ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第807号 知らなかった「湯川漁港」の完成

2013年06月18日 | 川、沼、湖、ダム、港湾
車で、湯の川温泉街を函館駅方面へ走行する。
黒松林を通過すると、左側に「函館水産試験場」へ入る目立たない道路がある。

進入して行くと、そこには初めて見る漁港の姿があった。



遠景の中段あたりに見えるのが、函館山。







いつ?という疑問が生じ調べてみた。
それは、2年前の2011年の完成。

この漁港の特徴は「親水護岸」。人が水辺で楽しめる護岸造りが設計のポイント。
今年の秋から、漁業者と市民との交流広場の整備が始まるようだ。

トイレ、ベンチ、駐車場が設けられる。

完成したら異色の漁港として人気が出ると思う。
完成がとても楽しみである。

それにしても、この漁港の存在を知らなかったとは、トホホである。

この漁港のHPは、こちらからどうぞ!



第310号 函館市民の水がめ~笹流ダム

2008年09月08日 | 川、沼、湖、ダム、港湾

函館の上水道の供用開始は、明治22年と横浜市に次いで国内2番目の歴史を誇る。
ただ、日本人の設計という点から見れば国内最古だ。
工事に使われた鉄管は、イギリスの商社が納入、赤レンガ倉庫群前に陸揚げされた。 

 

当時は、横津岳を源とし市中心部を流れる亀田川から直接取水配水していた。
やがて、水需要が増え、これに応えるためこのダムの建設に着手、大正12年に完成した。
設計・工事監理は、後に東京市水道局長に就任した小野基樹氏。
氏は、建設費が安く、しかも工期が短い「バットレスダム(扶壁式ダム)」を採用、これは我が国初の工法であった。

もとは、細いコンクリートの骨組みの外観だったが、老朽化のため、昭和58年~60年にかけて、在来の躯体を包み込むような大規模補修工事が行われ重量感あふれる外観になった。 

 

ダムの上を歩くと広く深い貯水池が眺められ、これからは紅葉が水面に映え心を和ませてくれる。
ダム下の広場は公園として市民の憩いの場になっている。

下の写真の小川はダムから流れ出る清流。
これからは、炊事遠足などの調理場として大いに賑わう。
ジンギスカン鍋、豚汁などの美味しい匂いが立ちこめ、大きな笑いも間もなく聞こえてきそうだ。

 


                      


第216号 お見事!台場石をリサイクル~函館漁港

2008年01月12日 | 川、沼、湖、ダム、港湾

漁港所在地=函館市入舟町(市電どっく前下車 左300m)

函館が、国際港として開港したのは、ペリーが来航した翌年の1855年だった。
幕府は、外国船からの万が一の攻撃を想定し、箱館港防備のために現・函館どっくのあたりに「弁天台場」を築いた。
しかし、この思惑は見事に外れ、皮肉なことに、1869(明治2)年の箱館戦争では新撰組が立てこもり、日本人同士が血を流し合う戦場になってしまった。
(写真をクリックすると拡大できます。)
 
                              (下段が台場の石材)
明治後半になると、函館港には出入りする船が急増、港湾の整備拡充に迫られ、
同29年にその工事に着手した。
支障になったのがこの台場。
解体決定されたのだが、使われていた石材は函館山裏から切り出した安山岩。
「まだ使える」と睨んだ設計者は、ここ函館漁港の護岸にも使うことにした。

この台場の石積工事を箱館奉行から請け負ったのは、備前・岡山の石工・喜三郎。
彼は、東京品川台場や五稜郭の石積工事も手がけた名工で、工法は強固。
解体は難工事だったと伝えられる。
こうして、幕末遺産・弁天台場の石材は、明治に漁港の一部としてリサイクルされたのだった。

函館と同じ国際開港地になった横浜。
ここにある有名な山下公園は、1923(大正12)年に発生した関東大震災のガレキを埋め立てて造られたもの。
開港地同士の知恵比べがあったのかも知れない。

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                         ミカエル