”後期野次喜多衆”はついに「亀山宿」(亀山市)に入って来ました。
歌川広重の描いた亀山はご覧の通りですが、国道一号線を走っていると、こんなに急な坂道には出会いません。 それに真夏に書いたブログには余りにも季節感を無視しているとお咎めを戴きそうではありますが、恒例(?)により掲載します。 この絵を書いたと思われる場所については、そこを通った時に書こうと思ってます。
取材日:2013.07.25(木)
① 「若一大神社」
ここは県の「みえ歴史街道」には掲載されていませんが、 寺を探している時あったので、入ってみたもの。
② 「海善寺」
③ 地蔵堂
辺りに在り合わせの石を並べたような地蔵さんですが、県の「みえ歴史街道ウオーキングマップ」に載っていたので尋ねましたが・・・・・・?。 しかし、花が添えてありましたから、それなりの何かがあるものと思われます。
④ 関西本線・井田川駅
旧跡ではありませんが・・・・。
⑤ 「西信寺」 真宗高田派
⑥ 「正福寺」
⑦ 「谷口法悦題目塔」
元禄年間(1695~98)に谷口法悦が建立。正面に「南無妙法蓮華経」と、右に「後五百歳中廣宣流布」、左に「天長地久國土安穏」と刻まれている。 亀山市指定文化財。
法悦とは、江戸時代に京都にいた、熱心な法華経信者の一族であること以外はわからない。
「題目塔」とは、南無妙法蓮華経と刻まれた鎮魂を目的とする供養塔の事らしい。 法悦は百基を越える題目塔を建立したほどに熱心であったとされる。
⑧ 「和田道標」
元禄3年(1690)に建てられた県内東海道中最古の道標。 「従是神戸白子若松道」と書かれている。 市指定文化財。
⑨ 「幸福寺」 真宗高田派
⑩ 「井尻道の道標」
⑪ 「福善寺」 天台真盛宗
⑫ 「和田神社」
⑬ 「石上寺」 真言宗
796年に大和国(現奈良県)石上神宮の神託お受けた紀真龍(きのまたつ)が、那智(現和歌山県)の熊野那智大社をこの地に勧請したと伝える。 後に鎌倉幕府の祈祷所となり、広大な土地が寄進されたが、織田信長の兵火に遭って衰微し、江戸時代初期に小堂を建て再興したという。 寺に伝わる「紙本墨書石上寺文書」(県文化財)は南北朝時代のものが多い。
かつては壮大な伽藍を有していたと伝えられるそうだ。
⑭ 「和田一里塚」
日本橋から104番目、つまり104里(約406km)の一里塚です。
野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長9年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。かつてはエノキが植えられており、昭和59年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。 亀山市教育委員会
この後は、亀山市の中心部に入ってゆきます。 それは次回に・・・。