ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第76号 皆様、良いお年を!

2006年12月29日 | 我が家のもろもろ

           
                  (湯の川温泉街の歳の市)

師走もだいぶ押し迫ってまいりました。
お正月を迎える準備はできましたでしょうか?

今年の8月5日、操作の理解不足ながらもスタートしたマイブログ。
悪戦苦闘の連続でしたが、なんとか軌道に乗り年を越せそうになりました。
皆様のご訪問と励みになったコメントを頂き、本当に有難うございました。
心からお礼を申し上げます。

新しい年が、皆様にとって希望あふれる良い年でありますように祈っております。

                        ミカエル

 


第75号 旧幕府軍戦死者を葬った「実行寺」

2006年12月27日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地ー函館市船見町18番18号(じつぎょうじ)

 

この寺町通りに面した寺院群は、各寺協力して敷地堺の土塀を綺麗に統一(左写真の右)して美観に努めている。
通りから海が見えなければ、まるで京都の町中にいるような気になる。

明暦元(1655)年の開基。
元禄3(1690)年、松前の日蓮宗・法華寺の末寺となったが、いつからこの名称になったのは明らかでない。(明治17年、山梨県身延山久遠寺の末寺に編入)
正徳4(1714)年、現弥生小学校敷地に移り、明治12(1879)年の大火後の明治14年この地に移った。
その後も火災に遭遇し、現在の建物は明治43(1910)年に完成した。

安政5(1844)年のペリー来航時には、艦隊写真班の宿舎に、また、安政5(1858)年にはロシア領事館にも使われた。
明治2(1869)年の箱館戦争終結後、市中に放置されたままになっていた旧幕府軍戦死者の遺体を、住職と侠客・柳川熊吉が計らいここに葬った。
このあとの明治8年、第66号でご紹介した「碧血碑」へと改葬した。
激動の維新期を余す事無く見つめた寺院である。

                     ミカエル



 

 

 

 

 

 

 


第74号 クリスマスプレゼント

2006年12月25日 | 我が家のもろもろ

イブの日
「ピン♪ポーン♪」「はい、どなたですか?」「宅急便です」「はーい、お待ち下さい」。
玄関のドアを開けるとクロネコの制服姿の方が立っていた。
「大阪のYさんから、○○子様あてです。ハンをお願いします」。
この季節、荷物が届く機会が多いので、ハンは玄関に置いてある。
そこから素早く渡した。「有難うございました」と紙袋を渡された。

Yさんは妻の友人。30年ほど前、ご主人の転勤で函館に来られ数年間であったが
行き来しあい、戻られてからも手紙や賀状などで近況を知らせ合っていた。

「何かしら?」と妻。はさみを渡し「あけてみよう!」。
綺麗な紙に包まれた箱が5個、中にはYさん母娘連名の「クリスマスカード」。
「あっ、クリスマスプレゼントだ!嬉しい!」妻の大きな声と微笑みが。
うきうきした指先で箱を開ける。感激、感激、私あてのもあった。

今こうして、還暦を通過した夫婦にまだ心くばりをして下さる方がいることに、心が熱くなった。小学生のころ、母がそっと枕元に置いてくれたプレゼントは「月刊誌・少年画報と20粒入りのキャラメル」だった。
そんな想い出がふと頭を横切るのを感じながら、Yさん二人の優しい眼差しを思い浮かべた。「ありがとう。メリークリスマス!」

                ミカエル 

 

 

 

 

 


 

 

 

 


第73号 五稜郭設計者の夫人が眠る「東本願寺函館別院船見支院」

2006年12月23日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市船見町18番20号

 

ご紹介済みの旧ロシア領事館、山上大神宮の坂を下り、1本目の十字路を左折すると寺町通り。ここに大きなお寺が3棟連なり、さらに先を左折すると北海道一の大きなお寺がある。あわせて4寺をゆっくり巡ってみたい。 

通りの最初にあるのがこのお寺で、正門に「東本願寺北海道御廟」ともある。
第42号でご紹介した、日本最初のコンクリート寺院・大谷派函館別院の墓地を管理するために明治37(1904)年に建てられたが火災に遭遇し、現建物は大正15(1926)年
のもの。
函館の著名人が多く眠るが、五稜郭の設計者・武田斐三郎の美那子夫人もそのひとり。

斐三郎は箱館奉行所が開設した、現代流に言えば理工系大学「諸術調所」の教授役であり、ペリー来航時(1854年)には乗艦して通訳を務めた。
一方、美那子夫人の兄は「小島又次郎」で、この寺近くで雑貨商を営む町名主だった。その時には名主として接遇にあたり、ペリーからお礼として洋酒瓶を賜った。また記録書「亜墨利加一条写」でアメリカ水兵の買い物姿などを残した。
斐三郎が奉行所に赴任した翌年の安政2(1855)年に嫁いだが、8年後に27歳の若さで病死した。四国・愛媛出身の幕府エリート武士に嫁いだ美那子夫人のご冥福を祈りながら、お寺をあとにした。

 夕方から雨が雪にかわった。明日はクリスマスイブ。ホワイトクリスマスになりま
   すように!そして、みんなが幸せになれますように!   

                 ミカエル  

 

 

 


第72号 北島三郎さん

2006年12月21日 | 我が家のもろもろ

所在地=知内町(しりうちちょう)

 
     (背後は知内川)              (堂々たる三階建て)

昨日、みなみ北海道の知内町に住む友人宅に出かけた。
この町は函館と蝦夷城下町・松前の途中にあって、津軽海峡に面する人口約
5,500人の半農半漁の町。我家からは車で90分の距離である。
この町出身の超有名人は、演歌の大御所・北島三郎さん。
町中心部に大きな知内川が流れ、国道橋の函館寄り左に町役場、渡った右に北島さん(本名=大野穣)の実家がありパチリ。 

さぶちゃんは、第48号でご紹介した「八幡坂通り」を上りきったところにある「北海道立函館西高校」に国鉄で通っていた。
卒業後、青函連絡船で上京、盛り場で1曲100円の流しをしながらデビューを待った。そして初のレコードが26歳のときの「ブンガチャ節」。
その後次々と出した曲が大ヒット、今日の名声となった。

毎年夏のお盆休み。知内川河川敷地で開催される「サマーカーニバルIN知内」には北島ファミリーを引き連れて出演。
この時は家3階の川に面した大窓から、ご両親が我が子の成長に目を細めながら眺めておられたという。
お母さんが先に他界し、お父さんも亡くなった。
そしてさぶちゃんも70歳になった。3日ほど前にテレビで見たリサイタルではまだまだ元気。さらなるヒット曲が生まれるのを願う。
「函館の女」は、我が心に残る永遠の名曲だ! 

                  ミカエル

 


第71号 京都所司代のお座所になった「山上大神宮」

2006年12月19日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市船見町15番1号(やまのうえだいじんぐうと読む)

 

第58号でご紹介した旧ロシア領事館前の急勾配坂道を上ると鳥居があり、さらに36の石段を上ると境内に着く。正面に本殿(写真左)、左に社務所(写真右)がある。
本殿のすぐ後ろは函館山の杉林が広がり、境内面積約5,000㎡、氏子世帯数は約
2,200世帯である。

この神宮は、約600年前に亀田赤川に伊勢神宮のご神霊をいただいて祀ったのが創まりで、1,655年に住吉町に移り箱館神明宮と称した。
1682年に現函館西消防署弥生出張所付近をえて、現在地に遷座したのは明治35(1902)年で、この地の町名(山上町)をとって改称した。
現社殿が建替完成したのは、昭和7年である。

幕末から明治にかけて特筆すべき事柄が二つある。
1.第8代宮司・澤辺琢磨(旧姓名=山本数馬)は、土佐藩士・坂本龍馬、武市半平太(たけち・龍馬と遠縁)とは姻戚関係にあった。

2.箱館戦争(明治元年~2年)の時、京都所司代であった旧桑名藩主・松平定敬(さだあき)がお座所として使用した。
定敬は23歳、京都守護職・会津藩主・松平容保(かたもり)の実弟。
激動の波に押し寄せられ箱館戦争に僅かの家臣とともに参戦したが、榎本の指揮下になるのを拒否、この神宮に滞在した。
しかし、桑名から駆けつけた藩重臣の説得もあって、箱館総攻撃前の4月13日、アメリカ船で横浜へ移動、翌5月兵火に遭いこの神宮は焼失した。

そのほか、ここの神官2名が改宗し、東京神田・ニコライ堂の司祭になったのは興味深い。

ここの神宮に伺ったのは15日。
アポなしであったが親切に説明をしていただき、そして史料もいただいた。
とても有難かった。感謝、感謝。
今朝の函館はうっすらと雪化粧をしたが・・・融けてしまう?。
クリスマスも間近。大雪は困るけれどホワイト色の街並みになって欲しいと願う。

                    ミカエル

 

 


 

 

 

 


第70号 日本基督教団函館教会 

2006年12月17日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市元町31番19号

       

第48号でご紹介した「八幡坂通り」を下り、バス道路を右折すると右に見える。
庭園はなく、街並みと融合しているので通り過ぎる恐れがある。

明治6(1873)年12月にアメリカから宣教師・ハリスが来日し、翌年1月に函館で伝道を始めた。プロテスタント教会では、国内3番目に古い。
来函当時、ドイツ代弁領事・ハーバーの殺傷事件があり、知人が護身用にピストルを与えようとしたが、武器をもつのは馴染まないとした。

彼は札幌でも伝道活動をし、内村鑑三、新渡戸稲造などの札幌農学校(現・北海道大学)学生の指導にあたり洗礼を授けた。
一方、ハリス夫人は女子教育に尽力し、遺愛学院設立の契機となった。

ここの教会もそうであるが、明治10年に建てられたのちに数度の火災などに遭い、現在のは昭和6年のもの。
昭和16年にプロテスタント教派の合流があり、現在の名称になった。
作家・亀井勝一郎は、少年期にこの教会の日曜学校に通っていた。
ここも観光客の姿は少ないが、ライトアップされる夜には賑わいを見せる。

この号で元町にある五つの教会のご紹介は結びになる。
幾度となく火災に遭遇しながらも苦難を乗り越えた外国人宣教師の心境を思うと、
計り知れないご苦労があった。そこに「人の心を教える姿」を見ることができる。
次号から神社、寺院群を歩いてみたい。                  

                      ミカエル

 

 

 


第69号 函館元町 港ケ丘教会

2006年12月14日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市元町29番15号

             

 この教会は、第60号でご紹介した「老舗レストラン・五島軒本店」の向かいにあり、
もとは「日本基督教会相生教会」であった。「相生」とは、旧町名「あいおいちょう」
から由来している。
教会は昭和49年に本町に移転、企業が買受けし、現在は結婚式専門会場。
宴席は向かいの五島軒が控えているから便利。

建物は明治40(1907)年に建設した後、3度の火災に遭い現在のは昭和9年のもの。
札幌に北星学園を創設した米人スミス女史は、市内の遺愛女学校教師をしていた明治前期にはここの伝道を手伝っていた。

元町教会群から離れており、庭園もないことから観光客の訪れは少ない。
お問い合わせ先~ブライダルサロン・元町マリンハウス ☎ 0138-27-0508

今日の函館はシンジラレナ~イほど暖かい。
お天気の神様に感謝し、居間の大窓、玄関まわりをを水洗いした。
これでよし。掃除するところは残り僅かだ。

                 ミカエル

 

 

 


第68号 スポーツ同好会納会

2006年12月12日 | 我が家のもろもろ

今日、妻も所属しているスポーツ同好会の納会が開かれた。

 

会の発会は平成元年。同年に、「君よ今、北の大地の風となれ」のテーマのもと、北海道で開催された「はまなす国体」に刺激され、市内のスポーツ大好き仲間が集まって結成された。

現在の会員数は、男性15名、女性42名で合計57名の大所帯。
納会には40名が参加、ソフトバレー3面、ミニテニス1面の4コートで、紅白試合が行なわれた。
週1回の例会の時もそうであるが、この時ばかりは何もかも忘れ、思いっきりプレイをし、休憩時間のお喋りやおやつも楽しむ。
家族を看病している者などそれぞれが背負っている家庭の事情を彼方に置くことができる夢時間である。
初夏と秋の野外レクリエーションも楽しい。
貸し切りバスで郊外に出かけ、パークゴルフ、昼食会、温泉入浴をして一日を過ごす。

納会が終わってから、紅白の餅が配られ、今年の行事は結びとなった。
二人そろって健康で会の行事に参加できた事は、平凡ながら大きな幸せだと思う。
「良いお年をお迎え下さい」の声、来る年も皆で元気にプレイをしたい。

                     ミカエル


 

 


 

 

 

 

 


第67号 官軍戦死者の霊を祀る・函館護国神社

2006年12月10日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市青柳町9番23号

 

第66号の、箱館戦争で戦死した旧幕府軍の墓地・碧血碑から車で5分のところに、官軍(明治政府軍)の戦死者の霊を祀る函館護国神社がある。
護国神社は全国に65社。
函館山ロープウェイ山麓駅の斜め向かいだから分かり易い。

明治2年5月11日に兵部省によって創建され、当時は函館招魂社とよんだ。
敷地は函館山麓の傾斜地、造成は旧幕府軍の捕虜を使い完成させた。
その後、護国神社、潮見が丘神社、復称して函館護国神社となり、函館、渡島、檜山、後志(一部)の太平洋戦争までの戦没者約13,000余名を祀っている。

明治2年5月11日、箱館戦争で明治政府軍の勝利が確定し、18日に五稜郭開城、21日大森浜(啄木小公園辺り)で招魂祭を執行した。
この戦争に投入された明治政府軍将兵は8,041人、負傷484人、死者286人でここの墓地(右写真)には、59基がある。
例大祭は5月11日、境内の広さは約20,000㎡(後楽園ドームの5分の2)。
首相の参拝で国際問題になる東京の「靖国神社」は、明治2年6月29日の創建(当初は東京招魂社)だからこちらの方が歴史は古い。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」の諺どおり、碧血碑と比べたら処置は大違い。
見晴らしの良さ、社殿、一人一基の墓標など天と地の差がある。
明治元年正月、京都鳥羽・伏見から始まった戊辰戦争。明治政府軍と旧幕府軍との衝突は国内を二分した内乱だった。箱館戦争の終結で終止符をうち、長引けば欧米列強の植民地になったかもしれない。
以降、欧米文化を積極的に取り入れ、国家の近代化を図った。
多くの犠牲者のご冥福を祈りたい。

               ミカエル

  おまけ~関連性はまったくないが、大阪万博の太陽の塔製作者・岡本太郎氏の父・一平氏は、明治19年にこの神社近くで生まれている。

                ミカエル

 


第66号 碧血碑(へっけつひ)

2006年12月07日 | 新撰組

所在地=函館市谷地頭町

明治元年から2年にかけての、箱館戦争で亡くなった旧幕府軍兵士の共同墓地。                         
                          (碑には千羽鶴や花が絶えない)
 

立待岬からの帰り道は一方通行。その道にこの碑の案内標識があるが、幅30cm、高さ3mほどの白い柱のみだから見落とすことが多い。
標識から山方向へ連なる一本道を歩くこと10分、寂しい風景のなかに碑はある。

箱館戦争の市街地戦で戦死した旧幕府(榎本)軍兵士の遺体は、明治政府軍の命令でそのまま放置されていた。
見かねた箱館の侠客・柳川熊吉(江戸・浅草生まれ。大河ドラマ・徳川慶喜で堺正章演じた新門辰五郎の配下)と実行寺住職が収容し、同寺に埋葬した。
明治5年、旧幕府軍の戦犯者が放免され、戦死者の霊を弔う計画が持ち上がった。

7回忌を迎える明治8年、榎本軍の陸軍奉行であった大鳥圭介らが中心となり、伊豆産の石材でこの碑を建てた。
建立者の名、埋葬されている名もなく、明治政府への遠慮が感じられる。
碑が内地へ向いているのがせめてもの慰めかもしれない。
蝦夷地に渡った旧幕府軍の兵士は約3,000名。
この碑には796柱を祀り、毎年6月25日に碑前祭を行なっている。

「碧血」とは、「義に倒れた志士の血は、3年経つと碧になる」という中国の諺から引用された。
徳川家の再興を願い、榎本を信じ、夢達しないまま北の大地に散った兵士達の冥福を心から祈りたい。

冬期間に行かれる方は、市電・谷地頭終点から函館山方向に進むと函館八幡宮に突き当たるので左折。
3分ほどで進入禁止の標識。長靴を履いて10分ほど坂道を登ります。
     
                    ミカエル
                          


第65号 立待岬

2006年12月04日 | 展望処

所在地=函館市住吉町

 

市電・谷地頭終点で下車。函館山方向へ歩を進め、坂道手前を左折したら一本道。
石川啄木一族の墓がある市営墓地の中を通ると、視界が広がり岬に到着する。
所要時間は約20分。

実はこの道、12月1日から積雪による危険防止ため車両通行止めになる。
そんなわけで、この写真は11月26日に急遽撮影したもの。
記憶にある立待岬のイメージは、海の青と山肌の緑だったが、草木は枯れ、葉を落として岩肌がむき出しとなった荒涼たる光景が目に飛び込んできた。

前面の津軽海峡の彼方に下北半島を、左(東)に本州との最短地・汐首岬、右(西)に知内町(北島三郎出身地)・矢越岬が望める。
汐首岬と下北半島間は、一時、青函トンネルの候補ルートであったが、地質調査で軟弱地盤のため断念した。
立待岬からの展望の良さを利用して、幕府は台場を築いたし、日露戦争時には要塞に組み込まれ無線基地があった。

名前の由来はアイヌ語「ヨコウシ(魚を獲ろうと立って待つ)」が源であるが、「娘が魚を獲りに行った恋人の若者を待つ場」と解する若い女性が多いのは何故か?
昭和30年代までは自殺の名所であり、数年前までは、海水浴場として賑わった。

1982年のNHK紅白歌合戦では、森昌子が「立待岬」を歌って全国に名が広がり、南極基地近くにも「立待岬」が生まれて、世界ブランドになった。
市街地にある異色の岬として、これからも多くの観光客の歓声を聞きたい。

                      ミカエル

 

 

 

 


第64号 パンに技あり・栄町タウンマート

2006年12月01日 | 美味満足技処、買い物処

所在地=函館市栄町10番2号  

 
 (栄町会館の傍にあるタウンマート)       (お薦めのコッペパン)

市役所横のグリーンベルトのある広い道路を、函館山方向へ400mほど進んだ右側にこのお店はある。
5年前、このお店の近くに住んでいた友人から、「すっごく個性的なパンだから食べてみて」と薦められ、初めて口にしたのが「タウンマートのコッペパン」。
ここで焼いているという。美味しかった。

表面がカリッとして、中は歯ごたえがありながらシットリ感もある。
バター風味にほんのりとした甘味があるから、ほかにつけるものは要らないし、冷めても風味が変らないのが特徴。
大きさは、長さ20cm、幅7cmくらいでボリュームたっぷり、1個で満腹になる。

毎日、11時ごろ約10種類の焼きたてがお店に並ぶ。
お薦めのコッペパンは、いち早く売り切れになるのでお早めに!
このパンは、別に予約で焼いてくれるという。
日曜日が定休日。お問い合わせは、0138-26-7720へ。

                     ミカエル