土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

乙訓寺はボタンの名刹、しかし悲劇のお寺でもあります。

2014年08月12日 | 京都の古寺巡り


(2014.08.02訪問)

モミジのお寺から東に20分ほど、シトシト雨の中、ボタンの乙訓寺へ向かいます。
ボタンで超有名な花のお寺乙訓寺、昭和十五年、本山長谷寺から移植された二株の牡丹が、今や約二千株、
四月下旬から五月上旬頃に花を咲かせ、期間中は凄いことになるそうです。
今はもちろんそんなイメージは全くありません。


▼山門 (表門)。




[ 乙訓寺 ]
●山号 大慈山(だいじざん)
●寺号 乙訓寺 (おとくにでら)
●勅命 伝 推古天皇 (すいこてんのう)
●開基 伝 聖徳太子 (しょうとくたいし)
●開創 伝 推古天皇十一年 (603年)
●宗派 真言宗豊山派 長谷寺の末寺
●本尊 八幡弘法合体大師像(重文)
▲拝観料 境内自由 (紅葉時特別入山料500円) 朱印300円
▲拝観時間 8:00~17:00
▲http://www.eonet.ne.jp/~otokunidera/
▲ 京都府長岡京市今里三丁目14‐7 Tel.075-951-5759
▲阪急京都線「長岡天神」駅下車 阪急バス「薬師堂」下車徒歩5分
 阪急京都線「長岡天神」駅下車 徒歩15~20分


▼朱鮮やかな表門。一間一戸、四脚門、切妻造、本瓦葺。元禄八年 (1695年) 再建。




乙訓寺縁起 (乙訓寺HPから抄出)
継体天皇弟国宮舊地に、推古天皇の勅願で聖徳太子は、十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立。この寺
が乙訓寺である。延暦三年、桓武天皇がこの地に遷都されたとき、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築。
嵯峨天皇は、弘仁二年空海を別当にされた。空海事跡も多く、八幡神との合体像を造像したのが現在の本尊。
弘仁三年、最澄と密教法論、灌頂儀の契りを結ばれた。永禄年間、兵火により衰微したが、元禄六年五代将
軍綱吉は、堂宇を再建し徳川家の祈願寺となる。昭和四十一年、講堂や単独僧坊跡が発掘調査され、出土瓦
などにより平安期に隆盛を極めていたことがわかった。草創から一千三百有余年、時に盛衰はあったが大師
ゆかりの真言道場として今日に及んでいる。


▼参道。





▼地蔵堂。日限地蔵尊に日を限って祈願をすれば願いが叶えられるそうですよ。





▼地蔵堂扁額。





▼なれのはてと云っちゃなんですが、今のボタン園。来年春にはまた見違えるようになるんでしょうけど。





         ▼豆地蔵さんが大勢祀られている地蔵塔。





▼あ~ あ~





▼修業大師。





▼一種の絵馬なんでしょうか、カワイイお願いわらじ。





▼あ~ あ~ あ~





▼鐘楼。





▼梵鐘。元禄九年 (1696年) 名工藤原国次鋳造。先の大戦時に戦時供出となり、1968年に再鋳造された。





         ▼早良親王供養塔。



実の兄に殺された悲劇の皇太子、早良親王事件とは。
延暦四年、天皇寵臣藤原種継暗殺事件に連座し、親王の天皇擁立計画が露見、親王は乙訓寺に幽閉後淡路に
配流途中、無実を訴えるも憤死、淡路に葬られている。一説にこの事件は桓武天皇による早良排除の謀略と
いわれている。以後、天皇周辺での変死者が続き、疫病などが起こり、早良親王の怨霊と畏れられた。畏れ
た桓武天皇は早良親王を祀り、崇道天皇と追号されたのである。



▼本堂(大師堂)。本尊 八幡弘法合体大師像(重文)。
 桁行三間、梁間五間、単層、宝形造、本瓦葺、向拝一間付。元禄八年 (1695年) 再建。





▼本堂内部。





▼本堂前のお不動さん。





▼空海さん手植えという菩提樹。これでもかと云うほどの大木です。





▼毘沙門堂。本尊 毘沙門天立像。





▼モチノキも太くて大きいです。モチノキ科、樹高9m、幹周り2.93m、根周り3.55m、樹齢400年。





         ▼十三重石塔。





▼鎮守社石鳥居。





▼本殿。一間社流造、銅版葺。(屋根葺きの変遷 檜皮葺→柿葺→桟瓦) 元禄八年 (1695年) 再建。





▼裏門。一間一戸、高麗門、切妻造、本瓦葺、両脇練塀付。元禄八年(1695年) 再建。





▼御朱印です。




入堂出来ず、仏像にもお目にかかれず少しばかり欲求不満が残ったこの日の乙訓寺でした。
ボタンの華やかなイメージもこの時期勿論なく、ボタン園の夏草茫茫には一抹の淋しさ侘しさを感じます。
このお寺は長岡京造営以前から、かなりの規模の寺院だったらしく、乙訓地域で現存する最も古い寺院とい
われているそうです。
早良親王の悲劇は親王供養塔一基が佇むのみ、1200余年前の悲劇を感じることはありませんでした。



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