ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第143号 華麗なるバラの競演~旧英国領事館

2007年06月27日 | 在日外国施設(領事館など)

所在地=函館市元町33番14号 現・函館市開港記念館
      旧函館区公会堂、元町公園の下。

 
写真① (拡大する)                 写真② (拡大する)

24日の日曜日、バラの名園「旧イギリス領事館」を訪れた。
大正2(1913)年に建てられたこの領事館は、昭和9年の閉鎖まで日本と英国との文化の架け橋にもなっていた。
その後、向かい側にあった市立函館病院の看護婦寮やカルテ保管庫として利用され、平成4年、市制施行70周年を記念し「開港記念館」として整備、そのときにバラも植樹し開放された。

 
写真③ (拡大する)                  写真④ (拡大する)

イギリス庭園を模した中庭には、15種類、41本の色とりどりの華麗なバラが咲き誇り別世界を作り出している。
市民のほかに観光のお客様の姿も多く見受けられ、うっとりとした表情で花を楽しんでいる。
見ごろは7月上旬まで、皆様もぜひお出かけ下さい。
ユニオンジャックがお待ちしております。

旧イギリス領事館の詳しいご案内はこちらから
http://blog.goo.ne.jp/mikaeru171/e/0a27ce50134087906c74d3666bb793e6

                     ミカエル 

 


第58号 旧ロシア領事館

2006年11月19日 | 在日外国施設(領事館など)

所在地=函館市船見町17番3号

  

安政元(1855)年12月に締結した日露和親条約に基づき、安政5年9月初代領事ゴシケーヴィチが着任し、実行寺で事務を開始した。
万延元(1860)年、元町の現ハリストス正教会敷地内に領事館を建てたが火災焼失。

明治36(1903)年、現在地で領事館の建設を始めたが、翌年の日露戦争で中断、完成したのは明治39年であった。
しかし、この建物も明治40年に焼失し、現在の建物が完成したのは明治41年の暮であった。
このように、諸外国の領事館や教会が幾度となく火災に遭っているのは、函館が大火火災が多かったことを物語っている。

ロシア革命後の大正14(1925)年からは、ソ蓮領事館となり、昭和19(1944)年10月、最後の領事が本国に引き揚げ閉鎖された。
昭和39年に外務省から函館市に移管され、翌年5月から「道南青年の家」になり、青少年の宿泊研修施設としてオープンしたが、平成8年7月に「ふるる函館」にその座を譲り、近々札幌領事館の出先機関として新たなスタートを切る予定だ。

昭和40年の秋、ここに宿泊したことがある
右写真の白い出窓は談話室のもの。この部屋からは港が一望でき、LPステレオを聴きながらのムードは格別で映画場面を彷彿させた。
そして、内部の重厚で豪華さは、帝政ロシアの建築様式の片鱗をのぞかせ、ジェームスボンドが出てきそうな雰囲気であった。

ロシア領事館が開設されてから、函館には多くのロシア人が住むようになったが、ロシア革命後には亡命者もやってきて一気に増えた。
そんな亡命者の中にアルハンゲリスキー(元漁業監督官)がいた。
彼は、昭和3年12月にロシア語の新聞「週刊函館」を創刊し、購読料は一部15銭だった。 
また彼は、昭和8年に日魯漁業会社函館出張所の事業部外事課に入り、対ロシア業務をこなす一方、「露語講習会」の講師を勤めた。
北洋漁業の根拠地であった函館には、100人以上のロシア語通訳がいたというからその養成に大きな貢献をした。
昭和14年、52歳で亡くなり外人墓地に葬られた。

今日、近くの温泉銭湯に出かけた。
露天風呂傍の木々は、温泉熱で気温が高くなるためにまだ紅葉が見頃。
体も心も癒されての380円は安い。  

        ミカエル

 

 

 

 

 

 


第56号 旧アメリカ領事館跡

2006年11月15日 | 在日外国施設(領事館など)

所在地=函館市弥生町4番(現=市立弥生小学校敷地内)

 

前号でご紹介した中華会館の交差点の斜め向かいに位置する。
安政元(1854)年に締結された日米和親条約で、伊豆下田とともに箱館は諸外国との窓口として翌年開港した。

安政4年4月5日、合衆国貿易事務官エリシャ・E・ライスが捕鯨船に乗って来港し、浄玄寺(市立函館病院跡地にあった)の別堂(この地)を借り受け、星条旗を掲げ貿易事務所を開いた。
以来、ライスは箱館に出入りする米国船舶の利益を守り、かつ在留する米国民の保護・取り締まりにあたり、1865年には初代米国領事に任命された。
牛乳の搾り方、綿羊の飼い方、西洋洗濯の仕方など文化を箱館に伝えた。

明治9(1876)年、領事館は一時閉鎖され横浜領事館の管轄となった。
その後、第45号でご紹介したハリストス正教会の北隣、さらに船見町3番(咬菜園跡東側)に移転、それぞれ領事代理に委嘱された宣教師や商人たちが執務した。
アメリカ領事館が函館での役割を終えたのは大正7(1918)年11月15日であった。

ところで、下田には「唐人お吉」の悲しい実話があるが、函館にも類似した実話がある。その名は「おたま」。
安政5(1858)年1月10日に、箱館奉行所はライスに「たま(21歳)」を引き渡した。
前年4月22日にライスから婦人を申し込まれていたからである。
幕府とも相談し、4人の候補者の中から選んだ。
仕度金6両、年給は130両だった。

それでは幕末の1両は、現在の円に換算するといくらなのか?
関係機関に聞いても政情不安定なこの時期、明快な答えは返ってこない。
目安として、腕のいい大工がひと月休まず働いての収入が1両、中級の旅籠にひと月連泊して1両だという。
たまがその後、どんな人生を送ったのかは分からない。

函館も12日に初雪が降った。
私は6日にタイヤ交換を終わらせていたから正解。
今日のガソリンスタンドは、平日だというのにタイヤ交換で超満員。
2~3時間待ちというからドライバーのイライラする顔が浮んでくる。
         
           ミカエル

 

 

 


第55号 中華会館

2006年11月12日 | 在日外国施設(領事館など)

所在地=函館市大町1番12号

 

華僑の集会所は、最初同徳堂といったが、明治40年の大火で焼失した。
二代目のこの総煉瓦造の建物は、釘を一本も使わない純中国(清朝)様式として日本に現存する唯一の貴重な建物である。
函館から中国への海産物貿易の盛んな頃に、在函華僑が信仰する三国時代
(220年~280年)の武将・関帝(商売と学問の神様)を祀る聖所として建設した。

中国から大工・彫刻師・漆工らを招き、煉瓦等の資材も中国から取り寄せ、約3年の工期と巨費を投じ、明治43(1910)年12月に竣工した。
内部は朱色の漆塗り、金色の関帝壇を中心として周囲に小部屋を配し、装飾、調度品は壮麗である。

会館は華僑の公儀場所、祭事と交際の場所として使われてきた。
中国領事館が置かれた時もあった。
戦後、日常的にはほとんど使われていないが、国慶節(10月1日)、関帝祭(5月13日)の祝宴、結婚披露宴、中国からの賓客の歓迎の場としても使われている。

昨年、中国本土で起きた反日デモの影響を懸念して非公開が続いている。
建物は、社団法人・函館中華会館の所有である。

急に寒くなり、周りの山々は白く薄化粧をした。
今日は、日中も暖房を入れっ放し。
今週、平地が白くなる予報が出て、いよいよ冬将軍の到来だ。
インフルエンザの予防接種も受け、冬を迎える準備はこれで一応万全!かな?

       ミカエル
 

 

 

 


第54号 旧イギリス領事館(開港記念館)

2006年11月09日 | 在日外国施設(領事館など)

所在地=函館市元町33番14号

 

国際開港地となった箱館に、イギリス領事館が置かれたのは安政6(1859)年のこと。アメリカ、ロシアについで3番目の領事館は、初代領事ホジソンが当時の称名寺に開設した。
文久3(1863)年、現在のハリストス正教会の西に領事館を新築したが、数度の火災に遭い焼失した。

この建物は、大正2(1913)年,イギリス本国政府工務省上海工事局の設計により竣工したもので、昭和9年の閉鎖まで領事館として機能していた。
その後、市が買収し市立病院の看護婦寄宿舎(花陰寮)、カルテ保管庫として使われた。
 
平成4年、市制施行70周年を記念し、開港記念館として整備し開放した。
中庭は洋式庭園。ブロンズの噴水、ヴィクトリア調のあずまや、16種類のバラ、素晴らしい眺望。ここで結婚式を挙げるカップルが全国から集まる。

英国から直輸入した生活雑貨やオリジナル商品、軽食、香り高い本場の紅茶を提供している。復元された家族居室、領事執務室などがあって、イギリスへと導いてくれる。素適な気分にしてくれて、サンキュウ。

市立函館図書館蔵で、幕末にアメリカ領事館員が残した記録によれば、箱館港からの主な輸出品は、アワビ、じゃがいも、石炭、硫黄、昆布。
昆布は輸出総額の三分の二を占め、イギリスがほぼ独占し中国へ。
中国では薬として高価で取り引きされたという。
それにしても、箱館港の賑わいは何処へ行ったのだろうか?

佐呂間町の竜巻被害、大きかったですね。
子供たちへのクリスマスプレゼント、故郷で迎えるお正月を楽しみにしていたお亡くなりになったトンネルマンたち。
雪を前にして家屋を失った人たち。
予測できなかった一瞬の出来事に、お見舞いの言葉が浮びませんでした。

                     ミカエル