行方昭夫編訳(岩波文庫)
《内容》
二〇世紀初頭のイギリスにガードナー、ルーカス、リンド、ミルンの四人を代表とするエッセイ文学が一斉に開花した。イギリス流のユーモアと皮肉を最大の特色として、身近な話題や世間を賑わせている事件を取り上げ、人間性の面白さを論じてゆく。
《この一文》
“機械化された世界では、人生が機械と同じようにすらすらと動いてゆくべきだと人は主張するのである。また、他人が生来の性格でなく、時間割によって生活すべきだと主張する。このようにするのは、確かに、高度に組織化された社会では便利かもしれない。だが、それはもっとも抵抗のない生き方を選ぶことでもある。
――リンド(時間厳守は悪風だ) より”
文章とはこのように書くべきであると再確認させられた一冊。
よりすぐってまとめられたものだろうから、面白いのは当然かもしれませんが、どのお話も「なるほど!」と思わされ、その上ユーモラスで上品な文章ばかりでした。
ここに収められたコラムのいずれもが、とても品のいいものだと私が思うことには、たとえば誰かの好ましくない行動について、またその間抜けさについて語るとき、筆者は同時に彼自身が同程度あるいはそれ以上に間抜けであり、悪習に浸かった人物であるというように描くところです。相手の馬鹿さ加減のみを批判するよりも、また自分の馬鹿さ加減のみを自虐的に告白するよりも、ずっとバランスがいいと私は思うのです。誰も彼もが馬鹿で間抜けである。もちろん私も。
このようなイギリス流のユーモアと皮肉のあり方は、私にはすごく親しみやすい。面白いなあ!
ガードナー、ルーカス、リンド、ミルンの4人のコラムがあります。この本を読む前に私が知っていたのは、最後のミルンだけです。
ミルンというのは、あの『クマのプーさん』のA・A・ミルンのことです。『プーさん』の方はいちいち超展開で面白かったですが、ミルン氏のコラムの内容はわりと常識的で、あまり記憶に残るようなものではなく、面白く読みはしましたが、すぐに忘れてしまいました。
けれども、「無罪」というお話は面白かったな。家に警官がやってきて、ミルン氏は「とうとうこの日がやってきたか…」と逮捕される自分を思って気持ちが暗くなる、というものです。なんで逮捕されることが前提になっているんだ! と突っ込みたくなるところに、やっぱりこの人は『プーさん』の人なんだなあとしみじみしました。
ガードナー、ルーカスの両者については、普通に面白かったです。どちらも文章に人柄が表れていて、ガードナー氏にはバランス感覚に優れた良心を感じ、ルーカス氏はその心根の優しさを物語仕立ての文章から感じられました。
ガードナーの「通行規制について」から印象に残った一文を引用しておきます。ちょうど私にとってはタイムリーな話題だった。
“おそらくこういうことではなかろうか。今の複雑な世界
では、我々は完全なアナキストにもなれないし、完全な社
会主義者にもなれない――その両方の賢明なごちゃ混ぜで
なくてはならない。二つの自由――個人の自由と社会的な
自由――を守らねばならない。一方で役人を監視し、他方
でアナキストを警戒しなければならない。私はマルキスト
でもないし、トルストイ的社会主義者でもなく、両方の妥
協の産物である。
――ガードナー(通行規制について)より ”
さて、残るはリンド氏です。私はこの人の文章が、この本のなかではもっとも面白く読めました。これほどに素晴らしい才能と出会えるなんて、私はやはり運がいい。たまたま入った本屋で、たまたま目が合って、偶然私の手に入ったと思われた本でしたが、偶然なんてものはないということを改めて証明してしまいましたね。大きな収穫となりました。
ここにはリンド氏の9つのコラムが収められていますが、そのすべてがまさにイギリス流のユーモアと皮肉に溢れた、イギリス流の文章のお手本のような素晴らしいものでした。神がかっていた! 好きです!
リンド氏の文章のどこが素晴らしいかというと、まずその完璧な構成です。こんな風に文章を組み立てたい。そうだ、かつては私もこんな風に文章を組み立てたいと思っていたのではなかったろうか。分かりやすく、しかも印象的に始まり、テーマに沿った話題をさりげなく積み上げて展開させながら、最後は鮮やかに締める。その上、ユーモアを満載する。さらに、ハッとするような一文を必ず織り交ぜる。素晴らしい技術です。天才的です。
また、リンド氏の文章技術だけではなく、その書かれた内容についても、私はおおいに共感しました。あまりにも共感できたので、私とリンド氏とは精神的血族であることを疑い得ません。私は新たにこのリンド氏をも心の師として仰ぐことに決めました。
「時間厳守は悪風だ」では、時間厳守する人物よりも、時間厳守しない人物の方がよほど精力と忍耐心において勝っているということを、延々と論じています。どういうことだろう? と不思議に思いながら私は読み進めていったのですが、ここで展開される論理がまさにイギリス流というか、ひねくれた理屈を面白可笑しく語っているので、果たして私は大笑いしながら楽しみました。
時間を守らない人(守れない人)がどれほどの苦難に直面し、それに耐えているのか。時間通りに行なっていれば簡単に回避できたはずの困難に立ち向かう忍耐心の強さを思えば、時間厳守の人々がいかに怠惰であるかが分かる。というような理屈でした。はははは、は!
また「無関心」では、ローマとカルタゴ間の戦争の細部に関する専門家である学者の知りあいが、彼の属する大学のチームが来週参加する予定のフットボールの試合に何の関心もないことに失望するところから始まります。血なまぐさいローマ時代の戦いに比べて、フットボールの試合は無血の戦い、未来の戦いであるというのに! 文化的であるべき人間がこのありさまだなんて! というこういう着眼点が面白いですよね。
そして「冬に書かれた朝寝論」では、寒い冬の朝には布団から出ることがどれほどに困難なことであるかについて、長々と検証されています。起こされるとかえって眠くなる心理についてや、明日は早起きすると誓って床につく夜の輝かしい自分と、朝起きようとするときの自分とはもはや別人であることの、書きようが猛烈に面白かったです。この「冬に書かれた朝寝論」は特に筆が冴え渡っていますね。
「忘れる技術」という話題では、忘れることも時には大事であること、苦しくて苦い記憶をあえて忘れながら未来に幸福を探そうという美しい理想について語られていて心を打ちます。そうか、忘れっぽいことが時々私を悩ませていたのだけれど、それでもいいんだ。苦しみの記憶ばかりが残っていると思うのは、記憶への評価が不完全だからなんだ。「不満を忘れるのは恩恵を覚えているのと同様に称賛に値する」と気づかなくてはならなかったのだ。
ともかく、リンド氏の文章には、夢と希望が、人間への優しい眼差しが溢れていました。世の中はそれでもよくなりつつある、人間はそれでも素晴らしくなりつつある。そんなふうに、リンド氏は考えていたようです。私もそのように考えたい、心から、心からそう願っています。
というわけで、とても満足のいく1冊でした。文章を何のために書くのか。私にそれを少し思い出させてくれました。書かれてあることは『たいした問題じゃないが』、私には、得られるものが多かった。ありがたい!
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