「かつて-いま-これから」という時制の構成は、
人間の実存的「現在」の時間的本質、意識経験にそなわる秩序性を意味する。
この秩序性を意図的に解体して再構成してみる。
この思考実験はもとの秩序性への帰還を前提に行われる。
(解体したまま戻れなければ一つの病理におちいることになる)
しかしいったん解体して得られた経験は保たれ、「現在」の意味を少しだけ変化させる。
*
デスクの前を、女性が通り過ぎる。仕事への意欲に満ちた、はつらつとした二十代半ばの女性。
天気がよく、オフィスの窓から差し込む陽射しがまぶしい。女性はその光の方に歩いていく。
窓際に並んだ書棚に置かれた書類を取りにいくところらしい。なんの変哲もない、職場のありふれたひとコマ。
男は退屈にまかせて想像してみる。この女性がいつか将来結婚して、子を産み、育てていく日々の姿を。
そして、その子になりきって、未来から逆向きに今日いまの情景のことを考えてみる。
二十年後、三十年後、あるいはもっと後に、いま男が見ている小さな情景が、
彼女の子供にとって一体どんな意味と重さをもつことになるのかを。
決して見ることができない遠い過去の若い母親の姿を、もし男がいま見ているように女性の子が見ることができるとしたら。
それはその子供にとっては奇跡の情景ということになるだろう。
だとすれば、男はいまその奇跡を目撃していることになる。
神々に媒介されない奇跡。その必要もないミラクル。男はそう思い至って、もう一度女性の姿を追った。
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