幕末から明治初期にかけて世界を駆け巡った「軍艦・咸臨丸」。
その名を見たり聞いたりしたことはあると思う。
この船の終焉の地がここ「サラキ(更木)岬」だ。
岬は、函館から松前に向かう途中の「木古内町」に位置する。
町は、厳寒期に若者数名による、ご神体の「海中寒みそぎ」が行われることで有名だ。
3本マストの洋式帆船・咸臨丸はどんな歴史を辿ったのだろうか?まとめてみることにした。
①この船は、今から163年前にオランダから購入。
スクリュー式の蒸気船で、時速は6ノット(10km)。
燃料は石炭だった。
長さ48.8、幅8.74m。
排水量は620トンと記されているから、遠洋マグロ船なみの大きさ
と思う。
②この船で、1860年に太平洋を横断。
日米通商条約の批准書交換に向かった。
勝海舟を艦長に、福沢諭吉、ジョン万次郎らが乗り込んだ。
航海中、アメリカ海軍の技術的応援があった。
③明治元年、幕府海軍副総裁、榎本武揚に引きつられ江戸・品川沖から蝦夷地に向かうが、台風に遭遇。
静岡まで流された。
明治政府軍は、乗組員を殺害。
遺体は「清水の次郎長」によって葬られた。
明治2年5月の箱館戦争においては、次郎長の流れをくむ柳川熊吉らが遺体の収容にあたった。
④明治政府の御用船となった「咸臨丸」は、戊辰戦争終結後、仙台藩の片倉氏の旧臣101名を乗せ、北海道・小樽へ向け航行中、台風に遭遇。
岩礁に激突、沈没し波乱の人生(船生)を終えた。
丁度、津軽海峡線の貨物列車が走行中。
歴史の事実を噛み締めながら、文明や土木技術の発達に心が動かされた。
私はこの船が大好きでプラモデルも作りました。
小さな船なのに、横断したののは快挙ですよね。大きな決心があったのでしょう。
初めての野外劇を見て、奉行所も見て、箱館戦争に関する史跡巡りをして、楽しむことができましたが、また行きたくなりました。
次回は今年12月か来年5月になりそうです。
今回の史跡巡りは有川、市渡、松前藩戸切地陣屋跡、二股口古戦場(訪問は2度目)の4地点です。
しかし、箱館戦争に関する地点がまだまだ多く点在しておりますので、1つずつクリアしたいですね。
もちろん、木古内町にある咸臨丸終焉の地もいずれは訪ねたいと思っております。
ブログで報告レポートを紹介してありますので、ごらんくださいませ。
なお、更新が遅くなります。
遭難当時の状況を詳しく知りたかったのですが、調査不足でこんな記事になってしまいました。
一冊の本をご紹介します。渡米状況が詳しく書かれております。
「夜明けの雷鳴・吉村昭著」です。
とても興味がわく内容です。
またのご訪問をお待ちしております。ミカエル
函館日記、読ませてもらってます。
それにしても「函館ファン、函館博士、函館地理名人、函館・・・」驚きです。
市役所観光課から、勲章を受けられますよ。
函館の輪がもっともっと広がって行けたら嬉しいのですが。
私は郊外に点在する戦争遺跡はよく知りません。貴女の方が詳しいかなと思います。
毛利さんが受講中の「「まちあるきガイドセミナー」の講師として来月登場。
生憎ながら欠席ですが、どんな資料をもらえるのか楽しみです。
次回来函にはお会いしたいものです。
ミカエル