ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第845号 代用品~やはり鉄でなくて竹もありか?

2014年02月07日 | テレビ番組
第二次世界大戦(太平洋戦争)が、中盤になると、
金属物資不足の影響は家庭にまでも及んだという。
鍋や釜までが軍の徴収の的にされたそうな。

数日前のNHK連ドラ「ごちそうさん」を観ていて
とてつもないショックを受けた。

それは、大阪市役所に勤務する主人公・建築技師が嘆いた
一枚の設計書だった。
彼は東大卒の技師。手元に示された設計変更書には、「鉄筋」から
「竹筋」とあった。

私が、就職した最初の職場部門は「資産評価」。
構造物は、次のように分類されると教わった。

①鉄骨鉄筋コンコリート造
②鉄筋コンクリート造 
③鉄骨造
④石造
⑤木造(土蔵も含む)

戦時中、国鉄函館本線・五稜郭駅付近から分線した旧b戸井線。
目的は、津軽海峡に面した戸井要塞への軍需物資輸送のためだった。
途中で、中止となって、汽車が走ることはなかった。

この線路に架かる橋に、「鉄筋」」でなく「竹筋」が使われた
というのは、案外真実かもしれない。

これが噂とされる鉄道アーチ橋。
旧戸井町内には、ほかにも数箇所存在する。
まるで、古代ローマの水道橋を感じさせる力作・傑作だ。

 

 


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第823号 あいさつするたび ともだち ふえるね

2013年09月16日 | テレビ番組
東日本大震災以降、テレビ画面から姿を消してしまった「あいさつキャンペーン」。
いろいろなキャラクターが出てきて楽しかった。
昨年5月に生まれた初孫も喜びそうだ。
蘇ってほしいなー。


あいさつする子に なかまはあつまる。
あいさつする子は にんきもの。
あいさつは しってる人とも
しらない人とも なかよくなれる まほうのことば。
さあ みんな こえにだして いってごらん。

ありがとう
ただいま
おはよう
ごちそうさま
いただきます

こんにちは
こんばんは
さようなら
おやすみなさい


  

あいさつをすることによって、世の中、カドが取れて、優しさと笑顔がわきあがってくると思う。
「あいさつ」こそが、「みんななかよし」の基本かな?


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第817号 爺と婆が[DDT?]いや[AKB]

2013年07月27日 | テレビ番組
爺「婆さんやー」

婆「なんですか?お爺さん」

爺「さっきさ、テレビから、『AKB』と聞こえてきたが何だね?」

婆「最近は横文字があふれすぎて・・・よく分かりませんね。お爺さん、それ『DDT』の聞き違いではないですか?」

爺「いや、確かに『AKB』と言うっておったよ!」

婆「あっ、思い出しましたよ。『AKB』なら、ほらほら『あきれたぼういず』の略語ですよ!」

爺「あっそうか。函館出身のスーパー芸能人・益田喜頓(マスダキイトン)らが結成した
『あきれたぼういず』ね。よく思い出したね!まだまだヤング脳だね」



こんな調子だから、現代世相に乗り遅れている私ども。
時間はゆったりのんびり過ぎていく。

益田さん(本名=木村 一 、明治42年青柳町生まれ)の胸像は、五稜郭芸術ホールに飾られている。
晩年の益田さんは、温厚でとってもお洒落だった。
残る私の老人生の、教本としている。

益田さんの詳しい情報は、こちらからどうぞ!



第793号 「八重の桜 ⑨」 函館は後押し行事でドラマを応援

2013年04月22日 | テレビ番組
函館は、大河ドラマ・「八重の桜」が始まってから、講演会があちこちで開催。
彼女や新島襄に関して静かに燃えている。

昨夜のドラマでは、タイミングよく、中野竹子の登場。
やはり、なぎなたの達人だった。

京都では、政局が大きく変化。
松平容保の動向が心配である。

これまでの函館での催事

① トップはやはり本家本元のNHK主催だった。
1月19日 会場=市民会館
講師=同志社女子大学教授・吉海直人氏
演題=「新島襄・八重夫妻の北海道滞在ー人生で最も幸せな時間ー」
予約制で、満席の人気ぶり。
スライドも解説に用いて、八重の容貌などが知り得たのは大きな収穫だった。

② 3月24日 
会場=函館千歳教会(松陰町 一時期・新島先生脱国記念会堂とも呼ばれていた)
フリー参加
講師=同志社大学神学部教授・本井康博氏
演題=「『八重の桜』だより~大河ドラマのウラ・オモテ~」
ユーモアの連発で、楽しい雰囲気が広がっていた。



これからの催事

③ 6月14日(金)18時~19時10分
会場=函館市中央図書館
講師=作家・福本武久氏
演題=「新島襄・八重と函館」
主催=学校法人同志社
共催=函館市教育委員会(市立函館博物館)
後援=函館市
事前申し込み制 5月16日から電話で 0138-23-5480 博物館へ
講師の横顔=1942年京都生まれ 1965年同大学法学部卒 第14回太宰治賞受賞
      新島襄と八重に関する著書多数

④ この日、17時から20分程度、海外渡航の地(大町11)で碑前祭
事前申し込み不要 終了後、講演会会場まで専用バスあり。
主催=学校法人同志社 後援=函館市

⑤ 市立函館博物館 企画展
会場=青柳町函館公園内同館
テーマ=新島襄と幕末の箱館
期間=6月14日~9月1日
内容=新島八重の夫・新島襄と函館との関わりを紹介する。
入館料=一般200円など

このように、今年のNHK大河ドラマで、行事が多く組まれているのは、「新選組」以来のこと。



この時は、箱館で戦死した「土方歳三」でフイーバー。
役どころの「山本耕史さん」は適役で、人気はたかまった。

彼が来函しての行事の数々。
① ハーモニー五稜郭でのトークショー。
② 福祉センターでの、スライド映しトークショー。
③ 赤レンガ倉庫群・金森ホールでの、バレーボール・大林素子選手との対談。
④ JR函館駅ホームでの、乗客お見送り
などがあった。

このドラマがきっかけとなって、ミケはすっかり「山本耕史さん」の熱狂的ファン。
彼が出演するドラマであれば、ジャンルを問わず見ている。
しかも、飽きずに再放映まで。

商業ベースでの取り上げも多かった。
土方バーガー、土方まんじゅう、土方関連名所を散策する宿泊客など。

今回は、商業ベースでの盛り上がりは期待できないが、「新島襄・八重夫妻の知識」に、染まることは間違いないかと思われる。
これからのストーリーが、どのように展開するのか?とても楽しみである。

このシリーズ連載は、これで結び。
ご訪問いただきまして、有難うございました。
あとは単発で、投稿していきたいと考えております。


ミカエル
  



第792号 「八重の桜 ⑧」 函館で余生を静かに過ごした会津撫子

2013年04月18日 | テレビ番組
NHK放送局の窓口に置いている「八重の桜」の広報用パンフレット。
これを見ることによって、登場人物、つながりが良く分かり、ドラマをより楽しく見ることができる。実に嬉しい配慮だ。
これが、そのおなじみのパンフ。



ここに紹介されている人物は40名。
ドラマ進行とともに、見比べている。
その中に「会津の女たち」に分類されている「中野竹子」(女優名=黒木メイサ)の名がある。
会津では有名な女性で、既にドラマには出ている。

彼女は、江戸常詰会津藩士・中野平内の長女で、妹は優子。
二人ともかなりの美才で、しかも「なぎなた」の名手。

京都郊外の鳥羽・伏見で戦火が始まった「戊辰戦争」。
その戦場は東北へと拡大進行。
明治元(1868)年8月25日、会津のご城下も戦場となったのである。

姉妹は、なぎなたグループ「娘子隊」の隊員で、竹子はリーダー格。
隊(6人~9人)として、政府軍と勇敢に立ち向かった。
中でも竹子の戦いぶりは、目を見張るものがあったという。
しかしながら、時は既に銃器の時代。
竹子は額に被弾し、あえなく戦死した。
妹の優子、母は、激しい戦闘状況ではあったが、姉・竹子の首を介錯し、近くの法界寺に葬った。

その後、優子は函館に移り住んだ。
1871(明治4)年、山浦鉄四郎と結婚し、第二の故郷となった函館・千代台町で、静かに暮らし、1931年、79歳で没した。
墓は青森県八戸市湊町の会津墓地にある。

会津戦争時、二人の年齢は、姉・竹子22歳、優子16歳であった。

優子は、竹子の分も含め、幸せな人生を送れたのだろうか?
天国での生活は、きっと二人仲良く、楽しい人生をと、願っている。


ミカエル







第791号 「八重の桜 ⑦」 続家と姻戚の五島軒

2013年04月12日 | テレビ番組
函館の西部地区。二十間坂に面しているレストラン五島軒(経営者=代々若山家)。
創業は、明治12(1879)年だから、開業134年になる。
引き続いて現営業中のレストランとしては、北海道一の歴史を誇る。
(ある食通によれば、国内一だよとの説もあるのだが・・・)。





この若山家に、新島襄の国外脱出を手助けした福士成豊の兄の長女(姪)・続トセさんが嫁いだ。
トセさんは、現社長・直氏の直系尊属にあたる。

手元に「北の食文化に灯をともして」というタイトルで、五島軒創業120年のあゆみの記録本がある。
発行=1999年9月18日 発行者=株式会社 五島軒 代表取締役社長 若山 直
とあって、A4判157ページにおよぶ立派なもの。



この中には、新島襄脱出のこと、続家系図なども載っている。
私をうならせたのは一枚の集合写真。
「続 豊治百年祭記念」 昭和55年11月19日 於 五島軒本店 と印字。
51名の皆様が写っておられる。
偶然ではあるが、「八重」さんの名も見受けられた。


五島軒にとって最大の栄誉。
それは、平成元年10月2日、「天皇・皇后両陛下行幸啓御昼食」会場となったこと。
「御昼食室御席」と「御献立」を下記に掲載(王朝の間)。)

※ 御席
宮内庁長官、侍従長、侍従次長、女官長代理、侍従、行幸主務官。
知事、道議会議長。
市長、市議会議長。

※ 御献立
あわびのクールブイヨン煮 クーリトマトソース
コンソメ 松茸浮かし
二代目若山徳次郎 リッチ合鴨カレー
季節のサラダ盛り合わせ
七飯リンゴワインシャーベット
マスクメロン コニャック風味
珈琲

明治11(1878)年
五島軒初代 若山惣太郎氏が来函。
この年、二代徳次郎、東京で出生。

明治12年
初代惣太郎氏、富岡町(旧市立函館病院あたり)でパン屋を開業。
長崎県五島列島出身の五島英吉氏の協力を得て、旧桟橋附近で、ロシア料理、パン、ケーキの店を開業。
この年の11月3日 函館公園開園式。


新島襄が海外へ脱出したのは、1864年。
一方、惣太郎氏の来函は1878年。
あと14年早かったら、二人は、元町ハリストス正教会でご対面となっていたと思われる。



あと二日で八重さんと会える。
とても楽しみだ。


ミカエル

第790号 「八重の桜 ⑥」 襄が生涯の恩人として敬った人

2013年04月08日 | テレビ番組
昨夜(7日)の祝言の席の放映、意外と質素だった。
考えてみれば無理もない。藩が大変になっているからだ。

酔いつぶれてしまった新郎を担いで部屋へ運ぶ場面。
米俵を担いだ実績があるからか、周囲で驚く者はいなかった。
実像は何しろご立派な体格。「綾瀬はるか」さんでは、役不足と思った。
いつまで、彼女を充てようとしているのかな。

ところで、新島襄が生涯の恩人として忘れることがなかった人物は?
それは、箱館から海外渡航を実現させてくれた「福士成豊」だ。

彼(幼名=続 卯之吉)の父(続 豊治・つづき とよじ 1798~1880)は、国内初の洋式帆船「箱館丸」を建造した船大工。
この船は、箱館お奉行の江戸へ帰任の際に使われたりもした。

成豊(1838~1922)は五男。福士家の養子となった。
イギリス人の経営するポーター商会へ5年間勤務。
同じく箱館在住イギリス人実業家・ブラキストンから気象学を学び、観測機器の使い方も習得。
大変な勉強家でもあった。

明治5年7月、開拓使直営の気象測量所を彼の自宅に置いた。
位置は現在の金森倉庫のあたり。






この測量所が、函館測候所となり、現・函館海洋気象台へと発展したのである。

中央に気象官署が設置されたのは、明治23年のこと。
名称は、中央気象台。初代台長は荒井郁之助。
彼は箱館戦争で明治政府軍と戦った、旧幕府軍(榎本軍)の海軍奉行の要職にあった人物。
獄中での猛勉強が活かされたのであった。

明治20年に、襄と八重は函館を訪れている。
このとき、イギリス人ポーターとは、病院で対面している。

江戸時代から近代明治へ。
多くのことが超加速をつけて、日本を駆け巡ったのだと思う。
翻弄されないように生きた人々は偉い、偉い。

次回の放映が楽しみである。




ミカエル


第789号 「八重の桜 ⑤」 記念碑位置の目印など

2013年04月01日 | テレビ番組
山本八重が兄のすすめで、兵庫・出石(いずし)藩士で日新館教授・川崎尚之助との結婚を決意したのは、目出度いことだ。
次回では、きっと祝言の席が放映されることだろう。
どんな宴席になって、出席者の顔ぶれがどうなのか?
1865年、八重が20歳。楽しみに待たれるところである。

一方の新島襄は、前年の1864年6月14日、箱館から密出国。
アメリカ船で上海へと向かった。
勉学のことで頭はいっぱい。異性のことなど考える余裕はなかったろうに。

この渡航の記念碑が函館港そばに建っているが、場所が分かりづらい。
元町公園から基坂を電車通りに下り、突き当りが海上自衛隊函館基地隊。



左折し旧函館西警察署方向へ進む。

すると左にこの洒落た建物が。店名の「JOE」は、新島襄にちなんだもの。
日中は喫茶。夜は居酒屋で繁盛しているようだ。
建築は明治18年ころで、レンガ造。アーチ窓枠がハイカラである。
この真向かいの細い道の突き当りに碑がある。





碑の左には、人工島「緑の島」に架かる新島橋が望める。



近くには、新島襄の立像が。
旧桟橋と金森倉庫群の中間地点。工事を中止したままのビルの向かいにある。



彼の箱館脱出時のイメージとしては、水戸黄門の同行者・助さん、格さんさんの町人風スタイル。こんなスタイルでもあったのだろう。
像の由来などがないのは、どうしたことか?
殺風景なまわり。建設の際に議論がなかったのだろう。

これから、ドラマが展開するにしたがって、訪れる方々が多いと思われる。
像の周囲、環境整備がなんとかならないものか?
物足りなさを感じている。


ミカエル

第788号 「八重の桜 ④」 教会での八重セミナー 大河ドラマのウラ・オモテ

2013年03月25日 | テレビ番組
NHKの日曜夜の大河ドラマ「八重の桜」で、函館はフイーバー。
なにしろ、主人公・八重の夫が新島襄だからである。
幕末に箱館から国禁を犯して海外渡航。話のネタには事欠かない。

1月に、函館放送局の主催で市民会館を会場に公開セミナー。
「新島襄・八重夫妻の北海道滞在ー人生で最も幸せな時間ー」というタイトル。
講師は同志社女子大学教授・吉海直人氏。満席だった。



今回の講演会の主タイトルは「新島八重の生涯」なのだが、副タイトルが「大河ドラマのウラ・オモテ」に人気があり、会場の教会礼拝堂は満席。
講師は、夫妻研究第一人者の同志社大学神学部教授・本井康博氏。











講師は顔の表情を変えずに、ユーモアたっぷりに語り、受講生をおおいに笑わせてくれた。
教授だけに話術の天才だ。

全国区では、認知されていなかった八重。
多くのドラマ主人公候補者を押し分けて、陽の目を見た理由は、あの東日本大災害。
「東北の復旧最適人は?そして女性なら誰?」という発想から八重の登場となった。

大河ドラマの主人公の決定までには、関係自治体・経済界からの強い働きがあるという。
署名活動やNHKへの陳情など考えられない動きが常態化とも。

ストーリーについてもこれからの内容が語られたが、それをこのブログに載せるのは、気が進まないので割愛させていただいた。

この教会は、もともとは西部地区にあったが、度重なる大火で移り、この地に落ち着いた。
「新島襄脱国の地に教会をぜひ!」という信徒の強い力が結集され、建設されたもの。
彼が上海で断髪した際の「チョンマゲ」の一部が保管されている。

一時間半にわたっての楽しい講義は、とても短く感じられた。
そして夜、教授のひとこと一言を思い浮かべながら、「八重の桜」を見ていた。

関係者の皆様、お世話いただきまして有難うございました。





ミカエル、

第787号 「八重の桜 ③」 新島襄と函館

2013年03月18日 | テレビ番組
昨夜の「八重の桜」のテレビ放映、長州藩が都に集結。緊迫した状況となってきた。



このころの八重の動向は手に取るように分かるのだが、将来の二番目の夫・新島はどんな人生を送っていたのだろうか?

新島襄は、現・群馬県下の安中藩士の子として生まれ、渡航前の名は「新島七五三太(しめた)」といった。
海外に新知識を求める志が強く、かねてから海外渡航を考えていた。
しかし、当時は出国はご法度で見つかれば極刑になるのは、長州の学者・吉田松陰の例により明らかだった。
そこで、失敗が少ないであろう蝦夷地・箱館港を選んだ。

彼が箱館にやって来たのは、1864年3月。
徳川から明治へと政権が変わる4年前であり、五稜郭竣工の年であった。

新島は、ロシア領事館司祭ニコライと親交を結び、日本語を教えながら脱出の機会を狙った。
また、イギリス商人が経営する商社で働く「福士成豊(後日再掲)」とも知り合った。
彼は新島が脱出するときの、大きな助っ人となったのである。

同年6月14日深夜、福士成豊(日本最初の私設気象観測所開設者)の助けを借り、現在の海上自衛隊函館基地(元の函館税関)あたりから小舟を漕ぎ出した。
舟底には変装した新島が伏せていた。
沖合いに停泊していたアメリカ船・ベルリン号へ。
船長の厚志に恵まれ乗船でき、国禁を犯した海外渡航は成功した。

船長から航海中「ジョセフ」の名で可愛がられたが、自らは「ジョー」と名乗り、
「襄」の字をあてた。

上海経由で渡米し、修学10年。明治7年に帰国した。
翌8年、京都に同志社大学の前身である「同志社英学校」を設立したが、明治23(1890)年、48歳の若さで没した。

新島が八重と結婚したのは、明治9(1876)年1月。32歳。八重は30歳だった。

現在、渡航記念碑の背後には、ヨット係留場があり、華やかな色の船がその体を休めている。

文中の「ニコライ司教」は、函館の老舗レストラン・五島軒の初代料理長・五島英吉氏とつながりがあったり、東京神田・ニコライ堂を建設するなど話題の多いロシアの人物であった。


ミカエル

第785号 「八重の桜」。箱館に会津藩のお屋敷があった

2013年03月11日 | テレビ番組
昨日は日曜日。夜8時からはNHKの大河ドラマ「八重の桜」を見るのが楽しみ。
この時間帯はこれまで、歴史上有名な人物が主人公。
しかし今回は、無名に近い「同志社大学開設者である新島襄の妻・八重」を。

彼女は会津藩武術家に生まれ、砲術やなぎなたに優れた才能を発揮していた。
今回の大震災で大きな災害を受けた福島県民を勇気づけるための企画だったのでは?

幕末の日本の揺れる政治模様、会津藩と京都が舞台。
京都守護職を命じられた藩主・松平容保。
その中に過去の大河ドラマ「新撰組」も登場させ、ストーリーを進めているのは憎い演出だ。
主演の「綾瀬はるか」さんの好演技も光ってきている。

ところで、幕末当時の箱館地図には、東北諸藩のお屋敷が見受けられる。
北海道は、「蝦夷」と呼ばれ、ほとんどが江戸・徳川幕府の直轄地。
蝦夷地に藩庁を置いていたのは松前藩のみ。
広大な蝦夷の警備には、この藩だけでは不安だった幕府は、東北諸藩にも警備を命じた。

現在の元町公園には、幕府直轄の箱館奉行所があった。
諸藩のお屋敷は、この周辺に建てられた。

奉行所に向かって左には、仙台藩、秋田藩、南部藩陣屋(旧NHK函館局舎用地)。
右には、会津藩、庄内藩とあった。

会津はここを蝦夷の本拠地として、どのように命令をこなそうとしていたのか?
興味は深い。

新島は群馬・安中藩江戸屋敷で出生。
大志を抱いて海外へ渡航するが、脱出の地として選んだのが箱館。
昨日のラストシーンには、「襄」が登場。

これからのストーリー展開に、目が離されない日曜の夜が続きそうだ。

今日で東日本大震災から2年。
皆様の一日も早い幸せが戻りますようにお祈りいたします。

ミカエ

第712号 結びとなったカーネーション

2012年04月03日 | テレビ番組
NHK朝の連続テレビ小説「カーネーション」が、先月31日で、目出度く
卒業、結びとなった。



慌しい朝のこの時間(我が家はいつでも、のんびりタイムなのだが)、
番組が始まると、きっとみんながテレビ前に集合かな?

今回の番組で、感動するシーンは、あまりなく、そのままで終了かな?と、
思っていた。

ところが、病院での催事で、一気に大きな盛り上がりをみせてくれた。
病院でのファッションショーは、奇抜な企画で、それに全力を傾けた主人公の
動きに感動を覚えた。

末期ガン患者を、ショーの「とり」に抜擢したのは、心広く深き配慮だと思った。
いよよショーがスタート。
見事に変身した患者さん。
それを見つめる、ご主人と二人のお子さん。
三人の心に焼きついた美しい妻・お母さんの姿がそこにあった。

舞台に上がった二人の子供をしっかりと抱きしめたお母さん。
手を振る子供たち。嬉しさと感謝の気持ちをいっぱいに表現していた。
この番組のクライマックスシーン。
そして、心に焼きつく美しいシーン
初めての「涙」。しばらく止まらなかった。

感激で、声が出なくなった主人公に。
その窮地を素早くサポートしたのが、ショーに批判的だった総婦長。
マイクを取って代わってナレーション読み。
この咄嗟的動作には思わず拍手。

老齢期を演じた「夏木マリさん」。
一時、セクシーさを感じさせたアイドルで、好きだった。
(私だってセクシーな時代もあったのだが(・・・笑)
それが、見事な演技とメークに驚いた。
方言では、さぞかしご苦労されたことだったろうに。

番組の底辺に流れる「だんじり」精神。
この祭りを目標にして一年を頑張って乗り切る市民たち。
まるで、ブラジルの「リオのカーニバル」の日本版かと。

ここ函館にも、「熱狂的祭り」が欲しいものだ。

出演者の皆様、制作スタッフの皆様、本当にご苦労様でした。

 


ミカエル

第645号 これぞ武士・中島三郎助を偲ぶ

2011年07月15日 | テレビ番組

先週、NHKTVで放映された箱館戦争のヒーロー”中島三郎助”。
いろいろと書きたいことがあって、筆をとった。

         

私が住んでいたのは、”中島町”。
箱館戦争が終結してから、彼の功績を後まで伝えたいと
いうことから町名にしたらしい。

小学校は”中島小”。本籍地も一時中島町に置いていた。

 

彼は、ぺりー来航時、浦賀奉行所の与力だったのだが、
その後、”幕府立
・長崎海軍伝習所”の一期生として入所した
エリートだった。

明治元年、3,000余の兵を引き連れて蝦夷地に上陸した
旧幕府軍のトップ”榎本武揚”。
榎本は、中島の一期後輩だった。

中島はもともとは、エンジニア。
幕末に江戸徳川幕府がオランダに建造依頼をした軍靴
”開陽丸”の機関長だった。

ところが、江差沖で暴風雪に遭遇し沈没。
その後、榎本軍の幹部を選ぶ選挙で
”箱館奉行並”に任命された。

任務は、現在の中島小学校や球場にあったと伝えられる
旧津軽藩の陣屋の守備。

本陣が置かれていた五稜郭を守るため、
官軍との交戦にあたることだった。
ここに、三郎助とその子2名らも立てこもり、壮烈な死をとげた。
父を信じ、父を尊敬し箱館まで来た二人の心境を思うと、
胸が裂ける。

         

刀や槍、鉄砲で傷つけられ、苦しんで
亡くなっていったであろう。
その戦いぶりを三郎助は、見ていたのか?
本人も、どんな思いで亡くなっていったのだろうか?

涙があふれて止まらなかった。

(写真はお借りしたものです。)



 

             






第639号 ”おひさま”に思う

2011年06月29日 | テレビ番組

NHK朝の連ドラ”おひさま”を観ていて、思うことがいっぱい。
このドラマの舞台は信州の安曇野、松本。

息子が勉学のため、長野市に向かったのは10年ほど前。
寄宿舎では自炊生活。
そこには、函館出身者もいたが、本人はホームシックに
かかり、弱い声で電話を寄こしていた。

”魚”のリクエストが多く、航空便で送っていた。
長野市内への宅配便は、何故か一日遅れの到着。
「着いたよ!有難う!」の電話に喜び、「どんな思いで箸を進めて
いるのだろうか?」と思った。。

「一度行って見ようか?」の声で、東京にいる姉の孫娘2人と
都内でおちあい、新幹線で
長野市へ向かった。
やはり新幹線。快適な乗り心地だった。

寄宿舎は広かったが古かった。
夏のクーラー無しの暑さ、冬には隙間風が入り、寒さには
こたえたと思う。
夕食は、息子と同宿者らとの好きなレストランで大会食。
{美味しかったよ。楽しかったよ」と、言ってくれた。

泊まるとこは予約してなかったので、苦労した。
結局、古めかしい和風旅館に。
20畳ほどの部屋に孫と4人でごろ寝。

次ぎの日は、定期観光バスで名所巡り。
安曇野のわさび園、チーズ工房、ハムソセージ工房などを
巡ったが”わさびおやき”にはびっくり。
アルプスの山並みの美しさに感動した。
松本市内は、100円バスで巡ることにし、松本城
(別名烏城)は、火器の博物館。
良く手入れされた鉄砲、拳銃に感心した。

”おひさま”は、終戦を迎え、これからどんな展開を
してゆくのだろうか?
息子の想い出、信州旅行の想い出とも重なって、
ミケと二人で楽しみに観ている。


               






第638号 テレドラ”新選組血風録”終幕に思う

2011年06月24日 | テレビ番組

毎週日曜日の午後6時45分から、BSNHK3チャンネル
で十数回にわたって放映されていた”新選組血風録”が
19日で終幕となった。

白黒テレビ時代にも放映されていて、大の新撰組ファンである
私は欠かさず観ていた。
その当時の土方歳三役は、函館とご縁のある”栗塚旭さん”。

大きな目、厚い唇、堂々とした体格で役どころとして相応しい方だった。

 

近藤勇亡き後の新撰組を背負って闘いに挑んでいた姿は
最後の武士像として誉れ高き人生の終焉を迎えたのかも。

明治2年5月、土方歳三らの戦死によって戊辰戦争の終焉の戦・箱館
戦争は終わった。
土方歳三の遺体の埋葬地については、いろいろ推察されているが、
私としてはやはり”五稜郭説”を支持したい。

8年ほど前だったと思う。
五稜郭タワーが開業記念行事として、土方歳三の立像を造って
敷地内に展示してくれた。
像の制作者は、函館出身でローマ在住の”小寺真知子さん”。
その展示を記念して、”トークショー”が行われた。

出席者は、
①土方歳三を狙撃したといわれる松前藩士・八番小隊司令・
米田幸治の末裔の方。
②土方歳三資料館長・土方陽子さん。
③俳優の栗塚旭さん。
④彫刻家の小寺真知子さん。

これ以上のお名前を揃えることができないほどの超デラックス版。
土方歳三の秘話語りに耳を傾けた。
土方陽子さんは、「悲しい出来事ですね」と結ばれた。

土方歳三を撮影したスタジオは、焼失。
八幡坂に基礎の石垣だけが残っている。