マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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黒田孝霊神社のヤマモリ

2017年04月25日 08時53分51秒 | 田原本町へ
8月7日に取材した田原本町・佐味のヤマモリで聞いた黒田のヤマモリ。

今でもしていると佐味の人たちが云っていた

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に黒田のヤマモリの記事がある。

「以前のヤマモリは9月1日の早朝から村中の人が川の雑魚取りをし、それを弁当のご馳走に加えて、夕方からお宮さんの庭で帖地を吊り、むしろを敷き、そこで弁当を開いた。ヤマモリに参会した者は村から少しの振る舞いが出た。現在はこの日に婦人会、老人会、子供会が歌をうたったりして楽しむ」と書いてあった。

『田原本町の年中行事』は続けて次のようなことを書いていた。

「日待、風日待、ヤマモリ、八朔のヤマモリなどの呼称があるが、多くは八朔の村行事で共同祈願の夜籠りの姿が顕著である。ヤマモリはやまごもり(やま籠り)であろう」である。

たぶんに調査・執筆された保仙純剛(ほせんすみひさ)氏の判断であろう。

私もそう思うが「やま」とは何ぞえ、である。

以前、このことについて教わった同町法貴寺の藤本保宮司が云った「夜」は「よる」であるが、「よ」或は「や」でもある

「よるごもり」が訛って「やごもり」。

さらに濁音が消えて「やこもり」から何故か「やまもり」に転化したと考えられるのだ。

「やま」は「山」でもない。

「夜」なのである。

夜の間に籠るから「ヤマモリ」であるが、未だ、他の論証はみられない。

田原本町の黒田で行われていると聞いて予め訪れた鎮守社は孝霊(こうれい)神社。

辺りを見回しても人影が見当たらない。

境内に登ってとりあえず参拝した日は8月24日である。

神社には祭神や由緒を書いた掲示板が立っていた。

孝霊(こうれい)神社は元々あった法楽寺の鎮守社であるが、明治時代の初期にこの地に遷座した。

旧地より移した際に移した灯籠に明和七年(1770)の記銘があると書かれてあった。

今より247年前に寄進された灯籠のようだ。

また、田原本町観光協会が立てた掲示板には明治二年(1869)の『申請状之事』文書に遷座のことが書いてあったと伝える。

むしろその掲示板に書いてあった長禄三年(1459)の「法楽寺伽藍坊院図板繪(絵)」に当時の孝霊神社に法楽寺本坊、本堂、多宝塔、御影堂、鐘楼、宝蔵、山門などを配置した様相を伝える絵図でよくわかる。

もう一つは明治21年に築造した黒田池築造絵馬を紹介する映像に興味がわいた。

それぐらいしか得るものがなかった下見の日。

鳥居を潜って階段を下りたら道路向こうにある角地に立つ婦人がおられた。

行事日が何時であるのか尋ねてみれば毎年の9月1日。

午後6時には村の人たちが参詣して境内でヤマモリをしていると話してくれた。

日程・時刻がわかれば早めに着いて関係者に取材を申し出ようと思って出かけた。

着いた時間帯は午後5時。

少し早いと思っていたが境内にはブルーシートを敷いて準備を整えていた人たちがおられた。

数人の人たちは婦人会の役員さん。

30年前の昔は綺麗な服を着て子供連れの婦人が着ていたと話す。

何人かの男性もおられる。

その中におられた男性が私の名前で呼んだ。

なんという奇遇であろうか。

男性は存じているSさん。

かつて大和郡山市の職員の教育関係者だった。

ずいぶん前のことだがお世話になっていた大和郡山市の施設である少年自然の家の館長だった。

Sさんの名前は橿原市の飯高町でも聞いたことがある。

平成20年の3月2日に行われた飯高町のお綱祭の取材のときにお会いした地区役員のMさんはSさんのことを長年の友人だと云っていたことを思い出した。

その年はたしか大和郡山市内の校長先生になっていた。

矢田山の自然観察でばったり出会ったことも思い出。

取材に来てくれたことは驚きでもあるが嬉しさあってお互いが手を握るのも自然にそうなった。

この日は自治会の役員の務め。

会費を徴収するなど受付をしていた。

時間も午後5時半を過ぎるころには次から次へと村の人たちがやってくる。



まずは氏神さんに向かって手を合わす。

そうして境内に戻って準備されたシートに座る。

黒田は105戸の大字であるが旧村戸数は80戸。

他所から転居された新しい人たちもおられるが旧村戸数としては多いほうになるだろう。

一人の婦人が云った言葉に黒田のヤマモリは八朔と重なっているかも・・・である。

たぶんに私もそう思う。

8月末にされる地区は若干数あるが、圧倒的に多い日は9月1日である。

田の水の井出があるのは大字黒田の境界地になる三宅町伴堂(ともんど)の境目。

黒田池から流れでた排水は下流の伴堂に向けて流れるが、井出がその境界にある。

井出を開けなければ伴堂への供給はできない。

9月の始めは農作業が忙しくなるのでその景気づけだという人もおれば、井出の水納めに感謝する夜籠りかもという人もいる。

黒田のヤマモリは婦人会、自治会役員、老人会に神社方の世話人もおられるが男性のなかには農家の方も多い。

井出の話しができる人は間違いなく農家の人たちである。

その黒田池が築造された絵馬に「新溜池工事實景之主図 明治廿壱年壱月着手同年五月成功」という具合だから短期間の工事だった。

笠を被ってモッコ運びをしている工夫の姿もあればシャッポ帽を被る工事委員のすがたもなる。

当時の民俗を伝える絵馬は貴重な村の資産。



ガラス張りであるが、神社拝殿内に納めた絵馬を拝見することができる。

そういえば鳥居脇にある灯籠に明治二十一年九月の銘記年がある。

遷座したときに建てた灯籠であろう。

そのすぐ近くの場に建つ石灯籠があった。

刻まれた文字は大神宮。文化四卯(1807)十二月吉日とあるから遷座の際に持ちこまれたのか、それとも元々のこの地にあったのか、断定できない大神宮の石塔である。

やがてブルートーンの夕暮れ時。



午後6時も過ぎれば頼んでいた弁当を貰った人たちで埋め尽くされる。

役員たちはブルーシートをして場を調えてはいるものの村の人たちは座布団、

或は折りたたみ椅子を持ってくる人も・・。

よくよく見れば北と南に分かれて座っている。



北側は女性ばかり。

南の方は男性ばかり。

自然体にそうなっているように思えた黒田のヤマモリは自治会長の挨拶で「籠り」が始まる。

籠りと云っても数時間。

一夜をずっと朝まで籠ることはない。



午後6時半ともなれば神さんに供えたお神酒を下げて皆に配られる。

照明のライトは境内を明るくする。



男性も女性もそれぞれが座った場で談笑を重ねる。



一時解散は午後7時。

残った人たちはその後も宴を続けていたようだ。

ちなみに長老が云った話がある。

「尾崎常次郎が中心となって黒田池を築造した。井出を開いて苗代田に水を入れた。米の神さんやと云ってモミダネを蒔いて田植えをした。農業を営む者にとっては水が一番大切や。井出の一つにジャコ取りがあった」という。

池を浚えて残った池の水がすくなくなったところに魚が跳ねる。

それを掬い捕って食べたのがジャコである。

もちろん生ではない。

ここ黒田ではないが、煮て食べたと話していた老婦の話だ。

続けて話す黒田池に纏わる農水の話題提供。

「米の水が穂も稔らせる。今年も育ったんでお礼に参って神さんの前で食べる。それが神さんとともに食するヤマモリや。この時期になれば田んぼに水は要らん。井出のおった魚を捕るのもこの時期や」と話してくれたのが印象に残る。

この日のヤマモリには神職は登場しない。

秋の祭りなどの祭礼に出仕される神職は大字八尾の鏡作神社の宮司と聞いた。

秋の祭りは10月の第二土曜がヨミヤで翌日の第二日曜が祭りである。

ヨミヤは午後6時の参拝。

鏡作神社里巫女による参拝者鈴祓いがある。

第二日曜は祭りの繁盛日。

奈良県内で二番目に多い地区の行事である。

二番目と聞いて、何でと思われる人は多いだろう。

一番多いのは地蔵盆である。

7月にされるところもあれば8月も。

地区に神社は一つであっても地区にある地蔵尊は辻ごとにあるから数えきれないほどに膨れ上がる。

それはともかく黒田の祭りは桃太郎神輿が町内を巡行する

神輿に続いて子供が打つ太鼓神輿も出るようだ。

(H28. 8.24 SB932SH撮影)
(H28. 9. 1 EOS40D撮影)