてあり、私もこれに関しては全面的に納得しました。私もそう思う。

問題は、我々はこれに対していったいどうしたらいいのかということだ。問題は、人間の愚かさに対して我々はいったいどうしたらいいのかということだ。いまだ愚かなままで、しかしそれでもどこかへ向かわねばならない。支配、不寛容、虐待。いずれにせよここへ行き着いてしまう、この道を外れようとするにはあまりにも大きな抵抗感。誰もが平等で幸福な世界など、まるで夢物語だ。

いつまでもいつまでも、ひたすらに煽動され、いいように支配される動物たち。黙って付き従う彼等の(我等の)、辛く悲しいだけに終わる多くの生涯は、唯一遠い未来への希望にのみ支えられている。そこには悲しみと苦痛以外の何ものをも見いだすことはできないけれど、ささやかな希望とか理想といったものが、ずっと人類をしぶとく走らせてきて、これからもそうだろうと私は思う。途中でいくたびも壮大な過ちを繰り返してはいるけれど、捨て去るには美し過ぎる希望や理想があるならば、それは捨て去るべきではないと私は思う。暗闇の中でただひとつ輝くものがあって、たとえそれが幻に過ぎないとしても、それなしでいったい進むことなどできるだろうか。一歩も動かず、その場にじっと留まるという選択肢もあるだろう。でも、ここを心細いほどの暗闇だと感じ、本物の光を見たいと願うなら、ちっぽけなかりそめの明かりでも頼りにして這っていかねばなるまい。ただ、自分と同じように小さな明かりを掲げる別の誰かに遭遇したとき、その色の違いによって殴り合わずに、なんとか話し合って、道を譲り合って進むってことは、難しいんだろうなあ。一時的な、戦略的な和解ではなく、真に、心から理解しあうなどという世界は、今のところ私には想像がつかない。恐怖におびえ、震えながら、騙し合い、罵り合い、掴み合い、他者を引きずりおろし、蹴落としながら、実はなんの知恵も展望もなく、ただ漫然となんとなく日々を暮らす人々の世界なら想像できる。そんなひどいことばかりではない(と信じたい)が、でも確かにこんなところのあるだろう、これが現代の現実の世界で、私もその一端を担っているという自覚がある。

少しの違いをも許すことのできない私たち。
自分の正しさを証明するために、あるいは自分の利益を守るために相手をぶちのめさずにはいられない私たち。
一方で、よく考えてみることもなしに、簡単に到底ありそうもないうまい話を信用してしまう私たち。
少なくともこの点においては、私たちは誰もが実によく似ている。
似ているからといって、分かりあえるものでもないんだな。どちらかと言うと、似ているからこそ分かりあえないのかもしれない。気持ちが沈んできてしまうなあ。でもまあ、私はまず自分の愚かさをもうちょっと改善するべきだな。話はそれからだ。


ジョージ・オーウェルによる『カタロニア讃歌』もそのうち読みます。



『燃えるスカートの少女』

2008年10月24日 | 読書日記ー英米
エイミー・ベンダー 管啓次郎 訳(角川書店)


《内容》
不可思議で、奇妙で、痛々しく、哀しみに満たされた、これは現実をかたる物語たち――失われ、取り戻される希望、ぎこちなく、やり場のない欲望、慰めのエクスタシー、寂しさと隣り合わせの優しさ、この世界のあらゆることの、儚さ、哀しさ、愛しさ。
少女たちが繰り広げるそれらの感情が、物語を超え、現実の世界に突き刺さる。
本処女作にして強烈な才能を発揮し、全米書評家たちをうならせ絶賛された、珠玉の傑作短編集。

《収録作品》
*思い出す人
*私の名前を呼んで
*溝への忘れもの
*ボウル
*マジパン
*どうかおしずかに
*皮なし
*フーガ
*酔っ払いのミミ
*この娘をやっちゃえ
*癒す人
*無くした人
*遺産
*ポーランド語で夢見る
*指輪
*燃えるスカートの少女

《この一文》
“私の髪は茶色。ときどき私は一週間ばかり赤毛に染めてみることがあったが、それは小間使いにお姫さまのガウンを着せるような気分だった。育ちがともなっていなかった。
  ―――「ポーランド語で夢見る」より ”



女性的であるとか、あるいは男性的であるとか、そういう区別をどういうふうにしたらよいのかはっきりとは分からないけれど、現実あるいは幻想のなかにおいては、たしかに女性的とか男性的と感じられるものがあって、これらの作品は紛れもなく女性的な感じがしました。書いたのが女性だからというだけでなく、感性の鋭さの方向が女性的というか。

前半の「皮なし」までの物語では、私にしてみれば特にその傾向が強く感じられ、あまりの生々しさにさっと血の気が引くようです。耐え難いほどです。「溝への忘れもの」がもっとも耐え難かった。吐きそう。「マジパン」はちょっと面白かったけど。
生々しいといってもそれはどろどろしたものではなく、どちらかというとさらっとしているけど、ただすごく冷たい。私がしばしば夢に見る、大きな水槽の中にホルマリン漬けにされたバラバラの少年少女の体の部分、そのイメージがよみがえるような暗い冷たい感触です。気分が悪い。
ひたすら淡々と語られるだけなのに、いやむしろこの淡々とし過ぎたところが、あらゆるものを拒絶しているような、この人は決して私を許したり、認めたりさえしないだろうとまで思えてくる。

そんなことを感じながら半ばまで読んだところで一旦眠りについた私は悪夢を見、その夢では、檻に閉じ込められた体じゅう傷だらけの青白い肌をした少年少女たちが男に悪逆の限りをつくされながら、互いに折り重なって横たわっているのだが、生き残った数人の少年と少女(大部分はいつのまにか死んだらしい)は檻から脱出し、ついに男に反逆する。彼等のひとりに足首を掴まれブンブンと振り回された男の体は、頑丈な鉄の檻にぶつかってまるで紙粘土で作った人形みたいに、まずは腕、つぎは脚というように少しずつバラバラになるのだった。
と、こんな夢を見てしまった。この夢とこの短編集とにいったいどんな関わりがあるのかは知りませんが、いずれにせよ私はヘトヘトです。

ここでもう止めてしまおうかと思いましたが、ひょっとしたらまだ面白くなるかもと思い直し、先を続けました。
結果としてその判断は間違っておらず、次の「フーガ」から突然面白くなりました。突然慣れて受け入れられるようになったのかもしれませんが、この「フーガ」という作品以降、物語の幻想性がぐっと増したような気がします。この人の奇想の才能がぱっと開いたような感じです。

「癒す人」という作品がとりわけ奇妙で、あらすじをまとめるのは難しいですが、ある町に住むふたりの少女の一方は燃え上がる火の手を持ち、もう一方は岩のように固まった氷の手を持っています。彼女たちが手を繋いだときにだけ、ふたりは普通の手を手に入れることができるのですが、手を繋いだ子供のころを過ぎ大きくなるにつれ、ふたりの距離は遠ざかっていく。燃える手の少女は人々から恐れられ、氷の手の少女は人々を癒し続ける。しかしある時……
という話です。変な話過ぎて、全然まとめられません。でも、どことなく寓話風で面白かったです。

全体的にグロテスクで冷たい印象の物語ばかりでした。
でも、どうやらこのエイミー・ベンダーという人はとても人気があるらしい。最新刊を図書館で借りようとしたら、予約で待っている人がたくさんいました。たしかに、人を魅力する力のある人のようには感じます。たしかに、すごく読ませる力は感じます。
……ただ、私に次が読めるか。自信はない……。




『廃墟の歌声』

2008年10月22日 | 読書日記ー英米
ジェラルド・カーシュ 西崎憲 他訳(晶文社)



《収録作品》
*廃墟の歌声
*乞食の石
*無学のシモンの書簡
*一匙の偶然
*盤上の悪魔
*ミス・トリヴァーのおもてなし
*飲酒の弊害
*カームジンの銀行泥棒
*カームジンの宝石泥棒
*カームジンとあの世を信じない男
*重ね着した名画
*魚のお告げ
*クックー伍長の身の上話


《この一文》
“ですから、我々人間は何か素晴らしい目的のために生かされているのではないかと思わずにはいられないのですよ。かくも多くの苦難を乗りこえて生きのび、なおかつ毅然としていられるのですから!

   ――「魚のお告げ」より  ”



このなかからどれか「あんまり面白くなかったな…」というのを選ぶのは難しいです。あえて挙げるなら、「盤上の悪魔」と「飲酒の弊害」がやや地味で、現代から見れば若干使い古された感じがあるでしょうか。でも、それでも十分に不気味で、独特の魅力に満ちています。

どれもこれも面白かったなかでも、特に「カームジン」のシリーズは居ても立ってもいられないくらいの面白さで、「新刊本は新しすぎて買えない…」とか訳の分からないことを言って一時はビビっていた私ですが、「そうだ、カバーをかけてもらえばいいじゃないか」と気が付いたので速攻で買いに行きました。いやー、良かった!
しかし、いいなあ、ジェラルド・カーシュ! こういうの好きだなあ。私はこういうヨタ話を大マジで語られるのが好きです。どこまでも人を馬鹿にしたような嘘くささをまき散らしつつ、それでいてつい本気で信じてしまうほどの説得力を持ったお話を聞くのは、たいへんに楽しい。

さて、『壜の中の手記』に続いて、カーシュの短篇集です。今回も非常に面白かったです。この本は晶文社ミステリから出ていますが、物語のジャンルはミステリかと言われればそうでもあり、幻想怪奇小説でもあり、SFでもあり…というようにジャンル分けは難しいようです。「廃墟の歌声」という話などは、最初は怪奇風味の探検ものとして始まりますが、終わりの2ページくらいで突如近未来SFであったことが発覚したりします。これと同じパターンがいくつかの作品で見られますが、さてさて今度はどういうオチで来るんだろ…と毎度わくわくしてしまいます。

「一匙の偶然」というお話は、とてもよくできたスピード感ある物語です。これがやばいくらいに面白かった。
古きよき時代、多くの人を愛し、また愛されたジーノのレストランの立派なスプーンは、ジーノ亡き後にはうす汚れたレストランに引き取られていた。それを久しぶりに手にした「私」はかつてジーノの店で出会った2人の人物について思い出すのだった。ひとりはやくざものの美男子スタヴロ、もうひとりは落ちぶれた元貴族で頬に目立つ傷を持つ『伯爵夫人』。
これが、やばいくらいに面白かったです。スプーン一本からこんな物語が語られるとは、とうてい想像できません。奇妙に錯綜する人々の運命を、ユーモラスにかつ非情なもの悲しさをもって語ります。やべー、おもしれー!

それから問答無用で面白かったのは、「カームジン」の4つの短篇。これは手放しで笑えます。むちゃくちゃに面白いです。最高でした。久しぶりにツボでした。完璧です!
強烈な個性を持つ迫力満点の怪物じみた老人カームジンは、いつも素寒貧で、話を聞かせてやるかわりに「私」にコーヒーやたばこをねだります。そんなカームジンが語るのは、かつて彼が成し遂げたまるで夢のように壮大な大犯罪の話。「私」はなんて嘘くさいんだろうと思いつつも、ついつい真剣に話に耳を傾け、結局のところは心から信じてしまうのでした。
はあ~、面白い。このユーモア! この素晴らしいカームジンのシリーズが、このあいだちょうど『犯罪王カームジン』として出版されました。私ときたら、なんてツイてるんだ!

というわけで、激ハマリのジェラルド・カーシュ。こういう人がいたと知ることができるから、読書って、世の中って、素晴らしい!