マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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榛原篠楽・秋の彼岸の薬師さん

2017年05月20日 09時35分49秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
彼岸の中日に近い日曜日は白山神社境内の薬師堂内で数珠繰りをしていると聞いて宇陀市榛原の篠楽(ささがく)を訪れた。

お堂には大勢の人たちで埋まっていた。

連れてきた子どもたちも座っている。

本尊は薬師如来坐像である。

大字篠楽は明治14年に西にある大字篠野と東の大字極楽寺が合わさってできた大字である。

今ではその名を呼ばずに篠野は上垣内。

極楽寺は下垣内で区分けしている。

その際、大字極楽寺の氏神であった八幡神社を篠野の白山神社の摂社として遷したが、薬師堂は元々から大字篠野に存在していたものだという。

本尊は襖の奥に座している。

その襖に掲げた掛図は二副。

右に十三仏の来迎図。

左は涅槃図を掲げていた。

また、床の間前には大日如来坐像の掛図も掲げる。

かつては3升のオニギリを供えていたが、今は子どもの好きなお菓子になった。

ローソクに火を灯すのは当番さん。

本尊の前に座った村導師が打ち鉦をひと叩き。

それが合図で始まる般若心経の唱和。

前月の8月24日に行われた地蔵さんの祭りと同様に一巻の般若心経を唱えた。

終りも合図は鉦叩き。

次に行われるのが百万遍数珠繰りである。

念珠を広げて鉦を打つ。

カーン、カン、カンの甲高い音色が堂内に響き渡る。



導師が打つ鉦の調子に合わせながら、なむあい(み)だ、なむあい(み)だを繰り返す。

なむあい(み)だ念仏は甲高い鉦の音で打ち消される。



その鉦は3本足の伏し鉦。

「室町住出羽大掾宗味」の刻印がある同記銘の鉦はこれまで多くの地域で拝見してきた。



大和郡山市の杉町・南郡山町・伊豆七条町・額田部南、奈良市の今市・南田原町、桜井市の小夫、大淀町の畑屋、宇陀市榛原の戒場である。

ほとんどが名前だけの刻印であるが、大和郡山市の伊豆七条町が所有する鉦は「安永八巳亥年二月 伊豆七条村 勝福寺什物 京室町住出羽宗味作」とあった。

安永八巳亥年は西暦で換算すれば1779年。

今からほぼ240年前になる。

伊豆七条町の手がかりしかないが、貴重な年代記銘である。

ゆったりとした数珠繰りに大きな白い房が前に来れば頭を下げる。

連れてきた子供たちも真似をするかのように頭を下げる。

数珠繰りは反時計回りである。

数珠繰り回数は10回。



その数を数えるのは算盤玉のような数珠珠である。

当番さんはひと廻りする度に珠を移していく10珠分である。

始めは気がつかなかったが、回数が増えるにつれレンズでとらえる眼が慣れてきた。

ふと、導師に動きが見えた。



撞木を盛った右手は鉦を打っていた。

ときおり見え隠れする左手の動きである。

実は導師も数珠を繰っていた。

器用に数珠を繰る導師に感服した。

数珠繰りを終えたら束ねた数珠で背中を撫でる身体堅固。

ありがたい身体堅固は一人ずつ。

背中を丸めて手を合わせる。

「かないあんぜん しんたいけんごー」と言いながら背中を撫でるようにさすってあげる。

ご加持である。

なんとも言えない気持ちになるのである。



何故か男の子は耳を塞いだ。

何を思ってかは敢えて聞かなかったが、その恰好を見ていた女の子は微笑んでいた。

10年前までは家で作った煮しめを供えていた。

旬の惣菜やおかずも供えた。

御供下げの煮しめや総菜などはお皿に入れて持ち帰る。

供えたオニギリも載せて持って帰った。

オニギリはトーヤとも呼ばれる2軒の年当番が負担、調製していた。

オニギリのお米は2軒で2升。

塩加減して俵型に握ったオニギリに振りかけるのはキナコと黒ゴマである。

握ったオニギリはコウジブタに盛って運んだ。

その時代はもっと多くの子どもたちがいたそうだ。

ちなみに元極楽寺と呼ばれた下垣内でも彼岸に法要をしているという。

もしかとすれば数珠繰りもあるかもしれない。

なお、十三仏来迎図は新仏がある家が持ち帰って仏壇に掲げていると話していた。

それからしばらくは堂内で下げたお菓子とお茶で直会。



背中をさすってもらった子供たちはお堂を抜け出して外で遊んでいた。

(H28. 9.25 EOS40D撮影)


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