(2018.09.15訪問)
「救馬溪観音」皆さんこの寺号読めました? ボクは全く読めませんでしたが、正解は「すくまだに観音」というお寺です。
大和路号は今日久々に紀州路を走っています。我が大大阪から阪和自動車道が南紀田辺まで通っていますので、今日の目的地「救馬
溪観音」までは迷車大和路号でもスイスイと苦もなく到着です。と云うのはウソです。我が身は現在、交通法規絶対厳守しながら走
行せねばならず1点も失うことが出来ない苦境にあり、常に高速道路は左車線を走行、一般道では前に女人が運転中であろうと、お
年寄りのチンタラ走行であろうと静かに成り行きに任せて走行、160キロほどの道のりをお蔭で3時間弱かかりました。往路だけで
すでに気分的疲労困ぱい。
▼参道です。両路ともいずれは同じところに。
[ 救馬溪観音 ]
●山号 瀧尾山 (ろうびざん)
●寺号 救馬溪観音大悲閣 (すくまだにかんのんだいひかく)
●宗派 真言系単立寺院 (しんごんけいたんりゅう)
●本尊 馬頭観世音菩薩(御影)
●開山 役の行者 (えんのぎょうじゃ)
●中興 小栗小次郎助重 (通称小栗判官)
▲拝観 自由 朱印300円
▲和歌山県西牟婁郡上富田町生馬313 Tel(0739)47-1140
▲JRきのくに線「紀伊田辺駅」「白浜温泉駅」下車 駅よりタクシーで約20分。
大阪方面より 阪和道、紀勢道「上富田IC」から国道42号線を南下。上富田町岩崎より国道311号線へ最初の信号を左折。
▼いかに広い境内か、よく判るガイド図が中門を潜ったところに掲示されてました。
救馬溪観音縁起 (救馬溪観音HPから抄出)
当山は飛鳥時代、修験道の開祖「役の行者」によって開山、その後天暦7年(953年)、空也上人が自ら刻んだ観音像を奉安。後に熊野
詣でに行幸された鳥羽天皇が堂宇を建立され、寺名を「岩間寺」といった。中興の祖は、小栗判官こと小栗小次郎助重で、足利持氏の
軍に破れ逃れた後、仏門に帰依し各地を巡錫中「瘡痍」にかかった。妻照手姫と紀州湯の峯温泉に湯治に向かう途中、突然愛馬が病に
冒され動けなくなってしまった。この時、当山の霊験あらたかなることを聞き、参拝祈願すると馬の病は忽ちに全快、無事湯の峯にた
どり着くことが出来た。愛馬が救われたことに感激した小栗判官は応永33年 (1426年) 堂宇を再建「救馬渓観音」と名付けたという。
▼参道の途中に咲く白い曼珠沙華。
▼もう少し行くと右に曲がります。
▼いきなり七福神。ちゃんと七人いらっしゃいますヨ。
▼前鬼後鬼を従えた役行者も。
▼いつもお目にかかる小角さんとはチト違う雰囲気、お顔など相当リアルです。
▼どうです、このお顔。
▼こんな方もいらっしゃいます、倶利伽羅不動尊。
▼中門の手前に厄除地蔵さん。
▼これが読めんかったんですワ。
▼コンクリート造りの大きな建物の前に建っている中門。総ケヤキ造り、平成2年(1990年)建立。
左右に仁王さんが迎えてくれます。
▼阿形仁王さん。
▼吽形さん。
▼ここから本堂に向かいます。61段の階段があり、厄除階段として一段一段に般若心経の写経が納められているそうです。
▼観音さんの水口。
▼観音さんの水口は珍しいんじゃないですか。
▼やってまいりました本堂前の広場です。この広場は、コンクリート造りの建物のいわば屋上なんです。
▼鐘楼です。運が開ける開運、厄除の鐘。吊られてる梵鐘は径2尺8寸、紀南最大らしいです。
▼神馬がいました。
▼標高100m位の本堂広場からの景観。
▼本堂。欅造、大きな一枚岩の陀々鬼羅岩窟に建てられ、屋根は一枚岩と一体になっています。
▼本堂扁額。
▼本堂向拝の彫刻。
▼本堂内陣。
▼内陣奥ガラス障子の向こうにお厨子が見えます。キット本尊馬頭観世音菩薩はその中に。
▼これが本尊馬頭観世音菩薩絵姿(秘仏)。
馬頭観世音菩薩は12年に一度、午歳の初午の日のみ開帳。
(本尊写真はネットから拝借)
▼不動堂。重層、入母屋造、欅造で一枚岩の岩窟に建てられています。
▼不動堂扁額。
▼不動堂内陣。本尊大日大聖不動明王。脇侍は二童子。
▼慈母観音堂。
▼本尊慈母観音。
▼一枚岩に建てられている慈母観音堂。
▼清光大黒堂。チト仏堂のイメージがないと思うのはボクだけかしら。
▼扁額です。
▼大黒堂内陣。大小様々の大黒さんが祀られています。
▼こちら恵比須堂。施錠固し内部を窺うことは出来ません。
▼岩窟の稲荷さんにご挨拶をして救馬溪観音お暇です。
▼ご朱印です。
厄払いの古刹は各地にありますが、この救馬溪観音は巡りごたえあり過ぎのお寺で、岩山と一体になった境内で、参拝コースが色々
あり、すべて巡ることが出来ず、非情に残念な思いです。ボクの場合、厄に関わる色んな思いは、すでに過ぎ去りましたが、それに
関わらずこれだけの大寺、再チャレンジ訪問を誓って救馬溪観音をお暇しました。