ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第263号 土方歳三殿へ献花~祥月命日

2008年05月11日 | 新撰組

明治2年の旧暦の今日は、箱館戦争で亡くなった「新撰組副長・土方歳三」の139回目の祥月命日。
北の大地に散った若き獅子に、庭に咲く花を携えて朝6時にお参りに行った。
(写真をクリックすると拡大できます。)
  
遺体の埋葬地は未だに不明であるが、やはり五稜郭だと確信じている。
石垣の中なのか、堀の中なのかは分からないが「戦争」という非常緊急事態だから、遠くには運び出せれないと思う。

最期の地碑のある一本木近くで、松前藩士の米田幸治が放った銃弾が腹部に命中。
即死説もあれば、近くの味噌小屋で一晩中苦しんで亡くなった説など混乱の中だからこそ諸説が生まれた。

「ご先祖から聞いた話なのですが」と前置きし、米田の末裔(元大学教授)の方は、「撃った弾で落馬した大将らしき遺体に近づいたらもう首がなく、着用していた陣羽織の裏には”土方”の文字が見えた。この陣羽織は持ち帰るべきだった」と述べたことがあった。
米田の写真が残っている。風貌は「永倉新八」に似ている。
永倉も松前にゆかりのある隊士だった。

五稜郭タワーに土方の立像が建てられたとき、この末裔の方と日野市にある土方歳三資料館・土方陽子館長とが対談した。
「悲しいできごと」と結んでいた。

五稜郭内で、箱館戦争の戦死者の遺体が最後に発見されたのは大正15年のこと。裏門近くにあった茶店のすぐそばだった。
一方遺物は、官軍の軍艦・甲鉄が七重浜から放った砲弾で、平成になってから石垣改修工事中に見つかるなどしている。
箱館戦争終結から139年、遺骨は確実に土にかえっている。

現在、五稜郭では「箱館奉行所」の復元工事が進められている。
完成したら、彼はきっと榎本武揚、中島三郎助、相馬主計らを呼んで、「箱館戦争戦友会」を開くに違いない。

最後の地碑横には、日野市から移植した「歳三桜」がある。
何故か、命日前後にならないと咲かないと伝えられている。
今朝も満開に近い歳三桜が美しく咲いていた。

(※ 土方歳三に関するマイブログは、カテゴリの新撰組をクリックしてください。)

                      

 


第208号 誠の武士が北の大地に散った~土方歳三最期の一日(後編)

2007年12月22日 | 新撰組

20日、NHKからこの番組が放映され、大ファンの妻とともにテレビ前に正座した。
一週間前に放映された前編が終了すると、ブログで取り上げた土方、山本耕史さんファンが多く、この番組を待ち望んでいたのがよく分かった。
「待たせたな!」の冒頭の台詞に、納得したのは我が家だけではなかったようである。

(写真をクリックすると拡大できます。)
 

新撰組の発足時から、常に幹部として刀、槍の下を潜り抜け、硝煙の匂いを嗅ぎ、血を浴び、自らも負傷しながら戦ってきた副長・土方。
その戦闘心の根底にあるものは、徳川家、松平容保公への限りない忠誠心であったに違いない。
だからこそ、リーダーとして部下から信頼されてきた。
後編では、それが端的に表現され、信じきっている配下の心理がよく描き出されていた。

一方、蝦夷共和国の他の幹部達は、徳川幕府のエリート集団。机上倫理は立派に築かれている。
特に榎本は、官費でオランダ留学し、徳川幕府の期待を担っていた。
帰国してからは、外国の習慣、知識を日常生活に取り入れ、それを蝦夷地での戦闘中でも引きずっていた。
このように、蝦夷共和国の内閣では、彼は肌が合わず孤立していたのでは?という思いがしてならなかった。

辞世の句を現代風に訳した方がおられる。
「万が一、思いとは違って、蝦夷地で朽ちてしまっても、私の魂は将軍・慶喜公をきっとお守りするであろう」。
どこまでも忠義一本だったことがうかがえる。

 

45分があっという間に過ぎ、番組は終わった。
沈黙が解け、二人の顔には満足の微笑みが浮んできた。
「よかったね!」「コーヒーでも飲みますか!」。

例年、5月の第三土・日は”箱館五稜郭祭”。
土方歳三最期の地で、碑前祭が行われる。
太鼓隊、ラッパ隊、礼砲隊が整列、官軍指揮官が献花し慰霊する。
祥月命日には、我が家でも献花をしている。
「来年の花は、ちょっぴり豪華にしましようよ!」と、いうことになった。

北の大地に散った誠の武士・土方歳三。
多くの人の心の奥には、永遠に生き続けている。

                       ミカエル


第205号 沈黙!土方歳三最期の一日

2007年12月14日 | 新撰組

昨夜、NKK総合テレビで”土方歳三最期の一日(前編)”が放映されました。
これは、2004年大河ドラマ”新選組”が終了したあと、土方にスポットをあてて作られた特別版で、再放送を望む多くの声があり、これに応えた形になりました。

土方人気が高いのは、残されている写真の風貌とファッション。
伝えられている”竹を割ったような一本気な性格”も魅力の一因でしょうか。
それと、その役を見事にこなした山本耕史さんの演技とマスクも大きな理由です。
(写真をクリックすると拡大できます。)
 
このドラマの影響で、妻は大の”耕史さんファン”に。
耕史さんが函館で3回トークショーを開催、全ての入場整理券が当たりました。
加齢なる黄色い声を張り上げて”こうーじさーん”。傍にいた私は小さくなる一方。
そんな訳で、自称・新撰組応援隊の我が家では、待ちに待った番組。
開始時刻の8時迄に家事を済ませ、テレビの前に並びました。

懐かしいテーマ曲でスタート。
気分が盛り上がってきた反面、二人の沈黙は始まりました。
酒振る舞いがあった新撰組本陣は、石川啄木が代用教員をした現・弥生小学校のあたりにあったなー。

市村に託した写真は、箱館の写真師・田本研造が撮影したなー。その田本の顔が浮んできたり。

幹部達の酒宴会場になった武蔵野楼は、豊川町の赤レンガ旧郵便局あたりにあったなー。
三階建てで、屋上庭園もあった豪華な造り。現存すれば重要文化財だろうなー。

榎本の部屋は、五稜郭内の奉行所2階の太鼓櫓隣だったなー。
などなどの場面が次から次と浮んできました。

榎本が土方に言った「君は死に場所を求めている」の一言は、伝えられている彼の一面を実によく表現していました。

妻も山本耕史さんの45分フル出演に満足し「堪能しました」のひとこと。
三谷幸喜さんの、後編脚本テクニックがますます楽しみになった前編でした。
後編は20日、絶対ミルミル!

                         ミカエル 

 

 





 


第129号 何事だ!歳三殿、碑前祭でござるよ!

2007年05月23日 | 新撰組

 
       写真① 拡大する。            写真② 拡大する。  
 
        写真③ 拡大する。            写真④ 拡大する。

函館市若松町にある「土方歳三最期の地碑」で、19日11時半から碑前祭が行なわれた。
毎年5月の第3土、日曜日は、「箱館五稜郭祭」。
土曜日には碑前祭が行なわれる。
自衛隊函館駐屯地のラッパ隊のほか、太鼓隊、礼砲隊もそろい、祭典実行委員長らが花束を捧げ冥福を祈った。

いつもよりかなりの賑わいに、歳さんも驚いて「何事だ!」と起きてきた。
「騒がしくして申し訳ありません。ちょっとのご辛抱を!」。
この時は豆台風を思わせる強風雨、詰め掛けた熱心な土方ファンは圧倒的に女性が多い。
気の弱い私は、小さくなって撮影をさせてもらった。
午後からは五稜郭タワーで「土方歳三コンテスト」が開催され、歳さんの笑顔がアトリウム上にあった・・・・・・ような気がした。、

※土方歳三関連マイブログ

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                                                            ミカエル

 

 

 

 

 

 

 

 


第128号 歳三殿、ヒジコンでござる!

2007年05月19日 | 新撰組

             
                    ①・・・・・拡大する。 
       ②・・・・・拡大する。             ③・・・・・拡大する。

5月19日(土)~20日(日)は、「第38回箱館五稜郭祭」。
今日午後1時30分から、「土方歳三コンテスト全国大会2007」(ヒジコン)が、五稜郭タワーアトリウムで開催されました。

回を重ね今年は節目の20回、新装なったアトリウムはこのヒジコンの開催を心待ちにしていたようです。
20名の申し込みがあったものの3名が欠席、男性13名、女性4名の17名で争われることになり、遠くは神奈川県から来られました。

持ち時間は一人2分。
「箱館弁天台場に取り残された榎本軍を救出に向う土方が、明治政府軍の鉄砲に撃たれて倒れ息を引きとる」シーン。
台詞、声の大きさ、演技、衣裳などが審査対象。
最多出場者は5回目の北海道の方。

審査の結果、②写真の左の方が優勝、右の方が準優勝に決定しました。
2人は20日の「維新行列」の先頭になって勇姿を披露、祭りに花を添えます。
優勝者は函館市在住、賞金10万円も獲得。(いいなぁー)
準優勝者は東京都日野市在住で3回目の挑戦でした。
お二人とも美顔で長身、スタイル抜群とあって、行列には大歓声が上がりそうです。

③は、「ちびっこ土方歳三コンテスト」。
二つの幼稚園が、園児5人ほどで6チームを作り出場しました。
五稜郭に攻め込む明治政府軍(大人2名)を、園児扮する新撰組が阻止しようと奮戦しますが破られそうになり「土方さ~ん、助けて~」と。
そこで土方役の園児が登場し、やっつけてしまうストーリー。
可愛らしい姿と台詞に、アトリウムを埋め尽くした観衆からは大拍手が送られました。
本当に可愛かった園児たち、また来年もぜひ出場して下さいね!

そして、日野市の皆さん、おめでとうございます。 

とても楽しい「ヒジコン」でした。

関連マイブログ
 http://blog.goo.ne.jp/mikaeru171/d/20070511

                  ミカエル

 

 

 

 


 

 


第125号 歳三殿、祥月命日でござる!

2007年05月11日 | 新撰組

今日は新撰組副長・土方歳三の祥月命日。
旧暦の明治2年5月11日は明治政府軍の箱館総攻撃の日。
ここ若松町一本木関門付近で戦死、没後138年を迎えた。

 

我家は揃って新撰組ファン、妻がきのう買い求めた花に庭の花も添えて花瓶に生け、最期の地碑へ捧げてきた。
碑前にはいつも花が絶えないが、命日近くになるとご覧のようにたくさんの花、我家の花も歳三さんの前で生き生きと咲き誇った。

歳さんを狙撃したのは、蝦夷地に唯一藩庁を置いた松前藩の八番隊小隊司令・米田幸治(まいたこうじ)。
4年前、五稜郭タワーに土方歳三の立像が建立されたときのこと。
日野市にある「土方歳三資料館館長・土方陽子さん」と函館在住で米田幸治氏の末裔の方とが対談した。
お二人とも終始和やかな表情で、それぞれの先祖が戦わなければならなかった苦しさを思い浮かべながら語り合い、「悲しい出来事」と結んだ。

今月の19,20の両日、「箱館五稜郭祭」が開催されるが、19日にはタワーアトリウムで「土方歳三コンテスト全国大会」が開かれる。
函館に眠っているであろう歳さんもこれの審査に馬で出陣。
苦みばしった笑顔は、五稜郭上空の雲間から見えそうな気がする。

関連マイブログ                 http://blog.goo.ne.jp/mikaeru171/d/20060902 

http://blog.goo.ne.jp/mikaeru171/d/20070222

                          ミカエル

 


第97号 新撰組終焉の地・箱館弁天台場跡

2007年02月22日 | 新撰組

所在地=函館市弁天町20番 市電函館どっく前下車 現・函館どっく構内

 
        (貧弱な案内標識と平面図・不等辺6角形) 
            (海に築かれた台場と台場の入り口)

函館山展望台から市街地を見下ろすと、左側に大きなクレーンや船が見えるが、そこにこの西洋式台場はあった。

ペリーが浦賀沖にやって来て、開港を迫ったのが嘉永6(1853)年。
翌年、江戸・徳川幕府は下田、箱館を開港することにした。
箱館奉行は開港に伴う防備上の不備を幕府に訴えた。
その結果、箱館奉行所の移転(五稜郭へ)とこの弁天台場の建設が決まった。

設計は五稜郭も手がけた箱館奉行支配・諸術調所教授・武田斐三郎、石垣工事は江戸・品川台場も請け負った備前・岡山の石工・喜三郎であった。
総面積約32,340㎡(甲子園球場の1.1倍)、周囲約684m、高さ11.2m、築造費約107,300両。
大砲は50門を予定したが、実配備数は不明。

着手は安政3(1856)年、完成は元治元(1864)年。
箱館山の裏斜面から切り出した安山岩は、冬はそり、夏は船を用い運搬したが何しろ海を埋め立てて造る台場、工事は難航した。

明治2年1月3日、蝦夷地を占拠していた旧幕府脱走軍(榎本軍)に掃討令が下った。3月9日、品川を出航した新政府軍は、蝦夷各地で勝利を収め、5月11日は箱館総攻撃の日となった。
その時、ここを守備していた主力部隊は相馬主計率いる箱館新撰組(163名で編成)。
しかし、周囲を完全に政府軍に押さえられたため孤立、水、食糧、弾薬にも事欠き、台場はついに,同月15日に降伏し、ここに新撰組は終焉を迎えたのであった。
運命の11日、土方歳三はこの台場へ応援に駆けつけるため馬にまたがり、赤い陣羽織をひるがえし、抜刀し敵陣を切り抜けようとした。
その時、政府軍兵士の放った銃弾が・・・。
土方の体が冷たくなってなっていくなかで、日野の風景、京都生活、近藤や沖田の顔が浮かんだに違いない。

7日後の18日、榎本武揚以下全員が降伏、日本は近代化への道を一気に突き進むことになった。

明治29年、函館港湾改良工事に伴い台場は解体され、その石材は近くの函館漁港の石垣として再利用された。
異国の脅威のために造られた台場であったが、日本人同士が血を流す現場になったのはなんとも哀しいことである。

(※ 白黒写真は、盛岡中央図書館、函館中央図書館所蔵)

                        ミカエル

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第78号 土方歳三らの供養碑がある称名寺

2007年01月04日 | 新撰組

所在地ー函館市船見町18番14号 (しょうみょうじ)

 
(左写真の三門を入ると正面に写真右の本堂があり1mほどの供養碑が傍にある)

開基は正保元(1644)年、亀田村(現八幡町)に阿弥陀庵を建てたというから、市内では龍寺に次ぐ古い寺院。
1655年阿弥陀堂と称したが元禄3(1690)年、松前の浄土宗・光善寺の末寺となり
称名寺と改称し、1755年箱館の富岡町(現弥生町)に移転した。

箱館奉行が交代のさいはその仮本陣となり、箱館開港当初はイギリスとフランスの領事館に利用され、明治元、2年の箱館戦争では新撰組の仮本陣にもなった。
当時の大きな建物といえばお寺。なにかあるとすぐに強制的に協力を求められた。

現在地に移転したのは明治14(1881)年であるが、たびたび火災に遭い、昭和14年に本堂が、昭和37に三門(山門)が鉄筋コンクリート造に建替えられた。

境内には箱館館主・河野政通(別号で紹介)の供養碑、高田屋嘉兵衛の顕彰碑と一族の墓、新撰組・土方歳三ら隊士の供養碑、北海道最古の石碑「貞治の碑」、新島襄の海外渡航を助けた福士成豊の墓、社会人野球チーム・函館太洋クラブの久慈次郎の墓があり、ほかにも多くの著名人が眠る。
現在のご住職は有名な郷土史家で、各所の郷土史講座の講師を務め著書も多い。

※ 土方歳三ら新撰組隊士の供養碑
土方ゆかりの東京都日野市金剛寺の過去帳には、「函館称名寺に供養碑を建てた」と記している。
称名寺は明治期の大火で3度も焼失し、供養碑はなくなった。
そこで昭和48年、有志が現在の碑を建て5名が刻まれているが、風化激しく難読。
土方歳三   明治2年5月11日 箱館一本木で戦死
野村利三郎  明治2年3月25日 宮古海戦で戦死 
糟屋十郎   明治2年5月11日 箱館弁天台場で戦死(箱館新撰組)
栗原仙之助  明治2年5月11日 箱館弁天台場で戦死(箱館新撰組)
小林幸次郎  箱館戦争終結後謹慎中に病死(箱館新撰組)

 三が日も過ぎて、ミカエルブログは今日から本来内容のスタートです。
よろしくお願いします。
そろそろ、「納豆、塩鮭、漬物」を胃袋が求めていますが、皆様は如何ですか?

                    ミカエル


 

 

 

 

 


第66号 碧血碑(へっけつひ)

2006年12月07日 | 新撰組

所在地=函館市谷地頭町

明治元年から2年にかけての、箱館戦争で亡くなった旧幕府軍兵士の共同墓地。                         
                          (碑には千羽鶴や花が絶えない)
 

立待岬からの帰り道は一方通行。その道にこの碑の案内標識があるが、幅30cm、高さ3mほどの白い柱のみだから見落とすことが多い。
標識から山方向へ連なる一本道を歩くこと10分、寂しい風景のなかに碑はある。

箱館戦争の市街地戦で戦死した旧幕府(榎本)軍兵士の遺体は、明治政府軍の命令でそのまま放置されていた。
見かねた箱館の侠客・柳川熊吉(江戸・浅草生まれ。大河ドラマ・徳川慶喜で堺正章演じた新門辰五郎の配下)と実行寺住職が収容し、同寺に埋葬した。
明治5年、旧幕府軍の戦犯者が放免され、戦死者の霊を弔う計画が持ち上がった。

7回忌を迎える明治8年、榎本軍の陸軍奉行であった大鳥圭介らが中心となり、伊豆産の石材でこの碑を建てた。
建立者の名、埋葬されている名もなく、明治政府への遠慮が感じられる。
碑が内地へ向いているのがせめてもの慰めかもしれない。
蝦夷地に渡った旧幕府軍の兵士は約3,000名。
この碑には796柱を祀り、毎年6月25日に碑前祭を行なっている。

「碧血」とは、「義に倒れた志士の血は、3年経つと碧になる」という中国の諺から引用された。
徳川家の再興を願い、榎本を信じ、夢達しないまま北の大地に散った兵士達の冥福を心から祈りたい。

冬期間に行かれる方は、市電・谷地頭終点から函館山方向に進むと函館八幡宮に突き当たるので左折。
3分ほどで進入禁止の標識。長靴を履いて10分ほど坂道を登ります。
     
                    ミカエル
                          


第22号 土方歳三最期の地碑

2006年09月02日 | 新撰組
所在地=函館市若松町33番 総合福祉センター敷地内
交通=JR函館駅から徒歩15分

 
(左の碑前には花が絶えない。右は平成16年NHK大河ドラマ・新撰組のPR用市電)

京都守護職のもとで、動乱の幕末の京都の治安にあたった新撰組。
その副長として重責を担った土方歳三が、五稜郭を舞台に繰り広げた箱館戦争では、榎本軍の陸軍奉行並だった。

明治2年5月11日、政府軍が箱館総攻撃を仕掛けた時、土方は35歳で戦死した。
戦死地については、鶴岡町(現・大手町)、英国橋(現十字街交番)付近、そしてこの地の三説があるが、函館市の公式戦死地は、この付近にあった一本木関門説をとった。

財政難に陥った榎本軍は、この付近から第16号でご紹介した啄木小公園あたりまで柵を張り巡らし、数箇所に関門を設け、通行人から通行税を徴し、一本木関門はそのうちの一つであった。

碑は、ご近所の方々が清掃にあたり花も供えて下さっている。
碑前に小さな引き出しがあって、ろうそく、線香、訪れる方が記帳するためのノートが入っていて、細やかな心づかいが感じられとても嬉しい。
若い女性の姿が絶えることなく、ノートに土方への思いがびっしり書かれている。
私も2年前の祥月命日に、庭の花を供え記帳した。

赤い陣羽織を着用し、抜刀し、馬で切り込んで行った土方が銃弾を受け落馬したとき、頭の中に近藤勇や沖田総司の顔が浮んだに違いない。
遺体埋葬地はいまだに不明であるが、探索せずにそっとしておいてもらいたい。
その方が、ロマンあふれる想像がわくからである。 

北の大地に描いた夢を実現出来ないまま散った、若き獅子の冥福を祈りたい。

ミカエル