函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む50代店主の趣味と感じたことの
日記です。

女城主直虎、男性説??

2017-02-28 | 歴史

以外(失礼)ですが、女城主・直虎、想像していたよりも

かなり面白いですね

子役の顔を見ていると、そのまま大人になった感じさえしま

ところで…

直虎は本当に女性だったのでしょうか?

それとも別に直虎が存在していたのでしょうか?

資料も少なく現時点では断定出来ない様ですので直虎男性説

も全く否定出来ませんね

 

直虎男性説は今のところ二説あります

通説では…直虎が徳政令を出した後、井伊家筆頭家老・小野政

次が今川家を後ろ盾として地頭織を奪い井伊谷の領主となった

と言われています。

もしかして??徳政令を出す前に小野政次が井伊谷の地頭にな

っていたら…

徳政令には直虎の花押が書かれていますが、一般的に花押は身

分の高い男性が用いる物なので女性の直虎が使う筈がありませ

ん。(この時代の前には、女性が花押を使っていた例もあります)

徳川の時代と違い戦国の世では女性が領主となっても不思議有

りませんが、花押を使用したとなれば話が少し違ってきます。

小野政次が徳政令を出す前に井伊谷を治めていたとすれば辻褄

が合うのです

そう考えると花押の主は徳政令を発布する前に井伊谷の主となっ

た小野政次以外考えられないという事になりますよね

個人的には、次郎法師が花押を使用していた可能性の方が高いと

は思っていますが…

家名存続の為となれば、男性を装い花押を使っても何ら不思議有

りません

この時代、家名を存続させるのが第一義、正義なのです


最近唱えられたのが…

新野親矩の兄・関口氏経の息子・井之次郎を井伊次郎として井伊

谷に遣わし、中々徳政令を出そうとしない直虎に代わって関口次

郎を井伊谷の領主とし徳政令を発布したと言うのです

新野親矩と関口氏経が兄弟だとは知りませんでした

簡単に言うと、井之次郎→次郎直虎→井伊直虎という事になりま

す。

 

次郎法師が還俗して直虎を名乗ったと言うのが定説なのですが、

違和感を覚えるのも事実です

人の耳に戸は立てられません

今川家に直虎が女性だと伝わらない事の方が不思議と言えば不思

今川家は直虎が女性だと分かっていて放置したのでしょうか?

放置したとすれば何の為に??

考えるとイマジネーションの坩堝に入ってしまいます

果たして、次郎法師が井伊直虎なのか否か??

解明にはもう少し時間が掛かりそうですが、もしかして永遠に謎

のままかも知れませんね

余談ですが… 

名前に虎を使っている武将も結構いますよね。

武田信虎・藤堂高虎や加藤清正の幼名は虎之助。

上杉謙信は旧姓長尾輝虎で関東管領に就任してからも上杉輝虎と

名乗っています

やはり虎の字には猛々しさを感じます

態々還俗名に虎の字を使った次郎法師、女性だった裏返しの様な

気がしてならない僕なのです



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橡木神社、お釜鳴り!!

2017-01-04 | 函館風景

明けましておめでとうございます!

元旦は橡木神社で初詣です

今年は従兄弟のО宮司の初披露目でもあります

少し緊張感が漂っていましたが、中々凛々しい宮司

姿です

新年を迎え『お釜鳴り』の儀式の始まりです。

祝詞奏上も初めてとは思えない出来栄え

手付きも様になっていますね。

恥ずかしい話ですが…

僕は子供の頃から神社に来ていますが、初めて見た

気がします

勿論、『お釜鳴り』の作法も全く分かりません

この中に橡木神社の御神体が祭られています。

この太鼓は年代物!!

おそらく、100年近く経っているかも知れません

100数十年経っている橡木神社ですが、従兄弟のОさんが神主の資格を取り

橡木神社を復活する事になりました。

何も出来ない僕としては頭が下がる思いです

函館市内には殆ど雪が積もっていませんが、さすかにここだけは違います

さほどの積雪ではありませんが、別世界です

連理木には雪がとても似合いますね。

見慣れた風景なのですが、個人的には一番好きな風景なのです






 



 

 

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謹賀新年!!

2016-12-31 | Weblog

あめましておめでとうございます!!


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真田丸、浪速の事も夢のまた夢!!

2016-12-19 | 歴史

「私は私という男がこの世にいた証を何か残せただろうか?」

と内記に尋ねる幸村

内記曰く「人の値打ちは時が決めるもの。」と…

「昌幸を乗り越え、徳川家康と渡り合った日本一の兵として

語り継がれるでしょう。大事なのはいかに生きたかです!!

幸村主従、完璧に死を覚悟していますね


幸村は家康さえ打ち取れば交渉を有利に運べると思っていた

様ですが、果たしてそうでしょうか??

少し疑問が残ります

最期に家康と対峙した際に家康も言っていましたが、家康が

亡くなったとしても直に豊臣の天下になるとは思われません

「わしを殺したところで何も変わらん!!戦で雌雄を決する世

は終わった!!」と言い放つ家康の言葉には重みがあります

やはり家康は政治家なのです

家康が言い放った言葉は幸村にも理解出来た筈ですが、幸村

は政治家ではありません

「我が父の為、友の為、先に死んでいった愛する者達の為に

お前を討ち果たさなければならなのだ~」と絶叫する幸村。

まるで仇討ちの為とでも言っている様ですね

その家康に狙いを定め馬上筒を構えた瞬間…

救援に来た秀忠軍に左腕を撃たれ万事休す

長い戦いが終わりいよいよ佐助を伴い最後の時を迎えます

泥まみれで血だらけにもかかわらず何て美しい武者姿でし

ょうか

色んな時代劇を見て来ましたが、堺・幸村ほど鎧姿が似合

う役者は初めてです。

又、何処かで是非見たいものです

ところで

幸村は何故?徳川政権を容認出来なかったのでしょうか

長い蟄居生活の為でしょうか?

それとも豊臣家への忠誠心の為でしょうか?

気力体力が充実していた時を無駄に過ごし、老いてゆく

自分を見るにつけ安穏な選択をする訳にはいかなかった

のではないのかと個人的には思っています

『人生五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり…』

敦盛の一節ですが、50歳も生きれば十分とされた時代で

49歳となった幸村にとって生死は問題ではなくなってい

たのです。

14年間の鬱積した思いをぶつけるには豊臣軍として最後

の大戦をしてみたいと思っても不思議有りません

軍略家として優れた才能を持っていた幸村なら当然の選

択だったのかも知れません

秀吉の辞世の句ではありませんが、浪速の事も夢のまた

夢という事なのでしょうかね  

 

来年は女城主・直虎が始まります

女性として城主になり、井伊家を滅亡から救い、徳川四

天王の一人・井伊直政を育てた女傑・直虎ですが、直虎

が男だったという説が浮上しています

あくまでもドラマとして見る分には良いのですが、史実

として全く違うとなれば問題です

この辺りをどのように描くのか興味がありますが、タイ

ミングが悪いのも確かですね



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真田丸、相思相愛のカップル!!

2016-12-12 | Weblog

久し振りに聞いた黙れ小童!!でしたね

事ある毎に室賀正武に言われていた信之ですが、

正武の息子・久太夫が父を殺された事を根に持

ち信之を足止めします。

何が何でも大阪城へ行き幸村に面会したい信之

が万感を込めて一喝!!

『黙れ小童~~~!!』、中々迫力がありましたね。

一喝された久太夫が小さな声で「すいません」と

言ったくだりに思わず吹き出してしまいました

三谷幸喜らしい脚本ですね

 

危険を承知で幸村に面会した信之、「ひれ伏すも

反抗するも構わない、しかし死んではならぬ!!

と幸村に哀願

「捕まれと??」と信之に問いかける幸村に「そ

うじゃ、今度も又、必ずお前を助けて見せる」と

言い切る信之

死を覚悟している幸村を助けるのはこの道しかな

いと信幸は思ったのでしょうか?

二人の迫真の演技につい引き込まれ見入ってしま

った僕なのです

ところで…

堺雅人演じる真田幸村、赤い甲冑に六文銭、何と

も凛々しい武者姿ですね。

男の僕から見ても惚れ惚れします

しかし、実際の幸村は白髪だらけで歯も抜けお世

辞にも美男子とは言い難い風貌だったとか

出っ歯だったと言われている源義経もそうですが、

生き様に共感した人々が人物像を美化し作り上げ

たものなのかも知れませんね


大阪城で一番の美男子と言えば文句無く木村重成

です

文武両道、色白で身長も高く所作も全く隙が無い

ほど完璧だったと言われています

重成の馴れ初めにも面白い謂れがあります

豊臣家の家臣で組頭だった真野頼包の娘・青柳は

茶々の側近として仕えていました。

青柳は琴や若にも秀でて絶世の美女だったと言わ

れています

その青柳が偶然見掛けた重成に一目惚れ

恋の病とやらで寝込んでしまったとか  

そんな青柳が一念発起せめて思いだけでも伝

えようと下の歌を送ります

重成からも直に返しの歌が届き、相思相愛だとい

う事をお互い確認出来たのです

歴史上稀に見る美男美女の結婚です

因みに、「あおやぎ」ではなく「あおやなぎ」と

読みます

呼び名からして絶世の美女だと感じるのは僕だけ

でしょうか??

重成と青柳が結婚したのは冬の陣の和議が成立し

た直後です。

結婚生活は僅か4,5ヵ月という事になりますね

結婚生活は短過ぎますが、この時代に相思相愛で

結婚出来る可能性は殆どありません。

結婚生活は短いですが、何とも羨ましいカップル

ですよね


最期の戦いを覚悟した重成は風呂に入り、香を

き決戦に臨んだと言われています。

戦場の露と化した重成ですが、死に様も一流だっ

たという事でしょうかね


いよいよ来週で最終回となりますね

幸村がどの様にして亡くなるのか?

残された家族の思いはどうだったのか?

ほんの一瞬輝いた武将が何故?これ程まで後の世

の人々の記憶に残ったのか?

尽きない思いが最終回を見て少しでも納得できれ

ばと思っている僕なのです






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真田丸、影武者だったとは!!

2016-12-06 | 歴史

幸村の命令で京へ向かい家康を襲う佐助

「無事戻ったら夫婦になって欲しい!!」ときりにプロポーズしますが

「ごめんなさい!!」の一言でお断り、秒殺失恋です

佐助も命を懸けて行くのですから、断るにしてももう少し言い様があ

りますよね

それでも家康を見事亡き者にした佐助でしたが、何と打ち取った相手

が影武者だったとは

流石は念には念を押している家康ですね

信玄もそうでしたが、家康にも数人の影武者がいたと言われています。

家康双子説もあります

夏の陣で亡くなった家康の替わりに、そっくりな兄弟が家康としてそ

の後の大御所政治を行ったとか??

双子説はかなり突拍子もない説だとは思いますが…

 ところで…

冬の陣から5ヶ月、夏の陣は起こるべくして起こったのです。

冬の陣の後、大勢の浪人を抱えた豊臣家、実質65万石ほどの石高なの

で召し抱えてもせいぜい1万くらいが限度でしょか??

秀吉の莫大な遺産をもってしてでも流石に10万もの兵を養いきれませ

浪人達が居なければ戦いが出来ないのは事実ですが、浪人達がいたため

戦わざるを得なくなったのも事実です。

皮肉なものですね

冬の陣の後、豊臣家では浪人達を解雇しますが、解雇された浪人達も行

き場が無く結局大阪城内に居座ったのです

もし?浪人問題を解決出来きていれば夏の陣も起こらなかった筈。


その浪人達に金や米を与え台頭してきたのが大野治長の弟・治房です。

和睦派の治長と主戦派の治房は兄弟とはいえ犬猿の仲だったと言われて

います

求心力を失った治長に代わって主戦派の筆頭・治房が実権を握った時点

で再度の戦は避けられなくなりました

終始主戦派だった治房にとって10万もの兵を抱えた状態で戦わない選択

肢は考えられなかった筈です。

 

昌幸も言っていましたが、人の塊と化した10万もの兵は戦をする以外な

 かったのです。

家康も豊臣家存続のため、一大名として残る術を考えていた様ですが、悉

く豊臣家に撥ねつけられ万事休す

秀頼は名誉ある滅亡を自ら選んだ気がしてなりません

個人的には、西南の役の西郷隆盛と重なって見えます。

不満武士を抱え、道連れとして新しい時代への橋渡しをした秀頼。

一廉の人物だったのかも知れませんね






 

 

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年末SALE!!

2016-12-03 | メガネ

今日からサポートグラス年末のセールです

一年の感謝を込めて

フレームレンズ、全て50%Off

勿論、除外品はございません

この機会にあなただけの一本を見つけて下さいね






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真田丸、運の良い男!!

2016-11-28 | 歴史

いよいよ女達による和平交渉が始まりましたね

女達といっても裏で動いていたのは男達ですが…

家康は和議の交渉中も以前にも増して激しく砲撃

を続けていたと言われています

少しでも有利に事を進めたかったのでしょうか?

連夜の砲撃により籠城している方は精神的に疲弊

していたでしょうが、当時の大砲は着弾しても爆

発はしなったので大した被害ではなかったと言わ

れています

しかし、砲弾の一つが茶々の住んでいた櫓に命中、

待女が亡くなるのを目の辺りにした茶々が狼狽

この時点で和睦決定です

 

ドラマでは…秀頼が大阪を捨てる条件として四国の

二か国が欲しいと提案していましたね

徳川からの返答は安房と上総の二か国への転封です

もし?この条件を秀頼が受け入れていれば家名を存

続出来た可能性がかなり高かったと僕は思っています。

家康も何が何でも豊臣家を潰そうとは思わなかった筈。 

関白家としての豊臣家が幕末まで続いていたかも知れ

ませんね


和議が整った後も両陣営に不穏な動きがありました

豊臣側では幸村が和議成立で油断している徳川に夜襲

を提案します

この案に反対したのが茶々だと言われています

幸村としては何が何でも絶対的な勝利を得たかったの

でしょうか?

一方の徳川では藤堂高虎や伊達政宗などが「将来に禍

根を残さないため秀頼を殺すべき!!」と進言しますが

家康は全く取り合わなかったと言われています

茶々と家康の判断で一触即発の事態は避けられたよう

ですね

 

通説では、大阪城の外堀だけを埋める条件だったにも

かかわらず家康が欺き内堀まで埋めたと言われていま

したが、二の丸・三の丸を破壊し内堀も埋めるという

事には豊臣も同意していた様です

この時点で秀頼が何処かへ転封していれば夏の陣は起

こらなかった筈です。

大阪城へ留まった事が最大の敗因

大阪城に秀頼が居る限り徳川は豊臣を見過ごす事が出

来ないのです

ところで…

浅井三姉妹の次女・初が交渉役として登場しましたね

初は秀吉の命令で京極高次と結婚します

京極家はバサラ大名で有名な佐々木道誉の末裔ですね。

高次の母は浅井長政の姉・京極マリアですが、名前を

見て分かるようにマリアはキリシタンです

初と高次は従兄妹同士という事になります

高次は武将としては大した人物ではありませんが、運

だけは相当の物です

本能寺の変では何故か?明智光秀に味方し、本来なら

処刑され京極家も取り潰しが当たり前

しかし、高次の姉・竜子が秀吉の側室となったお陰で

命拾い

その上、茶々の妹・初を正室として迎え入れられたの

ですから何と運の良い男でしょうか?

お家取り潰しどころか次期天下人・秀頼の縁戚となっ

たのですから驚きです

これ以上の幸運はありませんよね

関ケ原では家康に味方して大津城に籠城。

九州の智将・立花宗茂相手に善戦しますが、降伏して

高野山に入ってしまいます

運が良い事に降伏したのが関ケ原の戦いの当日だった

のです

当日という事は、宗茂が関ケ原の戦いに直接参戦出来

なかった事を意味します。

結果的に智将・宗茂を大津城で食い止めた功により越

前小浜を家康から拝領。

大出世ですね

運だけで大名として幕末まで家名を残した高次、運も

実力という事なのでしょうかね




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真田丸、最悪の交渉人長益!!

2016-11-21 | Weblog

平野長泰に唆されすっかりその気になっている信之

「わしの一生一度の馬鹿を許せ!!」と妻・稲の説得

にも応じようとしません 

ここで登場したのが、亡くなったとばかり思っていた

出浦昌相

さすが忍びの棟梁ですね。

「徳川に知られたら真田は終わりだぞ!!」と信之を諫

めますが、「父上も源次郎も散々無茶をしてきた。わ

しも一度くらいと駄々を捏ねます。」

ここで出浦からきつ~い一発。

「お前の無茶と父の無茶は全然違うぅー!!」と…

誰に何を言われても全く話を聞こうとしない信幸に最

後の一撃

出浦昌相は忍者なのです。

実際には有り得ない話ですが、出浦昌相再登場のシチ

ュエーションとしては面白い設定でしたね

ところで…

和睦交渉は冬の陣が始まった直後からすすんでいたよ

うですね

豊臣家の交渉役は大野治長と織田長益。

長益は当初から秀頼に和睦を進めていたみたいですが、

秀頼は応じなかったと言われています。

関ケ原では…織田家で唯一東軍に味方し戦後32000

の大名となった長益ですが、その後、豊臣の首脳の一

人として大阪城に入り茶々の叔父として権勢を振るっ

ていたようですね

家康が望んで長益を大阪城に入れたという説もありま

すが、終始和睦を唱えていたところを見ると可能性が

高そうです

長益は豊臣家にとっては最悪のネゴシエーターです

獅子身中の虫とは長益のような人物をいうのでしょう

かね

 

徳川では…圧倒的な兵力を背景に総攻撃をしたかった

秀忠でしたが、和睦交渉を進めていた家康に止められ

ます

何度も家康に総攻撃を懇願する秀忠ですが、全く相手

にされません。

征夷大将軍としては身の置き場がありませんよね

 

豊臣家からの和睦条件は…

「茶々を江戸に送る」「家康と秀忠の誓紙を差し出す」

「浪人達に領土を与える」というものでした

幕府としては、浪人達に領土を与える事は出来ないので

扶持を与えるという条件を出します。

交渉が決裂したのは幕府が提示した秀頼の関東二か国へ

の転封です

秀頼が望んだのは四国への転封だったともいわれていま

すが、何故?四国を望んだかは定かではありません??

茶々が江戸へ行く事も、秀頼の転封も豊臣家にとって障

害ではなかったようです

絶対に呑めない条件だと思われた二条件は交渉過程を見

ると最初から豊臣家も了承していたみたいですね



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真田丸、世に出た瞬間です!!

2016-11-14 | 歴史

明石全登がミサをしている最中に木津川口の夜討ち

真田丸ではなく兵の手薄なところばかり攻められた

のですから毛利勝永でなくとも内通者を疑いますよ

幸村も勝永と同じ事を考えていた様です。

一体、内通者は誰なのか??

幸村は確信していたみたいです。

城の西側・博労口が弱点だと徳川に伝わるのを前提

に有楽斎に囁く幸村

案の定、徳川は博労口を占拠。

犯人確定です

 

いよいよ冬の陣の始まりです

無駄に時間を費やせば否応なしに上杉と戦わなくて

なりません。

上杉の後ろに控えている信之の息子達とも…

一刻も早く戦いの火蓋を切らなくてはならなくなっ

た幸村。

戦いの口火は上田城攻めと同じく「高砂」の舞です

舞っているのは幸村ではなく息子の大助。

敵を挑発し真田丸に誘き寄せ、千挺ともいわれてい

る銃で一斉射撃

決起に走る前田勢をはじめとする徳川勢に完勝

冬の陣まで全く無名といってもよかった幸村が世に

出た瞬間です

数倍の敵を相手に一歩も引かず殲滅したのですから

驚きですね

戦いをじ~っと見ていた上杉景勝も思わず「日本一

の兵、真田左衛門の佐幸村ああぁぁ~!!」と絶叫。

リアルタイムでこの戦いが見られたら誰もがそう叫

んでいた筈です

この一瞬が後世の真田幸村像の全てと言っても過言

ではありません

一年足らずの間に人々に鮮烈な記憶を残し散ってい

った幸村、その記憶が後世にまで語り継がれてゆく

のです

そんな武将は後にも先にも真田幸村一人しか僕は知

りません

ところで…

ドラマでは…豊臣軍内での幸村の発言権が高そうに

描かれていましたが、実際はそれほどでもなかった

みたいですね

ズバリ!!発言力は兵力の数です。

いかに多くの兵を連れて来たかが重要なポイントな

のですが、幸村が連れて来たのは少しの家臣と金で

雇った兵だけ

ましてや、実戦経験も殆ど無い武将に指揮権を任せ

る事など有り得ません

父・昌幸が冬の陣に参戦出来ていれば話は別ですが、

真田の名前だけで10万とも言われている軍勢を動か

す事など初めから無理なのです


しかし、幸村の発言力不足で籠城策に決したにもか

かわらず幸村は諦めません

不利だと思われても最善の策をたて敵に挑みます

武将の本能なのか?培ってきた軍略を試してみたい

のか?

もしかして…死に場所を探していたのは又兵衛だけ

ではなく幸村も同じだったのかも知れません


幸村の戦い方を見ていると楠木正成を彷彿されます。

少ない兵力で敵の最前線に出城を作り、敵を誘き寄

せ奇策を労し殲滅、天性の才もあったのでしょうが、

14年も配流生活を送っていた武将が一朝一夕に出来

る技ではありません

おそらく配流先でも父・昌幸から戦の薫陶を受けて

いたのでしょうね

そう考えると、昌幸こそが楠木正成の再来といえる

のかも??

個人的には、昌幸が指揮する豊臣軍の戦いを見て見

たかった気がします

おそらく、あちこちで兵を挙げ敵の戦力を分散、長

期戦に持ち込む様な戦いをした筈。

謙信の小田原攻めもそうでしたが、小田原城が堅固

だっただけではなく長期の陣ともなると味方同士で

も疑心暗鬼に陥り内部崩壊を起こし撤退せざるを負

えなくなります

もしかして?意外と豊臣が勝つかも?と心変わりす

る武将が出てきても不思議有りません。


歴史にイフ?は無いと言われますが、イフを想像す

るのもやっぱり歴史の醍醐味ですよね




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真田丸、主は私です!!

2016-11-07 | 歴史

個人的には大好きな真田丸のメインテーマ

いきなりナレーションから始まり本編へ。

少し驚きましたが、これも三谷マジックなのでしょうか

いよいよ最終章へ向かっているという感じを醸し出して

いる様にも感じます。

 

二転三転、結局籠城に決まりますが、兵の配置で又も横

槍が

戦の素人が口出している様では勝てません

浪人達との間を取り持っている大野治長も次第に浪人達

の意を酌む様になりましたね

出城の着工も浪人達の配置も却下、愛想をつかし立ち去

ろうとする浪人達を何とか引き留めた幸村ですが、談判

した茶々までもが危機感全く無し

普通はここで諦める処ですが、城を出ると覚悟した又兵

衛と勝永に向かって「豊臣は見捨てる訳にはいかぬ!!

と宣言

何故か?これを聞いていた秀頼、「豊臣を見捨てぬと言

うのは真だな!!

と念押し。

「私が許す!!そなたらを信じておる!!」と出城の建設を許

浪人達の忠誠心を試していたのなら分からなくもありませ

んが、一番しっかりしなければならない主が右往左往して

いる様にしか見えないのは僕だけでしょうか??

事の次第を説明するため茶々の許へ行き異を唱える茶々に

むかい「この城の主は私です!!この戦い浪人達の力を借り

ねば我らの負けでござる!!」と迫真の弁明

秀頼の勢いに圧倒される茶々と大蔵卿ですが、ようやく一

城の主になった瞬間なのかも知れませんね

 

「御所柿は独り熟して落ちにけり、木の下に居て拾う秀頼」

家康が死ねば秀頼が政権を奪うだろうと言うような意味だと

思いますが、京の町ではこの様な落首がいたる所に書かれて

いたみたいですね

人々の多くは徳川政権も長くは続かないと思っていたのでし

ょうか?

家康も70才を超えいつ亡くなっても不思議有りません。

駿府と江戸での二元政治が続いているところを見ると徳川幕

府も盤石とは言えないようです

関ケ原の戦いから14年経過していますが、曲がりなりにも豊

臣家は健在

人々の心の中では戦国の世は未だに続いていたという事なの

でしょうね

 

先週、「信じられるのは真田だけじゃ~。」と茶々が言って

いましたが、実は幸村自身も徳川への寝返りを疑われていた

節があるのです

敵に狙われ易い場所に真田丸を作ったのも豊臣への忠誠心を

表したいからだと個人的には思っています。

味方をも信じられなくなっていた豊臣が勝利出来る可能性は

殆どありません

この疑心暗鬼状態は夏の陣まで引きずります

夏の陣で後藤又兵衛が討ち死にし、ようやく全軍が幸村の指

揮下に置かれるのですが、あまりにも遅すぎます。

ところで…

絶対不利とされた豊臣軍でしたが、意外と善戦出来たのは何

故なのでしょうか??

冬の陣は関ケ原の戦いから14年後です。

戦国の猛者達も亡くなり代替わりで跡継ぎは実戦経験が殆ど

ありません

初陣の様な武将達が抜け駆けして功を焦ったばかりの敗戦が

目立ちます

歴史上の14年は短いのですが、リアルタイムで生きてる人々

には意外と長い年月だという事なのでしょうかね??



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真田丸、密偵長益!!

2016-10-31 | 歴史

「勝てますか?」と茶々に問われ「私はその為に来た!!

と返す幸村

「私はどうなっても良いから秀頼を死なせないで!!」と言

う茶々ですが、モンスターペアレント状態ですね

家康攻めに大勢が決した後で軍議の決定をひっくり返した

茶々。

初めから大阪城の外で戦う気など全く無かったのです

何と愚かな決断なのでしょうか。

大阪城の主は秀頼ではなく茶々だったという事でしょうか

その茶々の周りには茶々の威を借りて指図する大蔵卿、徳

川の密偵として動いていた有楽斎などまともに戦を出来る

体制ではありません

浪人達の裏切りを心配するより近臣者の裏切りを心配した

方が良さそうです。

その近親者の筆頭と言っても良いのが茶々の叔父・織田長

(有楽斎)です。

ドラマでも惚けて掴み処のない長益ですが、実像にかなり

近い人物の様な気がします

因みに、長益の正室は信長に諫言する為自ら命を絶った平

出正秀の娘です

武将としては何の取り得も無い人物ですが、文化人、特に

茶人(有楽流の祖)としては一流のものがあります

短歌・源実朝、蹴鞠の達人・今川氏真、絵の達人・武田信

廉など平時であれば一流の芸術家として一生を終えられた

かも知れない武将も沢山います

長益もそういった人物の一人だったのでしょうね。

本能寺の変の時の長益の脱出劇には思わず吹き出してしま

います

変の折、長益は信長の嫡男・信忠と共に二条城に居たので

すが、明智軍に囲まれた信忠が自害を決意すると「自分も

一緒に自害する!!」と宣言

家臣に命じ自害の準備をさせている中、とっとと二条城を

抜け出し脱出してしまいます

何と言う男でしょうか

開いた口が塞がりません

どうやら長益は命を長らえる術には長けていた様ですね

余談ですが…

長益ですら抜け出せたのですから信忠も脱出出来た可能性

がかなり高かった筈です。

信忠は何故?信長に殉ずるより生きる道を探さなかったの

でしょうか??

信忠が生きていれば間違いなく織田政権が続いていた筈で

す。

窮地に陥った時の判断力が信忠には欠けていたのでしょう

かね




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真田丸、真田フランコ!!

2016-10-24 | 歴史

いよいよ大阪城に入った浪人達の権力闘争が始まり

ましたね

秀頼は総大将を幸村に任せたかった様ですが、中々

思うように行きません

豊臣恩顧の大名が一人でも味方に付いていれば話は

別ですが、烏合の衆を纏めるのは難しそうですね

総大将を辞退した幸村の案で十万の兵を五つに分け

各々有力武将が指揮する事に落ち着いたみたいです

「今後はこの五人衆の合議でことを進めていくこと

とする。」と決定。

五大老ならぬ五大将の誕生です

籠城戦なので兵を分けるのは案外得策なのかも知れ

ません

ところで

五人衆の中に後藤又兵衛と明石全登がいますが、両

名共黒田家の家臣から浪人しています

長政との仲違いで出奔した又兵衛と、如水の死後、

長政がキリスト教を禁止したので已むを得なく黒田

家を離れた全登

長政は両名の旧家臣が黒田家とは関わり合い無い事

を幕府に対して釈明しますが、不信感を持った家康

は長政に江戸留守居役を命じます

後藤又兵衛とは兄弟同様に育った長政ですが、二人

の間に一体何が有ったのでしょうか??

可愛さ余って憎さ百倍という事なのでしょうか??

不思議でなりません

戦国の不文律として「奉公構え」があります。

奉公構えに指定されると他家へ仕官する事が出来な

くなるのです

他家への仕官が事実上絶たれた又兵衛には豊臣の家

臣として戦う以外に選択肢はなかったのでしょうね

 

ドラマでは幸村への使者として現れた明石全登です

が、キリシタンとしても有名ですよね。

全登と幸村はかなり馬が合ったようですが、そんな

関わり合いだったのか??幸村もキリシタンだった

という説があります

真田フランコというのが洗礼名だったとか??

イエズス会の日本報告集に真田フランコという記述

があるのです

幸村の事なのか?別の真田なのか?確証はありませ

んが、信憑性は高そうです

幸村が大の仲良し明石全登の影響を受けキリシタン

に改宗したとしても不思議有りませんよね



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真田丸、挑発したのは豊臣かも??

2016-10-17 | 歴史

幸村が九度山を抜け出したという情報が広まっている中、

大阪城に入る幸村は老け顔メイクでしたね

14年もの隠遁生活ですっかり老け込み、杖を突きながら

入城する姿を見て周りはさぞかし驚いた筈です

片桐且元を追放した後、豊臣家を牛耳っていたのは大蔵

卿の息子・大野治長ですが、誰の目から見ても若輩過ぎ

ますよね

「豊臣には全軍を率いる武将がいない。血で血を洗う戦

にはなるまい!!」と言っていた信之ですが、まさか!!弟の

幸村が入城するとは思わなかったでしょうね

どうやら家康も信之と同じ思いの様です

しかし、烏合の衆を束ねるのは至難の業。

一騎当千の武将も含め10万もの兵を束ねるのは不可能です

流石の幸村でも荷が重そうですね

ところで

関ケ原の戦いが終わると家康は、西軍に味方した大名達の殆

どを取り潰し東軍の大名達に恩賞として与えます

そればかりではありません。

豊臣家の直轄地も秀頼からの御褒美として分け与えてしまっ

たので豊臣家としては普通の大名並みの領地しかなくなって

いたのです

秀頼様からの御礼と称し気前よく分け与えたのですから豊臣

家としてはたまったものではありませんよね

しかし、領地が減ったとはいえ財力では徳川と比べても見劣

ってはいません

当時の日本の首都・大坂には商人は勿論ですが、浪人達も溢

れていた筈。

財力にものを言わせ軍事力を増強するには格好の状態だった

訳です。

 

冬の陣の発端は有名な方広寺鐘銘事件ですが、家康が難癖を

つけ豊臣を挑発したと言われていますが、本当なのでしょう

か??

清韓が書いた文章の中に(国家安康)家康と(君臣豊楽)豊臣の

字が有るのは事実ですし、後に清韓が「祝意を込めて家康

の名を入れた!!」とも言っています

問題なのは豊臣は姓で家康は名前だという事です。

建前上豊臣家の家臣とはいえ現実的な天下人は家康だと誰も

が思っていた筈

これはかなりの非礼にあたります

しかも家康の名前だけがという文字で分断されているので

すから、確信犯だと言われても仕方ありません

見方を変えれば徳川が挑発したのではなく豊臣が挑発したと

見る事も出来るのです。

清韓一人の考えなのか?豊臣家の誰かの指図なのかは分かり

ませんが…

単に徳川に一泡ふかせてやろうと思った事が大きくなっただ

けなのかも知れませんが、策士策に溺れた感じもします

何れにしても、この事を逆手に取られ滅亡に向かったのです

から、豊臣家からすれば清韓の書いた書は悔やんでも悔やみ

きれません

ペンの恐ろしさはこの時代にもあったという事でしょうかね??




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真田丸、且元の裏切り??

2016-10-11 | 歴史

秀頼の使者として訪れた明石全登

にべもなく大阪城入りを断る信繁に「会わせたい人

がいると…」

まさかここで片桐且元が登場するとはビックリ

追放された経緯を話始める且元ですが、戦いを避け

る為に徳川から出された三箇条(秀頼の国替え、茶々

の人質、豊臣家の参勤)が且元の作り話だったとは

その言い訳が「悔しくて嘘をついた!!」とは二度ビ

ックリ

大坂の陣は且元が原因だったのですね

いくら何でもとは思いますが、三谷脚本なので…


実は、家康の意図は違うところにあったのです

形上は豊臣家の筆頭大老・家康が豊臣家へ遣わした

且元を秀頼が勝手に追放した事になるのです

家康は大阪城を攻める大義名分が欲しかったのでし

ょうが、いくら何でも無理がありますよね。

秀頼・茶々は勿論、且元を含めた豊臣の家臣達が、

すべからく家康の罠に掛かった事になります

あからさまに無理難題を押し付けても徳川に反発す

る大名はもはやいなくなっていたのです

 

いよいよ幸村を名乗る事になった信繁ですが、まさ

!!籤で決めたとは思いませんでした

幸村の名は江戸時代に入ってから講談などで語られ

ていた様ですが、現代では幸村と言う名前の方がし

っくりしますね

真田家の諱・幸と、信繁が持っていたとされる妖刀

正村の村から幸村の名を付けたとも言われています

が、こじ付けの域を出ません

何れにしても信繁の生前には幸村を名乗っていなか

った事だけは間違いなさそうです

ところで 

裏切者のレッテルを貼られている片桐且元

優柔不断な性格を家康に利用され豊臣家滅亡の道筋を

作ったかのように言われていますが、果たして本当な

のでしょうか??

検地奉行や普請奉行、唐入りに際しての食料・武器弾

薬の調達などなど…

官僚としてはかなり資質が高かったのは間違いなさそ

うです

関ケ原の戦いでは西軍に味方した且元ですが、裏では

嫡男を家康に人質として差し出しています。

三成が勝手に起こした戦に秀頼は関係無いと言いたか

ったのでしょうか

この事からして且元が戦いを望んでいなかったと思わ

れるのです。

東軍の勝利が決まるとすぐ家康に会い戦勝報告を述べ、

家康の護衛までしています

一連の行動は自分の保身の為ではなく、単に豊臣家存

続を考えての行動だと僕は思っています。

且元の考えの根底には、どういう形であれ豊臣家を残

したいという思いが強かったのではないのでしょうか

何が何でも秀頼を中心とした豊臣政権を維持したい三

成とは相容れません

同床異夢状態の三成と且元、豊臣の家臣としては同じ

ですが、着地点が全く違うのです

三成に且元の様な柔軟性が少しでもあれば豊臣家滅亡

は避けられたのかも知れません。

もし、西軍が勝ったとしても三成と且元はいずれぶつ

かる運命にあったでしょうね

 

且元が大阪城を退去したのは方広寺事件の調停が不調

に終わった責めを受けたからだけなのでしょうか??

家康から出された三条件は全く呑めない条件ではあり

ません。

木村重成をはじめとする大阪城内の強硬派による且元

暗殺未遂事件が起こったというのが直接の原因だった

様です

大阪城を退去するしか道が残されていなかった且元で

すが、この事を家康に利用されるとは

少し可哀想な気もしますね




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