所在地=函館市青柳町15番
函館公園正面出入り口を出て、左方向(上写真)に150mほど進むと案内板(左写真)がある。ここの小路を入り左3軒目がその跡地(右写真中央)である。
石垣は、啄木が住んでいた当時のもの。
小路からは、函館山の頂上を望め、啄木が朝夕眺めていたに違いない。
啄木が郷里の岩手県渋民村小学校の代用教員を罷免され、一家離散のあと函館に単身でやって来たのは、明治40(1907)年5月5日、21歳のときであった。
啄木を温かく迎え入れたのは、地元の文学愛好家グループで、彼に文芸誌の編集を任せた。
中断していた文学活動を再開し、弥生小学校の代用教員、函館日日新聞社にも勤務、7月にこの場所の借家に落ち着き、岩手から妻・節子、娘・京子、母、また小樽にいた妹も呼んでの生活がスタートしたのは8月初旬だった。
家族が同じ屋根の下で寝起きするようになって間もない8月25日、函館名物の大火が発生、勤務先の両職場が焼け、職を失い、9月13日に新たな職を求めて札幌に向ったのである。
函館滞在は、僅か132日間であったが、こよなく函館を愛し、最終的には東京の朝日新聞社校正係りに職を得て文芸活動をしたが、26歳の若さで病没。
本人の希望で墓地は函館市住吉町に建立された。
ここにあった居宅は、この時には焼けなかったが、大正3(1914)年の火災で焼失した。
「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」
「わがあとを追い来て 知れる人もなき 辺土に住し母と妻かな」
薄幸の詩人といわれた「石川啄木」、こうしてまとめてみると、事実を裏付ける人生だったと思う。
函館は今日も含めて3日間、晴れの暖かい天気が続いています。
家の外回りを水洗いし、車も手洗いしたあとにワックスをかけ、春到来を教えてあげました。
庭のクロッカスは間もなく終わり、スイセン、チューリップ、木々が蕾を膨らませ、遅い北国の春は全開で駆け足を始めました。
ミカエル
立待岬の近くにある啄木一族の墓は岬に行くたびに
いつも立ち寄りました。
啄木の滞在期間はたった132日間ですか・・・。
でもなんだかわかるような気がします。
私は子どもが1人ですし、
何の宗派にも属したくなく、
また子どもにお墓の管理を強要するようなことに
なってもいけないので、
今のところお葬式もお墓も
いらないと思っています。
ですが、あえてどこかにと言われると
私も函館と答えると思います。
人には生まれた場所でも育った場所でもなく
そこにいた年月でもないなにかが
きっとあると思っています。
石川啄木記念館や大森海岸のあたりは
いさり火もきれいですよね。
啄木の詩心を蘇らせたのは、異国的な函館の街並み、人、そして何よりも海だと彼の日記に書いてあるそうです。函館での生活は短くても、充実さを感じていたのでしょう。
これからお墓をと考えるとき不安は広がるでしょうね、分かります。
啄木小公園のあたりには、広大な砂山(砂丘)がありました。
高さ30m、東西1km、南北300m、冬はソリ、竹すべりの遠足場所で、昭和40年代の初めには姿を消しました。
この小公園から函館山方向を眺めますと、砂浜の曲線が美しく、夜は漁火が神秘的ですね。ミカエル
私は出身が大阪ですから、
函館とよく比較される神戸にも何度も行きました。
夜景や坂道、そこから見える海、
異国情緒のあふれる家々など、
こうして文字で書いてしまえば
あまり差はないように思えるのですが
私にとっては神戸がピーンと
来ることはなかったです。
無事に卒業でき、試験に合格し、
就職もできて
そこそこ年齢相応な仲間ができてきたら
ここが故郷になっていくのでしょうか・・。
滞在期間的には
函館と同じく5年経ちました。
だけど全然「あずましくない」んですよ
ミカエル