マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

室生小原の田の虫送り

2014年12月30日 07時54分20秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
我が家ではキリギリスが鳴き始めたこの日。

例年通り村の人たちは松明を持ってやってきた宇陀市室生小原。

集まる場は推定300年余りのエドヒガンの枝垂れ桜で名高い極楽寺だ。

明治32年に焼失した極楽寺は、のちに再建されたが無住寺。

それまでは住職(融通念仏宗派であろう)もおられて虫送りの祈祷もされていたと聞いている。

田の虫送りが始まる前に打つ太鼓。

「ドン、ドン、ドンドドドン」の太鼓の音色は小原の里に広がる。

鉦の音も聞こえることから境内で行われる数珠繰りも始まったのであろう。

「なんまいだ」念仏の虫祈祷を終えて松明に火を点ける。

先頭を行くのは村の役員が勤める鉦叩きと太鼓打ち。

オーコに担がれた太鼓は相当な重さ。

他所では軽トラで運ぶようになったが、小原では今でもオーコ担ぎ。

肩が食い込みながらも田の虫送りに巡行する。

「キン、キン、キンキキキン」と打つ鉦の音に合わせて太鼓は「ドン、ドン、ドンドドドン」。



寺を出発した一行は南に下って東に向かう。

かつては「おーい おーい たのむしおくり おーくった」と囃しながら行列を組んでいた。

「おーい おーい」は呼びかけの「おーい」でなく、虫を「追う」である。

その田の虫送りの唄を知る人は多くない。

松明は遠目で見ても判るように大きくはならない。

枯れた竹一本がほとんどである。

稀に大きな火が燃える松明もある。

それは枯れた竹を割って束ねた手作りだが、おそらく2本だけであったろう。

村の子供たちも虫送りに参加する。

安全性を考えて竹一本の松明にしたと聞いている。

それらは燃えやすいように脂を染み込ませている。

田んぼの方に向けてではなく、上に燈す子が多い。

まるでトーチのように見える。

かつての松明は松のジンがつきものだった。

それゆえ「松明だというのだ」と話していたことを思い出す。

割木、シバなどで松明を作っていたと話していた松明は水平に抱えて田の虫を送っていた。



こうして送った松明はトンド場で燃やされる。

ポンと一回鳴ったその場は村の行事を終えて直会に移る。

いつものようにスルメとジャコでお酒をいただく。

解散後の20時過ぎともなれば笠間川のホタルが飛び交う。

(H26. 6.20 EOS40D撮影)

室生下笠間のオンボさん

2014年05月18日 07時56分08秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
室生の下笠間。

昨年の正月明けに訪れた民家の庭先に砂盛りが三つあった。

「これって何ですか」と尋ねれば「オンボサンや」と答えた婦人。

それは一体どういうものなのか。

確かめたくて、忙しい御主人と奥さんに無理を云ってお願いして撮らせてもらった。

20日に予め作っていた手編みの注連縄を玄関に取り付けて、オンボサン作りに移った。

3本の杭を地面に打ち付けてオンマツ、メンマツ、葉付きのカシの木を括りつける。



その順は玄関からみての並びで3本に掛けたのは注連縄で、その間にウロジロをやユズリハを取り付ける。



右端に立てたカシの木の「オンボサン」だけには房垂れのある注連縄と紙垂れを付けた注連縄を掛ける。

砂盛りはそれらの作業を終えてからだ。

おもむろに始めた砂撒き。



山砂を撒くのは場を清めるためだと云う。

「オンボサンは当家の男の数だけや」と云ってカシの木の2本を立てた。



オン松・メン松は家の門松に違わないが、「オンボサン」は何故に祭ってきたのか。

「昔からずっとやっているが、意味は判らん」と云う当家の隣家にも見られたが、注連縄は張っていなかった。

話しによれば、どれほど家がされているか判らないが、カキ、クリ、ホウソ、フクラシ(フクラギとも)、ナラなどさまざまのようである。

正月三日間立てておいた「オンボサン」は翌日の四日には倒す。

倒したカシの木は家で一年間も保管しておく。

一年前のカシの木は枯れて、正月三日間の火焚きに使っていた。

「昔はもっと大きかったから三日間の火焚きはそれで充分やった」と云う竃の火焚きに再利用していたのである。

昨年に拝見した穴があった砂盛りの在り方は、僅かであるが、ようやく光が見えてきた。

ご主人の正月飾りはまだ続く。

前庭にあるお稲荷さんにもオン松・メン松を立てる。

手編みして作った小注連縄は玄関の他、農器具、トイレなどにも数多く掛ける。



調ったところで拝見したトシハジメの膳。

座敷の神さんの前に置かれているのはイタダキサンだ。

お正月の迎えた午前0時、若水を汲んできた家長は財産目録や通帳を膳に乗せて、アキの方角に向かい両手で頭の上に捧げて拝むトシハジメの膳である。

同家では暮れの28日に正月に供えるモチを作る。

翌日の29日は「苦」が付く日なのでモチはこしらえない。

七つのモチを並べた膳には長い髭のような根があるトコロイモやゴマメの田作りもある。

昔は雑魚を川で採って来てそれを炊いていたと話していたのは奥さんだ。

この時間帯は春覚寺で一切講のお念仏をしている。

ミカンは葉付きのコウジミカンが2個。

クリは3個である。

いつもニコニコ、仲睦まじくの語呂合わせの10個の串ガキも置いてある。



輪っかの注連縄で飾ったウラジロを添えた膳はイタダキサン、ダイジングウサン、ダイコクサン、エビスサン、サンポウコウジンサン、センゾサン、ミズコサン、イナリサンなど8品もある。

例年こうして作っておいた膳でトシハジメを祝う。

柱に掛けてあった「カケダイ」と呼ぶ干した2尾のタイ。



ダイコクサンとエビスサンに供える。

まさに恵比須さんが釣った鯛のようで、豊作始めとされる11日に食べる家があったが、同家では田植え始めと4月末頃の田植え仕舞いに食べるそうだ。

(H25.12.31 EOS40D撮影)

無山九頭神社の朔日参り

2013年09月29日 08時24分18秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
6月ともなれば村の人がめいめいでこしらえたチマキを供えていた室生無山の九頭神社。

節句の習わしであったと思われる日は6月5日だった。

今はそれもしなくなったと話す氏子たちは1日に参るツイタチ参りは欠かせない。

ツイタチを充てる漢字は朔日であろう。

村の行事は負担がある。

何年か前に改正されてチマキを作って供えることもなくなったと話す。

挽いた米粉を水で練る。

蒸した米粉は笹の葉(カヤかも)に包む。

崩れないようにイグサ(藺草)で巻く。

5本ずつ作って2束。

合計で10本のチマキを供えた後に食べる。

そのままでは堅くて味気もないから蒸してからゴマシオで食べるのが一番美味いと口々に話す婦人たち。

かつては毛掛けのコモリに供えていた御供があった。

三角の形にしたご飯は、その形から「スズキ」と呼んでいた。

稲刈りを終えて刈りとった藁を積んでいる。

その姿は県内各地で「ススキ」若しくは「スズキ」と呼んでいた。

その形状から名付けられた「スズキ」のご飯であった。

いつしか「スズキ」は洗い米に小豆をぱらぱらと落とした朔日参りでの御供に替った。

かつては「スズキ」に「セキダモチ」もあったと話す婦人も居た。

朔日参りは朝8時半ころに集まって参籠所で歓談をしていた。

4月にはヨゴミ(ヨモギ)でヒシモチを搗いた。

形は二段で上には白い丸餅を置いていたという。

これも村の改正でしなくなったと話す。

隣村の上笠間では田植えを終えた残りのナエサンを広げてカシワモチの葉を置いた。

葉にはご飯を乗せてキナコを掛けていたという。

出里のことだから今ではしていないと思うと云う。

そのような農村の風習を聞いた参籠所には木製の手桶があった。

マツリの際に使われていたと想定される手桶は使っていない。

そこには木で作られた当番札がある。

昭和22年9月1日に作られた当番札には「献燈順番札」とある。

九頭神社の毎月朔日、15日は「さへ」の日。

この日の朔日参りもそうであった。

当番の札が回ってきた家は九頭神社に献火を灯す「サヘの献燈桶」である。

(H25. 6. 1 SB932SH撮影)

室生無山サシナエの日

2013年09月26日 06時50分32秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
かつてはオソナエもあった。

田植えを終えれば村人が九頭神社に集まる行事である。

オソナエの形は細長いユキダルマのようなオニギリだったと話したのはN婦人である。

それを「ススキ」と呼んでいたような気がするがはっきりしない。

この日はサシナエの作業をしていた。

この年の5月1日、2日辺りは霜が降りて寒い日であった。

済ませていた田植えの苗は赤い色になって枯れた。

その部分が空いたのでサシナエをしていると云う。

正月初めの無山の行事がある。

牟山寺で行われる初祈祷のオコナイである。

7年間に取材した行事では本堂で鬼の的をめがけて矢を射った。

その矢と祈祷したヤナギの枝木を苗代に挿す。

そのような話を聞いていた7年前。

ご婦人に伺えば、そのようなことをしているのはただ一人だけではないだろうかと話す。

牟山寺から下った田んぼにあるだろうと云っていたが見当たらない。

あるにはあるが、数年前に挿したものであろう、それが朽ちていた。

田植え終いもしていないという婦人は三重県名張の夏見(なつみ)が出里。

青連寺川から名張川へと川名が替る地辺りの山里。

そこではナエサンを束にして、炊いたマメゴハンを入れたフキダワラとともにオクドサン(竃)に供えていたと云う。

今でもしているかどうかは判らないくらいの時代のことのようだ。

お嫁さんとともに作業をされていたサシナエの風景を撮り納めて、九頭神社にあがった。

参籠所では数人の村の人が集まっていた。

この日は毛掛けコモリ。

神事をするわけもなく、風呂敷包みを抱えて参拝する村には参籠所へ上がって毛掛け籠りの会食をする。

ホトトギスが囀るこの日は夏の訪れ。

「田植えも無事に終わって、秋には実りを待つだけ」と伝える区長の挨拶。

パック詰め料理を食べ時間を過ごす。

無山を離れて多田から小倉へのワインディングロードを走行中にクマゼミが鳴いた。

(H25. 5.26 EOS40D撮影)

下笠間のおんぼさん

2013年04月20日 08時36分43秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
甘くて美味しいカキモチをよばれた室生下笠間のⅠ家。

11日は耕作初めの日だそうだ。

出里の隣村である山添村の毛原でもそう呼ぶ。

下笠間ではする家は見当たらないが毛原で行われていた「なるかならんか」。

家のカキの木にアズキのおかいさんを供えた。

父親が「なるかならんかよ」と云うので出かけた。

カキの木にナタをあてるような格好で「なるかあー ならんかー」と声を掛けた。

それに対して婦人が「なります なります」と応える。

「大きな声で言えよ」と父親に云われてしていた「なるかならんか」は小学校にいく前の幼少の頃。

ずいぶんと前のことである。

カキの切り口にはアズキガユを供えていたと云う。

そんな記憶話をしてくれたⅠ家の前庭にあった砂盛りの痕跡。

中央には穴が開いている。

そこに立てたのは葉付きのカシの木。

男の人数分の砂盛りは「おんぼさん」と呼ぶ。

大晦日に立てる家の門松だそうだ。

各家庭によってはクリ、ホウソ、フクラキが用いられると云う。

(H25. 1.11 SB932SH撮影)

染田十輪寺初祈祷のタタキアゲ

2013年04月01日 07時40分58秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
村の安全祈願を正月初めに願う初祈祷が行われる宇陀市室生の染田。

春日神社の社務所に寄り合う。

初祈祷を始める前はオソナエ作りの作業だ。

ランジョー作法において十輪寺で叩くウルシ棒を鉈で三つに割く人たち。

かたやその木に挟む牛玉宝印の書に文字を書く人たち。

いわゆるごーさんと呼ばれるお札刷りであるが文字は「十輪寺 牛の玉 宝の印」である。



その書にご宝印を押す人たちとの分担作業。

この年は33本を作った。

一方、机で『寿命帳』を墨書する人もいる。

東組、西組それぞれに存在する名を書いていく。

両組とも一老、二老、三老・・・・に続いて孫の名まである。

墨書するのは両組の当屋。

村で決まっている順に書き記す。

それらの作業を見守る人たち。



『寿命帳』には数種の供物も書かれる。

一、□(判読不能字)釛 参流、一、燈明 壱ツ、一、成玉 壱枚、一、花餅 壱桶、一、神酒 一升、一、成玉 一枚である。

「成玉」はナラシモチと呼ぶそうだ。

文字が判読できなかった「□釛」は刀のようだと思うのだがと前置きされて持ちだした薙刀のような形の木の棒を一本。

それにもごーさんを挟む。

「参流」とは一体何の数量なのか判らないと話す。

書き終えた『寿命帳』の最後に「だんじゅう」と書き添える。

30分ほどで調えたあとは直会に移る。

両組とも揃った大当屋と神主は下座。

挨拶されてのちに染田の初祈祷の謂れを伝える。

「そもそも始まったのは応永十三年(1406)。605年前のことである。平坦の国中(くんなか)では騒乱の時代であった。そんな時代に東山中を守るため村人の士気を高めるために染田の天神大明神に集まった村人が取り決めしたダンジョーとケッチンであった」と述べる。

この日はフジの木で十輪寺の縁側をフジの木で叩くダンジョー(一般的に乱声)の作法がある。

『寿命帳』記された「だんじゅう」のことである。

ケッチンは翌週の10日に行われる鬼鎮(きちん)の弓打ちだ。

シンブリの木の弓で鬼の眼の玉を射る作法はいわゆるオコナイの行事である。



言伝えを述べられて配膳された三種盛り。

ゴボウ、コンブ巻き、煮豆(かつてはアゼマメ)は酒の肴である。

およそ1時間は正月初めの顔合わせでもある。

場は移って十輪寺の本堂へ。



ご本尊の地蔵菩薩像の扉を開けて般若心経を唱える。

ゆったりとした唱和が堂内に流れる。

唱和を終えると同時に発せられた「ダンジョー」。

縁側に設えた板に群がる人はフジの木を手にしてダンジョー、ダンジョーと大きな声で唱えながら叩く。

ダン、ダン、ダン・・・。



それを合図に飛びだした村神主が向う先は山の神。

お神酒を抱えて走っていく。

雪が舞う中を走る、走る。



十輪寺からそれほど遠くない小高い丘。

そこには山の神とされる石仏群がある。



そこにお神酒を撒いてすぐさま戻る。

その間はダンジョーの縁叩きが続く。

山の神まで届くような騒々しさは村から悪霊を追い出す作法である。

4分後に戻ってきた神主の姿を確かめてピタリと止んだ。

若い神主の足は速い。

追いつくことはとうとうできなかったがダンジョー作法は携帯電話の動画に納めることができた。



そうして祈祷されたウルシ棒のごーさん札は持ち帰って春の社日に苗代へ挿す。

豊作を願うお札である。

こうしたダンジョーの作法であるゆえ染田では初祈祷の行事を「タタキアゲ」と呼ぶ。

(H25. 1. 4 EOS40D撮影)

室生小原の田の虫送り

2012年08月28日 08時09分20秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
平成17年19年に訪れた室生小原田の虫送り。

そのときの極楽寺の扉は閉められていた。

久しぶりに再訪した室生小原。

いつものように村の人たちは手製の松明を持ってやってくる。

以前は閉じられていた扉が開放されている。

信仰が厚くなったのだという。

その極楽寺の廊下には田の虫送りで用いられる太鼓や鉦、数珠が置かれていた。

太鼓は室生無山の住民の名が墨書されている。

昭和32年2月吉日とある寄進日だ。

明治32年に焼失した極楽寺はのちに再建されたが無住寺。

それまでは住職もおられて虫送りの祈祷もされていた。

昭和32年に寄進された太鼓の存在はお寺の存在を示すのではないだろうかと思ったが、その経緯を知る人はいない。

その後の状況は存知しないが、なんらかの行事が行われていたと思われる。

その寺の名は推定約300年余りの古木桜の名称になった。

美しい姿の枝垂れ桜を見にくる人も多くなった。

平成18年、19年に拝見したときにはその名はなかった。

それ以降に「小原極楽桜」と名付けられたそうだ。

田の虫送りが始まる前に打つ太鼓。

「ドン、ドン、ドンドドドン」の太鼓の音色は小原の里に広がりゆき渡る。

その呼出太鼓の響きが届いたのであろう、あちらこちらから松明を抱えた人たちがやってくる。

鉦の音色も届くというが、この年は打たれなかった。

その鉦は三本の脚がある。

置いて叩く鉦の形だが、年号や記銘は見られない。

田の虫送りは数珠繰りから始まる。

松明に火を移すトンドに火を点けた横で輪になった人たち。

子供が主役の数珠繰りだ。

村の子供は10人ほど。

子供が居る家は少ないが、兄妹の家が多いからそれぐらいだという。

平成17年に訪れた田の虫送りのときもそれぐらいだった。

あれから7年も経過する。

子供は成長して巣立っていった。

新生児が育ってこの日に至る小原の子供たち。

7人の子供に親も加わって数珠繰りする。

鉦が打たれてカーン、カーン。

その音頭に合わせて数珠繰りをする「なんまいだ」念仏の虫祈祷。

数珠玉が手前にくれば上にあげて頭を下げる。

子供たちも大人を見習ってそうする。

珠本来は33回繰るのだが、この年は13回となった。

虫を祈祷する意味にもある数珠繰りはこうして終えた。



そして松明に火を点ける。

昨今の松明は簡略化されて丸太の竹が一本。

そこには油を染み込ませた布を巻き付けている。

子供にとっては丁度いい長さの松明だ。



昔ながらの松明と最近の松明。

その炎は明らかに異なる。

煤が発生する点においても違っている。

先頭を行くのは村の役員が勤める鉦叩きと太鼓打ち。

オーコに担がれた太鼓は相当な重さ。

他所では軽トラで運ぶようになったが、小原では今でもオーコ担ぎ。



肩が食い込みながらも田の虫送りに巡行する。

「キン、キン、キンキキキン」と打つ鉦の音に合わせて太鼓は「ドン、ドン、ドンドドドン」。

高台にある極楽寺から下ってきた一行。

後続には火を移した松明の行列が続く。

鉦と太鼓の音が小原の里を巡っていく。

かつては「おーい おーい たのむしおくり おーくった」と囃しながら行列を組んでいた。

その田の虫送りの唄を知る人は多くない。

田の虫送りの唄はと問えば「おーい おーい ほ-たるこい あっちのみーずは あーまいぞ」と歌い出す男性もいるが・・。

確かに小原の里を流れる笠間川にはゲンジボタルが生息する。

田植えが終わって稲作を荒らす虫を追い払う田の虫送り。

青々とした小原の田んぼの虫を追っていく。

「他所と比べたら小原は虫が少ない」と話す村人。

そういえば翳した松明に虫の姿は見られない。

「小原はヒルもいないな」と続けて話す。

余談だが、大和郡山の旧村で聞いた話では「田植えの際にヒルが何十匹もあがってきた」と云っていた。

当時は手植えだった。

悩まされていた田んぼのヒルはいつしか消えた。

今ではまったく見ることもないという。

小原は田んぼの回りを電柵で囲っている。

虫、ヒルでもない害獣除けだ。

それは夜にやってくる。

夕方になれば電源を入れる。

柵にあたればビリビリする電柵。

以前に寄せてもらったときはしていなかったが、田んぼのすべてに亘って張り巡らせている。

およそ15分の巡行。

出発時点では陽が落ちる寸前だ。

田の虫送りを終えるころは薄暗くなっていた。



小原の虫を送った松明はトンド場で燃やされる。

トンド場の松明は山のように盛りあがった。

昔は松明の束も太くて長かったから、もっと高く積み上げられたという。

松明は乾かしたもので作りあげる。

刈ったシバ(竹)を束にする。

中には油(トウユ)を染み込ませた布を入れてハリガネで縛っておいた男性。

一週間前にそれをしていた。

十分に染み込んだ松明はよく燃えるという。

かつての松明は松のジンがつきものだった。

それゆえ「松明だというのだ」と話す男性。

割木、シバなどで松明を作っていたという。

丸竹のままのものもある。

竹が焼ければ爆ぜる音がでる。

この年はその本数が少なかったのか、ポンと一回鳴っただけだった。

(H24. 6.20 EOS40D撮影)

室生小原の阿弥陀石仏三尊

2012年02月23日 06時46分52秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
小原の民俗行事を取材したおりに拝見した小原の阿弥陀石仏三尊。

三体揃って立ち並んでいる姿だ。

永仁六年(1298年)六月十六日に建之された立派なお顔の阿弥陀さん。

「つちんど」と呼ばれる地にある三尊。

「辻堂」が訛って「つちんど」と呼ばれる。

そこには「辻堂」と「十三重の塔」があったそうだ。

座高は1m28cmもあるだけにそれなりに高い石仏。

「カサ(笠、傘)」というテーマに相応しいと思って納めておいた。

両脇待は観音と勢至で座高が85cm。

石塔に彫られているのでその差は目立たない。

この日は赤い実を付いた南天を供えられていた。

尤も、阿弥陀さんが被っている笠石は整地をしたときに土中から現れたそうだ。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)

室生小原の正月飾り

2012年02月22日 21時17分00秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
小原在住のK氏邸。

門に〆飾りを掛けられている。

その形といえばクギ煮のように90度曲げられた太い藁束で、下部にダイダイを取り付けている。

まるで杓子のような形だ。

その端に炊いたご飯が置かれている。

正月の三が日の毎朝どころか15日までの毎日。当主がおましたお供え。

そこには松やウロジロに実付きのフクラシの木もある。

それら合わせて「正月飾り」だと言う一体もの。昭和の時代までは玄関口に飾っていたそうだ。

このような門や玄関に注連縄などを飾ってそこに御供を置く風習事例が見られる。

奈良東部の山間。

長谷町垣内脇のN家では正月2日に藁を編んだ棒の形のようなものを玄関口の外側に取り付ける。

直角に折って曲げて崩れないように藁紐で括っている。

まるで手の形のような杓子のようである。

祖母が朝に箸で摘んで四角いモチとご飯を入れる。



本来は当主がするのであるが「年寄りの役だと言って受け継いでいる。

それはシメナワサンと呼んでいる。

福住町別所に住むNさんも同じような形式で供えている。

藁で作った棒のような長いものは長谷町と同じようで杓子の形。

そこにクシガキを2個、モチも2個、コウジミカンは1個を供える。

「外の神さんが来やはんので供える」のだという。



これを「カンマツリ」と呼んでいるが、充てる漢字は判らないという。

一方、盆地部の大和郡山市では2か所で同じような作法をされている家がある。

小林町に住むHさんは、正月の朝に、注連縄に取り付けたユズリハを丸く皿のようにする。

そこに炊いた米を五粒ほど乗せるそうだ。

それを「カンマツリ」と呼んでいる。

正月元旦の朝起きたときに当主がそこへ乗せるのだと話す。

正月の三が日間は毎朝する。

同じような作法でされている番条町の酒造り家。

玄関口の外側に注連縄を飾る。

注連縄に括りつけたユズリハの葉を丸くして炊き立てのゴハンメシを供える。

「歳神さんに食べてもらうのじゃ」と当主は言った。

神棚にメシを供えるような感じで3、4粒供えるという話しを思い出した。

番条町ではこれを「神祭り」と呼んでいた。

山間では注連縄と思われる藁棒を直角に曲げて御供を置く。

盆地部ではユズリハを皿に見立てて供える。

これを別所町と小林町では「カンマツリ」と呼んでいる。

番条町では「神祭り」と呼んでいる。

この行為を「外の神さん」に食べてもらうというのは別所町と番条町。

形式は違えども「外の神さん」に供えるのは共通している。

「カンマツリ」と呼ばれる御供行為はおそらく外の神さんに食べてもらう「神祭り」であろう。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)

室生小原の山の神

2012年02月21日 08時47分50秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
1月7日には山間各地で山の神のマツリが行われている。

室生笠間川流域沿いの各地で行われている山の神のカギヒキ。

その一つに室生小原がある。

朝日が昇るころに村の人たちが行者山(大文字鏡山とも)にやってきてカギヒキをしたそうだ。

行者堂の後方にある大木に多数のカギヒキがぶら下がっている。

3mから4mもある長い木はウツギの木。

自在鍵のような形をした方を樹木に引っかけているのだ。

カギヒキの先には幣とミカンが見られる。

実に壮観な景観であるが、このような形式を見たのは初めて。

特異な形態で行われている小原のカギヒキ。

一人ずつ参られて「にしのくにのいとわた ひがしのくにのぜにかね うちのくらへどっさりこ」の唄を歌ったそうだ。

その際には家人が蔵の戸を開けておくという。

お金がどっさり入ってほしいという願いがこもっている。

この行為を「山の口の鍵ひき」と呼ぶようだ。

山の神の日はいずこも7日。

その日は七草粥の日だ。

小原では「ひがしのとり(鳥)と にほん(日本)のとり(鳥)が うち(打ち)あって バタバタ」と言うらしい。

これはどういう意味なのであろうか。

上茶屋出(かみちゃいで)と下茶屋出の垣内25軒が集まってされている山の神。

お盆に乗せたホシガキ、コバンモチ(小判型のモチ)、数個のクリの実に山の道具(ナタ)を風呂敷包みに入れたまま供える。

カギヒキもそうだが供える個数は家の男の人数分。

コバンモチはナタで何度か削って山の神に供える。

その削ったモチを見つけることは困難だ。

モチは持ち帰って七草粥に入れる。

ナタネとナズナを入れて炊いた七草粥。

下笠間と同様に2種類だった。

セリ、ナズナ(ペンペングサ)、ゴギョウ(ハハコグサ)、ハコベラ(ハコベ)、ホトケノザ(コオニタビラコ)にスズナ(カブラ)、スズシロ(ダイコン)の七種であるがこの時期に生えているのを探すのは困難。

いずこもすべてを揃えるのは難しい。

ちなみに行者山で行われる山の神は小原の東側。

西側の地区も山の神をしているそうだ。

山の仕事は男の力仕事。

山の神の日はいずこも山仕事を休む日である。

(H24. 1. 7 EOS40D撮影)