本質的な思考は礼節に満ちている。
命令や要請や義務や当為がきれいに消えているからかもしれない。
より正確には、ゲバルトの成分を抜き取るように細い道を進んで行く。
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命令も要請も義務も当為も、本質的には侵犯行為(ゲバルト)を意味する。
この侵犯的本質は相互の了解と合意によってのみ解除される。
本質的には、主権的主体の生の領域に入り込むことは許されない。
関係的生成の領域をキープして生きあうことを望むかぎり許されない。
生の主題はそれぞれの生の絶対的な固有性の中にあり、
それぞれの生の固有の試行と展開においてだけ生きられる。
この人間的な生の意味と価値が生成する領域を承認しあい、
それぞれの差異を不可侵の位相として生かしあうかぎりにおいて、
主権的主体同士の交わりからどの主体にも帰属しない「第三領域」は立ち上がり、
すべての主体が生成的本質をまっとうできる条件が生まれる。
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侵犯行為が起こるとき、必然のように〝黒い雲〟の湧出の種が蒔かれる。
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