ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第89号 GO!GO!老舗レストラン・五島軒が五稜郭タワーに出店

2007年01月30日 | 美味満足技処、買い物処

所在地=函館市五稜郭町43番9号に出店

              
                   (末広町の五島軒本店)

函館市末広町にある「老舗レストラン・五島軒」が新装なった五稜郭タワー2階に進出することになりました。

本店に来られるお客様の半数がカレー目的で、夏の観光シーズンには一時間待ちも珍しくない盛況ぶり。
そこで、若山社長は混雑緩和策を検討中でしたが、初代料理長「五島英吉氏」が、五稜郭に立てこもった榎本軍兵士だったこともあって、そこに近い同タワーを選んだと言います。

提供メニューは、5~6種のカレーのみで席数は約60の予定。
素晴らしい眺望を目で楽しんだあとは、老舗レストランの世界のカレーを舌で楽しむことができ、函館の想い出がより一層深まる嬉しいニュースです。
4月のオープンが楽しみに待たれますが、相乗効果で「五+五」が10以上の成果になるよう期待します。

           「五島英吉氏」を詳しく知りたい方はここをクリック                      

                     ミカエル 

 


第88号 義経伝説 船魂神社

2007年01月28日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市元町7番2号

 

創建は保延元(1135)年に観音堂を建てたのが始まりといわれ、道内一歴史が古く、義経伝説ゆかりの神社でもある。
古書には「船魂大明神、本地観世音菩薩」と書かれている。

元町の教会通りを公会堂方向へ進み、チャーミーグリーン坂(八幡坂)、西高校を過ぎ一本目の十字路を左折(函館山に向う)すると鳥居と本殿が見える。
不思議なことに、ここ元町には世界の宗教が集まっているが、違和感を感じさせない調和ある街並みになっている。
これが、函館の大きな魅力だとも思う。

津軽海峡は、海流の激しいところで海難事故が多かった。
そこで、海上安全を願って神社を祀った。
社殿は、1745年、1848年、明治40年、昭和2年と建てられたが、現在の社は昭和37年の鉄筋コンクリート造で、境内面積は約1,800㎡。
鳥居の寄進者名には、市内の海運業者の名が刻まれており、船と港湾作業に従事する方々の安全を祈願していて、まるで北海道の金毘羅様といった感じがする。

義経が蝦夷地に渡り、さらに大陸に渡って「ジンギスハン」になったという壮大なロマン伝説を具現化するためには、「津軽海峡を渡った説」は必需。
義経が1190年、津軽海峡渡海の際、海が荒れたが船魂明神の加護で無事を得ることができた。
上陸後お礼のためにこの神社に参拝、喉の渇きを癒すため水を探すと、子供が現れ岩上に湧く水を教えてくれた。これが、明神様の水だったという説で、この岩が「童子岩」として境内にある。
こうして、北海道に残る17の義経伝説は、スタートを切るのである。

                    ミカエル


 


 

 


第87号 哀れ、遊女の供養碑・有無両縁塔

2007年01月26日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市船見町23番2号(地蔵寺境内)

                 

この塔は、元治元(1864)年、五稜郭が完成した年に、当時の遊郭の経営者たちが引き取り手のない遊女などを供養するために合同で建てた供養碑である。

かって山の上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があり賑わっていたが、箱館奉行が安政5(1858)年に、一画を山の上遊郭と公認してからは建物の豪華さを競うようになった。
翌年、箱館が国際貿易港として開港してからは全国各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊郭も一層の賑わいをみせた。

慶応元(1865)年の記録によれば、遊女屋25軒、遊女の数329名、引手茶屋21軒、異人揚屋1軒、男芸者5人、女芸者113人とある。

この塔は、開港という新しい時代の陰に、遊郭で働き、そこで生涯を終えざるを得なかった悲しい女性たちがいた事実を伝えている。
それにしても、身売りされた娘さんが家族と別れるときの心境は、どんなものであっただろうか。
時代劇の哀れな哀れなひとコマが浮かんできた。

                   ミカエル

 

 

 

 

 

 


第86号 蝦夷地警備殉死者・南部藩士の墓地

2007年01月23日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市船見町23番

 

「モーリエ」のすぐ傍、外人墓地通りに面し、この墓地はある。
南部藩(盛岡藩)は、前後2回蝦夷地警備で藩士を送り込んでいる。

最初は寛政11(1799)年。
幕府は松前藩から東蝦夷地を取り上げ直轄地とし(5年後には西蝦夷地も)、施政下に置き、警備を南部、津軽に命じ、両藩はそれぞれ500名ほど派遣した。
南部藩は元陣屋を箱館(現・函館山ロープウエイ山麓駅駐車場)に置き、根室、国後、択捉に勤番所を設けた。
その後、蝦夷地は松前藩に返還されたため両藩藩士は帰藩した。

二度目は安政元(1854)年でペリー来航の年、箱館開港の前年であった。
幕府は再び蝦夷地を直轄地とし、東北諸藩に警備を命じた。
南部藩は、箱館から幌別(現・登別市)までを区域とし、600余名が勤務、この警備のため10万石から20万石に加重された。
幕府が倒され明治政府が誕生すると、箱館府が置かれ蝦夷地施政を担うことになり東北諸藩は帰藩した。

この間、生野菜等不足の極度の栄養失調と凍傷が主原因の病、それと事故で多くの藩士が異郷の地で亡くなった。
明治39(1906)年から盛岡出身の有志で慰霊を続けてきたが、墓石や碑が散在し荒廃していくのを憂い、昭和12年にこの地に集め12名の藩士を祀った。

函館には先記の元陣屋のほかに、旧函館区公会堂の傍に箱館奉行所と連絡をとる藩屋敷も置かれ、元陣屋横の坂は南部坂としてその名が残る。
盛岡中央図書館には、何故か五稜郭の設計図もあり函館とは深いつながりがある。

北海道は、南部藩を始めとする東北諸藩の警備によって外国の侵略を防止できた。この功績は大きく、維新後は開拓使が屯田兵制度を導入し開拓と警備の両輪で
施政を行なった。
私ども道民は、北海道の礎となった多くの藩士の苦闘を忘れてはならない。
そして、付近を通ったら手を合わせる心が欲しいものである。

                     ミカエル

 

 

 


第85号 外人墓地通りのおあしす・モーリエ

2007年01月20日 | 美味満足技処、買い物処

所在地=函館市船見町23番1号
           

 

外人墓地の撮影を終えたのは1時半、少し早かったがお茶タイムに。
かねてから行きたいと思っていた「カフェテリア・モーリエ」は、外人墓地通りのオアシス的存在でプロテスタント墓地の横にある。

店主の湯谷ご夫妻とお話しすることができた。
「私達は情緒あふれ、見どころたっぷりの函館の町に移住するのが夢でした。
幸いこのお店が空いているのを知り決心しました。
二人力を合わせアット・ホームなおもてなしをし、訪れるお客様と函館の町を語り合いながら楽しく暮せたらと思っています」。
笑顔溢れるお二人はこう語って下さった。

窓際の席に腰を下ろす。
キラキラ輝く青い海、行き交う船、遠くに道南の秀峰・駒ケ岳を望める絶好の
ロケーション。だから、テレビロケに使われたり、旅本で取り上げられるのだ。
夕陽もきっと素晴らしく、心を洗われるに違いない。

注文のコーヒーが運ばれた。香りと味は景色に溶け込んで一層奥深く感じる。
「おかわりが入ってますので、どうぞ!」。ポットには保温カバーがかけられ細やかな心くばりも感じられる。
数多いメニューの中から「お薦めはピロシキ、ロシアンティーです」と仰る。

店内に置いている「旅思い出ノート」には、訪れた方々の書き込みがぎっしり。
再度訪れこれを見たとき懐かしさは倍増する。
函館に早く溶け込みたいという思いから「函館野外劇」のお手伝もされ、休日には
所有するクルーザーで海との触れ合いも楽しむお二人、新天地での人生は
「きらめき満開」のように見えた。

モーリエでのゆったりとした癒しのひと時は、静かに流れていった。

営業時間=11:00~19:00(夏期 20:00迄)  定休日=毎週日曜日  
☎ 0138-22-4190

                      ミカエル

 

 

 

 

 

 


第84号 外人墓地(その3・ロシア人墓地 

2007年01月18日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市船見町23番

           

門柱には、「ハリストス正教会在日ロシア人墓地」と記されているが、数年前にはなかった看板である。
外人墓地の結びとなったこの墓地が、ロシア人墓地として公式に認められたのは、
明治3(1870)年に当時の開拓使函館支庁と在函5ケ国領事との間で外国人墓地に関する協定が締結されてからのこと。
プロテスタント墓地、中国人墓地の向かい、北隣に民家、南隣には曹洞宗・地蔵寺がある。

最も古い墓は、1859年6月29日(露歴)の軍艦・アスコリダ号航海士のもの。
現在、この墓地には、ロシア軍艦の乗組員25名、白系ロシア人7人など全部で43基
の墓がある。
その中には、初代箱館領事・ゴシケーヴィチ夫人や領事館付属聖堂の司祭補助者
(祈祷文を読む)で、のちに魯学校の教師として活躍したサルトフも葬られている。、
中央には聖堂があり、ロシア要人が函館を訪れるときやミサなどに使われる。

故国から遥かに離れた異国の地で天に召された方々、海が見えるこの地で安らかに眠って欲しいと願うばかりである。
3回シリーズでご案内した外国人墓地はこの号で完結です。

  暖かく雪が少ない過ごし易い日が続いています。
この天気は全国的状況だそうですが、地球温暖化の影響では?
雪が少ないのは生活面では非常に嬉しいことですが、冬祭り用の雪不足で嘆いている実行委員会もあります。
それと心配なのは渇水期の水不足、それなりに計画的に降って欲しい雪、そのうち
ドカーンの大雪は困りますが・・・。

                   ミカエル

 


第83号 外人墓地(その2・中国人墓地)

2007年01月16日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市船見町23番

 

この墓地は、「函館中華山荘」といいプロテスタント墓地に隣接している。
低めの重厚なレンガ塀を回し、普段は門扉を閉じているが、撮影した日はたまたま開いていて中を見ることができた。

函館には幕末から中国人が住み始め、大半は海産物の貿易に携わっていた。
墓地は明治9(1876)年に青森県に漂流した中国人の遺体を埋葬するために、開拓使から土地を借りたことから始まる。
当初の面積は約600㎡しかなかったが、大正8(1919)年に隣接地を買収、約1,500
㎡となり、この時レンガ塀をまわし現在の姿になった。

墓地内には総檜瓦葺の祠堂があり「中華義塚」と彫られた石碑、炉跡などがある。
代々華僑団体が管理を行なっており、毎年、清明節(春分後15日目)と中元節
(旧盆)には、紙銭を焚いて先人の冥福を祈っている。
この様子は、地元テレビで放映される。
3箇所の外国人墓地のなかで、唯一管理人住宅が敷地内にあり、墓石は右写真のとおり、現在一般墓地でもよく見られる低めの建立方式になっている。

 今朝の函館は前夜に降った雪が5㎝ほど、朝日が雪に反射して町が煌いています。最高気温は+1℃の予報、道路の雪は午前中には消えることでしょう。
元日から我家の玄関前に飾っていた「舞玉」は、これから下げます。
縁起物を外し枝は雪山にさします。
米粉で作った玉は小鳥の大好物。
餌の少ないこの時期、ついばむ姿を居間の窓から見ていると心が和みます。

                      ミカエル


 


 


 

 

 


第82号 外人墓地(その1・プロテスタント墓地)

2007年01月13日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像


所在地=函館市船見町23番

            

第81号でご紹介した龍寺前から函館山方向に進む。
車でも歩いても5分とかからない。一方通行、駐車場なしを考えれば歩きがお薦め。
外国人墓地とは、プロテスタント、中国、ロシアの三墓地の総称である。
今回は、プロテスタント墓地をご紹介したい。

もともとここは、荼毘所(だび)と呼ばれ火葬場であった。
安政元(1854)年にペリー艦隊が箱館に入港した際、バンダリア号の二人の水兵が死亡、その埋葬場としてこの地を提供したのが始まりとなった。

翌年の開港から外国人が住むようになり、死亡者も増える傾向になった。
明治3(1870)年、在函5カ国の領事から、埋葬地提供と墓地永久保全の嘆願書が開拓使長官に提出され、正式にこの地を外国人墓地と定めた。

写真は背面から撮ったもので、正門扉が海側にあるが入ることはできない。
墓石は全て海に向かい、母国を偲べるように配慮し建立された。
最近は殆ど見ることはなくなったが、アメリカの航空母艦が入港すると、港からここまで華やかな軍楽隊パレードがあり、墓前で礼砲、敬礼を組み込んだ式典が行なわれる。
異国で亡くなった方々のご冥福を祈りたい。

 今日の午後、ユラーリ、ユラーリーと揺れ出し、めまい?と思いました。
が、室内の植木も揺れたので地震だと。
それにしても揺れが長く、大きいのがドーンと来るのでは?不安でした。

                    ミカエル

 

 

 

 


第81号 会津藩士の慰霊碑がある龍寺

2007年01月10日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市船見町21番11号

 

いよいよ寺町界隈にある4山紹介の結びとなった。
道内一の伽藍を誇るこの寺は、曹洞宗・國華山龍寺といい、本山は福井県永平寺。1633年に当時の亀田村(現市内万代町)に建てられたのが始まりで、市内では現在まで続く寺院としては最も古い。
1706年、弁天町に移転、幾度の大火などのために建物を焼失、明治12(1879)年にこの地に移転した。

明治33(1900)年に完成した本堂はケヤキ、ヒバで建てられ、同43年に完成した山門(写真左)は総ケヤキ造りで、東北以北最大の山門といわれ細工した彫刻が見事。明治末期の貴重な木造寺院となっている。
幕末に勝海舟と親交があった渋田利右衛門や日本で最初に種痘を行なった中川五郎治など著名人の墓がある。
寺宝としては、松前藩家老・蠣崎波響の最高傑作「釈迦涅槃図」(道指定有形文化財)などを保有している。

  会津藩士の慰霊碑「傷心惨目」
明治2年5月11日の箱館総攻撃のとき、この寺は現在の市電通り(函館信用金庫弁天支店あたり)にあり、箱館病院の分院となって負傷者の治療にあたっていた。
会津藩士らが入院治療中、明治政府軍(松前、津軽)が入り込み、抵抗できないままの負傷兵10余名を斬殺、さらに寺に放火した。
碑は、旧会津藩士有志らによって明治13年に建立され、寺務所左にある。

箱館戦争時、欧州から医学と赤十字精神を修めて帰国したばかりの医師・高松凌雲は、榎本軍箱館病院院長としてその精神を発揮、敵味方の区別なく治療した。

度重なる火災被害対策として、右写真のように敷地堺の防火塀は、土蔵塗白壁とレンガ積みが連なり、和洋折衷の工法は開港地ならではの工法である。

幕末期の住職は、赤穂浪士の菩提寺である江戸高輪の泉岳寺に栄転している。
何かと話題が尽きない寺町界隈の4寺院の紹介は、ここで結びとなる。
墓地があるために、元町の教会群の賑やかさはないが、しっとりした落ち着きがあり、境内に自由に出入りできるのは嬉しい。
寺院街がない単なる城下町を、小京都と呼んでいる旅書物があるが、果たしてそうなのだろうか?時々、首を傾げたくなる。
この界隈は、間違いなく小京都の雰囲気がある。

  今朝の函館は、積雪5センチほどで、今季初の雪かきをした。
朝ごはんが美味しかったこと。
明日も出動かな?           ミカエル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 


第80号 白虎隊!青春の花、咲かぬままに・・・

2007年01月08日 | 我が家のもろもろ

正月の6日、7日の両日、「新春ドラマスペシャル白虎隊」が放映された。

もう10年ほど前にもなるが、秋の会津を訪れた。
鶴ケ城、藩校日新館、家老屋敷、白虎隊記念館、飯盛山を見学、会津戦争の悲惨さと会津武士の礼節・忠義心を深く感じた。
そんな思いとドラマを重ね合わせ見ていた。
要約すると、家の伝統的教育方針に素直に従った隊士、その子に向けた母親の愛情を描き出した作品だった。

十代の若者が、あのような背景のなか自ら命を絶ったのであるが、このような悲劇は太平洋戦争にもあり、まさに歴史は回転木馬のようだ。
鹿児島県・知覧町にある「知覧特攻平和会館」にその史料が数多く展示している。
幼顔の飛行兵が出陣前に家族に宛てた手紙は涙を誘った。
戦時中であるから粗末な紙にぎっしりと書かれた最後のことば、笑顔の写真。
帰りの燃料はない飛行機に、体当たり用の爆弾を抱え、南方沖にたった一人でで飛び立った心境を考えると涙が頬を走った。

現在の「平和な国日本」は多くの人達の犠牲・苦労の上に成り立っていることを忘れてはならない。
安易に人を危める事件が多くなっている近頃は、先人達の心を踏みにじるようで恥かしい思いがする。

飯盛山で自決した隊士のうち、ただ一人蘇生した「飯沼貞吉(1854~1931)」は、
どのような人生を送ったのか?まとめてみた。
「貞雄」と改名し、72年工部省へ入省し電気通信技術の研修を受け、下関を振り出しに全国各地で勤務した。
50歳の時、逓信省(旧郵政省)仙台から札幌郵便局工務課長に赴任、1910年仙台逓信管理局工務部長に栄転、1913年に退職、同地で余生を送ったが77歳で死亡。墓地は同市北山の輪王寺にある。

通信技術者の道を選んだのは、城下火災を鶴ケ城火災と誤認し、それが自決原因になったことから、正確な情報伝達の大切さを痛感したからではないだろうか?
札幌勤務時、ハイカラーワイシャツ、ネクタイ姿は喉の傷跡を隠すようにしていたのでは?とも憶測された。
好奇の目で見られる事を避け、生涯昔のことは語らなかったとも言われる。
号を「孤虎」といい短歌を詠んだ。
「すぎし世は夢かうつつか白雲の空に浮かべる心地こそすれ」
                   ミカエル

大型低気圧の被害はありませんでしたか?
函館は満潮と強風が重なって、赤レンガ倉庫群前道路が海水で15センチほど冠水しました。
今朝は静かな青空が広がり、雪もすっかり消えアスファルト路面が顔を出し、新成人の門出を祝っているようです。
                   ミカエル

 

 

 

 

 

 

 


第79号 どんど焼き

2007年01月07日 | 我が家のもろもろ

今朝の函館は、湿った重い雪が5センチほど積もり水墨画の世界。
今冬一番の積雪量になりましたが、暖かいので夕方までには消えてしまうでしょう。

 

今日は七草、どんど焼の日でもありますね。
お正月に玄関などに下げた「しめ飾り」を近くの稲荷神社へ持って行き、
「おつとめ、有難うございました」と声をかけ神火へ添えました。

このお社、あたりがのどかな純農村地帯であったころからある村の鎮守様。
40年ほど前から宅地化が進み、さらに市・道営住宅団地が建ってからは水田も畑も激減。でも、この境内には当時の木立が残り静寂な佇まい、夏場は多くの子供達が「かくれんぼ」などをやる格好の遊び場になっています。
右写真の右手丘を越えるとトラピスチヌ女子修道院です。

北海道は明治2年から本格的開拓が始まり、旧藩単位で入植しましたから習慣がそれぞれ違い、どんど焼を小正月にやる地域もあります。帰りに本殿に参拝、今年一年の無事を祈りました。

  昨夜に引き続いての「白虎隊」、家族皆で見る、みる、ミル。

                     ミカエル

 

 

 

 


第78号 土方歳三らの供養碑がある称名寺

2007年01月04日 | 新撰組

所在地ー函館市船見町18番14号 (しょうみょうじ)

 
(左写真の三門を入ると正面に写真右の本堂があり1mほどの供養碑が傍にある)

開基は正保元(1644)年、亀田村(現八幡町)に阿弥陀庵を建てたというから、市内では龍寺に次ぐ古い寺院。
1655年阿弥陀堂と称したが元禄3(1690)年、松前の浄土宗・光善寺の末寺となり
称名寺と改称し、1755年箱館の富岡町(現弥生町)に移転した。

箱館奉行が交代のさいはその仮本陣となり、箱館開港当初はイギリスとフランスの領事館に利用され、明治元、2年の箱館戦争では新撰組の仮本陣にもなった。
当時の大きな建物といえばお寺。なにかあるとすぐに強制的に協力を求められた。

現在地に移転したのは明治14(1881)年であるが、たびたび火災に遭い、昭和14年に本堂が、昭和37に三門(山門)が鉄筋コンクリート造に建替えられた。

境内には箱館館主・河野政通(別号で紹介)の供養碑、高田屋嘉兵衛の顕彰碑と一族の墓、新撰組・土方歳三ら隊士の供養碑、北海道最古の石碑「貞治の碑」、新島襄の海外渡航を助けた福士成豊の墓、社会人野球チーム・函館太洋クラブの久慈次郎の墓があり、ほかにも多くの著名人が眠る。
現在のご住職は有名な郷土史家で、各所の郷土史講座の講師を務め著書も多い。

※ 土方歳三ら新撰組隊士の供養碑
土方ゆかりの東京都日野市金剛寺の過去帳には、「函館称名寺に供養碑を建てた」と記している。
称名寺は明治期の大火で3度も焼失し、供養碑はなくなった。
そこで昭和48年、有志が現在の碑を建て5名が刻まれているが、風化激しく難読。
土方歳三   明治2年5月11日 箱館一本木で戦死
野村利三郎  明治2年3月25日 宮古海戦で戦死 
糟屋十郎   明治2年5月11日 箱館弁天台場で戦死(箱館新撰組)
栗原仙之助  明治2年5月11日 箱館弁天台場で戦死(箱館新撰組)
小林幸次郎  箱館戦争終結後謹慎中に病死(箱館新撰組)

 三が日も過ぎて、ミカエルブログは今日から本来内容のスタートです。
よろしくお願いします。
そろそろ、「納豆、塩鮭、漬物」を胃袋が求めていますが、皆様は如何ですか?

                    ミカエル


 

 

 

 

 


第77号 おめでとうございます。

2007年01月01日 | 我が家のもろもろ

 新年明けましておめでとう御座います。
本年も皆様のご訪問を心からお待ちしております。
どうぞ宜しくお願い致します。
ここ函館は雪の無いお正月を迎え、夏靴で初詣へ向う姿も見受けられます。
このブログ、年の初めに相応しい「7並び」の号数、きっと皆様に大吉が・・・。

           
 (舞玉です。枝についている玉は米粉で出来ていて中は空。ほかは縁起物です。)

我家では、例年、玄関前に舞玉(まいだま)を小正月まで飾ります。
その後は飾り物を外し、庭の雪山にさして置きますと小鳥がやって来て食事会。
それを居間の窓から見ていると心が和みます。

一般的には「繭玉(まゆだま)」と呼んでいるようです。辞書には、
「柳などの枝に、まゆの形に丸めた餅や米の粉のだんごを多数つけたもの。
まゆの豊作を祈って小正月に作った。
のちに正月の縁起物として商家などでも飾る」とあります。
皆さんのお住まい地にも、このような風習があると思いますが・・・。

さて、これからのご紹介コースをお知らせいたします。
現在連載中の寺町通りの次ぎは外人墓地です。そこから港まで下りてベイエリア、銀座界隈、朝市、JR函館駅、そして五稜郭へと足を運ぶ予定です。
途中、美味処などへ寄り道をしたりして・・・・。

寒さが厳しくなってきて、シャッターを押す指感覚が鈍りますが、持ち前の若さ(?)で乗り切り投稿します。ぜひお立ち寄り下さい。

紅白歌合戦のトリ・北島三郎さん、気合が入っていて見応えがありました。

                   ミカエル