「生きている私は悪人である」という言葉を聞きますと、親鸞を思い出す方が大勢いると思います。
五木寛之さんは「人間の覚悟」の最終章で次のように述べています。
「親鸞は、人はみな悪意を抱えて生きている、人はだれもが悪人である。といったわけですが、私にとっては、引き揚げて生きて帰って来られた人はやはり皆悪人です。
「おさきにどうぞ」と他人を逃がそうとするような優しい心の持ち主は、みなボートに乗れずに置き去りにされ、途中で倒れてしまった。エゴイスティックに人を押しのけ、人を犠牲にして走った人間だけが生き残ったのですから、生きのびて、引き揚げてこられた人間は全部悪人なのだ、そういう意識は一生、自分の中から消えることはありません。
こうして生きている自分も悪人なのだと覚悟しています。自分は悪人であり、悪を抱えた人間であるという意識の中では、すべて悪人もすくわれる、という親鸞の言葉が、自分にとっては唯一の光でした。」
と自分の戦争体験を通じて人間の悪性について述べています。
人間は生きていくためには手段を選ばない悪という面を持っている、それが戦争のような苛酷な環境の中では、例外なくその悪が表に現れると言いたいのでしょうね。
だから、「悪の覚悟、悪人の覚悟、自分が悪人であるという意識を持たずに、生きていくということは、本来不可能だろうと私は思います。」と言っているのでしょう。
それをアウシュビッツでのユダヤ人虐殺におけるヨーロッパの人々の姿勢(つまり悪)、現代日本の生活が貧しい国の人々へもたらす結果的なしわ寄せや地球環境への負荷などを例に挙げて、
「人間はDNAの二重螺旋構造のように、善と悪の両方を内包して、悩みながら生きていくしかないのであって、少なくとも、そういう悪を抱えて生きているという意識のかけらぐらいはもつべきだろうと思います。」
だから、食品偽装問題や使い回しのことを例にあげて「昔からあたりまえなのであって、世の中はそういうものだと覚悟しなくては駄目だろう」といってます。
まぁ、「すべての人は悪人である」と自覚することが大事だ言いたいのでしょう。
小生などは「あいつは悪い奴だ」と思ったり、人に言ったりしたことはありますが、「自分が悪人である」などと意識したことはありませんでした。
でも、自分の方がもっと「悪い奴」なのかも知れませんね。
また、人間が他の多くの動植物の命を犠牲にして生きている、このことを「悪」というならば、美味しいもの好きの小生などは「悪人」の権化なのかも知れません。