年末には日本一の若手漫才師を決める「Mー1グランプリ」が開けれる。 現在はコンビが軽妙な掛け合いで
笑いを誘う「しゃべくり漫才」が一般的だが、起源は伝統芸能の「萬歳」にあり、江戸時代は農民の副業
だったという。 わい雑な内容から、家族で楽しめる話芸に昇華した陰には、一人の作家の熱意があった。
伝統芸能の萬歳は古くは平安時代の「新猿楽記」にも表記がある。
「才蔵」役と「太夫」役に分かれて掛け合いをしていたようだ。演芸
評論家の“相羽昭夫氏”は「大きく開花したのは江戸時代だ」と話す。
農業従事者が農閑期の年末年始に各地の家々をまわり、新年を健康で
過ごせるよう願う言葉を鼓の音に乗せて歌い、お金をもらった。
徳川家ゆかりの地である三河(現愛知県)や尾張(同)に住む人が持つ通
行手形は優遇され、三河萬歳や尾張萬歳が隆盛したという。小島貞二
著「漫才世相史」によると、萬歳は明治時代に演芸になる。鶏卵の行
商をしていた“玉子家円辰”が寄席に持ち込んだとされる。 円辰は滋賀
県で伝承されていた江州音頭を歌いながら卵を売っていた。「面白い」
という評判を聞きつけた大阪の演芸小屋の主人に請われ、媚態に立つ。
演芸小屋でも人気を集めた円辰が、より面白い芸を探す中で目をつけ
たのが萬歳だった。尾張萬歳を習得し演芸小屋で披露した。関西で寄
席の芸能として定着し、明治末期には表記が易しい「万才」へと変わ
った。万才はわい雑な内容が中心だった。演芸小屋では歌や踊りが披
露され、合間を会話や、ハリセンでたたくなどしてつないでいた。
広く親しまれるようになったのは昭和に入ってから。 立役者が漫才師の“横山エンタツ・花菱アチャコ”
と、2人のネタを作った漫才作家の”秋田実先生”だ。 秋田の長女の“藤田冨美恵氏”によると、当時漫
才は「家庭で見られるものでなく、イメージを変えたいという思いがあった」という。
秋田は東京帝国大学(現・東京大学)在学中から雑誌に投稿していた。 朝日新聞の記者がエンタツに引き合
わせたのが出会いのきっかけだという。 秋田の漫才への情熱の源泉は「学生時代から外国の漫画が好
きだった」(冨美恵氏)ことにあるかもしれない。 会話で生まれる笑いが好きだったという。
萬歳や音頭を起源とする万才は和装だったが、「サラリーマンのようなしっかりした印象を与える」(秋
田実の孫で漫才作家の藤田曜氏)ため背広を着て、誰もが楽しめるよう身近な話題のネタを披露した。
「エンタツ・アチャコさんは歌や楽器が得意ではなかった」(曜氏)こともあり、話芸に特化した。
それまで鳴り物とわい雑な会話の組み合わせだったが、親しみやすい話芸になり、ラジオでも漫才が放
送されるようになった。 秋田とエンタツ・アチャコがまとめた、野球中継をパロディー化した「早
慶戦」のネタでは時事的な要素が共感を呼び、ことが遊びなどを使って人々を笑わせた。 「当時ラ
ジオ番組に出るとは名誉なこと」(冨美恵氏)で多くの漫才師は話芸を磨いた。 しゃべくり漫才かこ
こから広がったたといわれている。
表記も変わる。 吉本総合芸能学院(NSC)講師で漫才台本作家の“本多氏”は「吉本興業が『漫才』の
表記を始めたようだ」と話す。 「吉本興業百五年史」には「1933年(昭和8年)1月の『吉本演
芸通信』の中で『漫才』と表記を改めることが宣言されたとされる」と記述がある。
秋田の漫才の普及に大きく貢献した。 吉本興業が発行していた娯楽雑誌「ヨシモト」の編集に携わり
芸人の楽屋の様子や漫才の台本を掲載した。 49年にNHKラジオで「上方演芸会」という番組が
始まり、秋田が書いた新ネタの台本で芸人が漫才を披露した。
人材の育成にも取り組んだ。 漫才を研究する「MZ研進会」を結成し、ネタの作り方やみせ方を指導
した。 「知識をつけてボケないとダメ」(冨美恵氏)と考え、秋田は漫才師に雑学を教えたり、本を
贈っていたりしたという。
ダジャレが多かった昔に比べて最近の漫才を相羽氏は「インテリジェンスに満ちた『漫才』と表現する。
他にも20年のMー1グランプリで論争が起こるように、中には既成概念を壊すネタもある。 ただ
エンタツ・アチャコと秋田実が始めた漫才は「はやり物を取り入れられる」(曜氏)点で現代にも面影
を残している。
私はもっぱら落語好きで寄席に散々通いました。 席に出る漫才も筋が通ていて面白かったが、最近の
漫才はどちらかといえばコント。 互いに間を取り合い話芸で沸かせる漫才は少なくなった。
噺の筋がなく、相手を罵倒したり叩いたりばかり、しゃべくりの面白さが感じられず残念です。
(若手の皆さん、諸先輩の漫才を見て参考にしてほしいと願うばかりです)
笑いを誘う「しゃべくり漫才」が一般的だが、起源は伝統芸能の「萬歳」にあり、江戸時代は農民の副業
だったという。 わい雑な内容から、家族で楽しめる話芸に昇華した陰には、一人の作家の熱意があった。
伝統芸能の萬歳は古くは平安時代の「新猿楽記」にも表記がある。
「才蔵」役と「太夫」役に分かれて掛け合いをしていたようだ。演芸
評論家の“相羽昭夫氏”は「大きく開花したのは江戸時代だ」と話す。
農業従事者が農閑期の年末年始に各地の家々をまわり、新年を健康で
過ごせるよう願う言葉を鼓の音に乗せて歌い、お金をもらった。
徳川家ゆかりの地である三河(現愛知県)や尾張(同)に住む人が持つ通
行手形は優遇され、三河萬歳や尾張萬歳が隆盛したという。小島貞二
著「漫才世相史」によると、萬歳は明治時代に演芸になる。鶏卵の行
商をしていた“玉子家円辰”が寄席に持ち込んだとされる。 円辰は滋賀
県で伝承されていた江州音頭を歌いながら卵を売っていた。「面白い」
という評判を聞きつけた大阪の演芸小屋の主人に請われ、媚態に立つ。
演芸小屋でも人気を集めた円辰が、より面白い芸を探す中で目をつけ
たのが萬歳だった。尾張萬歳を習得し演芸小屋で披露した。関西で寄
席の芸能として定着し、明治末期には表記が易しい「万才」へと変わ
った。万才はわい雑な内容が中心だった。演芸小屋では歌や踊りが披
露され、合間を会話や、ハリセンでたたくなどしてつないでいた。
広く親しまれるようになったのは昭和に入ってから。 立役者が漫才師の“横山エンタツ・花菱アチャコ”
と、2人のネタを作った漫才作家の”秋田実先生”だ。 秋田の長女の“藤田冨美恵氏”によると、当時漫
才は「家庭で見られるものでなく、イメージを変えたいという思いがあった」という。
秋田は東京帝国大学(現・東京大学)在学中から雑誌に投稿していた。 朝日新聞の記者がエンタツに引き合
わせたのが出会いのきっかけだという。 秋田の漫才への情熱の源泉は「学生時代から外国の漫画が好
きだった」(冨美恵氏)ことにあるかもしれない。 会話で生まれる笑いが好きだったという。
萬歳や音頭を起源とする万才は和装だったが、「サラリーマンのようなしっかりした印象を与える」(秋
田実の孫で漫才作家の藤田曜氏)ため背広を着て、誰もが楽しめるよう身近な話題のネタを披露した。
「エンタツ・アチャコさんは歌や楽器が得意ではなかった」(曜氏)こともあり、話芸に特化した。
それまで鳴り物とわい雑な会話の組み合わせだったが、親しみやすい話芸になり、ラジオでも漫才が放
送されるようになった。 秋田とエンタツ・アチャコがまとめた、野球中継をパロディー化した「早
慶戦」のネタでは時事的な要素が共感を呼び、ことが遊びなどを使って人々を笑わせた。 「当時ラ
ジオ番組に出るとは名誉なこと」(冨美恵氏)で多くの漫才師は話芸を磨いた。 しゃべくり漫才かこ
こから広がったたといわれている。
表記も変わる。 吉本総合芸能学院(NSC)講師で漫才台本作家の“本多氏”は「吉本興業が『漫才』の
表記を始めたようだ」と話す。 「吉本興業百五年史」には「1933年(昭和8年)1月の『吉本演
芸通信』の中で『漫才』と表記を改めることが宣言されたとされる」と記述がある。
秋田の漫才の普及に大きく貢献した。 吉本興業が発行していた娯楽雑誌「ヨシモト」の編集に携わり
芸人の楽屋の様子や漫才の台本を掲載した。 49年にNHKラジオで「上方演芸会」という番組が
始まり、秋田が書いた新ネタの台本で芸人が漫才を披露した。
人材の育成にも取り組んだ。 漫才を研究する「MZ研進会」を結成し、ネタの作り方やみせ方を指導
した。 「知識をつけてボケないとダメ」(冨美恵氏)と考え、秋田は漫才師に雑学を教えたり、本を
贈っていたりしたという。
ダジャレが多かった昔に比べて最近の漫才を相羽氏は「インテリジェンスに満ちた『漫才』と表現する。
他にも20年のMー1グランプリで論争が起こるように、中には既成概念を壊すネタもある。 ただ
エンタツ・アチャコと秋田実が始めた漫才は「はやり物を取り入れられる」(曜氏)点で現代にも面影
を残している。
私はもっぱら落語好きで寄席に散々通いました。 席に出る漫才も筋が通ていて面白かったが、最近の
漫才はどちらかといえばコント。 互いに間を取り合い話芸で沸かせる漫才は少なくなった。
噺の筋がなく、相手を罵倒したり叩いたりばかり、しゃべくりの面白さが感じられず残念です。
(若手の皆さん、諸先輩の漫才を見て参考にしてほしいと願うばかりです)