ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第110号 合格しました。

2007年03月31日 | 我が家のもろもろ

             「函館歴史文化観光検定」 

            

 この検定は、函館に関する歴史・文化・産業・地理・人々の暮らしなどの学習を通じて函館への愛着や誇りを再認識し、函館の魅力を観光客や全国の方々へおもてなしの心を持って紹介できる人材を育成するのが目的で、別名「はこだて検定」とも呼ばれています。

検定は函館商工会議所が主催することになり、私も受験意欲が湧き、公式テキストブックが発売になった昨年12月18日にこれを求め、,約40年ぶりに勉強を始め検定に臨みました。
初回となる今回の検定は、初級のみで3月11日に行なわれ、今日合格証が届きました。
100問出題の100満点で70点以上が合格、私は97点でした。
皆様から励ましのお言葉を頂きまして有難うございました。
結果概要は、
受験者総数907名、合格者数722名、合格率79.6%でした。

難しかったのは、遺跡、文学、美術、芸術。
上級試験は今年の11月11日に実施されますが、勉強してまたチャレンジし、このブログを充実させていきたいと思っています。
約40年ぶりの受験で、頭脳は心地よい汗をかき、心は満足感でいっぱいです。
会議所の皆様、ご苦労様でした。

                   ミカエル

 

 


第109号 哀れ!若き外交官・ドイツ代弁領事ハーバー遭難の碑

2007年03月28日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市青柳町函館公園内

 
(左後方にかすかに見える建物は、旧市立函館図書館)

先号・函館八幡宮の境内を出て、左方向に進むとこの碑はある。
ドイツ代弁領事ルードヴイッヒ・ハーバーは、明治7(1874)年2月、函館に着任した。
彼は、同年8月11日、この傍の参道を散歩中に斬殺されるという不幸に襲われた。
犯人は、排外思想の持ち主で外国人殺害の目的で同月8日に来函していた旧秋田藩士・田崎秀親(23歳)。
ハーバーは、眉目秀麗な31歳の青年紳士で、夢多き希望溢れる外交官だった。

田崎は直後にら卒屯所(交番)自首、同年9月26日に処刑された。
この事件は、明治天皇自らが遺憾の意の表明をし、ドイツ公使が、単独犯行であることや適切な事後処理に理解を示し、重大な国際問題にはならなかった。

遺体は事件の翌日、函館で手広く事業展開をしていた英国商人・ブラキストンらによって船見町の外国人墓地に葬られた。
この碑は、大正13(1924)年、甥のフリッツ・ハーバー(ノーベル賞受賞者・毒ガス発明)夫妻、ドイツ・ソルフ大使らを迎えて没後50年祭を開催したときに、外国人墓地にあった碑を遭難地であるこの地に移し記念碑としたものである。
(外国人墓地には同型の新墓碑が建立されている)

刑の執行は、現・青柳町31番常住寺が建っているところにあった「函館囚獄場処刑場」で行なわれ、模様は東京の新聞で報道された。
「首討ち役人2人でも果たせず、最後には頭髪を握りのこぎり引きの如くして切り離さん」と残虐であった。
ハーバーが受けた切り傷は全身に24カ所、目には目をと言うべきか。

    

お早うございます。
今朝の函館は、昨日のみぞれ、雪もあがり青空が広がっています。
あと3日で本当の春。
球根一族が深い眠りから覚め、「こんにちは!今年もよろしく!」の声も間もなく。
花壇の手入れのスタートは週末から、土の香りで頭はスッキリします。

                      ミカエル

 


第108号 函館の鎮守様・函館八幡宮

2007年03月25日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市谷地頭町2番5号

 

創建は室町時代の西暦1445年。
旧函館区公会堂のあたりに、その当時箱館を治めていた「河野加賀守政通」が八幡神を祀ったのがはじまり。

傍に箱館奉行所が建てられ、その後、奉行所が増築するのに伴い、約200m離れた現・道立函館西高校あたりに移転した。
この社は、明治11年の大火で焼失、明治13年にこの地に移転再建された。
だからこの神社があった西高前の坂は八幡坂(別名チャーミーグリーン坂)と呼ばれている。

函館山の裾野に抱かれた境内は27,000㎡(後楽園ドームの約半分)、社殿は252坪(約830㎡)。函館市の鎮守様として初詣客は道南一、例大祭は8月15日。
そのために、函館のお盆は一月早い、7月盆になっている。
重さ2トンの大神輿が200名の若者に担がれ、130の階段を一気に駆け上がるのは勇壮そのもの。

この時期、写真のとおり進学の「合格祈願絵馬」の奉納が多い。
箱館戦争の旧幕府軍戦死者の墓「碧血碑」までは徒歩15分と近い。

                   ミカエル

 


第107号 華麗に蘇った 大正のデパート

2007年03月22日 | 旧跡、史跡

            
                (この写真を拡大する) 
所在地=函館市末広町4番19号     
旧=丸井今井百貨店函館支店   間もなく=地域交流まちづくりセンター

この建物は百貨店から市役所分庁舎に変わり、そして間もなくオープンする表記センターへと受け継がれる。
店祖・今井藤七は明治4(1871)年、23歳のときに新潟・三条から来函、翌年札幌に出向き、大正5年に他店を合併して札幌に百貨店を開業した。
函館店は、弟の良七が独立を希望、明治24(1891)年、函館の菊地呉服店と共同経営でスタート、翌25年に今井呉服店函館支店とした。

大正12年、この地に鉄筋コンクリート造3階建てのデパートを開店させた。
この3年前の大正9年は第1回の国勢調査実施年。
函館の人口は145,843人で仙台・札幌を上回る東北・北海道最大の都市だった。
近くにあった7階建ての金森デパートとともに一大繁華街として大いに賑わい、さらに業績好調なことから昭和5年に4、5階を増築、さらなる繁栄を誇った。、

昭和9年の大火後、市勢が東部方面へ移動するのに伴い昭和44年に五稜郭地区へ移転。
45年4月からは市役所分庁舎として活用され、交通局、水道局、市史編さん室、函館圏開発事業団、庁舎建設事務局、道立内職相談センター、北方領土復帰期成同盟などが入居、業務を開始した。
その後、これら団体の中には解散したり、新市庁舎や周辺の再開発ビルへ移転したりして空きスペースが目立ち、平成14年10月に交通局が駒場町電車車庫へ移転したのを最後に空家となり閉鎖された。

老朽化したものの取り壊すのは勿体無いと、軽量化を図るために、後年増築した4,5階部分撤去する延命を主とした復元工事が進められ、このたび竣工、4月1日から
「地域交流まちづくりセンター」として第3の道を歩むことになった。

私が子供の頃、百貨店へ行く時は普段着より少しは小奇麗にしたものだった。
そこは、遊園地であったりファミレスでもあった。
贈り物に丸井の包装紙を使うのが一番とも思っていた。
こんな思い出がある丸井、今度はどのようなお客様をお迎えするのか、玄関は晴れのオープン日を待ち望んでいるかのようだ。

業務概要~地域情報発信、市民交流、市民活動支援  ℡0138-22-9700

                    ミカエル


 

 

 

 

 

 

 


第106号 母なる 函館山

2007年03月19日 | 展望処

           
(3月18日午前6時45分撮影・撮影地点・石川啄木小公園)
 
(左写真の最高部が御殿山展望台。右写真の左端が立待岬)

函館山は100万年以上前に火山活動によってできた島で、当時の山の姿は、頂上も裾野も現在より遥かに高く広かった。
火山活動が終息し、海流が運んできた土砂が堆積し始め、約6,000年前から砂州がゆっくり成長して亀田半島とつながった。

砂州の一番狭いところは、JR函館駅から津軽海峡へ抜ける区間(大森稲荷神社)で、その距離は僅かに約1㎞。
現在の函館山は標高334m、周囲約9㎞、南北約4.5㎞、東西約1.5㎞で、ここから眺める夜景は美しく「香港、ナポリ」と並び世界の三大夜景と称されている。
函館の町は初めての方でも歩き易い。
函館山のある方向が南、五稜郭タワーのある方向が北と覚えればよい。

山は江戸時代からたきぎの採取地、幕末の開港期には外国の脅威に備えて造られた「弁天台場、五稜郭」の石材供給地となった。
たきぎは採るだけで植林をしなかったため、はげ山になった時期もある。
明治2年5月の官軍による「箱館総攻撃」のときには、新撰組も山頂付近を守備していた。

明治31年からは函館港を防備するために、全山要塞となり長い間立ち入り禁止とされたが、昭和21年には市民に開放され、ハイキング、スキーを楽しめるようになり、観光道路の建設、ロープウェイも営業を始めるなど観光面の整備が進められた。

山は季節のカレンダーだ。
新年の純白から始まり、雪解けとともに薄茶色、春は山裾が桜のピンクに染まり、新緑、濃い緑へと清清しくなり、赤く燃える秋、葉を落とした木肌が茶色になって雪が舞う墨絵の世界に・・・また純白に・・・
市の南に微笑みを浮かべながら座り、背後から太陽を降り注ぐ山容は、まるで函館の母のようにも見える。

石川啄木が「東海の 小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
と歌った長い砂浜、弓のように弧を描き美しい姿を見せている。

                  ミカエル

 

 


 

 


第105号 華麗なる復元!旧函館水上警察署

2007年03月16日 | 旧跡、史跡

所在地=函館市大町13番   新名称=函館市臨海研究所

 

今年の2月、長い間閉鎖されていた旧函館西警察署がご覧のように美しい肌になって蘇った。
この建物、もともとは大正15(1926)年に、函館水上警察署として建てられた。
昭和27年、函館西警察署と改称され、昭和59(1984)年、市内海岸町に新築移転、以降は閉鎖されていた。

この間、刑事もののテレビドラマや映画のロケ地として、内部が使われた。
このたび、西部地区の再開発の一環事業として、建築当時に復元、内部を仕切って
民間の研究施設として貸し出すことになった。

ここに役所が置かれた歴史は古く、江戸時代、蝦夷地松前藩が藩財政を支える目的で「沖之口番所(簡単にいえば税関)」を置いたのが始まり。
文政4(1821)年に「沖之口役所」に改められ、明治2(1869)年に「海官所」、翌年「海関所」に、さらに明治8年に「船改所」となって「運上所」、「税関」の名称になっていくのである。

一方、明治5年7月に北海道最初の郵便局もこの地に設けられ、東京までの郵便物は到着まで9~12日を要した。
日本の近代郵便制度の創設者・前島密は、箱館奉行配下にあった「諸術調所」の出身。
そして、初代逓信大臣は、蝦夷共和国総裁・榎本武揚。
この組み合わせは偶然だったのだろうか?ロマンを感じる人事であり、函館は郵便事業先覚者のゆかりの地でもあったのである。

                     ミカエル

 


第104号 幕末のジョー 新島襄海外渡航の地碑

2007年03月13日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市大町11番港傍

      

新島襄は、現・群馬県下の安中藩士の子として生まれ、渡航前の名は「新島七五三太(しめた)」といった。
海外に新知識を求める志が強く、かねてから海外渡航を考えていた。
しかし、当時は出国はご法度で見つかれば極刑になるのは、長州の学者・吉田松陰の例により明らかだった。
そこで、失敗の少ないであろう蝦夷地・箱館港を選び、元治元(1864)年,五稜郭が完成した年にこの地にやって来た。

ハリストス正教会のニコライ司教に日本語を教えながら脱出の機会を待っていたが
同年6月14日深夜、福士成豊(日本最初の私設気象観測所開設者)の助けを借り、箱館港沖に停泊していた米国船船長の厚志にも恵まれ乗船でき、国禁を犯した海外渡航は成功した。

船長から航海中「ジョセフ」の名で可愛がられたが、自らは「ジョー」と名乗り、
「襄」の字をあてた。
上海経由で渡米、修学10年後の明治7年に帰国、翌8年に京都に同志社大学の前身である「同志社英学校」を設立したが、明治23(1890)年、48歳の若さで没した。
大隈重信と親交があり、それが縁で早稲田大学と同志社大学の学生間交流が行なわれている。
現在は碑の背後にヨット係留場があり、華やかな色の船体を休めている。

文中の「ニコライ司教」は、函館の老舗レストラン・五島軒の初代料理長・五島英吉氏とつながりがあったり、東京神田・ニコライ堂を建設するなど話題の多い幕末の人物である。

                      ミカエル



 


第103号 エゾシカ食ーべた ~ カレー丼

2007年03月12日 | 我が家のもろもろ

現在、道内に生息する「エゾシカ」の推定頭数は約20万。
この数は、北海道庁が適正としている頭数の4倍にもなっている。
道東に生息している割合が圧倒的に多く、冬は森林を食い荒らし、民家の庭先にも平然と現れ庭木にまで害を及ぼし、今では厄介もの。

この状態を改善するため、関係団体はエゾシカの駆除を行なっている。
そこで、狩猟したあとのシカ肉を食用にするための研究が道庁などを中心にして進められているが、これまでに次のような動きがあった。
1.枝肉を真空パック詰めにし、一般家庭用や観光客向けの北海道土産とする。
2.レストランや食堂でシカ肉メニューを考え提供する。
3.ハンバーグなどに加工し販売する。 などである。

先週、久し振りに市内のおそば屋に入った。
メニューの中に「エゾシカ肉カレー丼」(780円)を見つけ注文した。
そば屋のカレー丼は、とろみがゆるい「カレーそば用のルー」を使う。
運ばれてきた丼の具を見ると、「長ねぎ+たっぷりのシカ肉+小揚げ」。
小揚げが入っているため油ぽっさが口に広がりくどい味、不味い。
折角のアイディアメニューだったのに。
いつもの「鶏肉」であれば、油味が抑えられて気にならないのだが・・・。

以前、厳寒期に知床の崖から落ちて死んだエゾシカの肉を食べたことがあるが、
鯨の尾の身の味がして本当に美味しかった。
今回もその味を期待していたのに、残念だった。

                      ミカエル


 

 

 


 

 


第102号 自分で言うのも何ですが・・・瀬川瑛子ショー

2007年03月09日 | 我が家のもろもろ

     

一昨日の7日、函館市民会館で開催された「瀬川瑛子40周年記念コンサート」に出かけた。
当日の函館は風雪が強く、日中の最高気温はマイナス2.7℃、50日ぶりの真冬日となった。

函館出身の瀬川さんの公演だから、きっと満席と思っていたが後部に空席が100ほど見えた。残念!この悪天候のせい、ご本人には気の毒だった。
やがて開幕、クリスマスツリーのような電飾いっぱいの衣裳に身を包み、エイコスマイルで登場、自己操作でミニ電球を点滅させながらオープニング曲を歌い上げた。

例によって
「私が生まれたのは昭和・・・○月○日」
「自分で言うのも何ですが・・・綺麗、可愛い」で笑わせ客席との距離をぐっと縮める。
歌手として円熟味を増し、かつコメディアンとしての才能をも伸ばしつつある。
ご主人がバックバンド(12名編成)のドラム奏者であることを紹介、やはり地元公演へのサービスかとその気遣いに心を動かされた。
バックダンサーと和太鼓奏者がそれぞれ2名、自らも和太鼓のバチを握り、デザインした衣裳を舞台で早替えし、休憩無しの熱いショーは続いた。

途中から、お父さんの「瀬川伸さん」を思い出しながら舞台を見つめていた。
私は小学生の頃、函館市内の実演専門館であった「巴座」近くに住んでいて、そこに伸さんはよく出演した。
上から下まで真っ白い船員服姿がとってもよく似合い、首に巻いたブルーのネッカチーフはお洒落感覚にあふれていた。

当時は戦後10数年、皆まだ貧しく、着ていたものはツギだらけでパッチワーク見本市のようなもの。だからそのカッコ良さに誰もが憧れたのだ。
近所のおばさん達がモンペ姿で巴座の出入り口付近に立ち、伸さんの姿がちらっとでも見えようものなら「キャー、素適!伸さ~ん」と黄色い声を飛ばしていた。

瑛子さんは「長崎の夜はむらさき」を出してから、しばらくはヒット曲に恵まれなかったが「命くれない」で演歌歌手としての地位を確固たるものにした。
51歳でミニのウェディングドレス姿で結婚式に臨んだのは可愛らしくもあり、「今度こそは幸せになりたい」と願う心も感じとれた。
「函館から生まれ育った親子歌手、これからもヒット曲を飛ばし、人生道に灯りを点して欲しい。地元ファンとして精いっぱい応援をするから」。
そう思いながらラスト曲に聞き入っていた。

                     ミカエル

 

 

 

 


第101号 何かに出会える 五稜郭タワーアトリウム

2007年03月07日 | 展望処

所在地=函館市五稜郭町43番9号        

              
                (出番を待つ素人チンドン屋さん)
 

先週の1日の午後、「五稜郭タワーアトリウム」でラジオの公開録音が行なわれた。
番組名は「NHK函館放送局」が制作している「どどんと道南ラジオ」。
売店を覗いているうちに収録があるのを知った。

この番組は、いつもなら函館局ロビーから木曜14時に生放送されている。
しかし、見れる人数は多くても50名ほどが限界。
それに天井が低く開放感が全くない。
そこで、広々としたこのアトリウムに白羽の矢をたてたと思う。

暖かな陽気に誘われ五稜郭を散策していた市民、それに観光のお客様も加わってアトリウムはびっしりの人で埋まった。
これに気を良くしたNHKのアナウンサー、リポーター、技術の自己紹介にも熱が入って和やかな雰囲気で収録は進められた。

ピアノ、マリンバ、ドラム効果のある打楽器による演奏、素人チンドン屋さんグループによる宣伝口上と演奏があって皆大喜びで拍手の嵐。
観光客の方々は賑やかな音に何事かと続々集まり、思いがけない楽しい場面にニッコリ。
函館の思い出アルバムに、きっとこれを加わえてくれると思った。

ふらりと出かけ、このような癒しを与えてくれる催事に突然出会うと、得した気分になる。
間もなく始まる行楽シーズン、「五稜郭へ行けば何かに出会える」、こんな期待感を
持てるタワーアトリウムであって欲しい。

              

今朝はいつもより冷え込みました。
カーテンを引き、外を見ると一面の銀世界にビックリ。
でもまぁ、雪かきをするまでの積雪ではなく、お昼までには解けるでしょう。
雪かき道具は、すでに物置に眠らせましたから・・・。

                     ミカエル

 

 

 

 


 

 

 

 


第100号 てぇへんだー大変だぁー! ペリーが来るぞ!

2007年03月04日 | 旧跡、史跡

               「ペリー提督箱館入港時の会見場跡地」

旧・山田屋壽兵衛宅  所在地=函館市弁天町15番市電大町~どっく間右側

            
    (左側がペリー一行、右側が応接する松前藩士・この写真を拡大する)
       
          (写真右の右端建物に会見場・山田屋があった)

アメリカ東インド艦隊司令長官・ペリー提督が箱館にやって来たのは安政元(1854)年4月21日(2隻)。(先遣隊3隻が入港したのは4月15日)
2回目の来日をし、横浜で日米和親条約(神奈川条約)を締結調印し、開港となった下田、箱館の視察の為の来航であった。

当時は松前藩が現在の元町公園(旧函館区公会堂下)に松前奉行所を置き箱館市中を治めていた。
幕府は、ペリー艦隊一行が箱館に寄港するのに備え、直接応対にあたる松前藩に「待遇を軽々しくするべからず」と布令を出し、会見場を探していた奉行所は、当時箱館一の大店であったこの店をあてることにした。

一方で松前藩は藩士を要所に配置し、港に面する海岸線には塀を建て、住民が艦隊を見物するのを防止し、さらに次のような触書を出した。
1.米人は多淫、多欲、短気であるから、婦女、小児は隠すか、近在に避難させよ
2.牛や酒は隠せ
3.馬の往来は禁止
4.葬送は男だけで執り行うこと
5.箱館山や神仏の参詣は禁止
など全18項目にわたった。(北海道史、函館区史)

一行は箱館での買い物を要求、これの会場として大町にあった沖の口役所(旧函館西警察署が残る場所)をこれにあて、衣類、塗り物、陶磁器類など日本独特の手工芸品を購入、「開港の波及効果第1号」となった。

松前藩の交渉役となった「勘定奉行・石塚官蔵」とその従者の銀板写真が残されている。ペリー配下の写真師がこの時撮影、日本人を撮影した現存写真としては国内最古で、文化財としての価値が高い。

滞在中に2名の乗組員が亡くなり、墓地として指定された場所まで葬列を行なった。
この場所が、現在の「外人墓地」である。
 
こんな騒ぎを引き起こした一行であったが、5月8日に次ぎの寄港地・下田に向け出航、応対にあたった松前藩士らは
「ヤレヤレ、疲れたのぉー。松前漬けで一杯やっかー」と言ったとか。

この会見場には、安政6(1859)年の通商条約による貿易港として本格開港したとき、仮運上所(税関の前身)が置かれ、山田屋はますます繁盛したのであった。

                   ミカエル

 

 

 



 


 

 

 


第99号 北前船の信仰が厚かった厳島神社

2007年03月01日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市弁天町9番9号 

 

市電終点・どっく前に位置する。
はじめは大漁祈願の弁天社と称され、函館どっく寄りにあったが、安政4(1857)年、弁天台場築造のために移され、現在地には慶応2(1866)年に建てられた。
弁天社は明治4(1871)年に市杵(いちき)島神社と改められ、さらに明治35(1902)年に厳島神社と改称された。

江戸時代、、蝦夷地は「松前三港(松前、江差、箱館)」によって交易が行なわれていたが、箱館港は地理的要因で他の二港に大きく遅れをとっていた。
しかし、天明期(1781~1788年)頃から北前船が出現し、それに幕府が蝦夷地産物の集約地として箱館を指定する政策とが重なり、出入りする船が飛躍的に増え、箱館は交易地の地位を高めていった。

境内には北陸や大阪の廻船主、商人などの海事業者から寄進された貴重な遺物、
文政6(1823)年の手水石鉢
天保8(1837)年加賀の廻船主たちが寄進した鳥居
嘉永7(1854)年海上安全のため奉納された方位石
などがある。

               

今日から弥生3月、いよいよ北国にとっては早春、体も心もルンルンで思わずスキップが・・・。
函館の2月は温暖日が続き真冬日がゼロ、過去77年間で初めての記録となりました。
皆さんのお住まい地でも、「記録的な○○○」と今年の気象状況を表現していると思いますが、日本気象協会はこれを「エルニーニョ現象の影響」としました。
影響で笑った人、泣いた人、立場が違えば感じ方もまた別です。
この現象がこれからどうなっていくのか?気がかりですが、間もなく広がる花と緑の世界を思い浮かべています。

                        ミカエル