土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

栖賢寺、知る人ぞ知る素敵なお寺です。

2015年05月26日 | 京都の古寺巡り



(2015.05.23訪問)


蓮華寺に大和路号を置いて、次は三宅八幡か崇道神社にしようか思案しつつフラフラ歩いていると小川の
向こうに石碑発見! 初めて聞く名前、栖賢寺と刻されています。取りあえず訪ねてみようということで、
民家の間の小径を進んでゆくとありましたよオシャレな枝折戸、中を覗くと広~いお庭が見えます。



▼ふと横を見るとオシャレな小さな川が流れてるじゃありませんか。

 



[ 栖賢寺 ]
●山号 朝崇山(ちょうすうざん)
●寺号 栖賢寺(せいけんじ)
●開基 赤松範資(あかまつのりすけ)摂津守護職
●開山 竺堂和尚(じくどうおしょう)
●開創 応安~永和年間(1368~1379年)
■上記兵庫尼崎に在した栖賢寺は明治初め廃寺となり、その後間宮英宗和尚、山口玄洞の奉賛喜捨を受け
 昭和七年(1932年)京高野の地に再興再建した。
●宗派 臨済宗大徳寺派(りんざいしゅうだいとくじは)末寺
●本尊 如意輪菩薩坐像
▲入山料 境内自由 駐車場なし
▲京都市左京区上高野水車町22 
▲京阪「出町柳駅」から叡山電鉄「三宅八幡駅」下車 
 三宅橋を渡り367号沿いに歩き、蓮華寺を通過、崇道神社も通過、少し行くと小川に架かる小さな石橋
 があり、左住宅前に寺標が建ってます。判りにくいですが注意して見つけてください。367号は大原行
 きでいつも通っていますが、いままで全く気が付きませんでした。



         ▼その向こうに傘付き寺石標が建ってます。





[ 栖賢寺縁起 ] 昭和七年発行の「間宮山栖賢寺と千人鐘」冊子から抄出
十四世紀室町時代初め、摂津守護職赤松範資が尼崎の地に臨済宗南禅寺の僧、竺堂を請じ開山の祖とし創
建。その後織田と荒木の兵乱兵火で境域焦土と化したが、慶長年中に再興、明治六年まで法灯をともすが
住持謙宗和尚遷化後、頽廃廃寺となる。昭和三年間宮英宗和尚が実業家山口玄洞の喜捨を受け昭和七年春、
洛北高野の地に移転再興した。



▼民家の間のクランク状の小径を行くと、
 質素な枝折戸が正面に、まさかこれが山門じゃなかろうと、右を見ると……。





▼石畳の参道が……。





▼表門です。「拝観寺院ではありません」の木札が……。





▼表門を入り右に庫裏書院風の立派な玄関が、しかし錠が……。
 無住寺か人の気配が全くありません。





▼左に回りますと南面と西面には総ガラス障子がはまってます。相当大きな建物のようです。





▼西側に大きなお庭が広がってます。正面石垣の高台にお堂が見えます。



右方奥の石段から作務衣の方が降りて来られるのが見え、ちょっとお話を……。
無断侵入をお詫びし暫く立ち話を……。



▼金鳳閣。野面積みの石垣基壇に建つ瀟洒な重層のお堂。開山堂です。
 一間四方宝形造、銅板葺。初層、上層とも勾欄付き。





▼下からあおるとこんな感じ。





▼テッペン露盤には宝珠代わりに鳳凰が南向きに立ってます。要するに金閣銀閣風設え。





▼鐘楼。





▼昭和六年六月鋳造の千人鐘梵鐘。1164名の寄進により鋳造されたので千人鐘と名付けられたそうです。
 重量六百貫匁、高さ五尺六寸、口径三尺三寸。京都市本町高橋鋳工場鋳造。
 「間宮山栖賢寺と千人鐘」から



千人鐘寄付芳名として1164名の名が鐘内に刻されているそうですが確認は出来ませんでした。



▼如意輪堂(観音堂)。





▼如意輪堂の正面。紙が貼ってました「帰るとき障子は必ず閉めて下さい、猿が入るので」





▼須弥壇中央には本尊が光ってます。





         ▼正面から本尊如意輪観音菩薩。キラビヤカな新しい造像と思われます。





▼下の書院からの渡り廊下。





▼ちょっと角度を変えて、矩形の廊下ですネ。





         ▼金鳳閣のすこし下方に再興栖賢寺初代住職間宮英宗和尚の墓。





         ▼大きな樽型相輪の石塔が庭園を見下ろしています。





▼お庭に戻ってきました。相当広い庭で、境内は1000坪あるそうです。





▼こんな穴ポコを見つけましたがなにか判りません。





         ▼お庭南西隅に十三重石塔、胴の四面には梵字が刻されています。





▼故住職は相当風流者らしく残照亭という茶室が残っています。キレイに管理されていますが使われてい
 ません。










如意輪堂で先ほどの作務衣の僧としばらくお話を。
この方はこのお寺の住職ではなく、日々の管理のために一人で泊まり込んでるそう。自虐的に無給のボラ
ンティアだとおっしゃってましたが、ご本人は勿論僧籍ですが住職資格を大徳寺で取得せず正式には住職
ではないそうです。前住職が亡くなられたあと大徳寺からは住職を派遣してこないので実質的には無住寺
だそうです。

栖賢寺は観光寺院でないため、外から寺観も窺えず、当然訪れる人も少なく、檀家、お墓も無く早い話無
収入、経営的維持管理の疑問には言葉を濁されましたが、陰の大檀那がいるのでしょうキット。でないと
これだけの……。
お隣の蓮華寺の盛況を横目に、今、拝観観光寺院にしても、とても運営は出来ないとおしゃってました。



         ▼最後にご本尊のアップを





フ ロ ク
戴いた昭和7年5月10日印刷の小冊子、83年前のお寺ガイドです。全52ページの一部をご紹介します。



















どうです、昭和初期の香りしませんか。写真も文字も表現も。



▼それではお庭の南の枝折戸から失礼します。             





街中の隠れ寺そんな印象の知る人ぞ知るイイお寺です。                    合掌




↓ ポチッと押していただければたいへん嬉しいのですが。

神社・お寺巡り ブログランキングへ

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
栖賢寺に関するご質問 (圓城史也)
2017-04-18 15:15:08
突然失礼致します、寺社に携わるお仕事をしている圓城と申します。栖賢寺について少しお尋ねしたいことがございますので、もし差し支えなければ以下のアドレスにメッセージを送って頂けますと幸いです。よろしくお願い致します。

f.enjo.oooo@gmail.com
返信する
Unknown (hidepon)
2017-04-18 16:49:50
圓城史也さま。
お尋ねの内容、この欄でお答えしたいと思います。
ボクの分る範囲でお答えしますが、それよりお寺の方へ直接聞かれた方が確かだと思いますが。
返信する

コメントを投稿