ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第812号 初めて観た函館大火第二の供養碑

2013年07月05日 | 災害
明治になってから、函館が受けた大きな人災や天災。
箱館戦争、函館大火、空襲、洞爺丸転覆、ばんだい号墜落などがあげられる。
私は昭和9年に起きた大火で、慰霊碑的な施設は、大森町にある「大火慰霊堂」だけだと思っていた。



ところが、地元紙の編集発行本によって、湯の川に慰霊碑があることが分かった。
アークス戸倉店へ向かう道々から、高専や函館大学の上り口左にある「龍吟寺」の境内。







法要の日に合わせて、伺い、手を合わせなくてはと思っている。
焼死は、どんなに苦しかったことだろうか。
合掌せずにはいられない。



第709号 函館が遭遇した三大災害

2012年03月22日 | 災害
どこの地にも思いがけない悲しい災害の出来事がある。
ここ函館にも大きな災害が3件ある。
その中で一番大きなのが、昭和9年3月21日に発生した「函館大火」。

函館は江戸時代にペリーが来航し、国際開港地となって以来、大きく成長した町であった。
このころ、市街地は、現在の赤レンガ倉庫あたりから函館山寄りの狭い区域。
しばし、大火が起きていた。

最大の延焼理由は、水不足。
と、風が吹き抜ける地形も起因していた。
もっとも、当時の建材は、木と紙、仕方がないのかも。
だから、市内には幕末の建築物が残っていないのである。

大火発生当日、北海道付近を発達中の低気圧が通過し、函館市内は最大瞬間風速39mに及ぶ強風。
午後6時53分頃、立待岬へ行く途中左側・住吉町91番地の民家から出火した。

火は強風にあおられ、またたく間に燃え広がった。
さらに強風による電線の切断による新たな火災地も発生し、
木造家屋が密集する市街地20箇所以上でも次々と火の手が上がり、
手が付けられない状態となった。

時間の経過とともに風向きは南から南西、西風へと変っていった。
火流もそれに従い向きを変え、最終的には市街地の1/3が焼失するという
大規模な火災となった。

死者の中には、橋が焼失した亀田川を渡ろうとして失敗し溺死。
あるいは、東側の大森浜へ避難したところ、炎と激浪の挟み撃ちになって、
逃げ場を失い溺死した者(917名)。
また、溺死しないまでも凍死した者(217名)もいた。

当時母は、21歳の独身。
もちろん私も兄も生まれてなかった。
母の実家はこの大火の数年前に、現・中島れんばい近くに建てた。
火が近くまで迫ってきたという。

家の前には「女子職業学校」があり、この建物が反対側に焼け落ちたため、
外壁の漆喰を焦がしただけで済み、火は付近で止まったという。
なんという幸運だったことか。

このときの被害概要。
罹災者数102,001人
死者2,054人、行方不明662名(当時の人口約210,300人)
焼失戸数24,186戸(当時の市内戸数約40,835戸)
市役所も焼け、元町の公会堂に仮庁舎を設けた。

昨日午前、大森町の「函館大火慰霊堂(昭和13年建立)」において、
「函館大火殉難者79回忌慰霊法要」が執り行われた。
主催は「函館仏教会」。
参列者は、年毎に減少し、今回は総勢80名ほど。
仕方がない現実なのだ。
私は午後からお参りに出かけた。





函館市は、この大火を契機に、区画整理事業に着手。
道路の直線化、幅員の広げを図った。グリーンベルトと呼ばれる防火帯は、多く見られる。
消防力の増加も図った。

全国から救援の手が差し伸べられ、市民の復興力となった。
全国の皆様、本当にお世話になりました。
いまある函館は、皆様方のおかげです。


二度目の大きな災害は、昭和20年7月14日、15日の「函館地方空襲」。
死者477人。消失家屋約400戸。
青函連絡船12隻、鉄道車両120両損壊した。

低空での機銃掃射はパイロットの顔が見えたという。
男子学生は海に浮かんだ郵袋を集め、女学生がその郵便物を出し、
風で飛ばぬように小石を置き乾かし、戦地へ送ったという。
一ヶ月後の8月15日に終戦。
ようやく我が国に、安堵感が訪れたのだった。



三度目の大きな災害は、昭和29年9月26日「青函連絡船・洞爺丸沈没」。
台風15号の強風にあおられ横転沈没した。
救助に向かった同連絡船3隻も沈没。
死者1,173人。タイタニック号に次ぐ大きな海難事故となった。
この事故により、青函トンネルの建設に弾みがついた。



私が今こうしてブログを書けるのは、先祖や父母、私も災害に遭遇しなかったため。
幸運な人生に感謝しながら、残りの人生を精一杯生きてゆきたい。

(数値は、函館市市史編纂事務局発行の「函館市略年表」から転載しました。)


米 長い文章になってしまった今回のブログ、最後までお読みいただき、有難うございました。



ミカエル






















第707号 一年が過ぎて

2012年03月12日 | 災害
東日本大震災から昨日で一年が過ぎた。
各地で霊を弔う式典が行われ、悲しみが一層増してきた。

地元紙の報道によれば、
死者 15、854人
行方不明者 3、155名
避難・転居者 343、935名
と発表されている。(2月23日復興庁まとめ)
(インドネシア津波では死者・行方不明者合わせて22万人)

冷たい海の中で一年を越された犠牲者の無念さを思うとき、
涙が流れてしまう。

報道特別番組を見て驚いた。
陸前高田市の出来事。
市役所は海から一キロほど。
四階まで津波が押し寄せ屋上に逃れた人たちは助かった。

しかし、向かい側にある指定避難所・市民会館へ非難した方々は
不幸なことに命を奪われた。

津波がくる時は、一度海水が遠くまで引くという。
陸前高田市でもその現象が見られたという。
高校生のころ「チリ津波」が、函館までやってきた。
このとき、青函連絡船桟橋で状況を観ていた。
確かに遠くまで海水が引き始めた。
津波の前兆とも知らない人々は、海底に残された貝や魚を求めて
殺到した。

お年寄りの制止の声「早く陸に上がれ!津波がくるぞ!」。
あわてふためいて陸に上がった人々。
九死に一生を得たのだった。

函館の津波は不可解だ。
函館山から見て、左側(旧連絡線航路)はいつも津波の被害をうける。
反対の右側が、影響なしである。

この疑問を解決する学説が地元紙に掲載された。
一言で表現すれば地形のせいとのこと。
永らく住んでいないと、このような現象は分からないと思う。

今日の函館は、重たい雪。
お日様は出ていないが、気温はプラス。
一日も早く帰郷できますように!
早く幸せになられますように!
心から願っております。

ミカエル

第660号 恐ろしかった洞爺丸台風(後編)

2011年09月11日 | 災害

家からのきしむ音がして怖い怖い夜もようやく明るくなってきて一安心。それとともに台風もおさまり、疲れがどっと出て眠りに。「学校だよ!」の声で目が覚め登校。
台風一過の青空が広がっていた。

通学路の電線は切れ、電柱、樹木は倒れていた。
民家の屋根が最も被害を受け、屋根本体が吹き飛ばされ、トタン、柾が飛ばされた家など無残な姿。
雨でなく本当によかったと思った。

教室に入って先生から臨時休校とともに、連絡船が沈んだことを知らされた。
携帯ラジオがない時代、停電でラジオが聞けず、また、電話とて事業所、裕福な家以外には
ない時代のに情報伝達はどうであったのだろうか?今思えば不思議だった。

同級生のなかに、連絡船乗組員のお父さんがいて、涙を浮かべていたのを今でも思い出す。


ご遺体はだいだい色の日本通運のトラックにムシロをかけられ、大森町の大火慰霊堂前広場に運ばれ仮安置されてした。

そこでもやはりムシロの上に置かれていた。
せめて毛布はなかったものかと。検死は堂の中で行われ、火葬場は函館市内だけでは対応できず、近郊町村の応援を得た。



台風のなか、どうして船長は出航したのか?いろいろな噂が飛びかった。
この事故がきっかけになって、青函トンネルの着工が急がれた。(結び)


                    



第659号 恐ろしかった洞爺丸台風(前編)

2011年09月08日 | 災害
57年前の9月下旬、青函連絡船「洞爺丸ほか4隻」が函館湾内で転覆し、1,430人が亡くなった。
沈没であれば、生存者は多かったと思うが、何しろ転覆。
脱出が困難だったに違いない。

多くの遺体が収容された七重浜には、慰霊碑が建っている。

転覆させた強烈な台風15号が函館に上陸したのは、私が小学5年の時。

夕方風が止んで外に出て空を仰いだら曇り空の中に薄い丸輪郭が見え、それが「台風の目」だった。

しばらくすると強烈な風。
当時の道路は未舗装が多く、小石が風に吹き飛ばされガラスを直撃。
何箇所も穴があき、そして停電に。
現在のように早期復旧などなく、暗黒の世界が広がっていた。

このとき、私は母の実家に預けられていた。

玄関は3畳間ほどの広さがあって、自転車を置いていた。

後輪が浮き上がるタイプのスタンド。
そして、後輪に発電機がついていたので夜中中ペダルを踏んで、何とか室内は明るくなった。

大きな風音、飛来物がぶつかる音、建物からきしむ音に恐怖を感じ、
これに雨でも降り出したらどうしようか。

一刻も早く夜が明けるのを待っていた。

                     (次号へ続く

ミカエル


第658号 北海道を避けた、台風12号

2011年09月05日 | 災害
現在の時間は、5日の午前4時。
外へ出てみたら、①風はいつもより強く、枝を震わせている。
②雨は霧雨程度と比較的落着いているように感じた。

昨日の朝は。青空が広がり無風状態だったから、”これから台風がやってくる”
とは、とても思えなかった。

今日の天気予報は、北海道に上陸の兆しはなし。
しかし、午後から風雨が強まると解説していた。
何事もなく、穏やかであって欲しいものだ。

今回の台風被害に遭われた皆様方、心からお見舞い申し上げます。

被害が特に甚大の奈良、和歌山、三重。
こちらに観光で訪れたのは、平成17年10月17日~20日。
旅のタイトルは”世界遺産・熊野古道と南紀、伊勢ぐるり周遊”。
美しい山林と澄んだ清流が今でも印象に残る。

その美しい光景が、力を誇示するかのように勢いをつけた濁流が
主役に替わり、人々や家を襲った。
その破壊力は”津波”と同じに思えた。

皆様方、一日も早い復興を願っております。


ミカエル

第623号 皇后さまへ世界一のプレゼント

2011年04月28日 | 災害

天皇、皇后両陛下は、27日に大震災の被災地を訪れた。、
がれきに黙祷されたり、避難所の方々をお見舞いされ、
やさしいいたわりのお言葉をかけて下さった。

避難所にあてられている仙台市宮城野体育館を
訪れた両陛下。
そこで、小さなハプニングが起きた。
それは、ここで生活されておられる女性から、皇后さまに
「スイセン」の花束がプレゼントされたからだ。
花は、津波に襲われながらも自宅庭に咲いた奇跡花とか。

テレビを見ていて、皇后さまのお顔は思いがけない
プレゼントに驚き、微笑みが浮かんでいたようだった。

周囲や自己心も混乱しているであろうあのような環境。
そんななかでも「ようこそ」の思いやりの心がはたらいたのだろう。
頭が下がり、涙が流れ出た。
これぞ、世界一のプレゼントだと思う。

「避難民は元気です!頑張ります日本!」と叫んでいるように
心強く感じた。

天皇、皇后両陛下、有難うございました。
お疲れさまでした。



我が家のスイセンは、今が見ごろ。


いままでは感じなかったが、今後は「美しい強さ」を
覚えることだろう。