マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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笠置町切山八幡神社・節句のヒシモチ御供

2018年02月27日 09時26分53秒 | もっと遠くへ(京都編)
2月2日、架けた電話に話してくれたのは切山八幡神社の社寺総代のKさんの奥さん。

4月節句のヒシモチは社寺総代の3人が分担して、白桃蓬色の三色餅を準備するようなことを話してくれた。

形を調えるのはどこで、どのようにされるのかは、判然としない回答であったが、いずれも菱型に切断して供えるらしい。

京都府相楽郡笠置町切山を訪れるのはこの日が初めてではない。

訪れたのはこの年の1月15日

切山で行われている富士垢離行事の下見に訪れた日である。

富士垢離は小正月と8月初めの日の年2回と伺った。

尤も小正月の富士垢離はとても寒い時季。

切山では寒垢離と称している。

寒垢離を終えたばかりの社寺総代が話してくれた年中行事の一つに2月3日のヒイラギイワシがある。

いわゆる立春節句の前日の節分にしている習俗である。

メザシ(イワシ)の頭をチンチンガラガラの名で呼ぶこともある枝豆の軸の先に挿して、メヒイラギとともに切山八幡宮の各箇所に供えるという風習。

行事にあげてもいいが風習の方が相応しいような気がする。

もう一つが桃の節句の呼び名もある4月3日の行事。

その日はヒシモチを供えていると聞いたのでこの日に訪れた。

着いた時間は5分前。

寺社総代や数人の氏子が神社にいた。

これまで年中行事を務めていたのは二人の新旧宮守さんに四人の寺社総代。

さらに引退した宮守経験者を入れた七人組で祭祀を務めていた。

務める経験者は高齢の身。

次世代を継ぐ村人も少なくなり、宮守制度を廃止したのは一昨年であった。

人が少なくなった今は、四人の寺社総代が務めることにした。

宮守制度であれば順に繰り上がっていくことになるのだが、いなければ四人で継続するしかない。

その日の事情もあるから四人が揃うことも難しい。

かつての経験者も寄せて祭祀を務める。

代表の寺社総代は昭和11年生まれのKさんは今年で81歳。

本社殿を建替えた宮守経験者の大工棟梁は昭和8年生まれの83歳。こ

の日の節句にヨモギのヒシモチを作ったのは昭和10年生まれのNさんは82歳。

前もって準備した蕾付きの桃の花枝は何本もある。

切山の八幡神社は正面に八幡宮。

末社は右に高良神社。

左に御霊神社がある。



それぞれの社殿の両側にある花立ての器に盛る桃の花。

花立ての器が信楽焼。

切山よりそれほど遠くない地にある陶器作りの里。

信楽焼で名高いのは大きなタヌキである。

榊を立てた隙間に差し込む。

末社はもう一カ所ある。

本社殿より数百メートル離れた場に鎮座する浅間神社である。

浅間神社に参拝するのは先に挙げた富士垢離のときである。

ここも同じように榊を立てている花立てに桃の花を添える。



どこからともなく大きな音が聞こえてくる。

その音源は携帯ラジオだった。

大音響にしているのは鹿威しならぬ、猿威し。

ここら辺りは猿が生息する。

笠置町の切山だけでなく加茂町の銭司もそうだった。

後年にギャーギャーと叫んでいたのを目撃した地は木津川上流にあたる南山城村の北大河原だった。

銭司で目撃した猿は大型。

まるではぐれた親分のような身体つきだった。

のっそりのっそり集落の道を歩く猿。

畑に入っては食べごろになった作物を荒らしまくる。

数メートルしか離れていないところにいた。

堂々と動き回る猿は睨みをつける。

山に獣はつきものであるが、一番怖いのは猿だという。



半折りした奉書を敷いた折敷に載せる2色のヒシモチ。

下がヨモギを混ぜて搗いたヒシモチ。

クチナシを用いて赤い色にしたヒシモチは上段に重ねる。

その上に丸餅を載せて三段。

かつては中層に白い餅があった。

もちろんヒシモチの形である。

ちなみに昭和8年生まれの大工棟梁家では色粉を混ぜて桃色のヒシモチを作ったそうだ。

そして、最上段に蕾のある桃の花を添える。

憧れのヒシモチを拝見させてもらってたいへん嬉しく思う。

ヒシモチを作ってもってこられたのはNさん。

忙しければ作らないが、暇であれば・・と云っていた。

今年の3月に弟家にひ孫が生まれた。

ヒシモチは目出度い。

たくさん食べたいと孫が云うものだから作ったという。

ヨモギモチは粳米と糯米を挽いた米粉で作る。

割合は3対7。

粳米の繋ぎ、また、粘りがでるように割合を多くした。

搗いた餅はヒシ型のコウジブタに詰めて伸ばす。

厚さは2cmのコウジブタの大きさは一辺が40cm。

板は80cmもあると話してくれたが、菱形になるのやら。

ヨモギは茹でてから蒸す。

柔らかくなったヨモギを混ぜて餅を搗く。

それをコウジブタ内に詰め込んで包丁で切る。

搗きたては柔らかいからある程度固まってから切る。

昨年は上手くできたが、今年はできなかったと話す長老もいる。

昔は3月3日の節句にヒシモチを供えていたと伝わるそうだ。

ヨモギの若い葉が芽吹くのは3月3日では早すぎる。

もう少し、日が経たないと芽吹かない。

大阪市内に住んでいた私の子どものころの記憶体験でも4月だった。

都会ならまだしも山間地であれば気候の関係で遅い方になると思う。

先月の3月3日に取材した奈良県宇陀市大宇陀の野依で行われた上巳の節句のヒシモチ御供

ヒシモチ作りをされた小頭家が用意したヨモギはお店で購入した乾燥ヨモギであった。

本来は、生活する土地に生えているヨモギの新芽を摘み取り、冷凍保存したものを使用する。

冷凍庫ができるまではどうしていたか。

小頭家が云うには、土蔵保存である。

旧村に住まいする人たちは必ずといっていいほど土蔵がある。

また、芋を貯蔵する床下倉庫もあった。

一定温度で保つ冷温効果のある貯蔵庫は家近くにある崖に穴を掘っていたという人もいる。

おそらくは切山も同じようにそうしてきたのだろう。

ひ孫話しに出てきたコイノボリの支柱。

生まれたひ孫が初めて迎える端午の節句に揚げるコイノボリ。

その支柱は杉の木である。

初年は杉の葉をつけたままの支柱であるが、翌年は葉を刈ってカザグルマに切り換える。

長男が生まれたときもそうしていたと話してくれたのは社寺総代のKさんだった。



三段重ねのヒシモチ御供を供えるのは本社殿の八幡宮に末社の高良神社と御霊神社。



そして、境内外れに鎮座する浅間神社である。



その場、その場に供えたら一人の長老がやってきて、ローソクに火を灯して拝んでいた。



末社はヒシモチ御供だけであるが、本社殿は中央にヒシモチを据えて周りに神饌を並べていた。



三方に盛った品々はスルメにナスビ、ニンジン、キュウリなどの野菜もん。

お神酒に塩、洗い米も供えた場には金の御幣がある。

供える間にめいめいが先に参拝したら、神事を始める。



社殿を見上げる場に並んだ関係者は5人。

寺社総代が早速始める祓の儀。

頭を下げたら祓ってくださる。



そして、にわか神主役を勤める寺社総代は禊祓の詞を奏上する。

一人一人が捧げる玉串奉奠で終えた。

直会の場は社務所。

ゆったり寛ぐやすらぎの場でもある。

ふと見上げた玄関軒にあったヒイラギイワシ。

2月3日のトシコシ(年越し)行事に挿していたという。



それから何日目かわからないが、イワシの頭が消えていた。

たぶんに猿の仕業だと思うと呟いていた。

その日は飯および炒り豆を供える。

持ってきた豆を食べていたそうだ。

ヒイラギイワシはもとより、チンチンガラガラの名があるエダマメの枝軸も挿す。

また、子供がいる家ではオニワソトー(鬼は外)をしていると話していたが・・。

切山に近い土地に飛鳥路がある。

京都府相楽郡笠置町の大字の一つになる飛鳥路は東部、北笠置、飛鳥路。

有市に切山も重なる旧地飛鳥路区域。

うち飛鳥路の戸数は20戸。

40戸の切山より半数になるという。

切山の八幡神社祭礼は10月の第二日曜日。

元々は10月16日だったという。

稚児になる子どもが主体のマツリであるが、少子化の波は避けられずにオワタリは中断された。

宮守制度もなくして稚児もいない閑村になった切山。

一昨年に改正をしたというが、夏の富士垢離と正月明けの寒垢離は長老七人で今も継承しているという。

水垢離をするのは七人とも。



人数分の幣を立てる場所は、この日もヒシモチを供えた浅間神社右にある注連縄を張った大木の幹回りである。

また、社務所の奥にある籠堂は元々境内の西にあった。

竃もあった籠堂に火をくべていたが、古くなり、朽ちかけていた籠堂は現在地の東側に建て替えたという。

建て替えた大工さんは村の棟梁である。

竃の火焚きは割り木。

40戸の切山を6組に分けて区のデアイに人足が伐採などしてから割り木の作業をしていたそうだ。

帰宅してから旧飛鳥路付近をネット検索したら布目川に跨げてかけたカンジョウナワの場が見つかった。

(H29. 4. 3 EOS6D撮影)