ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第50号 香雪園も紅葉が見頃。出掛けませんか。

2006年10月30日 | 公園

所在地=函館市見晴町

  

今朝の函館は初氷を観測、冷え込んだ。
頭の中は、紅葉が美しく化粧した姿だった。
9時頃には気温は上がり、小春日和を思わせるような暖かさになり、妻と二人で香雪園(第15号でご紹介済み)に向った。

園は、期待を裏切らなかった。
恐らく、函館市街地にあっては最高のモミジスポットと思う。
大阪からの観光客、近くの幼稚園児らが歓声をあげ、もみじの葉いちまい一枚の色を楽しんでいた。
二人そろって、元気に出歩ける幸せをかみしめながら、紅葉のトンネルをくぐった。
この美しい庭園を市民の憩いの場にと、ご寄贈下さった「岩船家」に乾杯!

  

         

この後、元町FMいるか放送局の「ぎゃらりー807」で開催中の絵画展を観た。
帰路、銀座通りで家族だけでやっている美味しいパン屋から、焼きたてを求め、心もお腹も満足した一日だった。   ミカエル

 

 


第49号 市民の森は紅葉が見頃。出掛けませんか。

2006年10月29日 | 公園

所在地=函館市上湯川町

 

通いつめたかいがあって、ようやく気に入った紅葉のシャッターチャンスを迎えた。
この市民の森駐車場は、トラピスチヌ女子修道院へ来られた観光客のバスやマイカーの駐車場にもなっている。

下車した皆さんからは、「まぁー、綺麗!」の歓声があがる。
そして、修道院へ足を運ぶ。
戻ってバスに乗り込む前に、傍にある売店からソフトクリームを求め、、ベンチに座り
お喋りしながら味わっている。

間もなくやって来る白い妖精たち。
それまでの短い間、樹木は越冬支度に入る。
その時に見せてくれる美しい色彩の数々。

皆さんも、樹木が描き出す作品展に出かけませんか?
自然はあなたとの触れ合いを待っています。       ミカエル

 

 


第48号 八幡坂通り

2006年10月28日 | 通り、坂道、散策路

所在地=函館市元町~末広町            
(動けない青函連絡船摩周丸と躍動する女子高生との組み合わせを狙ってみたのだが・・・)
 
 (海に向って左にある大学)    (海に向って右にある修道院)    

函館は坂道の多い街でもあり、名の付いている坂道はおよそ20。
その中でなんといっても人気ナンバーワンがこの坂である。
坂の上から見下ろすと函館港と連絡船、横津連山が望める絶好のロケーション。
上り詰めると、函館西高校(歌手・北島三郎の母校)があるところから、別名・西高の坂とも呼ばれる。

かって、洗剤のチャーミーグリーンのTVCMがあったのをご存知だろうか?
若いファッションに身を固めた老夫婦が、手をとり合ってスキップしながら散歩する
光景である。
ほのぼのとした夫婦愛が伝わって来て、私も老いたらあのように散歩したいと、思ったりもした。その撮影地がこの八幡坂であった。

ガイドさんがこの事を説明するようになってから、坂をバックに記念撮影する観光客が増え始め、人気スポットになった。
写真の建物は、ロシア極東国立総合大学函館校(旧函館白百合学園校舎)とシャルトル聖パウロ修道女会函館修道院。

坂の名の由来はこうである。
ここから約200m離れたところに箱館八幡宮があった。隣接する箱館奉行所が文化
3(1804)年に拡張するにあたり、西高あたりに移転してきた。
しかし、明治11年の大火で被災し、社は明治13年に谷地頭町に新築し、坂は整備され名称はそのまま残された。
冬、イルミネーションで着飾った夜の坂にも、ぜひ足を運んで欲しいものである。

                         
来週に予定されていた、古くなったガス管の交換工事が先ほど終わった。
工事の支障となるため、バラを掘り上げていたが、明日、戻す事ができる。
不自由な思いをさせてご免。来年の春まで安心して♪おやすみなさい。

                         ミカエル

 

 


 


第47号 遺愛幼稚園

2006年10月26日 | 教育施設

所在地=函館市元町4番1号

 

西部地区に戻ってきた。
ガンガン寺(ハリストス正教会)の西隣にあるこの幼稚園は、明治28(1895)年に遺愛
女学校併設幼稚園として創立され、初代園長は同女学校校長のミス・デカルソン。
しかし、明治40年8月の大火で被災し、現園舎は米国篤志家の寄付により大正2(1913)年に建造された。この地は学校法人・遺愛学院の発祥の地である。

明治7(18749)年1月、米国人宣教師・ハリスは、米国メゾジスト監督教会から派遣され、26日に到着後、付近の子女を集め直ちに日日学校を開き、これが遺愛学院の
基礎となった。
ハリスは当時の札幌農学校で、クラーク博士の依頼を受け、新渡戸稲造、内村鑑三らに洗礼を授けている。

玄関部分の飾り、上げ下げ窓、外壁の色彩、暖炉用と思われる太い煙突などが当時のハイカラさを物語っており、市指定伝統的建造物になっている。

保育目標は、
「一人ひとりの園児とその家族、教師全員が一つになって人と人との暖かなふれあいの中で、すこやかな成長ができるようにしてあげることです」とある。
資料を頂戴するためお伺いしたが、内部も興味あふれる建築様式であった。
親切に応対して下さった先生、有難うございました。

                    ミカエル

 


第46号 秋深まる市民の森

2006年10月25日 | 公園

所在地=函館市上湯川町 女子修道院そば

 

紅葉のシャターチャンスを逃したくなくて、向ったのが市民の森。
ここのご案内は後日にしたいと考えているが、先ずは紅葉をご覧頂きたい。
ちょっと早い気がする。来週始めあたりかなぁー。
それと、曇り空は葉の美しさを引き出せないから快晴の日を待ちたい。

このあと、西部地区へ取材に向った。
修学旅行中の女子高生の一団と出会った。その賑やかなこと賑やかなこと。
私の時もこうだったのだろうかと、かなり遠くなった修学旅行を思い出していた。

今日は、敷地内の古いガス管の交換日であったが、業者の都合で来週まで延期。管は花壇の土中を通るので、バラを掘り上げ待っていたのだが・・・。
樽にバラとともに土を入れ、水を与えて軒下に置いた。
大事な大事なバラさん、来年も美しく咲いてちょうだい!!!。

      ミカエル

 


第45号 ハリストス正教会

2006年10月21日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市元町3番13号

「ハリストス」とは、ロシア語でキリストを意味する。
(足場の悪い場所からパチリしました)

ロシア正教ともギリシャ正教とも呼ばれているキリスト教系の教会。
函館の顔と言っても、恐らく反論する市民はいないと思う。それだけ多くのパンフや
ロケで馴染みが深い。

開港に伴い、ロシア初代領事が箱館にやって来たのは安政5(1858)年。
司祭、医師、館員、家族らを連れていた。箱館奉行は、一時寺院に迎え入れたが
翌年現在地を指定し、ロシアはここに領事館、付属聖堂などを建設した。
1861年、本国からニコライ(明治5年東京へ転任、ニコライ堂を建設)司教が来箱し、切支丹解禁を待って日本で最初にギリシャ正教を布教した。

現在の建物は、明治40年の大火被災後の大正5年、ネギ坊主屋根が特徴のロシア風ビザンチン様式で再建されたレンガ造である。
再建当時の大鐘(重さ約2トン)は、大正12年の関東大震災で被害に遭った東京神田ニコライ堂の鐘楼に移され、現在の鐘は昭和58年6月に献納されたもので、この時期に国重要文化財に指定された。

現在、鐘を鳴らす(演奏かな?)人は、中居さん。数個の鐘を両手両足を実に巧みに使うさまは神業に見える。
歌謡曲に「ニコライの鐘」があった。
昭和30年のNHK紅白歌合戦で、藤山一郎さんが歌ったが、この歌詞、旋律は今でも覚えている。

また、ニコライ司教は、末広町の老舗レストラン・五島軒の店名になった人物、五島英吉氏とつながりもあって話題は豊富だ。このことは、「五島軒」をお伝えするときに触れてみたい。

テレビでモスクワのクレムリン宮殿を見るとき、この教会がロシア風ビザンチン
様式であることがよく分かる。
クリスマスの夜、この界隈を歩いていたら賛美歌が聞こえてきた。この街並み、そして生まれる雰囲気を大事にし、後世に伝えたいものである。
三回に分けてお伝えした元町教会群は、書き足りないまま結びとしたい。

今日の午前、紅葉前線を確認するためデジカメ持って香雪園、市民の森へ出かけた。香雪園には早くも観光バスが数台来ていたが一週間ほど早い感じ。
女子修道院に隣接する市民の森は、ナナカマドが見頃であったがカエデはまだまだだ。夕方から急激に冷え込んできたから、案外 速度が速まるかも知れないな~。

      ミカエル
 


 

 

 


第44号 元町カトリック教会 

2006年10月20日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市元町15番30号

 

右の写真は既に掲載済みの写真であるが、石畳の二十間坂から構えたもの。
瓦の大屋根の建物は東本願寺函館別院で、このように和洋の宗教建物を同じ画像に組み入れたものは珍しいと思うのだが・・・。
青空がいっぱいに広がり、それがこの教会のシンボルである鐘楼を美しく溶け込ませている。

初めてカトリック神父が来函したのは安政6(1859)年。
そして最初の教会聖堂を建てたのは、マレン神父で明治8(1875)年であった。
しかし、明治40年、木造建築であったために聖堂が焼け、ゴシック式のレンガ造りの
聖堂に建替えた。

その後も火災に遭ったが、部分修復で済ませた。
鐘楼部分だけは増築され、鉄筋コンクリート造である。
聖堂の祭壇は、当時のローマ法王・ベネディクト15世からの記念すべき贈り物である。北海道、東北の教会を治める格式ある教会である。

日本の道・百選に選ばれた「大三坂」に面し、傍らに作家・亀井勝一郎が育った洒落た洋館風の建物がある。
グロード現神父は、夏の夜、五稜郭公園で上演される「函館野外劇」の市民団体の理事長職を努めたり、福祉の面でも多大な功績がある。
絵筆を握り、心が広く、笑顔を絶やすことなく、多くの市民から慕われている。

今月から受講を始めた「はじめてのエッセイ」。
その宿題をようやく書き上げ講師へ提出した。作文を書き、先生の採点を受けるのは中学以来のできごと。
次回の受講日にどのような批評をいただけるのか?ちょっぴり不安な日が続く。

     ミカエル

この記事につきまして、「元町画廊主人」様から、下記のようなご指摘を2009年9月8日に頂戴し、感謝しております。
自分の無知を大いに反省しております。

どうぞ、ご指摘文をお読み頂ければ幸いです。

                    記


「初めてカトリック神父が来函したのは安政6(1859)年。」これは正しいですね。そしてこのときの神父はフランス人のメルメ・カション神父です。彼は称名寺の境内に一軒家を借りてそこでささやかなミサをあげたようですが、同時に他の国の領事達が羨ましがるような土地の借用に成功し、そこに小さな聖堂を建てました。たぶん1860年1月頃の完成でしょう。函館最初のカトリック聖堂は境内の一軒家ではなくきちんとそれように建てた後者とすべきでしょうね。場所は不明ですが、彼がパリミッション会に送った手紙からすると、現在の函館西高校あたりと思われます。
1863年メルメ神父は失意のうちに函館を去ります。(以後4年間神父不在の空白期)

1867年ムニクー神父とアルムブリュステル神父が来函。メルメ神父の小聖堂が他の人に使われていたため、現在の敷地の中に小聖堂を建設します。(1867年)これは1879年焼失。(函館中央図書館に古写真あり)

1875年マラン神父着任。
1877年(明治10年)現在の場所に木造の大きな聖堂を建てる。1891年この教会が司教座となる。(当時の函館は北日本の中心であった)
 大聖堂としてはこれが第一番目といえるが、 聖堂としては第三番目となるのではないか?
1907年(明治40年)大火で焼失。

1910年(明治43年)ゴシック式煉瓦造りの大聖堂完成。ベルリオーズ司教の活躍で寄付金集める。
1921年(大正10年)大火により焼失。

1923年(大正12年)現在の大聖堂完成。
高齢のベルリオーズ司教は再建募金のためアメリカを駆け回った。ゴシック式鉄筋コンクリート造り。(前聖堂の焼け残った煉瓦壁を最大限に利用、木田保造施工)時の教皇ベネディクト15世より祭壇、十字架の道行きを贈られた。日本国内では唯一のもの。

かつては北海道と東北全体を函館司教区と呼んでいたが、1936年仙台司教区と改称しました。そして司教座は仙台に移りました。(これは、函館に要塞司令部があり、布教のためにいろいろ支障があったためと久保田恭平氏は述べています。)
1952年に札幌司教区が設立され、函館はその中の一つの地区という扱いになりました。(函館の盛衰が窺われますね)
こんな事から、現在では、「かつては、北海道、東北の教会を治める格式ある教会であった。」とすべきでしょうね。

グロード現神父となっていますが、1976年よりグロード神父はこの教会を去り、旭岡の特別養護老人ホームの専属となっています。現神父はやはりフランス人のジェル・ロー神父です。

いろいろお節介を述べて申し訳ありませんが、インターネットで調べものをしている方達に間違った情報を伝えてはまずいかなと思い、老婆心からコメントを書かせて頂きました。

なお、元町画廊では9月15日より「カトリック元町教会150年のあゆみ」展を開きます。
150年の中でも、特に困難な時代に焦点を当てて展示します。戦時中にどのような迫害を受けそれにどう対応したのかなども掘り下げてみたいと考えています。よろしかったらどうぞ見に来て下さい。聖堂内部のすてきな写真やペリーが帰国後に発行した「日本遠征記」(150年前に印刷された実物)、それに新たに発見された珍しい写真も見所です。

 


第43号 日本聖公会函館聖ヨハネ教会

2006年10月15日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市元町3番23号

       
     (元町教会群を散策する観光客)

元町教会群の第一号として、三教会の中で最も新しいこの教会を取り上げてみた。
皆、個性的なデザインであるが、この教会は空から見ると屋根が十字架の形になっている。これは、中世紀のヨーロッパの教会にみられる建築様式である。

世界聖公会のうちの日本聖公会に属する。
明治7年、イギリス人牧師・W.デニングが函館に来て、伝道をしたのが日本聖公会の北海道伝道の始まりで、道内の宣教活動の根拠地となった。

明治11年、末広町に初めて聖堂を建てたが、翌年の大火で焼失し、その後も火災などのため移転を繰り返したが、この地に落ち着いたのが大正10年で、現在の建物は昭和54年に改築し完成させたもの。
函館の大火の発生の多さを物語っている。

この教会関係者が、女学校、アイヌ学校や病院を建設したりと、教育、福祉活動に大きな業績を残した。

12日に大阪から来られたお客様が、午後の飛行機で帰られた。
お二人を市内、男子修道院、大沼へとご案内し、楽しい4日間は天候にも恵まれあっという間に過ぎ去った。
「次回はいつお会いできるのかなぁ?」と考えながら、飛び去る飛行機へ向って、家の窓から大きく手を振った。「お元気で!!!」

        ミカエル 

   

 


 


第42号 大谷派函館別院

2006年10月11日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市元町16番15号

 

元町の教会群とは対照的な巨大な瓦屋根を持ったお寺だ。
歴史は古く、1710年に現在の木古内町から旧市立函館病院あたりに移ってきた。
その後も移転をし、2度の大火にも遭って、不燃建築方式での建設が叫ばれた。

動き出したのが、明治40年の大火後。
時の函館の豪商で檀徒総代の渡辺熊四郎が、学者の意見を聴いて踏み切った。。
明治45年に着手し、施工は木田保造(後の木田建業)であった。

安全性を信徒らに周知させるため、工事中の高所に芸者さんを上げ、手踊りをさせて見せたというから日本最初のコンクリート寺院の船出は大変だったらしい。
こうして、大正4年に間口18間(約33m)、奥行き19間(約35m)の大本堂は完工した。

妻の姉の遺骨保管は、このお寺にお願いしている。
命日が2月13日で最も寒い時期。本堂でお参りすると、寒気が足元から伝わってくる。ストーブの周りにかたまりながら、姉を偲んでいる。
火を恐れての不燃化であったが、こうしてストーブを設置してくれた心くばりは、とても嬉しい。

昨日から、「教養講座・はじめてのエッセイ」を受講し始めた。
狙いは、旅日記やこのブログの文章を少しでも向上させたいからである。
月2回の3ヶ月コースの講義はスタートしたが、さて、どうなることやら?

   ミカエル

 


 

 

 


第41号 水道局元町配水池

2006年10月09日 | 展望処

所在地=函館市元町(ロープウェイ山麓駅斜め上)

 
(配水池から函館山山頂を望む)     (配水池から函館港方向を望む)

函館の上水道工事は、明治22年に竣工した。
横浜に次いで国内2番目であったが、日本人の設計としては国内初。
通水式はこの池で行われ、亀田村のダムから通水した水は勢い良くこの池に噴き上げた。
現在では、衛生面から有蓋化されてしまい池の姿を見ることはできないが、敷地内にある地下への入り口から保守点検用通路をくぐり、それを確認することができる。
この配水池は、西部地区の高台に給水するために設置されたもの。

社会人になって、最初の仕事の担当区域が西部地区であった。
5月から11月までの間、雨が降らなければ外勤をした。
休憩したり、仕事を一時的に整理したり、昼食を食べたりとよく利用した場所であった。

ここからの眺望は、素晴らしかった。
元町教会群、現存しないが洋館風の市長公舎、函館港が一望でき、快晴の日には遠く駒ケ岳を望むことができ心を癒してくれた。
また、それらの景色を眺めながら、もの思いにふけったりもした。
市街地を見下ろす場所としては、函館山山頂にかなわないが、身近な場所としてお薦めだ。

毎年5月の北洋船団出航の時は、真っ白に化粧直ししたばかりの独航船が岸壁を埋め尽くし、10,000トンクラスの母船数隻が港内に停泊し、それはそれは活気に満ち溢れていた。
あの賑わいは遠い夢になってしまったが、青春時代のお気に入りの場所であったことには違いはない。

昨日の台風並みの強風で、市内の漁業地区では船が十数隻も陸に押し上げられ被害が大きかった。
予想外の波の大きさがその理由と言っていたが、命を落とした人がいなかったのは幸いであった。
風邪で体調をくずし、昨日は一日中ベッドの中にいた。
そのせいか、鼻水、セキも止まり気分が大分よくなった。
午前、船見町の龍寺で開かれている同寺所有の「宝物展」へ出かけた。
掛け軸、屏風など22点が展示。
地獄絵を見て、生前の生き方が大切であることを痛感した。  ミカエル

 

 

 


第40号 菜園クローズ

2006年10月07日 | 我が家のもろもろ

              

先日、我家の庭のミニ菜園をクローズした。
最後の収穫物は写真のとおりで、ミニトマト、ベイナスの二種類。

昨年、近くの菜園団地の一区画、50㎡を借りて野菜作りを始めた。
化学肥料を使わず、消毒をしない自然農法で育てていた。
収穫まであと少しという夏、キツネの家族が我家の作物で月見の晩餐会を開き、畑は荒らされてしまった。
こんな町の中で何故?の疑問に、どうやらキツネは空港に住み着いているらしいとのこと。

今年はキツネ特有の病気を恐れて、妻が大事にしている我家の花壇の一部、畳2枚分を菜園に割愛してもらった。
植え付けたのは、キューリ、ミニトマト、ナスがそれぞれ2苗。
順調に育って、十分食卓を賑わせてくれた。
来年は、もう少し菜園に花壇を提供してくれるとのことで、喜んでいる。
命の移し変えをしてくれた作物に感謝、感謝である。

きのう、嬉しいことが二つあった。
一つは、東京に住んでいて娘のように思っている大学生から、結婚記念日のお祝い品が届けられたこと。せっせとアルバイトをして貯めた大事なお金を使って。
記念日を覚えていてくれたことが何よりも嬉しかった。優しい心くばりに感謝。

もう一つは、函館に30年前住んでいて、今は大阪に住む妻の友人が、お嬢さんとともに12日に来られるというメールがあったこと。
積もり積もった話に、きっと口が壊れそうな気がする。  
                             
一昨日、風邪をひいてしまった。
寒気がし、セキがでる。今夜は早くやすむことにする。   ミカエルi

 

 

 

命の

 

 


第39号 FMいるかラジオ放送局

2006年10月04日 | 放送局

所在地=函館市元町18番11号

   

この放送局は、旧NHK函館放送局跡地に、地域情報を発信するコミニュティFM放送局として1992年12月24日に開局した。
放送局の跡地に、また放送局とは実に珍しいできごと。
国内には約190局、道内には19局のコミニュティ局が開局しているが、「いるか」は、国内第一号の暖簾を誇る。
開局当初は、西部地区の一部より電波が届かなかったが、順次出力を上げるとともに中継基地の増強をはかり合併後の全函館市、北斗市と七飯町のほぼ全域で聴けるようになった。

都道府県単位のラジオ局と違って、きめ細かい情報を素早く伝えてくれるのが強味。
また、地域住民も番組作りに積極的に参加できる環境が特色。
私も妻もそれぞれのラジオネームで、番組にメッセージを送っているが、パーソナリティーの方から紹介されると嬉しいものである。

局1階のぎゃらりー807での落ち着いた雰囲気の催事、2階のレストランからの眺望を楽しみながらのランチタイム、季節発行のフリーペーパーもお薦め。

この10月、番組改編が行なわれ、ますます内容充実。今後も小回りがきく街角ラジオとして、幅広い情報をたくさん発信してくれるようお願いしたい。

今日は我家の駐車場の舗装工事日。
これまでのコンクリートが35年の経過でひび割れがひどく、破片が散乱していた。
作業してくれた方は5人。3時に終えて帰られた。綺麗にしてくれて有難う。
これで一安心だ。   
 ミカエル

 

 

 

 


第38号 旧NHK函館放送局跡地 

2006年10月03日 | 放送局

所在地=函館市元町18番 現・元町壱番館、FMいるか放送局敷地

          

          (旧局舎のイメージと跡地にある記念碑)

旧局舎は、こじんまりとしていて薄い茶色の二階建て。
高い二本の鉄塔アンテナが遠くからも良く見え、光り輝く銀色だった。
アンテナからの線が局舎に引き込まれ、強風のときには揺れていた。

ここからの放送開始は、昭和7年2月6日。
昭和42年、千歳町に新局舎ができるまで、業務にあたった。
南部坂に面した所に門があり、上部をチョコレート色、その他をクリーム色に塗った
三菱ジープが数台出入りし、ジープの屋根には取材用の台が設けられていた。
桜が咲き、見晴らしもよく、用事も無いのに立ち入っては市街地を眺めた。

現天皇の御成婚前まではラジオの全盛時代。
三つの歌、クイズ・二十の扉、のど自慢、尋ね人などの番組が今でも記憶に残っている。
訪れた日、局舎跡に植えられたナナカマドの実が赤く色づき青空に映え、JOVK、JOVKと、函館局のコールサインが聞こえそうだった。

            

昨日から雨が降っていたが午前に上がり、正午過ぎには青空が見えてきた。
明るい日ざしが居間の大窓から差し込み、ひんやりとしていた室内の温度が少し上昇した。
例年、今頃は自宅裏庭にキノコが顔を出す。
一回分の味噌汁の具によりならないが、「今年もありがとうね」と、声をかけるのが楽しみ。  
                     ミカエル

    



 


 


第37号 要塞地帯境界杭

2006年10月01日 | 珍話、懐古品、珍品

所在地=函館市元町18番 ロープウェイ山麓駅駐車場内

西部地区をゆっくりと歩いていたら、またまたこんな奇品を見つけた。
縮小したら真ん中のコンクリート杭に書いてある文字が読めなくなってしまったが、聞きなれない「要塞地帯境界杭」。

          

現物からは、次の文字が読み取れた
正面に「要塞第一地帯」、右側面に「第13号」。

函館山の全山要塞化の工事が完了したのは明治32年11月3日。
その時に山麓地帯にこの杭があちこちに設置された。
以降、昭和20年10月7日に函館山を大蔵省から市が借り受け管理するまでの長い間、山は立ち入禁止となっていた。

夜景を見ている頂上展望台下には、要塞跡が残されており、そのほかの場所にも点在している。
平成になってから、これらを文化遺産として保存すべきだという声があがり、平成13年に「函館山と砲台跡」として、北海道遺産に選定された。
残された課題は、保存と活用の方法である。

幕末に五稜郭と同時期に築造された「弁天台場」が、港湾機能の拡充という名の下に解体されてしまったことは惜しい気がするだけに、選定されたことは喜ばしい。
函館山要塞については、後日改めて触れるつもり。

  今日は、妻の姉の73回目の誕生日。
国際ホテルで昼食し、プレゼントも用意した。
小柄で若々しい姉は「長生きはするものね。有難う」とお礼の言葉。
3人だけの誕生会だったが、心から楽しく幸せになれたひと時であった。
      ミカエル