箱館戦争、函館大火、空襲、洞爺丸転覆、ばんだい号墜落などがあげられる。
私は昭和9年に起きた大火で、慰霊碑的な施設は、大森町にある「大火慰霊堂」だけだと思っていた。
ところが、地元紙の編集発行本によって、湯の川に慰霊碑があることが分かった。
アークス戸倉店へ向かう道々から、高専や函館大学の上り口左にある「龍吟寺」の境内。
法要の日に合わせて、伺い、手を合わせなくてはと思っている。
焼死は、どんなに苦しかったことだろうか。
合掌せずにはいられない。
家からのきしむ音がして怖い怖い夜もようやく明るくなってきて一安心。それとともに台風もおさまり、疲れがどっと出て眠りに。「学校だよ!」の声で目が覚め登校。
台風一過の青空が広がっていた。
通学路の電線は切れ、電柱、樹木は倒れていた。
民家の屋根が最も被害を受け、屋根本体が吹き飛ばされ、トタン、柾が飛ばされた家など無残な姿。
雨でなく本当によかったと思った。
教室に入って先生から臨時休校とともに、連絡船が沈んだことを知らされた。
携帯ラジオがない時代、停電でラジオが聞けず、また、電話とて事業所、裕福な家以外には
ない時代のに情報伝達はどうであったのだろうか?今思えば不思議だった。
同級生のなかに、連絡船乗組員のお父さんがいて、涙を浮かべていたのを今でも思い出す。
ご遺体はだいだい色の日本通運のトラックにムシロをかけられ、大森町の大火慰霊堂前広場に運ばれ仮安置されてした。
そこでもやはりムシロの上に置かれていた。
せめて毛布はなかったものかと。検死は堂の中で行われ、火葬場は函館市内だけでは対応できず、近郊町村の応援を得た。
台風のなか、どうして船長は出航したのか?いろいろな噂が飛びかった。
この事故がきっかけになって、青函トンネルの着工が急がれた。(結び)
天皇、皇后両陛下は、27日に大震災の被災地を訪れた。、
がれきに黙祷されたり、避難所の方々をお見舞いされ、
やさしいいたわりのお言葉をかけて下さった。
避難所にあてられている仙台市宮城野体育館を
訪れた両陛下。
そこで、小さなハプニングが起きた。
それは、ここで生活されておられる女性から、皇后さまに
「スイセン」の花束がプレゼントされたからだ。
花は、津波に襲われながらも自宅庭に咲いた奇跡花とか。
テレビを見ていて、皇后さまのお顔は思いがけない
プレゼントに驚き、微笑みが浮かんでいたようだった。
周囲や自己心も混乱しているであろうあのような環境。
そんななかでも「ようこそ」の思いやりの心がはたらいたのだろう。
頭が下がり、涙が流れ出た。
これぞ、世界一のプレゼントだと思う。
「避難民は元気です!頑張ります日本!」と叫んでいるように
心強く感じた。
天皇、皇后両陛下、有難うございました。
お疲れさまでした。
我が家のスイセンは、今が見ごろ。
いままでは感じなかったが、今後は「美しい強さ」を
覚えることだろう。