裏日記「B面」

工房しはんが日々、ふと感じたり、しみじみとふけったり、ぴんとひらめいたり、つくづくと考えたりしてること。

陸前高田ボラ紀行・3

2011年09月28日 10時33分27秒 | 被災地ルポルタージュ
まずすべきは、足の確保。
このボラセンから泥出しの現場までは、数キロもあるのだ。
徒歩行はもちろん無理。
同志となったとなりのおっちゃん二人組に話しかけ、ワゴンの後部に押し込んでもらうことに成功した。
この二人は、東京の町田から来てる仲良しご近所さんらしい。
テントで寝起きし、アウトドアの自活をしながら、数日間のボランティア参加中。
世の中には強くて楽しげなヒトビトがいるもんだ。
そんなこんなで、いざ出発。

途中、「奇跡の一本松」の脇を通り、その生命力に感動した。
この松は、海岸線に七万本も密生してた松原の中でただ一本、津波に耐えて生き残った、強くて孤独なコ。
樹丈が30メートルもあって、震災前から抜きん出てたらしいけど、あっち方に見えるユースホステルが身を呈して波から守ってくれたおかげで、奇跡的に助かったんだそう。
だけどいろんな理由づけの中でも、オレが信じるのは「意思」説ね。
やっぱしこのたたずまいは、どう考えてみても、神様からの「東北よ、がんばれ」のメッセージ。
その強い意志が、この松をがんばらせたのだと考えたい。
その点にも感銘を受けるけど、なによりもその凛とした美しさに見惚れたよ。
自然はすごいな。
・・・だけどこの奇跡も、風前の灯と言わざるをえないのがつらい・・・
一本松の塩枯れはかなり進んでて、幹は土気色、葉はまっ茶っちゃだった。
なんとか回復して長らえてほしい、と願わずにはいられないよ。
被災地のヒトビトのためにも、この日本の希望のためにもね。
さて、現場着。
高台に立つお寺の石段のふもとの側溝をきれいにせよ、というのがこの日に与えられたミッション。
しかし寺に着いてはみたものの、はて、側溝なるものの姿かたちが見えない。
聞けばこの辺りは、震災が起きた後の数ヶ月間は、海の底となってたらしい。
ようやく潮は引いたが、土地には海砂とヘドロが堆積し、溝という溝は埋め立てられ、平らな状態になってるという。
なるほど、と思い、まずは側溝の場所探し開始。
道路に積もった泥をこそげ取ってくと、「発見!」。
剣スコを突っ込み、砂質な泥を掻き出して、それがU字溝であることを確認した。
見つけたら、どんどん掘り起こして、長々と連なる側溝を復元してく。
まるで遺跡の発掘作業だ。
剣スコで泥をほじくり返し、角スコですくい出し、ネコで移送する。
泥といっても、海砂と汚泥の混合土がガチガチに固まったものなので、相当な力がいる。
しかも、至るところでがれき(生活用品など)が噛んだり、ごろた石が眠ったりしてて、なかなか順調にとはいかない。
被災地の草刈りなどをしててもわかるのだが、もともとあった土地の上に、汚泥が堆積し、そこにがれきや岩石が食いつき、その上を草が覆う、という構造になってる。
それらは重機ではなんともならないので、結局はひとの手でやるしかないのだ。
そして、まさにそのためにボランティアたちは集まってくるのだった。
雨は、降ったり、やんだり、強くなったり、そぼ降ったり。
カッパの外はびしょぬれ、内側は汗まみれ。
それでもみんな、黙々と作業を続け、時間を惜しみ、休むことを知らない。
発掘された側溝の底やサイドに張り付いた泥をこそぎ、ピカピカのコンクリのU字溝が現れ、それが長城のように伸びてく。
仕事の結果には充実感を覚える。
けど、まったく人手が足りず、たいした距離にはならない。
この側溝が付近住民の生活の役に立つ日は、ずっと先。
それでも、一千回もスコップを振るい、てんこ盛りのネコで定点間をひたすら往復する。
こうして、ちょっとずつ、ちょっとずつ、復興は進み、町はピカピカになってくのだった。

つづく

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
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