「道の駅」制度発足から来年で30年。 今や年間延べ2億人以上が利用し、道の駅自体が目的地になっている。
道の駅の制度創設に尽力した元国土交通省技監の“大石さん”は「役人ではなく民間のアイデアから生まれた」と
振り返る。 きっかけは、ある人物の一言だったという。
「道路にも鉄道の駅のようにトイレがある駅があってもよいのではないか‥」。 1990年に広島で開かれた
「中国地域づくり交流会シンポジュウム」。 出席者の一人、山口県の船方総合農場グループ代表の“坂本さん”
の発言が口火を切った。 出席者からは「地元産の野菜や干物も販売したらどうか」などと発言が相次いだ。
坂本さんは、駐車場やバーベキュー場を設けた農場を無料で開放する
「0円リゾート」で知られるアイデアマン。山口から広島に車で向か
う道中、並行する鉄道の駅のトイレを使わざるを得ない機会があり、
発言につながったそうだ。会場にもう一人キーマンがいた。地域交流
センターの創設者、“田中さん”。「車で通過していく人々と地域の拠
点をつくれないか」と、当時建設省道路局企画課道路防災対策室長の
“大石さん”に持ち掛けた。大石さんは田中さんの話で初めて「道の駅
構想」を知る。地域の話し合いで終わっていたかもしれないテーマに
国を巻き込んだ。その時既に道の駅は生まれつつあった。大石さんが
初めて道の駅の看板を見たのは島根県掛合町(現雲南市)だった。19
91年から山口、岐阜、栃木県で社会実験が行われた。観光地という
ことで実験場に選ばれた岐阜県高山市では、トイレの横に竹筒型の小
銭入れを置くと1日2万円が集まったそうだ。これを見て「これはい
ける」と大石さんは確信したという。社会実験は約半年間と決して長
くなかったが、コミュニティーの活性化や地元特産のPRで効果を上
げた。懇談会で検討され、国は道の駅の登録・案内制度を93年2月
に創設し、同年交付された。13年には1050駅と大台を超えた。
社会資本の中で、道の駅ほどメディアで取り上げられた施設はないだ
ろう。ここまで発展した理由は民間のアイデアから生まれ、民間の創
意工夫で運営されているからにほかならない。成り立ち上、24時間
利用できるトイレは欠かせないが、制度化にあたり「くだらない基準
をつくらないように先輩から助言された」と大石さんは振り返る。
当時は地方分権が進んでおらず、国が基準を細かく定め地方はそれに
合わさなければならない中央集権的な側面があった。この一言も、道
の駅の発展に大きく寄与したに違いない。 90年代はコンビニエン
スストア右肩上がりで成長していた時期だ。本社が一元的に戦略立案
や商品開発を担い「どこに行っても同じものが手に入る」という価値
観がまだ主流だった。その正反対の道を、道の駅はたどった。自家消
費程度しか栽培していない農作物を農家が売る、地元漁師が直接魚
を持ち込む。 はたまた伝統芸能を公演する道の駅も出てきた。
人気が出るほどに「我が町は隣町と違っているから存在感がある」
という地域の自覚が芽生えていったように感じられる。
印象的だったのは2015年の日本マーケティング大賞(第7回)の受賞だ。 ユニクロのヒートテックやネス
レ日本ネスカフェアンバサダーなど大手企業が名を連ねるなかに、公的施設として初めて選ばれた。
受賞理由で「旅行者、地域住民、農産物生産者、地方自治体、道路管理者のすべてのステークホルダーがウ
ィンウィンとなるビジネスモデルは斬新」とされ、「「まさに日本発のユニークなマーケティング事例」と
評された。
坂本さんや田中さんがつないだバトン。 道の駅にはいま、制度化当時には考えられなかった地方を支える砦
としての役割が求められている。 人と人との絆の回復や防災設備。 さらには海外へのプロモーションを
展開し、世界ブランド化も目指している。
一方でこんな声も寄せられる。 「最近は道の駅もコンビニ店に少しずつ近づいているように思える」(道の駅
のフリーペーパー、ルートプレスに寄せられた利用者の声をまとめた冊子より)。 異なることに価値があるという流れはま
すます強くなる。 売り上げ至上主義に走れば、その魅力は色あせかねない。 そこが難しいようです。
道の駅の制度創設に尽力した元国土交通省技監の“大石さん”は「役人ではなく民間のアイデアから生まれた」と
振り返る。 きっかけは、ある人物の一言だったという。
「道路にも鉄道の駅のようにトイレがある駅があってもよいのではないか‥」。 1990年に広島で開かれた
「中国地域づくり交流会シンポジュウム」。 出席者の一人、山口県の船方総合農場グループ代表の“坂本さん”
の発言が口火を切った。 出席者からは「地元産の野菜や干物も販売したらどうか」などと発言が相次いだ。
坂本さんは、駐車場やバーベキュー場を設けた農場を無料で開放する
「0円リゾート」で知られるアイデアマン。山口から広島に車で向か
う道中、並行する鉄道の駅のトイレを使わざるを得ない機会があり、
発言につながったそうだ。会場にもう一人キーマンがいた。地域交流
センターの創設者、“田中さん”。「車で通過していく人々と地域の拠
点をつくれないか」と、当時建設省道路局企画課道路防災対策室長の
“大石さん”に持ち掛けた。大石さんは田中さんの話で初めて「道の駅
構想」を知る。地域の話し合いで終わっていたかもしれないテーマに
国を巻き込んだ。その時既に道の駅は生まれつつあった。大石さんが
初めて道の駅の看板を見たのは島根県掛合町(現雲南市)だった。19
91年から山口、岐阜、栃木県で社会実験が行われた。観光地という
ことで実験場に選ばれた岐阜県高山市では、トイレの横に竹筒型の小
銭入れを置くと1日2万円が集まったそうだ。これを見て「これはい
ける」と大石さんは確信したという。社会実験は約半年間と決して長
くなかったが、コミュニティーの活性化や地元特産のPRで効果を上
げた。懇談会で検討され、国は道の駅の登録・案内制度を93年2月
に創設し、同年交付された。13年には1050駅と大台を超えた。
社会資本の中で、道の駅ほどメディアで取り上げられた施設はないだ
ろう。ここまで発展した理由は民間のアイデアから生まれ、民間の創
意工夫で運営されているからにほかならない。成り立ち上、24時間
利用できるトイレは欠かせないが、制度化にあたり「くだらない基準
をつくらないように先輩から助言された」と大石さんは振り返る。
当時は地方分権が進んでおらず、国が基準を細かく定め地方はそれに
合わさなければならない中央集権的な側面があった。この一言も、道
の駅の発展に大きく寄与したに違いない。 90年代はコンビニエン
スストア右肩上がりで成長していた時期だ。本社が一元的に戦略立案
や商品開発を担い「どこに行っても同じものが手に入る」という価値
観がまだ主流だった。その正反対の道を、道の駅はたどった。自家消
費程度しか栽培していない農作物を農家が売る、地元漁師が直接魚
を持ち込む。 はたまた伝統芸能を公演する道の駅も出てきた。
人気が出るほどに「我が町は隣町と違っているから存在感がある」
という地域の自覚が芽生えていったように感じられる。
印象的だったのは2015年の日本マーケティング大賞(第7回)の受賞だ。 ユニクロのヒートテックやネス
レ日本ネスカフェアンバサダーなど大手企業が名を連ねるなかに、公的施設として初めて選ばれた。
受賞理由で「旅行者、地域住民、農産物生産者、地方自治体、道路管理者のすべてのステークホルダーがウ
ィンウィンとなるビジネスモデルは斬新」とされ、「「まさに日本発のユニークなマーケティング事例」と
評された。
坂本さんや田中さんがつないだバトン。 道の駅にはいま、制度化当時には考えられなかった地方を支える砦
としての役割が求められている。 人と人との絆の回復や防災設備。 さらには海外へのプロモーションを
展開し、世界ブランド化も目指している。
一方でこんな声も寄せられる。 「最近は道の駅もコンビニ店に少しずつ近づいているように思える」(道の駅
のフリーペーパー、ルートプレスに寄せられた利用者の声をまとめた冊子より)。 異なることに価値があるという流れはま
すます強くなる。 売り上げ至上主義に走れば、その魅力は色あせかねない。 そこが難しいようです。