ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第854号 移転先はどこ? 鉄道博物館

2014年03月25日 | 教育施設
JR函館駅前に建っている和光ビル。
新ビルに生まれ変わるために、取り壊しが始まった。

このビル最上階にあった「私設・北海道鉄道博物館」は、
一足早く昨年9月中旬に閉館し、この時点では移転先は未定だった。

そもそもこの博物館は、2010年4月にオープン。
設置者は、札幌に本部を置く「カラマツトレイン」。
全国に鉄道ショップを展開している。

私は数回、この博物館を観覧している。
手持ちの写真を掲載して、展示物を紹介したい。




ストーブ列車の遺産の数々



貯炭式ストーブの王様・福禄(ふくろく)ストーブ
朝、石炭を入れると夕方までもった。







私が小学生のころは、「一銭みせや」と呼んでいた。
子供たちの社交場で、50銭銅貨を使っていた。











連絡線の設計図。
実に細かい図面だ。「青写真」とは、よくいったものだ。



函館市電の停留所表示板。
五稜郭電停とガス会社電停との間にあって、CM入り。



スケールの大きい展示物もあった。
レールを敷き、トロッコ車両を走らせ、踏み切りもあった。

また、どこかで会える日を楽しみにして、ペンを置くことにした。
















第739号 人形のような「国宝・中空(ちゅうくう)土偶」に会いたくて

2012年07月16日 | 教育施設
先日、市内臼尻地区にある「函館市縄文文化交流センター」に出かけ、
お人形のような「国宝・中空土偶」と対面した。

 

センター正面右側には「道の駅・縄文ロマン南かやべ」が併設され、ソフトクリーム、
縄文弁当、地区の海産物などが販売されており楽しい雰囲気だ。

 

 

展示室は、ほとんどが1階に集約されている。
ここは「展示室2」。ダイナミックな空間の中に、たくさんのパネル
を展示。
市立函館博物館とは、比較にならい衝撃を与えてくれる。
「こんな展示室が欲しかった」と、以前から抱いていた心に灯りが点ったような
気がした。

 

内外装とも、ほとんどが「コンクリート打ちっ放し仕上げ」。
派手さがないかわりに、落ち着く雰囲気だ。

さて、いよいよ国宝とのご対面。数年前、市立函館博物館で初対面。
今回で2度目となる。置かれている室は、土偶のみに与えられた専用空間。
展示手法は、まるで国立京都博物館のような品位の高い雰囲気がした。

像の寸法=高さ41.5cm、幅20.1cm、重さ1、745g

 

「発見時の状況や土偶についてのキャプション」。

 

 

「国宝指定書(原本)」。

 


紀元前約1,000年前に縄文は、弥生時代へと進歩し、バトンタッチ。
それでもまだ特記すべき歴史上の記事はなかった。

紀元後、約200年にようやく「卑弥呼」が女王となる旨が歴史年表に
記載されるようになった。

有名な「聖徳太子」の名が記載されているのは、古墳(飛鳥)時代。
年代は590であった。

そんな状態だから、縄文時代の文化を推察するのは、ロマンあふれて
すごく楽しいと思う。

この像を作られた「縄文X氏」は、豊かな技量を持った人物であろう。
また、「心のゆとり」も兼ね備えたエリートであったことが
窺えてならない。

北海道で唯ひとつの国宝。
誇りに思ったのと、「たった一つよりないの?」という落胆との
心理が重なりあった対面であった。


米 再掲になるが主要事項抜粋

  発見年と経緯=1975年夏。このセンター近くで、農作業中の主婦が土中から発見
  国宝指定日=平成19年6月8日


※ 以下の事項は、センター係員が教示して下さった。

  事業費~676,000,000円
  工事費~576,000,000円
  敷地広さ~7,141㎡
  建物延べ床面積~1,733㎡
  駐車場~バス5台、乗用車35台
  入場者数~オープン(23.10.1)から6月末まで45,000人


同センターのHPは、こちらからどうぞ!

結びに、展示室での撮影(フラッシュは禁止)を認めて下さった方々に感謝、感謝。


ミカエル

 
 


第733号 蝦夷箱館の豪商・高田屋嘉兵衛資料館

2012年06月23日 | 教育施設
天気のよい日は、スニーカーを履き、市電、バスの一日乗車券で、
西部地区を散策。
素晴らしい意匠や歴史ある建物に目を奪われ、しばし佇む。
私にとっては、至福のひとときだ。

この建物は、正式名称を、「箱館高田屋嘉兵衛資料館」という。
公設ではなく、私設だから運営費捻出に、ご苦労されているようだ。
建物の概要について説明。
左が1号館、右が2号館。
両館とも、前号でご紹介した海産賞「ヤマ田・田中商店」の昆布倉庫。

 

これが1号館。明治36(1903)年建築の石造。

 

こちらは2号館。大正12(1923)年建築の鉄筋コンクリート造。

 

この場所には、文化元(1804)年に、高田屋の造船所が造られた。
そんな歴史的結びつきと、建物が持つ雰囲気が、資料館開設に相応しいと
考えたのだろう。

多くの函館市民は、嘉兵衛の人物像や功績について存じている。
それは、宝来町に威風堂々たる銅像が建立されているからだ。

でも、今一度、嘉兵衛について勉強をしてみよう。
彼は江戸時代(1769年)、淡路島に生まれた。
国内政界では、この3年後に、田村意次が老中職に就いたころである。
28歳のとき、北前船・辰悦丸で来箱し回漕業を営み、財を成した。

事業の本拠地を箱館に置き、北洋漁業の開拓、本州各地との交易で財力を
より巨大なものとした。
一方で、湿地帯、港の埋め立て、生活困窮者の救済事業にも心血を注ぎ、
単なる実業家にとどまらなかった。

やがて、幕府からその功績を認められ、苗字帯刀が許された。
その後、ロシアとの外交交渉にもあたったのだから、
「スーパー民間人」の第一号と言える。

1827年、波乱とロマンに満ちた59歳の生涯を閉じた。
もったいない年齢と思わざるをえない。

この資料館には、嘉兵衛の足跡と北方開発にまつわる資料約500点が展示されている。

所在地=函館市末広町13番22号 赤レンガ倉庫群の裏
電話=0138-27-5226
開館時間=9:00~17:00
入館料=大人(高校生以上)300円、小人(小中生)100円
休館日=木曜日(祝祭日のときは翌日。冬期間)

ウリの展示品=日本初のストーブ(復元品)

嘉兵衛のスケールの大きな性格に感動して、明治・大正期に多くの篤志家が
現れ、函館の町のために尽くしてくれたことに、感謝、感謝。


下の写真は、資料館とは直接関係はない。
明治政府が、同11年に高田屋の自宅屋敷跡(宝来町・銀座通り北側)に
開設した「女紅場(にょこうば)」。
女子専門の教育施設であった。

  


ミカエル

第621号 昼時だけの大学生

2011年04月21日 | 教育施設

市内の水源地ダム近くにある「公立はこだて未来大学」。
ここの教職員や学生などで組織している生活協同組合。
その組合が新年度になって 、売店や食堂をリニューアル。
「学食でのランチタイムもいいなぁー」と思い、出かけた。

2000年に開校しただけに、鉄骨造りのモダンなキャンパス。
理工系だが、現市長は、医学部設置の意向を表明している
から、人気がますます高まるものと思われる。

 

すれ違う学生さんは皆礼儀正しく、きちんとした挨拶を忘れない。

食堂に入ったのは、正午15分前 。
既に椅子に座って食事をしている学生さんは30人ほど。
空席は170ほどだった。

トレイを取り、一品コーナーから好物の塩鯖焼き(157円)
をのせ、カツカレーを食べたくなって、
カレーコーナーへ並んだ。
麺など3箇所のコーナーに並んでいたのは、
合わせて15人ほどと少なく、スムーズに流れた。

ごはんは大盛り、中盛り、小盛り(294円)。私は小を。
秤にかけるから正確な量で納得できる。
受け取るとレジで精算し、レシートが渡される。

レジの傍には、箸、スプーン、フォーク。固形調味料(唐辛子、
コショー等)。液体調味料(醤油、ソース、ドレッシング等)が
置かれ「ご自由にどうぞ!」の状態だ。

正午になるとご覧のような込み具合。
タッチの差で混雑さから免れた。

 

さてと、食べてみたら、こんなことが。
①カツには三分の二ほど包丁が入ってなく、
歯でちぎらなくてはならない。
②ルーがかなり少なく、鯖をとっていたので、なんとか完食は
できた。
③福神漬けは、本来ご飯の傍に添えるもの。
ここでは、ルーの上に添えてあった。
これらは「改善して欲しいなぁー」。

それと繁忙タイムには、チェッカーを二人体制にすべき。
レジ機が空いているのだから。

 

当然のことながら、食後の食器類はセルフで所定の場所へ
運ぶことになる。

クレームばかりで申し訳ないが、褒めたい点だってある。
①食堂は天井が高く、明るく綺麗。のびのびと食事が楽しめる。
②若さいっぱいの学生さんの旺盛な食欲。微笑ましい。
③優れたファッション感覚。私も着てみたい。
④夢あふれる学友との会話。瞳が光り輝いている。などなど。

若さの塊に囲まれていると、自然と私の心が和やかになり、
また、自分の若い頃を思い出させてくれるから嬉しい。

これからも、これらの素晴らしい雰囲気を求め、
「GO!GO!未来大学」だ。

 

 

                





第609号 行って感激、北島三郎記念館。

2011年03月09日 | 教育施設

来月からの始動を目指す私の「町あるきガイド」。
観光地を改めて巡ってみた

交通手段は、函館バスと市電。
共通一日乗車券(1,000円)を買い求め、3日間歩きまわった
マイカーで回る時よりも
目の高さが違い、新しい発見が広がるのがよく
分かる。
店舗の閉鎖や新規開店を探せるが、概ね寂しさを感じるのは、
この地だけではないようだ。

駅前・大門地区、西部地区、谷地頭地区と3日間に分けた。
一番感銘を受けたのは「北島三郎記念館」だった。

 

外観は以前ここに建っていた「金森デパート」に似せて建築された。
昔の西部地区を知る者にとっては、心嬉しい配慮だ。
このデパートは、明治2年(土方歳三が戦死した年)に、
渡辺熊四郎が当地で事業を開始し、大正期に建設したもの。

当時、この辺りは大繁華街。
金融機関や商社が軒を連ねていた。
昭和9年の大火で、繁華街が駅前に移動。
それに合わせて、呉服店と共同出資で「棒ニ・森屋デパート」
として移転新築した。

サブちゃんは、函館の二つ離れた「知内町」で生まれ育った。
高校は道立・函館西高校。
坂道の多いなかでも、八幡坂の突き当たりに校舎はある。

お母さんは、早朝に出かけるサブちゃんのことを思い弁当は
二つ用意したそうな。
朝の弁当を汽車の中で美味しそうに食べるサブちゃん。
上にのっかっているのは、黒砂糖だった。

 

人間、誰しも下積み生活があるもの。
サブちゃんだって、上京してから3畳間生活。
新宿盛り場を流しながらの貧乏生活。
それを支えてくれたのは奥様。

 

カレーライスの差し入れが、何よりの嬉しさだったらしい。
ところで「奥様は函館のひと?」。
お尋ねするのを忘れてしまった。

お別れは等身大の立像との握手。

     

「いつまでもお元気で!そして、函館のPRをよろしく
お願いいたします」。

ご案内を務めて下さった、「伊藤さん」。
新しい知識を頂戴して有難うございました。
「函館の女」を歌う時、もっともっと情感を込めて
声高らかに歌わせてもらいます。

位置は市電末広町電停付近。
どうぞお立ち寄りください。

 

                   





 


第200号 さらば五稜郭分館~博物館分館涙の閉館

2007年12月01日 | 教育施設

昨日の11月30日、”市立函館博物館五稜郭分館”が閉館となりました。 

開館は昭和30年、私は小学生でした。
前年に北洋漁業の再開を記念して開催された”北洋博覧会”の”観光館”を転用。
以来52年間にわたって、五稜郭築城と箱館戦争の史料を主展示、ここでどんな事があったのかを教えてくれました。
(写真をクリックすると拡大できます。)
 
分館は函館観光の名所・五稜郭公園内にありますから、来函された方なら入館はできなくても建物、大砲、当時の箱館奉行所玄関はご覧になっている筈、想い出として残っているのではないかと思います。
近くでは、その奉行所の復元工事が3年後の完成目指して真っ盛り。
復元範囲が、分館敷地にも及ぶために解体されることになります。

 
毎年、夏季に開催された特別展は欠かさず観覧、興味深い展示物に時が経つのを忘れてしまいました。
なかでも、期待が大きかったのは新撰組関連展。
毎回、毎回、入館受付を済ませ、史料と対面したときの胸の高まりは、生涯忘れることはないでしょう。
東京や大阪の友人が、わざわざ新撰組目当てに来函、一緒に観覧して夜遅くまで語り合ったことも懐かしく楽しい想い出。
 
最終日の16時半から閉館式が行われ、関係者の手でがっちりと”施錠”され、分館は幕末から維新にかけての史料館の役目を終えました。

収蔵史料は函館山麓の本館に移され、来春から常設展示される予定。
全国の分館ファンの皆様、本館は旧幕府脱走軍(榎本軍)の共同墓地”碧血碑”の近く。
お参りの帰りに立ち寄れば、懐かしい史料と再会できます。

しかし、五稜郭築造と箱館戦争関連史料は、五稜郭内にあってこそ実感がわき意義があるもの。
新奉行所に、多くの史料が早く展示されるよう願います。
分館の皆様、長い間有難うございました。そしてご苦労様でした。

                   ミカエル 


第187号 五稜郭進出で超人気~市立図書館

2007年10月26日 | 教育施設

名称=函館市中央図書館       
所在地=函館市五稜郭町26番1号

(写真をクリックすると拡大できます。)

 
(左写真は、5月の桜の時期に五稜郭タワーからガラス越しに撮影しました。)

27日から読書週間が始まります。
皆さんは最近どんな本を読まれましたか?図書館は利用されていますか?
旧図書館は、函館山の麓、函館公園の中にありました。
建物は大正時代に建てられたことから、老朽化、手狭に加えて、駐車場不足などがネックになり、新図書館建設の市民の声は根強く、市の長年の懸案事項でもありました。

そんな夢が実現したのは平成17年11月。
特別史跡・五稜郭跡に面する好位置に、待望の新図書館がオープンしました。
旧館と比較しますと、
面積が4.6倍の約7,687㎡。
年間貸し出し者数は、9.23倍の約301,000人と驚異的な伸びになっています。
原因は、①都心、人口増地区に立地したこと。②広い駐車場があること。③交通機関が充実していることなどと思われます。

児童図書が特に充実、親子連れの微笑ましい姿が多く目に付くようになり、待ち望んでいたことがよく分かります。

 
近代的になって嬉しいのは建物や設備だけではなく、接して下さる窓口の方々の接遇態度もそうです。
「こんにちは。どのような本をお探しですか?}
親切で笑顔を絶やさず、目標の本がある位置を素早く教えてくれるので助かります。
先週借りた本を返しながら、またお気に入り本を借りてこようと思っています。

読書週間に相応しい、図書館の話題を記してみました。

 
※ 函館公園に残る旧市立函館図書館本館。
(左は大正15(1926)年に地元豪商・小熊幸一郎氏の寄付金で建てられた本館棟。
右は大正5(1916)年に地元豪商・相馬哲平氏の寄付で建てられた書庫棟で、設計は赤レンガ東京駅や日本銀行本店を手がけた辰野金吾氏。)

中央図書館のHPはこちらからどうぞ!  http://www.lib-hkd.jp/index.html

                      ミカエル 


第162号 遺愛ホワイトハウスの公開

2007年08月18日 | 教育施設

所在地=函館市杉並町23番11号
名称=学校法人遺愛学院ホワイトハウス(旧遺愛女学校宣教師館) 
五稜郭電停から、湯の川温泉へ向かう市電通りにある敷地に、一歩足を踏み入れると、そこは静寂さと緑の香りがする別世界。
奥に建つホワイトハウスは清楚な姿で迎えてくれた。

(全て写真をクリックすると拡大できます。)
 
ここの学院には、5つの文化財がある。
1.このホワイトハウスが国重要文化財。
2.遺愛学院本館が国重要文化財。
3.遺愛学院講堂が国登録有形文化財。
4.謝恩館が国登録有形文化財。
5.函館山麓、西部地区にある遺愛幼稚園が函館市伝統的建造物。
これらの建造物は、函館市民が誇りとする貴重な傑作建物であり、後世に伝え残していきたいものである。

ホワイトハウスは、外国人宣教師の住居として1908(明治41)年に本館とともに建てられた。白壁と尖塔、1,2階を仕切る胴蛇腹が作り出す外観の美しさが目を引く。
例年、夏休み前に一般公開され、今年もその時期に訪れてみた。

 
玄関と地下室の明り取り。レンガはイギリス式積み、アーチ部分も丁寧だ。

 
珍しい軽井沢彫りの家具。宣教師の研修会が軽井沢で開かれたときに求めたという。身も心も温まる暖炉。燃料は石炭だったようだ。

 
オルガンと高さ約110センチの旅行ケース。当時としてはかなり機能的デザインと思う。キャスターは付いていなかった。

 
ハリポタに出てきそうな古風なベッド。故郷アメリカを思いながら眠ったのであろう。
食堂。椅子、テーブルは最近のものに見える。

 
本格的和室もあり、日本文化を理解しようとした心が伝わってきた。
お茶、お花、礼儀作法などを学んだのだろうか?

 
談話室。夜や休日にはここに宣教師が集まって語らいを。奥が食堂。

 
木製の冷蔵庫。昭和40年代初めまでは、函館のお屋敷でも見た記憶がある。
右の大きな冷蔵庫は、アメリカの自動車メーカー「ゼネラルモーター社製」。

 
浴槽が日本製とは面白い。釜は循環式。
これらは、あとになって付け替えたのでは?と思われる。
洗濯機の脱水は、2本のロールの間をくぐらせる。

函館はペリー提督が黒船を引き連れてやってきた翌年の、1855年に国際開港場となった。
間もなく多くの外国人宣教師がやってきて、布教に努めるかたわら、教育、福祉などの向上にも心血を注いでくれた。
その中に、アメリカ人宣教師MCハリス夫妻の姿もあり、元町の地に「日々学校」を開いたのがこの学院の前身になっている。

受付と案内はこちらの女学生が担当、親切で礼儀正しい応対ぶりに好感が持てた。見学を終えたら、広い前庭の樹木の下で冷たいお茶を出して下さり、とても清清しい思いでホワイトハウスをあとにできた。
学院の皆様、有難うございました。

                    ミカエル 


 



  

 

 

 


第116号 孤独になった博物館

2007年04月17日 | 教育施設

            
                      (現在の本館)
 
(旧博物場1号館・左と2号館・右)

市立函館博物館本館  所在地=函館市青柳町函館公園内

1年半前、ここから100mと離れていないところに市立函館図書館本館(先号)があった。
それが五稜郭地区に移転、兄を失ってしまった博物館は孤独になって寂しい環境の下、ひっそりと見学者の来館を待っている。

博物館の歴史は、明治4年に開拓使顧問ホーラス・ケプロンが、北海道の開拓に博物館が必要であると説いたことから始まる。

1号館 = 明治12(1879)年5月25日に、開拓使函館支庁仮博物場が開場して幕をあけた。水産陳列場→昭和7年水産館に改称

2号館 = 明治17年8月11日に第1博物場の隣接地に開場
水産陳列場→昭和7年先住民族館に改称

3号館 = 明治24年7月1日に第2博物場の隣接地に開場
水産陳列場→明治34年廃止

1号館が開場した年、珍しい展示物を見ようと、入場者数は約42,000人、当時の函館の人口が約30,000人だったから、ミニ万博のような賑わいだったらしい。
展示物は、マンボウ、エイ、セイウチなどの海獣の剥製、北方民族の生活用品であった。

これら建物の所管は、明治15年に開拓使廃止に伴い→函館県に引き継がれ→明治19年の3県廃止により→北海道庁(函館商業学校)→函館区役所→大正11年市制施行により函館市役所へと変化し、昭和18年からは、市内部でも図書館に移管され、さらに昭和23年の函館博物館設置条例により、博物館が所管することになった。
国内最古の地方博物館、明治初期の洋風建築物として文化財の価値は高く、昭和38年に道指定有形文化財となった。

現本館 = 昭和41年4月28日に総合博物館として開館した。
付属施設として、五稜郭公園内に五稜郭分館、末広町に郷土資料館がある。

本館の入館料は、常設展であれば100円と安いのだが、駐車場が分かりづらく、しかも遠い。
また、総合博物館としては床面積が小さく、冷暖房設備が無いなど問題点が多い。
こんな環境だから、入館者の姿はいつ行っても数人、私一人のときもある。
このままの状態では市民からも忘れられる存在になってしまい、貴重な資料が死んでしまう気がする。
市民が気軽に訪れて展示品を身近に目にするためには、立地条件のよい新図書館近くに新築移転するのが一番。
再び兄弟が近くに住むことによって予想以上の相乗効果を発揮できると思うのだが・・・。

                       ミカエル


 

 

 

 

 

 

 

 

 


第115号 お疲れ様!旧市立函館図書館本館

2007年04月14日 | 教育施設

所在地=函館市青柳町 函館公園内

 

新図書館が平成17年11月に五稜郭公園の堀の傍(旧北海道渡島支庁跡地)に移転新築し、その名も「市立函館中央図書館」としてオープンしてから1年半が経過した。
それまで市民や北方研究者への情報提供の場として利用されてきたこの建物は、閉鎖され第二の活用方法を静かに待っている。

図書館の歴史を振り返ってみると
1.明治39年、函館在住・岡田健蔵氏が自宅に図書室を設け無料 公開
2.明治42年、函館公園内の区有建物・協同館(当初は賓客接待所)を借り受け、私立函館図書館を開館
3.大正5年、市内の豪商・相馬哲平氏(公会堂建設の際にも大口寄付者)の9千円の寄付金をもとに書庫(右写真)を建設
4.大正15年、市内の豪商・小熊幸一郎氏の50,000円の寄付金をもとに、図書館建設に着手(左写真)
5.昭和3(1928)年7月16日、市立函館図書館開館式
こうして、函館図書館の父とうたわれた岡田健蔵氏の資料収集努力と、市内の豪商の寄付金によって、北方資料の宝庫・市立函館図書館は奉仕を開始したのである。

左の建物は昭和2(1927)年完成の鉄筋コンクリート造3階建の事務室、閲覧室棟で、正面の太い4本の円柱が目をひく。
設計は市役所技師・小南武一氏で、氏は多くの公共建築物の設計を担当、弥生小学校、公民館などの作品がある。

右の建物は大正5(1916)築の鉄筋コンクリート造5階建の書庫。
設計は辰野葛西建築事務所で、辰野とは著名な「辰野金吾氏」で、氏は別名「辰野堅固」とよばれるほど頑丈第一の設計思想の持ち主で、代表作に日本銀行本店、東京駅、旧日本銀行小樽支店などがある。
施工者は旧函館区公会堂も手がけた村木甚三郎氏で、当時のそうそうたる顔が関わった。

この不燃図書館のおかげで、全市の3分の1を焼いた昭和9年の函館大火から貴重な資料を守れたのである。

           

撮影に行ったのは4月12日、月末から始まる夜桜のための提灯が取り付けられていた。(右写真)
五稜郭は酔客が堀に落ちるのを防ぐために、桜開花期間中は夜間閉鎖、ここに夜桜見物客が集まる。が、まだ寒い。
冬並みの身まかないで熱燗に人気がある。
露店の焼き鳥や花見客のジンギシカン鍋から立ち上がる煙とにおい、軽快な三味線の音、風情溢れる電飾花見はもうすぐだ。

                   ミカエル

 

 


第51号 旧函館区公会堂

2006年11月02日 | 教育施設

所在地=函館市元町11番13号

  

函館はロケ地としての魅力があふれている。
この建物もそのひとつ。明治の頃、流行した和洋折衷で左右対称のルネッサンス様式に似たデザインである。
それにしても、見事な色彩感覚には脱帽する。

明治40(1907)年の大火は、函館区の約半数、9,000戸近くを焼失した。
この大火で区民の集会所も失ったため、「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。
当時の函館豪商・相馬哲平は、自分の店舗を焼く被害を受けながらも、5万円の大金を寄付、これをもとに工事費58,000円で明治43年9月にこの建物は完成した。

設計者、監理者、施工業者がともに函館人であることを誇りに思う。
屋根窓を置き、玄関、左右入り口のポーチの円柱に柱頭飾り、屋根頂部の飾り柵の
意匠や技法が高く評価されている。

明治44年8月、皇太子殿下(大正天皇)の行啓の宿舎とし、また、大正11年7月には摂政宮殿下(昭和天皇)の御来道にも使用された由緒ある建物である。
本館1,761㎡、付属棟138㎡は、昭和49年5月に国指定重要文化財となった。

昭和55年10月から57年3月まで、工事費約355,000,000円で修復工事を行なった。
御座所、御寝室、大広間などが華麗に蘇り、往時の華やかさを物語っている。
明治調の衣裳で記念撮影ができる「ハイカラ衣裳館」や、大広間でのコンサートが人気となっている。
貴女もお嬢様やマダムに変身して、パチリしてはいかがですか?
夢が広がりますよ。

今日は所属しているスポーツ同好会の練習が、体育館で行なわれた。
今月から練習日が大幅減。外で練習していた団体が、体育館にその場所を移したのが原因。使用は抽選で決めるから、当る確率はかなり低くなった。
「宝くじが当ったら会で体育館を建てよう」と、夢のような話に皆で大きな拍手をして練習は終わった。
               ミカエル

 

 

 

 

 

 

 

 


第47号 遺愛幼稚園

2006年10月26日 | 教育施設

所在地=函館市元町4番1号

 

西部地区に戻ってきた。
ガンガン寺(ハリストス正教会)の西隣にあるこの幼稚園は、明治28(1895)年に遺愛
女学校併設幼稚園として創立され、初代園長は同女学校校長のミス・デカルソン。
しかし、明治40年8月の大火で被災し、現園舎は米国篤志家の寄付により大正2(1913)年に建造された。この地は学校法人・遺愛学院の発祥の地である。

明治7(18749)年1月、米国人宣教師・ハリスは、米国メゾジスト監督教会から派遣され、26日に到着後、付近の子女を集め直ちに日日学校を開き、これが遺愛学院の
基礎となった。
ハリスは当時の札幌農学校で、クラーク博士の依頼を受け、新渡戸稲造、内村鑑三らに洗礼を授けている。

玄関部分の飾り、上げ下げ窓、外壁の色彩、暖炉用と思われる太い煙突などが当時のハイカラさを物語っており、市指定伝統的建造物になっている。

保育目標は、
「一人ひとりの園児とその家族、教師全員が一つになって人と人との暖かなふれあいの中で、すこやかな成長ができるようにしてあげることです」とある。
資料を頂戴するためお伺いしたが、内部も興味あふれる建築様式であった。
親切に応対して下さった先生、有難うございました。

                    ミカエル