ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第121号 さらば! 五稜郭分館

2007年04月30日 | 展覧会、催事など

所在地=函館市五稜郭町44番2号 五稜郭公園内

 

長い間、市民はもとより全国の皆さんに愛されてきた「市立函館博物館五稜郭分館」は、箱館奉行所復元のため今年の11月末日をもって閉館されることになった。

この建物は、昭和29年に北洋漁業の再開を記念して開催された「北洋博覧会」の産業館として建設・利用されたのちに博物館に転用された。
延べ床面積は約630㎡と博物館としては超ミニサイズながらも、展示物を戊辰戦争(箱館戦争)と五稜郭築造の2ジャンルに絞り込んでいるため中味は濃い。

毎年、夏期に行なわれる特別展は魅力溢れる展示物が心をひきつけた。
なかでも「新撰組展」には、全国からファンが集まった。
京都で産声をあげ、市中取締りにあたったあと、各地で負け戦の苦杯をなめ、立て直しを図るために「会津新撰組」を編成、しかしここでも負け戦になり、相馬主計を隊長にして「箱館新撰組」を再編成し明治政府軍と交戦したが、箱館弁天台場で降参、組は終止符をうった。
ここを見てから、「土方歳三最期の地碑」、「碧血碑」を見て回るファンが圧倒的に多い。

閉館にあたっての特別展は「さらば五稜郭の星」と銘打ち2部構成になっている。
1.7月14日~9月17日 「血戦!戊辰戦争」
2.10月2日~11月30日 「さよなら これが五稜郭分館だ!」
絶対見に行く、いや行かねばならない。

分館に入館されたことのない方でも、右写真の大砲には見覚えがあると思う。
左の太いのはイギリス製で陸上砲、右はドイツ製の艦載砲。
10年ほど前からこの砲身に跨ってVサインポーズの写真を撮る女学生を多く見かけるようになった。
ミカエルは、「何か訳でもあるの?」と聞いた。
「う~ん、よく分んないけど、先輩からこうして跨るとお産が軽くなると教わったの」と、にこやかに答えてくれた。
そうか、この大砲は、少子化傾向のなかでの安産を応援していたのだった。

閉館後の収蔵品は、函館公園内の本館に移されるが、何点展示されるかは不明。
箱館で戦死した、「土方歳三・伊庭八郎・中島三郎助」に関する品は優先的に展示を望みたい。
多くの人々に愛された博物館五稜郭分館。
閉館日には盛大なセレモニーをやって欲しいものである。

      

函館市内の桜の名所は、五稜郭公園、函館公園、香雪園(見晴公園)が有名ですが、ここ10年ほどこれに「桜が丘通り」が加わりました。
住宅街の松陰町と柏木町との堺道、約400mの桜トンネルが見事です。
間もなく満開、ぜひこちらにもお出掛け下さい。

                       ミカエル

 

 


 

 

 

 

 

 


第120号 マイスイーツショップ スナッフルス

2007年04月28日 | 美味満足技処、買い物処

所在地=函館市高丘町178番地の1 ℡ 0138-59-6660

 

正式名称は、「ペイストリー スナッフルス」と言い、この横文字の意味は、「菓子職人が作る美味しいケーキの店」。
市電湯の川終点から女子修道院方向へ5分ほど進むとジョモのガソリンスタンドがあり、その二軒先にある。
正面が工場直営の売店と喫茶コーナー、奥が工場になっている。

このお店のお薦めは、なんといってもチーズケーキ仲間の「チーズオムレット」。
北海道の新鮮な素材をたっぷり使い、口どけのやさしさが魅力。
函館を訪れた観光客からも「函館のお土産としてナンバーワンだね!」と絶賛されている。もちろん、ケーキも申し分がない。

空港から近く、内地からお客様が見えたときは、先ずはここに寄って買い求め我家で一緒に頂いてから名所案内に出かける。
店員さんの応対は洗練され、制服もシック。
皆さんに自信をもってお薦めできるお店です。

お店のホームページはこちら →    http://www.hakodate.ne.jp/snaffles/

          

今日から大型連休がスタート。
SL大沼号、大沼観光遊覧船、市電「箱館ハイカラ号」、ボンネット観光バスの運行が始まり、観光ボランティアも総出陣、五稜郭タワーの窓ガラスのクリーン化などなど、函館は準備万端整えて、皆様のお越しを心からお待ちしておりま~す。
もちろん、桜は満開になってお迎えします。

                       ミカエル

 

 


第119号 「三、3」が好き?な 五稜郭

2007年04月25日 | 町の話題

北海道でたった一箇所よりない国指定特別史跡、「五稜郭跡」は函館市五稜郭町内にあり、約1,600本の桜は29日に開花を迎える。
五稜郭はなにかと「三、3」に縁があることに最近気付いた。

この地域には、市内はもとより全国的にも話題になった件の大型プロジェクトがあった。
1.平成17年11月に五稜郭の堀の傍に開館した市立函館中央図書館の総事業費 が約30億円。            
2.昨年4月にオープンした新五稜郭タワーの工事費が約30億円。
3.現在、五稜郭公園内で復元中の箱館奉行所の工事費が約33億円と「」の数字が並ぶ。

明治元(1868)年、五稜郭を占拠して樹立した榎本政権・蝦夷共和国で、箱館奉行並になったのは中島郎助で陸軍奉行並になったのが土方歳

五稜郭が公園として市民に開放されたのが大正年の6月。

現代工法により五稜郭を造成した場合の土木(石垣、土塁、掘割などの外構え)工事費が33億円×2の約66億円。(平成11年4月、大手総合建設会社が試算)

しんがりに、箱館奉行所所属諸術調所教授役で五稜郭築造の設計監理にあたった武田斐郎を登場させて結びたい。

「だからどうなんだ?」とおっしゃる方もおられるかも。
「申し訳ありません、ちょっとした遊び心、『三、3』が気になっていたものですから」と謝るだけ、次回は真面目にアップします。
                      ミカエル 


第118号 いい湯だなぁ~♪ 市営谷地頭温泉

2007年04月22日 | 温泉

所在地=函館市谷地頭町(やちがしらちょう)20番7号 ℡ 0138-22-8371

           

「おはよう!」
「あっ、おはようございます」「おはようございます!」
次から次と朝風呂を楽しむ常連客の顔が揃い、スポーツ、政治、三面記事の話題が天井の高い広い大浴場に響きわたる。
皆さんはここで元気をもらい、一日のエネルギーとしている。

ここは観光客にも人気が高い谷地頭温泉。
函館市水道局が経営する公衆浴場で、函館山の麓にある。
JR函館駅から市電2番に乗り15分で谷地頭終点に着く。そこから徒歩で5分。
泉質はナトリウム・塩化物泉で鉄分を含んだ泉色は茶褐色、タオルを染める。
室内に3つの浴槽、露天風呂は五稜郭をかたどっている。

谷地頭温泉の熱源は、約100万年前に噴火した函館山の火山マグマで、掘削は勝田銀蔵が明治15(1882)年に行なったのが始まり、昭和30年代まで勝田温泉という公衆温泉浴場もあった。
ここの温泉の掘削は昭和26(1951)年に水道局によって行なわれたが、文久元(1861)年~明治39(1906)年まで割烹・浅田楼が営業していた場所である。
営業時間は6時~21時30分で、定休日は元日、毎月第2・第4火曜日。

昭和30年代は、函館を基地とする北洋漁業の最盛期。
出航する5月には町は乗組員(北洋さん)、見送りの家族、漁業会社の人々で溢れ、当時の繁華街であった駅前・大門地区の歩道は肩がぶつかりあうほど。
北洋さんはここの温泉が無料。
数ヶ月は決して味わえない温泉気分とあって大変な賑わい、何とかを洗う状態だった。
湯の川温泉とは一味違う泉色、ご来函の際にはぜひ谷地頭温泉にもご入浴を!

                        ミカエル 


 


第117号 函館の青柳町こそ・・石川啄木居宅跡

2007年04月19日 | 旧跡、史跡

            
 

所在地=函館市青柳町15番

函館公園正面出入り口を出て、左方向(上写真)に150mほど進むと案内板(左写真)がある。ここの小路を入り左3軒目がその跡地(右写真中央)である。
石垣は、啄木が住んでいた当時のもの。
小路からは、函館山の頂上を望め、啄木が朝夕眺めていたに違いない。

啄木が郷里の岩手県渋民村小学校の代用教員を罷免され、一家離散のあと函館に単身でやって来たのは、明治40(1907)年5月5日、21歳のときであった。
啄木を温かく迎え入れたのは、地元の文学愛好家グループで、彼に文芸誌の編集を任せた。
中断していた文学活動を再開し、弥生小学校の代用教員、函館日日新聞社にも勤務、7月にこの場所の借家に落ち着き、岩手から妻・節子、娘・京子、母、また小樽にいた妹も呼んでの生活がスタートしたのは8月初旬だった。

家族が同じ屋根の下で寝起きするようになって間もない8月25日、函館名物の大火が発生、勤務先の両職場が焼け、職を失い、9月13日に新たな職を求めて札幌に向ったのである。
函館滞在は、僅か132日間であったが、こよなく函館を愛し、最終的には東京の朝日新聞社校正係りに職を得て文芸活動をしたが、26歳の若さで病没。
本人の希望で墓地は函館市住吉町に建立された。
ここにあった居宅は、この時には焼けなかったが、大正3(1914)年の火災で焼失した。

「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」
「わがあとを追い来て 知れる人もなき 辺土に住し母と妻かな」

薄幸の詩人といわれた「石川啄木」、こうしてまとめてみると、事実を裏付ける人生だったと思う。

    
函館は今日も含めて3日間、晴れの暖かい天気が続いています。
家の外回りを水洗いし、車も手洗いしたあとにワックスをかけ、春到来を教えてあげました。
庭のクロッカスは間もなく終わり、スイセン、チューリップ、木々が蕾を膨らませ、遅い北国の春は全開で駆け足を始めました。

                      ミカエル

 

 



 


 


 

 

 


第116号 孤独になった博物館

2007年04月17日 | 教育施設

            
                      (現在の本館)
 
(旧博物場1号館・左と2号館・右)

市立函館博物館本館  所在地=函館市青柳町函館公園内

1年半前、ここから100mと離れていないところに市立函館図書館本館(先号)があった。
それが五稜郭地区に移転、兄を失ってしまった博物館は孤独になって寂しい環境の下、ひっそりと見学者の来館を待っている。

博物館の歴史は、明治4年に開拓使顧問ホーラス・ケプロンが、北海道の開拓に博物館が必要であると説いたことから始まる。

1号館 = 明治12(1879)年5月25日に、開拓使函館支庁仮博物場が開場して幕をあけた。水産陳列場→昭和7年水産館に改称

2号館 = 明治17年8月11日に第1博物場の隣接地に開場
水産陳列場→昭和7年先住民族館に改称

3号館 = 明治24年7月1日に第2博物場の隣接地に開場
水産陳列場→明治34年廃止

1号館が開場した年、珍しい展示物を見ようと、入場者数は約42,000人、当時の函館の人口が約30,000人だったから、ミニ万博のような賑わいだったらしい。
展示物は、マンボウ、エイ、セイウチなどの海獣の剥製、北方民族の生活用品であった。

これら建物の所管は、明治15年に開拓使廃止に伴い→函館県に引き継がれ→明治19年の3県廃止により→北海道庁(函館商業学校)→函館区役所→大正11年市制施行により函館市役所へと変化し、昭和18年からは、市内部でも図書館に移管され、さらに昭和23年の函館博物館設置条例により、博物館が所管することになった。
国内最古の地方博物館、明治初期の洋風建築物として文化財の価値は高く、昭和38年に道指定有形文化財となった。

現本館 = 昭和41年4月28日に総合博物館として開館した。
付属施設として、五稜郭公園内に五稜郭分館、末広町に郷土資料館がある。

本館の入館料は、常設展であれば100円と安いのだが、駐車場が分かりづらく、しかも遠い。
また、総合博物館としては床面積が小さく、冷暖房設備が無いなど問題点が多い。
こんな環境だから、入館者の姿はいつ行っても数人、私一人のときもある。
このままの状態では市民からも忘れられる存在になってしまい、貴重な資料が死んでしまう気がする。
市民が気軽に訪れて展示品を身近に目にするためには、立地条件のよい新図書館近くに新築移転するのが一番。
再び兄弟が近くに住むことによって予想以上の相乗効果を発揮できると思うのだが・・・。

                       ミカエル


 

 

 

 

 

 

 

 

 


第115号 お疲れ様!旧市立函館図書館本館

2007年04月14日 | 教育施設

所在地=函館市青柳町 函館公園内

 

新図書館が平成17年11月に五稜郭公園の堀の傍(旧北海道渡島支庁跡地)に移転新築し、その名も「市立函館中央図書館」としてオープンしてから1年半が経過した。
それまで市民や北方研究者への情報提供の場として利用されてきたこの建物は、閉鎖され第二の活用方法を静かに待っている。

図書館の歴史を振り返ってみると
1.明治39年、函館在住・岡田健蔵氏が自宅に図書室を設け無料 公開
2.明治42年、函館公園内の区有建物・協同館(当初は賓客接待所)を借り受け、私立函館図書館を開館
3.大正5年、市内の豪商・相馬哲平氏(公会堂建設の際にも大口寄付者)の9千円の寄付金をもとに書庫(右写真)を建設
4.大正15年、市内の豪商・小熊幸一郎氏の50,000円の寄付金をもとに、図書館建設に着手(左写真)
5.昭和3(1928)年7月16日、市立函館図書館開館式
こうして、函館図書館の父とうたわれた岡田健蔵氏の資料収集努力と、市内の豪商の寄付金によって、北方資料の宝庫・市立函館図書館は奉仕を開始したのである。

左の建物は昭和2(1927)年完成の鉄筋コンクリート造3階建の事務室、閲覧室棟で、正面の太い4本の円柱が目をひく。
設計は市役所技師・小南武一氏で、氏は多くの公共建築物の設計を担当、弥生小学校、公民館などの作品がある。

右の建物は大正5(1916)築の鉄筋コンクリート造5階建の書庫。
設計は辰野葛西建築事務所で、辰野とは著名な「辰野金吾氏」で、氏は別名「辰野堅固」とよばれるほど頑丈第一の設計思想の持ち主で、代表作に日本銀行本店、東京駅、旧日本銀行小樽支店などがある。
施工者は旧函館区公会堂も手がけた村木甚三郎氏で、当時のそうそうたる顔が関わった。

この不燃図書館のおかげで、全市の3分の1を焼いた昭和9年の函館大火から貴重な資料を守れたのである。

           

撮影に行ったのは4月12日、月末から始まる夜桜のための提灯が取り付けられていた。(右写真)
五稜郭は酔客が堀に落ちるのを防ぐために、桜開花期間中は夜間閉鎖、ここに夜桜見物客が集まる。が、まだ寒い。
冬並みの身まかないで熱燗に人気がある。
露店の焼き鳥や花見客のジンギシカン鍋から立ち上がる煙とにおい、軽快な三味線の音、風情溢れる電飾花見はもうすぐだ。

                   ミカエル

 

 


第114号 蝦夷地限定銭・箱館通寶銭座跡の碑

2007年04月11日 | 旧跡、史跡

所在地=函館市青柳町函館公園内 

                   

谷地頭町から緩やか坂道を上り函館公園に入ると碑は右側にあり、左の写真ではほぼ中央の電柱の陰あたりにある。(後方建物は旧市立函館図書館)

安政元(1854)年3月、日米和親条約が締結されると、幕府はそれまで松前藩の支配下にあった蝦夷地を再び直轄地とし、箱館奉行所を置いた。
当時の和人地は、松前、江差、箱館で、貨幣経済は一応軌道にのってはいたが、物流が盛んになるにしたがって銭不足が生じた。

江戸から直ぐには銭の補充ができず、箱館での貨幣鋳造の声は高まり、安政3年2月に箱館奉行は幕府に対し「蝦夷地通用銭鋳造」の申請をし、翌年2月からこの碑のある場所の銭座で鋳造を開始、同5年11月までの鋳造高は100,650貫文、(100,650,000枚)であった。
碑は、昭和52年10月に函館古銭会が建立し、市に寄贈したものである。
銭座のあった頃、この辺一帯は尻沢辺と呼ばれ、その後谷地頭町70番地から現在の青柳町3番へと呼称変更があった。

幕末当時の尻沢辺は、この銭座のほかに紙座や瀬戸座もあって今流にいえば「軽工業団地」。
「箱館通寶」の現物は、五稜郭公園内の市立函館博物館分館に展示しているが、この銭を銭形平次が投げ銭に使ったかどうかは誰も知らない。

                     ミカエル

 

 

 


第113号 女性だけの写真展

2007年04月08日 | 展覧会、催事など

会場=函館市美原2丁目(長崎屋向かい)ネッツトヨタ2F 
残り会期=9日(月)9:30~17:00、11日(水)9:30~16:00  (10日は休み)

 

テニス仲間のチーさんから「見に来てね!」と写真展の案内があったのは先月、今日午後から妻と二人で出掛けた。
彼女が所属する「フォトサークル夢」は女性だけで構成されており、今回は第1回目の記念すべき展覧会。

サークル発足の源は、3年前に市の女性センターで開催された「初心者の写真教室」。
。6ヶ月の講習を受け終了を前に、会員の発案で受講生でサークルを作り、例会を通じ引き続き技術向上に努める目的で結成された。

今回の展覧会のテーマは「光の物語」。
会員数は17名だが、30余点の作品が15名の会員から出展された。
作品をゆっくり見せていただいたが、構図、色彩の美しさ、タイミングの捉え方等みな素晴らしく、また女性特有の優しさが作品から感じとられ、とても写歴3年余とは思えなかった。
タイトルにもひとひねりがあって、文学的香りも窺え、写真ダメオ・ミカエルにとっては目が覚める展覧会であった。

撮影にあたって、被写体を決めるまでの時間、太陽の位置、シャッターを押す時の目の動き、思考、指の動きなど撮影者の心理の動きを想像しながら観ていたらあっという間に時間は過ぎた。
受付にいたチーさんに「立派な作品を見せてもらって有難うね」とお礼を言ったら「こちらこそ、わざわざ来ていただいて」と返ってきた。
心に焼きついた写真技術は、時間がかかるかも知れないが習得し、このブログに活用していきたいと思う。

                      ミカエル

 

 

 


 


第112号 ホワイトハウスの花じゅうたん

2007年04月05日 | 町の話題

所在地=函館市杉並町23番11号 遺愛女子学院内

 
(・・・・・・建物を拡大する。・・・・・・・・・・・・・・・・・花じゅうたんを拡大する。・・・)

ここ数日、地元のテレビや新聞でここの「クロッカス」が満開と報じられ、気になって愛用のコンパクトデジカメを持って出かけパチリ、パチリ。
カメラ歴8ケ月の腕前では、まだまだ花を狙えるまで上達はしていませんが、雰囲気はお分かり頂けると思いアップしてみました。

学院は、市電・杉並町電停の傍にあって、歴史は古く、明治7(1874)年にアメリカ人宣教師MCハリス夫妻が元町に開設した「日々学校」が始まり。
このホワイトハウスと呼ばれている建物は、明治41年に建てられた旧遺愛女学校宣教師館で、咲き乱れる白と紫のクロッカスは、昭和初期に宣教師が植えたと伝えられその数およそ1万株、手入れをしていないようですが毎年見事に咲きます。
高さ10センチほどの花たちは、春風に身を任せながら「どう、わたし、綺麗?」と問いかけているように見えました。

                       ミカエル


 

 

 

 


第111号 思いやりの道路標識

2007年04月03日 | 珍話、懐古品、珍品

所在地=函館市谷地頭町19番 市営谷地頭温泉裏通り

 
(赤い一時停止の上の黄色い標識にご注目下さい。右写真を拡大する。)

「エゾヒキガエルに注意」の標識は、10年も前に函館ロータリークラブの好意で設置された。

標識の左側にあるブロック塀の内側は大きな公衆浴場・市営谷地頭温泉。
そこには小さな池があって、エゾヒキガエルの夏場のすみかになっている。
春になると函館山からのそのそと下りて来て、この道路を横断し塀の中に消える。
池で産卵を済ませ、秋には再び函館山を目指してこの道路を横断するが、その時、交通事故に遭遇する不幸なカエルが多いことから、ロータリークラブが知恵を絞りこの思いやり標識を設置した。

このカエルは函館山付近のみに分布し、絶滅寸前の危機にあり、大きさは大人の手のひらくらい。
カエルも人間も共に楽しく暮す町・函館。
この標識のおかげで「無事にカエレル」と、カエルのみならずミカエルからも好評だ。
世界中に「思いやりの心」が広がれば、人々は皆幸せになれるのに。

                     ミカエル