マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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山田町杵築神社八朔座

2012年11月17日 08時51分27秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市山田町の杵築神社で行われる秋祭りの「でんでらこ」。

なぜにその呼称であるのか判っていない。

宵宮の晩に大きなとんど松明を境内で燃やす。

その直前に行われるカシの木を引っぱり合い。

子供が作法する行事である。

その行事に先立つこと一か月前。

かつては旧暦の八月十三日だったそうだ。

それは満月の二日前だとも云う。

当時の暦は知る由もないが、いつしか敬老の日の9月15日に行われていた。

ハッピーマンデーの施行によってまたもや催事日を移した八朔座の行事。

かつては「むかしよみや」とも呼ばれていたようだ。

杵築神社の境内には三つの神殿がある。

中央に位置するのが本殿。

明治以前は牛頭天王社と呼ばれていた。

明暦二年(1656)八月吉日に寄進された石燈籠には牛頭大王の刻印がある。

「奉寄進 山田邑 牛頭天王御前」だ。

素戔嗚尊を祭神として祀られている証しでもある。

もう一つの石燈籠には「牛頭天王 山田村中 宝暦五年(1754)」もある。

阿吽の像には「嘉永元年(1845)の銘がある。

歴史を物語る刻印である。

それはともかく、境内の二社。

右の小宮は夏祭りのときだけに御供を供える。

八王子ではないだろうかと宮司が話す。

一方、左側に大きな神殿がある。

造りは本殿と大きく異なる。

村人の話によれば矢田新邑にあった本殿を譲り受けたという。

移転時代は不明だが、その社はかつて松尾の神さんを祀っていたと云う。

八朔座のこの日だけは神さんがお戻りになると云って神饌を供える。

この日は朝から神社境内のみならず松尾寺へ向かう道も清掃してきた村人たち。

松尾寺から神さんが降りてくるので草刈りをしていたという。

一旦は家へ帰って汗を流して再び神社に集まった村人たち。

「昔はここにいやはってむかしよみやをやっていた」と話すA氏。

日本最古の厄除け霊場である松尾寺と深い関係にある山田の地であった。

松尾山に鎮座する松尾山神社は松尾寺の鎮守社。

松尾大明神を祀る。

明治時代の初めに神仏分離令によって山田の地に遷宮された。

その場所が杵築神社である。

遷座された社は本殿の左側。

松尾寺の神さんを祀っていたという社がそれである。

狐狸もあったという山田の遷座地であったようだ。

昭和32年に解体修理して松尾山神社は元の松尾山に復興創建した。

そうして山田の地に遷されていた神さんは再び元の場所に遷ったというのである。

それからは杵築神社に祀られていた社へは参ることがなくなった。

「昔はここにいやはってむかしよみや・・・」という件は、当時の祭典を云うようだ。

神さんが通る道は奇麗にしなくてはならないから清掃する。

いわゆる清めの道造りなのであろう。

かつては寄付集めをしながら太鼓台を担いでいたそうだ。

提灯を持っていたというから夕刻以降であったかも知れない。

そうこうしている頃には小泉神社の宮司と松尾寺の僧侶がやってきた。

この日の祭典は「八朔座」。

始まるまでは4人のトーヤ(当家)は設営にせわしく動き回っていた。

拝殿の両座に一つずつ椀の膳を置いたあとは社に御供を供えた。

集まった氏子は26人。

そこには法被を着た子どもたちもいる。

共に神事に参列する。

子どもたちは秋祭りの「でんでらこ」で重要な役目を勤める子たち。

この日はお披露目の式典でもある。

神事は一般的な式典だが、松尾山神社の元社に対しても御供を供えることに違いがある。

御供はセキハン(赤飯)、洗米、塩、酒などだ。

宮司が拝礼される古社。

それから本殿に向かって祝詞を奏上する。

玉串奉奠なども本殿である。



松尾寺の僧侶も玉串を奉奠する。

神事を終えれば拝殿に場を移す。

円座に座った氏子たちは右と左の座に分かれる。

年齢順の席になっている。

上座に登るのは宮司と僧侶。

直会に配膳するトーヤたち。



カワラケに盛るのはジャコと共に煮たメイ(和布)料理。

ごっつぉのメイは手に入らなければヒジキになることもある。

今年はそうであった。

膳にはトーフの汁椀も盛られる。

湯とうに入れておいたトーフが細かく砕いておく。

でなければ湯とうの口から出てこない。

手でぐちゃぐちゃにするのだという。



予めに料理しておいたトーフ汁を湯とうに入れるトーヤ。

それを座の人らに注ぐのはトーヤだが、お神酒は子どもたちだ。

一人、一人の座に回ってお神酒を注ぐ。

足元は草鞋である。

それをよばれる氏子たち。

宮司や僧侶も交えてくみ交わす直会である。

かつては大きなニギリメシだったと云うセキハン。

当時のニギリメシはキナコと塩を塗して食べていた。

それにはアズキ(或いはササゲ豆)もあったというモチゴメのセキハンはアカゴハン或いはアカメシとも呼ばれていたようだが、現在はお店で購入した調理品。

戸数が40軒の山田町。

その数を作らなくてはならなかった。

時間、労力を簡略化されてお店のセキハンになったそうだ。

(H24. 9. 9 EOS40D撮影)


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