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徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

森繁病/小林信彦「日本の喜劇人」

2009-11-13 22:15:48 | Books
<いつか、渥美清のテレビ番組にゲスト出演して、変装してストリップを見にゆく小心なユーモア小説家を演じていたが、こういうインテリ役をやったら彼の右に出る者がない。
 すなわち、森繁は、二枚目半というタイプを自ら開拓したのであり、彼が念じていたとおり、<喜劇によし、悲劇によし>というユニークな役者として大成した。……が、『三等重役』から『夫婦善哉』へのチェンジが--すなわち、上質なコメディアンから性格俳優への変化が、あまりに鮮やかだったので、その後の日本の喜劇人にとんでもない異変を起こさせたのである。
<森繁病>と私が呼んでいるこの病状は、まず、一人の喜劇人が、彼を売り出すに至った原因である<動き>を止めることに始まる。パーキンソン氏病みたいなものである。(中略)--これが第一期。
 第二期は、その存在理由であるところの珍芸・扮装・奇抜な動きを全部やめてしまい、それをどうしてもやらねあならぬときは、しぶしぶ、ふてくされてやる。
(まだ、こんなこと、やってます……)といった、照れた、しかし、若干、誇らしげな眼で、こちらを見る。
 第三期になると、赤ん坊を抱いたり、踊り子や花売り娘を遠くから眺め、夜道をとぼとぼと去ってゆくピエロといった役を、大張りきりで演ずるようになる。(中略)
 第四期--以上のような芝居は、チャップリンが……あるいはモリシゲがやったことであるからして、当然、そのタレントは人気を失ってゆく。(モリシゲは、運が良かったんだ!)と心の中で叫びながら。(中略)
 人を笑わせるという結果においては似ているかも知れないが、ジャック・レモンとジュリー・ルイスが、ちがうジャンルの人であるように、森繁は<別格>なのである。
 コメディアンから演技派に転身したという一点だけをとりあげて、他人がその生き方を真似ようとするのは、無謀、命とりというほかなく、森繁のインテリぶりを真似て、随筆を書いたり、涙ぐましい次第である。(しかも、森繁の長い不遇期間は計算に入っていないのだから、ムシがいい。>
小林信彦『日本の喜劇人』第三章 森繁久弥の影 新潮文庫より)

遺言執行人/高橋源一郎「ニッポンの小説 百年の孤独」

2009-10-12 19:18:51 | Books
<たとえば、シマザキトウソンという、詩人で作家だった青年は、キタムラトウコクという、同じように詩人で作家だった男の「遺言執行人」の役をかってでました。コバヤシヒデオという青年も、同じように、ナカハラチュウヤという青年が亡くなった後、「遺言執行人」として、大いに活躍しました。そして、戦争のような大きな事件が起こり、人が大量に亡くなると、当然のことながら、「遺言執行人」も大量に現れることになるのです。
 そして、そういった「遺言執行人」たちに、「我々は死者の代弁をしているのだ、死者のいうことに、つまり我々のいうことに耳をかたむけろ」といわれると、誰の代弁もしていない、誰の「遺言」も預かってはいない我々は、なんだか恥ずかしくなって、頭を下げ、眼を閉じて、しばらくの間、神妙な面持ちで、彼らの発言を聞くことにするのですが、内心では、「いつ、話が終わるんだろう、早く終わらないかなあ、夕方から、見たいテレビの番組があるんだけど」などと思っているのです。>
(高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』「死んだ人はお経やお祈りを聞くことができますか?」より)

一方、ケニアでは/中島らも「ガダラの豚」

2009-08-17 03:44:48 | Books
たまたま今朝まで『ガダラの豚』を再読していたんだけれども、やはりケニア脱出行までは時間を忘れるほどの最高のエンタテインメント。なんだけど、最後のアレは描写だけが先走っていてもったいないやね。
それはともかく『ガダラの豚』(1996年)の中で現代の呪術として、物語の大きなキイワードになっているのが<情報>と<テレビ>だった。登場人物を次々と惨殺し、主人公たちを追い詰めるスプラッターの館と化すのが<テレビ>(局)だった。らもさんにそんな意識があったのかはわからないけれども、このブログのVIBE RHYMEで近田さんの言葉(1995年)を引用しているんだが、やっぱりその当時、心ある人たちにとって<テレビは敵>だったかもしれない。<呪術的>、<呪術敵>と言ってもいいかもしれない。
それから約10年ぐらい経った。目の前の小箱がテレビに取って代わって呪術的な存在になり、ネットはテレビに替わって呪詛し続けている。いや、テレビ(に出ている人を含めて)が呪詛の対象でさえある。ついさっきまで見ていたモニターでは、全国各地のシャーマンたちが<居酒屋にワインを持ち込んで断られた某作家が、著作で店長を罵り、自分たちの人脈を誇る様>を呪っていた。まあ、呪われる方も呪われる方なんですけど(もちろん呪術は呪いや祟りだけを指すものではないが…)。
ということで『ガダラの豚』という作品は実に今現在も有効なのだった。

一方『ガダラの豚』では舞台のひとつとなった呪術の故郷、ケニアでは…。

<【ナイロビ=共同】ギネスブックに世界最高齢小学生として認定されていたケニア人男性キマニ・マルゲさん(90)が14日、胃がんのため、卒業まで2年を残して同国内で死去した。ロイター通信や地元メディアが伝えた。マルゲさんは1950年代に英国からの独立闘争を戦った秘密結社の元戦士。家庭の事情で通学できず読み書きができなかったが、ケニア政府が2003年から義務教育を無料化したため、「聖書を読みたい。お金を間違えずに計算できるようになりたい」などとして04年1月から通学を始めた。>(中日新聞 8月15日付

生前、マルゲさんは「大学を出て獣医師になるのが目標」と話していたそうだ。
それにしても、ものすごい人生だ。しかも50年代に秘密結社の戦士だったということは、その人生の半分以上はニュースには書かれていない「お金を間違えずに計算できない」人生を送っていた可能性がある。
しかし、それでも将来への夢がある。
驚くほど短い人生もある反面、太く、長い人生もアフリカにはある。

(追記)
ワインの居酒屋持ち込みはあり?(J-CASTニュース 8月17日

浮世には融通や寛容といった「糊しろ」は必要だと思う。そして、確かに某作家が愚痴っているように、そういう「糊しろ」は失われつつある。ただ失わせたのは自分かもしれない。
簡単に「絶対」とか「許さない」とか言っちゃう人、増えたね…。

ボールペンなりの幸福/ダグラス・アダムス「銀河ヒッチハイク・ガイド」

2009-07-23 22:27:34 | Books
<宇宙のどこか、ヒト型生物、爬虫類型生物、魚型生物、歩く樹木型生物、超知性を備えた青い色の生息する惑星とならんで、ボールペン型生物だけの住む惑星がある。ちょっと目を離すとボールペンが消えてしまうのは、この惑星へ向かって旅立つからなのだ。かれらは人知れず空間のワームホールを抜けて逃げていく。その惑星に行けば、ボールペンにしかわからない刺激に対応した、特異なボールペン型ライフスタイルを享受できると知っているからだ。そしてそこで、かれらはおおむねボールペンなりの幸福な生を送っているという。>
ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』安原和見・訳 河出書房新社) 

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2009-07-14 14:08:59 | Books
「夏目漱石財団」なるものについて(夏目房之介の「で?」)

世知辛い世の中で、房之助さんのスタンスは実に格好いいし、正しい。

世知辛くなった理由のひとつ。
極端な話、良い悪いは別にして中国のネズミーランドの件も、日本人はこういう逞しさは失っちゃったなあと思う。そしたら失われた逞しさは抜け道という名のアンダーグラウンドに潜るしかない。

闇の女王、浅川マキは<暗闇がなくなった>といった。そういうこと。
B級もサブカルも、もうどこにもない。
で、最近聞いた話によるとすっかりB級とサブカルを喰い物にしたA級のプライドだけはとっても肥大化しているらしい。嫌な話だ。

平岡さん

2009-07-10 04:46:14 | Books
<評論家の平岡正明さんが死去 ジャズ、落語など幅広く執筆:ジャズや落語など幅広いジャンルで活躍した評論家の平岡正明さんが9日午前2時50分、脳梗塞(こうそく)のため横浜市保土ケ谷区の横浜市立市民病院で死去した。68歳。東京都出身。葬儀・告別式は13日午前11時から>(共同通信 7月9日付

いよいよ20年前のような状況になってきた。
こりゃ本格的に時代の変わり目かな…。

平岡さんには、中洲通信2002年8月号の特集「評するとは何か?」に登場していただいていた。この頃はオレは他社の編集部にいて、ワールドカップが終わったらどうすっかなあ…と思っていた時期で、本誌の編集には関わっていなかったので、平岡さんに面識はない。ただ去年、自由国民社の大越さんからは「今、平岡さんが面白いから早くナカスでやれ」と強く言われていたので、タイミングを逃してしまったようで、実に残念。会ってみたかったなあ。
ちなみに、この号には平岡さんのほかにもナンシー関さんの生前最後のインタビュー(マジ)も掲載されてたりして、結構貴重な内容になっている。

平岡さんのご冥福をお祈りします。

ポップ・アイ

2008-10-08 01:27:41 | Books
<POP・EYE>。やはり、今でもとてもクールでいい雑誌名だと思う。

「POPEYE」がオヤジ雑誌として復活するのだという。
その名も「POPEYE OilyBoy(ポパイ・オイリーボーイ)」。コンセプチュアルな誌名は魅力的だけれども、正直なところオレは「POPEYE」やHDPのような雑誌には(一部連載以外は)縁も、興味もなかった男だった。だからこそ、そういう雑誌が今の時代にどんなコンセプトを打ち出してくるのか、非常に興味深い。世代的に「平凡パンチ」に対する「団塊パンチ」はいまいちピンと来なかったのだけれども、あの「POPEYE」がどう<(自称)成長>するのか、これはたぶん感じるところが大きいだろうと思うのだ。

「POPEYE」というと思い出す書籍が二冊ある。赤田祐一の「ポパイの時代 ある雑誌の奇妙な航海」(太田出版)と、同時期に読んだ西村繁男の「さらば、わが青春の『少年ジャンプ』」(幻冬舎)。ともに雑誌黄金時代を謳歌した両誌の物語。しかし、どちらかというと、物語の主役である伝説の編集者である木滑良久氏や石川次郎氏よりも、松山猛さんや北山耕平さん、ジャンプで言えば当然西村繁男氏ではなく、編集部から排除され、その後『アストロ球団』などの原作者として雄々しく復活する遠崎史朗さんに強いシンパシーを感じた。特に北山さんの批判は辛辣だ。これを克服しなきゃ<大人の>「POPEYE」もできないと思うんだけどな。
その時代、リアルタイムで読んでいたわけではないけれども、批判者、異分子である彼らが編集部と道を分かつことで、80年代以降、オレが興味を持てない「POPEYE」が出来上がっていったわけだ。

まあ成長した「POPEYE」っていうのは、今まで「ブルータス」や「ターザン」だったと思っていたんだが……ひとまず12月が愉しみ。

どこかで読んだことあるような、みたいな

2008-09-29 11:08:04 | Books
第3回日本ケータイ小説大賞:あたし彼女

あたし彼女のガイドライン(アルファルファモザイク)

この文体、

この雰囲気、

どこかで

読んだこと





みたいな。

何となく、

あたしナツコ。高円寺の女

いざまんさんはお元気だろうか。

そして2005年5月号

もう3年前かァ……。

で、

パンクは必然なんだけど、

おじさんたちに受容されちゃう

パンクってのも

何だかな、

みたいな。

東京はまだか/みうらじゅん「色即ぜねれいしょん」

2008-09-28 03:29:44 | Books
昨日の向井康介さん取材の関係で、みうらじゅんの『色即ぜねれいしょん』を読む。MJ好きにはお馴染みの青春小説なので速読、瞬読。小説版のラストシーンはどう考えても『アイデン&ティティ』のイメージそのまんまなのだけれど、向井さんと田口トモロヲ監督がこれをどう脚色して、演出するのか、非常に楽しみ。
MJってホントにロック思想家である。

にしても。関西の青春は井筒監督やMJに任せておいて、トモロヲ監督もそろそろ自分語りで70's、80'sの東京の青春を描いてもいいのでは…とか。

何が何だか

2008-08-25 06:07:49 | Books
静岡に一晩泊まり、翌日はSBSカップを途中まで観てから、エスパルスドリームハウスでナビスコ準決勝ガンバ戦のチケット購入。

江崎書店へ行って『パルちゃんとグランパスくんのほん。』と新聞の書評を読んだ藤沢周平のエッセイ集でも買って帰るか……と思っていたら、何で新刊本のコーナーにあったのかよくわからないのだけれども、小林信彦の『定本・日本の喜劇人』を発見してしまったので、9500円だけど勢いで購入(もちろん『パルちゃん~』も併せて)。橋本治の本を除けば、『日本の喜劇人』ほど繰り返し、断続的に、しつこく読んでいた本も少ない。オレとしては、小林信彦という人は松村雄策氏とのビートルズ論争で<何だかなァ>という感じの人になってしまったし、タケちゃんにラジオで批判されたときに謝っちゃった時点でアレなんだけれども、やっぱし執念といえるぐらいすごい本である。渥美清の『おかしな男』、横山やすしの『天才伝説』などの評伝、昭和30年代末に連載していたタレント列伝などを加えた、決定版ということらしい。
『定本』のあとがきを読んで(特に自らゴチックにした部分…)、相変わらず<何だかなァ>とは思うのだけれども、まあ作家の人格と作品は別物なので、その辺はどうでもいいです。
ただ、「笑学百科」と重複する部分があるためか、80年代以降(つまりタケちゃん)のパートをすっぱりと改稿しまったのは、作家としてのプライドもあるのだろうけれどもいかがなものか。あえて<トリックスター>と評価した芸人ビートたけしの90年代以降は喜劇人でもなく<森繁病>とも言えないわけで、じゃあ<エンタティナー>というものちと乱暴かと思うのだが。

で、東京へ戻ろうとしたら、また新幹線が熱海-小田原間の豪雨で止まる。どこがどうなっているのかさっぱりわからないが、予想通り2時間を超えない程度に停車(2時間以上停車すると払い戻しに応じなければならないんだな、これが)。
熱海-小田原間でディープインパクト級の津波が来たという話も聞かないし、熱海-小田原間で洪水が起こってボートで避難している人も見かけなかった。

安全第一なのは重々承知だが、ディフェンシヴな風潮だなあと思う。
まあ、オフェンシヴになったらなったで、危なっかしくて困るんだけども。

ちなみにエスパサポとグラサポの皆さん、『パルちゃんとグランパスくんのほん。』は、なるべくクラブのショップではなく、普通の本屋さんかウェブ本屋さんで買いましょう。
それも清水と名古屋とJリーグの宣伝です。

ヴァラエティブックの極み/小西康陽「ぼくは散歩と雑学が好きだった」

2008-08-10 17:46:32 | Books
遅まきながら小西康陽「ぼくは散歩と雑学が好きだった。小西康陽のコラム1993-2008」(朝日新聞社)購入。
小西氏も<小西康陽が小西康陽になるために読んだ100冊>や<あとがき>で挙げている植草甚一の「ワンダー植草・甚一ランド」や小林信彦の「東京のロビンソンクルーソー」のような段組、見出し、ブックデザイン(さらには峰岸達氏がイラストを書いている!)。前から読んでも後ろから読んでも斜めから読んでもオッケーなヴァラエティブックの真骨頂。ときどきこういうブックデザインをしている書籍を見掛けることがあって、おそらく編集者かデザイナーは「東京のロビンソンクルーソー」や晶文社の書籍をイメージしているんだろうなあと思う。実は数年前に知野二郎さんと作った本も、まさにそのイメージで構想していた。思ったよりも時間がなかったこと、予算がそれほどなかったことなど、諸々のこともあって思い通りにはならなかったけれども、溢れるようなヴァラエティ感とヴォリューム感だけは出したつもり。
またこういうコラムを再編集したヴァラエティブックを作りたいといつも思う。
18歳か19歳の頃、古本屋で「東京のロビンソンクルーソー」を見つけたときの影響がまだ残っている。もうカヴァーはぼろぼろだし、繰り返し開いたせいで製本も怪しくなっているけれども、いまだ本棚に残っている。

形式は内容の延長に他ならない/原成吉「野性の実践者、ゲーリー・スナイダー」

2008-06-26 21:06:44 | Books
<ギンズバーグがケルアックの即興の詩学について語ったあと、フロアーから「フリー・ヴァース(自由詩)とはいったい何なのか?」という質問が飛び出してきた。ステージにいたパネリストは顔を見合わせ、互いに遠慮している様子。フロアーも静まり返っていた。そのとき、パネリストの一人であったゲーリー・スナイダーがマイクに向かってこう言った。

おしっこ

きょろきょろ

滝の音

 数秒間の沈黙。それから場内からどよめきと拍手がおこった。(中略)この三行は、知覚の動きを記録したものだが、各行をつなぐ沈黙の長さが詩を創り出している。水の音がどこから聞こえてくるのか、その場所を発見するまでの間は、各人違ってよい。大事なのは、その過程を記録することである。まさに、「形式は内容の延長に他ならない」という、チャールズ・オルスンの「投射詩論」を思い出させるような答えだ。>
(野性の実践者、ゲーリー・スナイダー/原成吉 『現代詩手帖』1996年3月号特集「ゲーリー・スナイダー アンチ・ビートの詩人」)

大型本の愛し方/「ジャパン・アヴァンギャルド--アングラ演劇傑作ポスター100」

2008-05-22 23:54:51 | Books
現在刊行されている紙製の出版物は、ペーパー・メディアではあっても、書物であるとはいい切れない。繰り返すが、書物は容器(うつわ)であり、容器である以上、そこに予約された役割は<内容を盛ること>のほかに考えられない。簡単にいえば、書物が内容を輝かせるのである。(中略)もしも名書を定義するのに、美的観点だけでなく、容器としての完成度を加味するとすれば、第一に名書は読む者を呑み込む吸引力を持たねばならない。(中略)読者を頭から食いつくしてしまうほど強力な容器。とすれば、書物はやはり、人間を食えるだけの大きさを、とりあえず備えていなければならない。(『本の愛し方 人生の癒し方 ブックライフ自由自在』荒俣宏/集英社文庫

そこで荒俣さんは18世紀、19世紀の<名書量産時代>の“サイズ”として半畳ほどの書物を例に挙げるのだが、さすがにそんなものを個人で所有するのは難しい。そこでオレは、荒俣さん曰く<家畜化された20世紀の書物>を手にするしかないのだが、今日購入したのが『ジャパン・アヴァンギャルド--アングラ演劇傑作ポスター100』。半畳書物とは比較にならないが、一応A3なので21世紀的にはこれも立派な大型本。60年代から70年代の小劇場運動を、文字通り飾った公演ポスターが100枚収録されている。日本の演劇ポスターの革命時代の名作揃い。その意味ではもっと重厚な装丁でもよかったかもという感じもするもだけれども、これは立派に<内容を盛っている>でしょう。このポスター群の当事者である唐十郎、横尾忠則をはじめとして、まだまだ現役の劇作家、アーティストが多いのも凄いことだけれども、世界(世間)に喧嘩売ってる感じがいい。

VIBE/『VIBRASTONE歌詞集“VIBE RHYME”』

2008-05-11 06:04:55 | Books
久々にVIBRASTONEを聴く。

<ルールをよく守れだって
ルールはいつだって勝手に変えていいってルールだもん
そんなのインチキじゃーん>

という「パブリック・エネミー」のフレーズは、17年前と変わらず現在もダイレクトに響く。まあ元々歌詞カードの存在しないバンドだったのでネット上でも、ほとんど歌詞を見つけることはできない(聴きゃいいんですが)。ということで、「金っきゃねえ」と「パブリック・エネミー」の2曲を全文引用しちゃう。どうしても聴き取れない部分がいくつかあるのだが、どなたか『VIBRASTONE歌詞集“VIBE RHYME”』(アイ・セクション)譲っていただけないっすかね~。復刊ドットコムでも、この歌詞集の復刊はさすがに無理だろうなあ……内容的にも。
近田さんは相変わらず活躍中ですが、バンドが自然消滅して、もう14、5年前になる。ラップだから当たり前だけれども、一点突破全面展開で饒舌だったバンドが、インストで終焉を迎える(Wikipediaより)というのは何やら時代を象徴しているようにも思える。もっと聴かれていい生音ヒップホップ・バンドだ。
歌詞をそのまま受け取るかどうかは個人の判断に任せますが、近田さんが「考えるヒット」(無論、それ以前からも)で日本語の歌詞への言及を続ける理由がわかるわな。

(5月20日編集)
<金っきゃねえ>

<パブリックエネミー>

<NATIONAL>

<Hoo!Ei!Ho!>

<[ハードコア]憎悪>