ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第849号 青函連絡船の想い出

2014年03月05日 | 乗り物
いま、JR北海道は安全点検業務において、手抜きが指摘され、
大きな社会問題になっている。
企業としての信頼性が失われている。

こんなとき、私が思い出すのは、小学生のころの
旧国鉄青函連絡船のことだ。




早朝の4時台、函館の町に「ボー、ボー」という音が鳴り響く。
それは、連絡船岸壁に着岸した青森からの一番船の汽笛だった。

当時の連絡船の煙突は4本で朱色に塗られ、黒い煙をもくもく。
この音を待っていたかのように、駅前・大門地区は動き出した。
下船口から吐き出された乗客は、二手に別れた。
プラットホームに停車している奥地へ向かう急行列車へと足を速める乗客。
飛行機が発達するまで、函館は連絡船の到着に合わせて道内奥地へ向かう長距離列車で賑わっていた。

もう一方の列は桟橋出口へ向かう人たち。
この列の主役は「しょいっこさん」とか「担ぎ屋さん」と呼ばれた女性たち。
タオルで鉢巻をしたおばさんの集団だ。

自分の体重の倍はある米を担いで「よっこらしょ、よっこらしょ」と
体を重たそうにしなら足を運ぶ。
モンペの着物姿は汗まみれだった。

出口には大型犬数頭をつないだ「犬リヤカー部隊」が待機。
1個何円かで運搬を請け負っていた。
今でいうところの「軽トラック運送」のはしりだった。
配送先は、旅館、すし屋、食堂、朝市界隈の米屋など。

 一時期、この米は「ヤミ米」の烙印が押され、
警察当局の摘発を受けることになった。
逃げ遅れて捕まり、大声で泣き叫ぶおばさん。
一家の大黒柱として家計をやりくりし、
我らの空腹を満たしてくれたのに・・・。

米を没収されしかも留置。
どうしようもない悲しい場面を見た。
あまりにも潔癖な裁判官がいて、
「ヤミ米は食しない」と言い張り餓死した、笑えない話もあった。

私は桟橋近くに住んでいた。
夏には、犬の主人は日陰で休息。犬たちは日が当たる場所でぐったり。
私はこの犬が可愛くて「おじさん、水や餌をやってもいいかい?」。
「頼むね」の返事。
近くの食堂の残飯を持って行くと「ガツガツ」とあっという間になくなった。
行けない日があり、数日振りに姿を見せると「クンクン」と
鼻をならしながら尾を振って、「待っていました」の歓迎動作。
思わず体を撫でた。

やがて、この地区から離れて本町へ引越し。
これらの風景とはお別になった。
そのうち米の流通経路が変化し、
また運搬手段もオート三輪車や軽自動車へと急速に移行していった。

係留されている連絡船・摩周丸を見るたびに、
「もんぺ姿のしょいっこおばさんたちと犬リヤカー」を思い出す。


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第700号 津軽海峡冬景色・青函連絡船を懐かしく観る。

2012年02月08日 | 乗り物
昨日は暖気が押し寄せ、しかも雨が伴っていた。
それが夕方には急に冷え込み、暴風雪が吹き出した。
「これは、積もるな?」と感じた。

夜のテレビの歌謡番組。
トップを飾ったのは石川さゆりさん歌う「津軽海峡・冬景色」。
「そうだ、明日は旧青函連絡船」を見に行こう」と予定。

明けて今朝は、案の定、吹き溜まりができて、雪かきが必要。
朝食前にこの作業をこなした。

60数年前の今頃、家族3人で内地へ旅行したことがあった。
行きはまあまあの天気であったが、帰りは猛吹雪。
函館岸壁が近くなって、接岸を助けるタグボートが接船した。

窓からはボートの乗組員の顔がはっきり見えた。
息子は懸命に手を振って作業を応援。
すると、乗組員も応えるように手を振ってくれた。
この優しい心配りに、息子も私らも感激。
津軽海峡冬景色の忘れられない一コマだった。

かなりの久し振りで旧青函連絡船・摩周丸と対面。
桟橋に、機関を取り外されて静かに体を休めていた。

 

現名称は、函館市青函連絡船記念館。
懐かしむ人々や修学旅行生らが入館しているという。

 

これはデッキ。
新婚旅行の際には、ここに立たされ、悪友からのひやかしにガマンの二人の姿が、
微笑ましかったものだ。

 

船内案内所。
就寝、起床、乗船名簿配布、接続列車の案内放送などが主たる業務。
その他、旅行者の万相談所でもあった。

 

船室を改造して設置された「船のしくみ」コーナー。
小さな船舶博物館のようだ。

 

普通椅子席。我が家はこのクラスの常連だった。

 

グリーン指定椅子席。見ただけでハイクラスなのがうかがえる。

 

普通座席。
子供連れの家族やお年寄りには人気があった。

 

改造してできたサロン。
飲み物、記念品などを販売。
無料で休憩ができ、備え付けのパソコンで連絡船の学習ができる。

 

ここで見つけたのが、昭和29年の「洞爺丸沈没の号外」。
悲惨な出来事を改めて思い浮かばせた。

 

船の心臓部にあたる「操舵室」。
通常の航海時は3人でその任にあたった。

 

 

隣にあるのが「無線通信室」。
色々な情報を受け、航海士へ伝えた。




吹雪の海を見ながら食べた「海峡ラーメン」。
なんとも言われぬ美味い味と温かみが伝わってきたものだった。
食堂のスペースは残っているが、立ち入り禁止は残念だった。

見終わって外に出た。
陽はさしていたが、強風に激しく舞う雪は、体を小さくさせた。
冬の海峡航海は、さぞかしご苦労が多かったことと思う。
「乗組員の皆さん、本当にご苦労さまでしたね」。
つぶやかずには、いられなかった。

~♪~北へ帰る人の群は~♪~誰も無口で~♪~・・・ 
と、口ずさみながら我が家へ車を走らせた。
「有難う、摩周丸」。


今回でこのブログは700回を迎えることができました。
これもひとえに、皆様のご訪問のおかげと感謝しております。
とりとめのないテーマ、粗文、下手な写真が重なって、申し訳なく思っております。
今後とも、ご来訪のほど、よろしくお願いいたします。
応援、誠に有難うございます。


ミカエル



 







 

第563号 エッセイ~青函連絡船の想い出

2010年09月16日 | 乗り物

早朝の4時台、函館の町に「ボー、ボー」という音が鳴り響く。
それは、連絡船岸壁に着岸した青森からの一番船の汽笛だった。
当時の連絡船の煙突は4本で朱色に塗られ、黒い煙をもくもく。
この音を待っていたかのように、駅前・大門地区は動き出した。

  

下船口から吐き出された乗客は、二手に別れた。
プラットホームに停車している奥地へ向かう急行列車へと足を速める乗客。
飛行機が発達するまで、函館は連絡船の到着に合わせて道内奥地へ向かう長距離列車で賑わっていた。

もう一方の列は桟橋出口へ向かう人たち。
この列の主役は「しょいっこさん」とか「担ぎ屋さん」と呼ばれた女性たち。
タオルで鉢巻をしたおばさんの集団だ。
自分の体重の倍はある米を担いで「よっこらしょ、よっこらしょ」と体を重たそうにしなら足を運ぶ。モンペの着物姿は汗まみれだった。

出口には大型犬数頭をつないだ「犬リヤカー部隊」が待機。
1個何円かで運搬を請け負っていた。
今でいうところの「軽トラック運送」のはしりだった。
配送先は、旅館、すし屋、食堂、朝市界隈の米屋など。

一時期、この米は「ヤミ米」の烙印が押され、警察当局の摘発を受けることになった。逃げ遅れて捕まり、大声で泣き叫ぶおばさん。
一家の大黒柱として家計を遣り繰りし、我らの食卓のご飯として運んでくれたのに・・・。
米を没収され留置。どうしようもない悲しい場面を見た。

あまりにも潔癖な裁判官がいて、「ヤミ米は食しない」と言い張り、餓死した笑えない話もあった。

夏には、犬の主人は日陰で休息。
犬たちは日が当たる場所でぐったり。
私はこの犬が可愛くて「おじさん、水や餌をやってもいいかい?」。
「頼むな」の返事。
近くの食堂の残飯を持って行くと「ガツガツ」とあっという間になくなった。

行けない日があり、数日振りに姿を見せると「クンクン」と鼻をならしながら尾を振って、「待ってました」の歓迎動作。思わず体を撫でた。

そのうち米の流通経路が変化し、また運搬手段もオート三輪車や軽自動車へと急速に移行していった。

係留されている連絡船・摩周丸を見るたびに、「もんぺ姿のしょいっこおばさんたち」と「犬リヤカー」を思い出す。

 


(懐かしい西田佐知子さんの歌がお聴きになれます。左上の菊正宗CM中、下から3行目、左端ボタンをクリックしてください。)


          

 


第560号 懐かしの市電

2010年09月07日 | 乗り物

ほとんど利用しなくなった市電。
でも、7月から始まった「まちあるきガイドセミナー」の受講で、利用する回数bが大幅に増えた。

会場の旧丸井今井百貨店(現・まちセン)は、駐車場が少ないこともあるのがその原因。
十字街という地の利もあって下車3分の近さ。
やはり、昔のデパートは今でも便利さはそのままだ。

  

就職して間もない頃、母が作ってくれた弁当での思い出。
ほっかほっかの熱いご飯に載せてくれた「沢庵」。
このにおいが電車中に広がり、恥ずかしさで途中下車した。
紅顔華麗な美少年(?)にとっては、我慢の限界だったのだと思う。(母には申し訳なかったのだが)。

当時の市電は3人乗務。
運転士、車掌2人。
通勤時間には、交通局に勤務されているご主人への「お弁当」を運転士へ託していた奥さんの微笑ましい場面もあった。

通勤券は、幅5ミリほどの一日2枚綴り。
往復より利用できない仕組みだった。

今はワンマンカーでCMいっぱいのカラー電車。
「ゴト ゴト」と音を響かせ町を走っている。

まちセンのご案内はこちらからどうぞ!


               


 


第381号 青函連絡船の思い出 その2

2009年04月24日 | 乗り物

今年、函館は横浜などと共に開港150周年を迎えます。
市役所をはじめとする団体は諸行事を立案中で、夏にはそれらが実行へ。
この行事の一環として、地元放送局が「青函連絡船の思い出」を募集。
私は、行事に何らかの形で参加したいと思っていましたので、3月末の投稿に続き2回目の投稿をすることにしました。

                   (就航当時の摩周丸)

 

               青函連絡船の思い出 その2

早朝の4時台、函館の町に「ボー、ボー」という音が鳴り響く。
それは、連絡船岸壁に着岸した青森からの一番船の汽笛だった。
当時の連絡船の煙突は4本で朱色に塗られ、黒い煙をもくもく。
この音を待っていたかのように、駅前・大門地区は動き出した。

下船口から吐き出された乗客は、二手に別れた。
プラットホームに停車している奥地へ向かう急行列車へと足を速める乗客。
飛行機が発達するまで、函館は連絡船の到着に合わせて道内奥地へ向かう長距離列車で賑わっていた。

もう一方の列は桟橋出口へ向かう人たち。
この列の主役は「しょいっこさん」とか「担ぎ屋さん」と呼ばれた女性たち。
タオルで鉢巻をしたおばさんの集団だ。
自分の体重の倍はある米を担いで「よっこらしょ、よっこらしょ」と体を重たそうにしなら足を運ぶ。モンペの着物姿は汗まみれだった。

出口には大型犬数頭をつないだ「犬リヤカー部隊」が待機。
1個何円かで運搬を請け負っていた。
今で言う「赤帽運輸」のはしりだった。
配達先は、すし屋、食堂、朝市界隈の米屋。

一時期、この米は「ヤミ米」の烙印が押され、警察当局の摘発を受けることになった。逃げ遅れて捕まり、大声で泣き叫ぶおばさん。
一家の大黒柱として家計を遣り繰りし、我らの空腹を満たしてくれたのに・・・。
米を没収され留置。どうしようもない悲しみを見た。
あまりにも潔癖な裁判官がいて、「ヤミ米は食しない」と言い張り餓死した笑えない話もあった。

私は桟橋近くに住んでいた時もあった。
夏には犬引き手主人は日陰で休息。犬たちは日が当たる場所でぐったり。
私はこの犬が可愛くて「おぢさん、水や餌をやってもいいかい?」。
「頼むね」の返事。
近くの食堂の残飯を持って行くと「ガツガツ」とあっという間になくなった。
行けない日があり、数日振りに姿を見せると「クンクン」と鼻をならしながら尾を振って、「待っていました」の歓迎動作。思わず体を撫でてあげた。

やがて、この地区から離れて本町・中央病院近くへへ引越し。
この風景とはお別になった。
そのうち米の流通経路が変化、運搬手段もオート三輪車や軽自動車へと急速に変化。
あの「しょいっこおばさんたち」は、どうしているのかなぁー。
接岸されている連絡船を見るたびに、思い出す「もんぺ姿のおばさんたち」である。


                    


 


第375号 青函連絡船の思い出

2009年04月08日 | 乗り物

今年、函館は横浜などと共に開港150周年を迎える。
市役所をはじめとする団体は諸行事を立案中で、夏にはそれらが実行へ移される。
この行事の一環として、地元放送局が「青函連絡船の思い出」を募集。
私は、行事に何らかの形で参加したいと思っていたので、3月末に下記のとおり投稿した。



青函連絡船の思い出

函館は連絡船とともに歩んだ町。
それだけに私の「思い出たんす」には「連絡船の引き出し」もある。
今回はその引き出しにある数々のファイルの中から「幸福の船出」を開いてみた。

昭和45年前後は同僚や友人が次から次と結婚。
夜の9時に祝宴がお開きになると、私を含めた悪友たちは駅前・大門での二次会へと繰り出した。
そこでまた飲み、そして語り合いもした。

午前零時近くになると腰をあげ、そろって連絡船桟橋へ向かう。
当時、真夜中零時台に本州行きの青函連絡船が二本あって、ほとんどの新カップルはこの船で新婚旅行へと旅立っていた。
行き先は熱海ブームが去って、九州宮崎や京都に替わっていた。

二人が桟橋待合室に姿を現すと、栄養ドリンク剤をぶら下げたレイをプレゼント。
やがて出航のドラが叩かれると、デッキに並んだ二人めがけて五色のテープが渡され紙吹雪もまかれ華やいだ光景は映画のワンシーンそのものだった。

「バンザイ! バンザイ! バンザーイ!・・・頑張れよー」と悪友たちの大声援。
二人は大いに照れていた。
一方、二人のご両親は、私どもに遠慮されてか後方の柱の陰に。
仲間が気を利かして「前の方へどうぞ!」。
「有難うございます。でも、こちらで見送りさせてください」と。
きっと、幼児のころの姿と今夜の華やかな姿を重ね、思い出に耽っていたのかも知れない。
「バンザーイ!頑張れよー」の大声は、船の灯りが闇に消えるまでしつこく続いた。

零時40分発の最終便が出航すると、駅前・大門のあちこちのネオンがひとつ消えまたひとつと消える。
ようやく動きが一段落した街は、早朝4時台の一番船を迎えるまで、つかの間の眠りについていった。

                    

 


第230号 お奉行も出張に使った~西洋型帆船・箱館丸

2008年02月18日 | 乗り物

幕末に、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊が箱館にやってきた。
その時に、かねてから洋船に興味を抱いていた船大工・続豊治(つづきとよじ)が、箱館奉行の命を受けて乗船、船内をくまなく検分し書面に残した。
(写真をクリックすると拡大できます。) 
(この船は、青函トンネルの開業を記念して開催された「青函博覧会」の時に復元展示されたもので、現在は大町の埠頭に置かれている。)
 
この図面と独学、創意工夫で得た知識を使い、安政4(1857)年に我が国最初の洋式帆船・箱館丸を造り上げた。
彼の造船所は、現在の赤レンガ倉庫群のあたりにあった。

完成すると、箱館奉行・堀利煕(ほりとしひろ)は、江戸出張にこれに乗船、出来具合を確認した。
続は60歳でこの船を完成させ、その後も2号船・亀田丸を造り上げ,ロシア・アムール河(オホーツク海流氷の源)まで航海した。
 
豊治には4人の子供がいた。
長男・七太郎の孫・フサさんは、函館市内にある老舗レストラン・五島軒の二代目店主(若山徳次郎氏)に嫁いでいる。
そんなご縁があって、「続豊治百年祭」が関係者を集め、昭和55年11月19日に五島軒本店で開かれた。
五島軒には、こうしたハイカラさを追求したご先祖を持っていたのだった。

この復元船は博覧会が終了してからは、野ざらし状態。
しかも、人目につかない場所に置かれている。
右写真の船首飾りは傷みが目立つようになってきた。
管理している市役所港湾空港部の、展示ビジョンが見えないのは寂しい限りだ。

                   


第222号 地球に優しい乗り物~函館市電

2008年01月28日 | 乗り物

今回は、地球温暖化防止に役立つ路面電車をご紹介。
函館の路面電車の歴史は古く、明治30年に西部地区で営業を始めた馬車鉄道が原形。
大正2年には、現・市役所あたりから湯の川地区までを営業区域とする路面電車へと引き継がれた。
これは国内では7番目、本道では初の事業であった。
(写真をクリックすると拡大できます。)
 
左の赤の車両は「箱館ハイカラ号」。右の青と白の車両は「らっくる号」。
これらは、現在の市電のなかで人気を二分する車両。
「ハイカラ号」は観光客に、「らっくる号」は超低床車として、お年寄りや子供たちに人気があり、また車椅子にも対応できるなど福祉的要素を持っている。
 
「ハイカラ号」の歴史~
明治末に米国で製造され、同43年12月に千葉県内成田市を走る成宗(せいそう)電気軌道株式会社(現・千葉交通らしい)が購入。
同月、同社の事業開始とともに使われていたのを、大正7(1918)年5月に函館が購入した。
昭和11(1936)年まで函館市電で客車として運行されたあと除雪車に改造され、平成5年に、函館開港の記念事業の一環として購入当時の姿に復元された。
(この工事費用3千6百万円)定員は33人。
乗務員のクラシックな服装が、レトロ調車両に合っているのも人気の原因。
運行期間は構造上の理由で、4月中旬から10月末までとなっている。

「らっくる号」は、平成19年3月に運行開始。
購入費は2億3百万円。定員62人。連結車で在来車よりも1m長い13.25m。
車体はアルミ製で大阪府摂津市で造られた。

市電の運行間隔は、湯の川~十字街間が5分、他の区間は10分と大変便利。
今年は洞爺湖サミットの開催年です。
排気ガスを出さない、地球環境に優しい乗り物・函館市電を積極的に利用しませんか。