函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む50代店主の趣味と感じたことの
日記です。

真田丸、昌幸の遺言!!

2016-09-26 | 歴史

戦国の世では領土を守り抜くことさえ至難の業、しかも信濃の小豪族

に過ぎなかった真田家を大名にまで押し上げた昌幸の才覚は並外れた

ものがあったのでしょうね

昌幸がもし?大軍を動かせたならどのような戦をしたのでしょうか?

興味が尽きません

関ケ原のおり、黒田如水はあっという間に九州を占領して行きますが、

昌幸も如水と同じように甲斐に攻め込んでいたかも知れません

尊敬してやまない武田信玄の旧領を回復していた可能性すらあるのです

西軍に味方した時、三成から上田・小県・沼田は勿論、旧武田領も勝手

次第のお墨付きを貰っています

長期戦になれば上杉は勿論、伊達・佐竹・最上など元々徳川に心から臣

従していない大名と連携し一大勢力を形成、徳川と対抗出来たかも知れ

ません

昌幸にとっては返す返すも半日で関ケ原の戦いが終わった事が悔やまれ

ます

天地人と言いますが、昌幸にはどうやら天の時が無かった様です

やはり、全てが揃わなければ天下に名乗りを挙げるのは難しいのでしょ

うね。

 

九度山には家臣16名が同行したと言われていますが、普通の生活が出来

れば、和歌山藩から50石の扶持、信之からの仕送りもありさほど困らな

かった筈なのです

しかし長年しみついた大名生活を変える事など昌幸には出来なかったの

借金もかさみ頻繁に信之に手紙を出しています

昌幸が信之に対してお金のむしんをしたのは10年間で20回、半年に1度

は手紙を送っていた事になりますね。

そんな昌幸ですが、いずれ徳川VS徳川の戦いが起こると予言していたと

も言われています

その時、どう戦うか!!死の直前に信繁に秘策を伝授していたとも言われて

いますが、眉唾物臭い感じですね

 

死に臨んで昌幸からの遺言

「徳川に勝てるただ一つの道、10年掛けてわしが考えた策じゃ…」

真っ先に尾張を制し徳川が攻め来たら頃合いを見て尾張を捨て近江まで引

く……と。

一通り聞き終えた信繁。

「父上ならきっと上手く運ぶでしょうが、私には場数が足りません。」と

返答する信繁に対し「わしの策に場数など必要ない!!」と言い切る昌幸。

蟄居の後も戦の事だけを考えていたでしょうか??

戦をする為に生まれて来たといっても過言ではなさそうです

 

大坂の陣で信繁が大阪城に入城したと聞いた家康は、手を掛けていた戸

がガタガタと震えるほど動揺

「それは親か?子か?」と家臣に確かめたと言われています。

既に昌幸は亡くなっているのを知っていたにもかかわらず…

家康の狼狽振りが見て取れます

いかに昌幸が家康に恐れられていたかを物語る逸話ですね

 

個人的ですが…

第一次、二次の上田合戦を見ると昌幸と楠正成とだぶって見えます。

赤坂城や千早城に籠りゲリラ戦で敵軍を蹴散らした正成と、敵を誘

き寄せ側面やら後方からの攻撃は奇想天外

強きを挫く戦いは痛快ですね


 

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真田丸、何故?斬首だったのでしょうか!!

2016-09-19 | 歴史

徳川軍に大勝利を収めた昌幸ですが、西軍が半日で負けた

事が中々理解できない様です。

年齢からしても最後の大戦に掛けた昌幸の無念さが滲み出

ていましたね

信繁に諭され後を信幸に託しますが、開口一番「この役立

たずが!!」と信幸の微妙な立場も考えず罵声を浴びせます

直後に「済まぬ!!」と頭を下げる昌幸ですが、犬伏での約

束を思い出したのでしょうかね?

頭では分かっていても心がついて行かなかったのでしょう

か?

自分達は勝ったのに敗軍の将として流罪になる事を受け入

れるにはもう少し時間が掛かりそうです

 ところで…

関ケ原の後、逃亡していた石田三成・小西行長・安国寺恵

瓊は捕まり引き回しの上処刑されましたが、何故?切腹で

はなく斬首だったのでしょうか??

関ケ原の戦いは豊臣VS徳川ではありません。

家康はあくまでも五大老筆頭であり秀頼の後見人

豊臣政権の筆頭として処分を下した事になります。

建前上、三成ら三名は秀頼の名を騙って騒乱を起こし、豊

臣政権を混乱に貶めたという理由で処刑されたのです

五大老で表面上西軍の大将だった毛利輝元や上杉景勝も減

封にはなりましたが、処刑はされていません

関ケ原で西軍の主力として戦った宇喜多秀家ですら島流し

の処分で済んでいます

自害した長束正家は別として家康の目的は大々名を潰す事

ではなく、豊臣家への忠誠心が強すぎる原理主義者達の一

掃が目的だったのではないのでしょうか??


通説では…信幸が自身の恩賞と引き換えに昌幸・信繁の助命

を嘆願したとされていますが、流罪になったのにはそれなり

の訳があった様です。

関ケ原の戦後処理では首謀者以外で処刑された武将はいませ

二回にわたって徳川軍を翻弄した昌幸ですが、関ケ原の戦い

では西軍に加担した一武将にすぎません。

そもそも二度の上田合戦では昌幸に運が味方しただけの様な

気もします。

第一次では石川数正の出奔、第二次では戦局が思ったより早

く動いたため局地戦の上田城攻めに関わっている時間が無く

なっただけ…

絶妙なタイミングのお陰で昌幸は命拾いしたとも言えます

長期戦になれば間違いなく真田家は滅亡していた筈。

昌幸は強運の許に生まれたといっても良いのかも知れません

しかし、その強運も長くは続かなかった様ですね

昌幸は西軍が負けたのを知ると東軍に恭順の意を表し投降し

ます

首謀者でもなく投降した武将を豊臣政権筆頭の家康が処刑す

る筈がないからです

昌幸の強運は二回の上田合戦で使い果たしてしまったのでし

ょうかね??



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真田丸、リプレイを見ているようですね!!

2016-09-12 | 歴史

徳川の主力部隊による第二次上田合戦

総大将は徳川の世継ぎ秀忠ですが、上田攻めは秀忠の意思

ではなくあくまでも家康の命令です

上方での東西決戦が家康の想像していたより早くなりそう

なので秀忠軍に上田城攻め中止の伝令を発しますが、おり

からの長雨で利根川が氾濫、伝令も足止めされます

23日は遅れた筈。

すんなり伝令が届いていれば徳川軍の犠牲者も殆ど出なかっ

たでしょうね

それにしても、徳川精鋭部隊をもってしてでも昌幸に敵わな

かったのはどうしてなのでしょうか??

昌幸ほどの武将が同じ戦法を使う筈が無いと思ったのでしょ

うか??

敵を挑発し上田城へ引き寄せ鉄砲攻撃、逃げるところを伏兵

による側面攻撃、総崩れとなった徳川軍ですが、長雨で増水

した神川を渡れず撤退不能

昌幸はまたしても神川上流の堰き止め、時機を見て堰を切っ

たため神川は溢れ敵の応援部隊も為す術なし

まるで第一次上田城攻めのリプレイを見ているようです。

智将・真田昌幸の面目躍如といったところですね

 

犬伏の別れから三日後に開かれた小山評定。

上杉討伐軍に従軍していた豊臣の主力部隊がこぞって家康

に同調

徳川軍ではなく東軍として主力部隊を形成。

関ケ原の戦いは、見方を変えれば豊臣軍内の権力闘争とも

いえますね

豊臣軍の内部崩壊をまんまと家康に利用され、気が付けば

家康による天下統一の手助けをする事になっていたのです

秀頼誕生で身内を殺し、意味のない唐入りが発端で内部に

亀裂が走り、自らが亡くなった後に対立が頂点に達し内部

崩壊へと向かいます

そう考えれば秀頼誕生が豊臣家滅亡の引き金を引いた事に

なるのかも知れません

 

秀吉の急速な老いが判断力を低下させ老いた権力者だけが

残ったのですから豊臣政権滅亡は仕方のないところです

 

予告では…

再来週あたりに小野のお通が登場しそうですね

信幸と深く関わりあいのあった小野のお通

真田丸ではスルーされるのかと思っていましたが、満を持し

ての登場

実在したのは間違いないのですが、とにかく謎の多い女性で

そのお通の墓が真田の菩提寺・広徳寺にあるのです

この事から信幸の側室だった可能性があるとも言われている

のです。

信幸の次男・信政の側室・図子はお通の長女だとか

詩歌や書画、琴などにも秀でた才能を発揮、美貌も兼ね備え

た才媛だったお通、全く非の打ちどころのない人物ですね。

信幸が心を奪われたとしても不思議有りません

信長・秀吉・家康をはじめとする武将達とも繋がりを持ち、

皇族や公家や寺社との交流も…

謎に包まれたお通ですが、出生には諸説あり定かではありま

せん

家康の側近・天界もそうですが、お通の前半生も謎に包まれ

ています。

仲介者・交渉人としてはその方が都合が良いのかも知れませ

ん。

個人的にはどういう形で登場するのか今から楽しみです。

因みに、吉川英治の「宮本武蔵」に登場する武蔵の妻・お通

は小野お通がモデルだとか?

本当なのでしようかね??






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真田丸、三人に迷いは無かったのです!!

2016-09-05 | 歴史

今週は感動的な場面として言い伝えられている「犬伏の別れ」

でしたね

親子三人で議論を重ね、真田家が生き残る道を模索した結果、

東西に分かれたかの様に言われていますが果たして…

昌幸は石田三成の妻と縁続き、信繁は大谷吉継の娘婿、信幸

は家康の重臣・本田忠勝の娘婿と至極自然な形で東西に分か

れたのです。

三人におそらく迷いは無かったでしょうね


それにしても、ドラマでの演技には泣かされました

「豊臣と徳川に分かれても真田は一つ。」と言い切る信幸に

対し「良い策じゃ。」と頷く昌幸。

涙が止まらない信繁の肩にそっと手を添える信幸

真田家の嫡子としての振る舞いを感じます。

 

いよいよ天下分け目の関ケ原ですが、大谷吉継は何故?西軍

についたのでしょうか??

三成との友情から西軍に味方したと言われていますが、それ

だけでしょうか??

負けると分かっている戦いに吉継ほどの武将が挑むとは思わ

れません。

吉継には勝利する自信があった筈です。

東軍の主力は豊臣子飼の大名達です。 

秀頼がいる限り長期戦に持ち込めば勝つ可能性がかなり高か

ったと個人的には思っています。

吉継にとって誤算だったのは関ケ原の戦いが半日で終わった

事です

戦いが終わるまで少なくても半年から数年は掛かると考えて

いた筈

運が無かったと言えばそれまでですが、東軍に比べあまりに

も万全な布陣を敷いたのも仇になったのかも知れません

今、総攻撃すれば勝てると三成は思ったのではないのでしょ

うか??

長期戦に持ち込めなかったのが悔やまれます

 

敗戦が濃厚になると西軍の武将達はこぞって逃走を始めますが、

吉継だけは違いました

関ケ原の戦いで自刃して果てたのは大谷吉継ただ一人、その潔

さは信繁にも通じるものがありますね。

後に吉継と激戦した藤堂高虎が吉継の墓を建てています

敵の有力武将の墓を建てるとなると徳川から睨まれる事になる

かも知れません

そのリスクを負ってでも墓を建てた高虎の心の中には吉継に対

しての尊敬の念があったのでしょうか??

高虎の心を駆り立てたものは何だったのでしょうか??

家康も高虎を罰する事も無く不問にふしています

敵将からも尊敬の念を持たれていた吉継。

あまりにも潔い生き様ですね





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真田丸、景勝決起!!

2016-08-29 | 歴史

三成を抱きしめ家康打倒を宣言した景勝

重い、重~い腰をようやく上げましたね

少しどころか?かなり決断が遅い様な気もしますが…

ドラマでは優柔不断で謝ってばかり、決断力に欠ける

武将として描かれているみたいですが、実際の景勝は

かなり違った様です。

尊敬してやまない謙信に近づこうとして自らを厳しく

律し寡黙で威厳に満ちていた景勝、近寄りがたいオー

ラを発していたと言われていますね 

謙信の代から越後では反乱が続きますが、景勝が国主

となってからは殆ど起きていません

よほど統治能力に長けていたのではないのでしょうか。

かぶき者で有名な前田慶次郎ですら景勝の前では悪ふ

ざけを慎んだとか??


そんな景勝がいよいよ動き出します。

家康からの上洛要請を断り反徳川の狼煙を上げます

 

前田利家が生きている間は何とか歯止めが利いていま

したが、利家が亡くなると七将による三成襲撃事件が

勃発

加藤・福島・藤堂・蜂須賀・細川・浅野・黒田と秀吉

子飼の武将達が三成を亡き者とする為決起

結局、三成は家康の許に逃げ込み助かりますが、豊臣

政権から脱落佐和山に蟄居となります

ドラマでは伏見屋敷に避難する三成ですが、徳川屋敷

に逃げ込み難から逃れたというのが通説ですね

ドラマでは秀吉が建てた伏見屋敷に、七将が乗り込ん

で来る筈がないと言っていましたが、三成打倒で熱く

なっている七将なら秀吉の居なくなった伏見屋敷に乗

り込んでも不思議有りません


三成のいなくなった豊臣政権では表だって家康に対抗

する武将なく、もはや家康が天下人と言っても良いの

かも知れません

三成の傲慢さは気になりますが、後先を考えない七将

の愚かさも感じます

結局、徳川の天下に協力しただけで加藤・福島などは

家自体も存続出来ませんでした

七将は政治家ではなかったという事でしょうか??


来週はいよいよ歴史上最大の戦い関ケ原が始まりますが、

関ケ原の勝敗は七将による三成襲撃事件が起こった時点

で決まっていた様にも思います。

豊臣VS徳川ではなく三成VS武断派の構図を作った事で

家康の勝が決定的になったといっても過言ではありません。

やはり家康は秀でた武将でもありますが、超一流の政治家

ですね



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真田丸、次の天下人を求めていたのです!!

2016-08-22 | 歴史

秀吉亡き後、自身で最高権力者になれない武将達は次の天下人を

求めていたのです

長い物には巻かれろ!!ではないですが、この時点でも家康こそが次

の天下人だと殆どの武将は思っていた筈です

俄か作りの五大老・五奉行の合議制など上手く機能する筈がない事

は亡くなった秀吉自身が一番理解していたのかも知れません

秀吉は五大老・五奉行制度に一縷の望みを託しただけなのではない

のでしょうか??


頼みにしていた上杉・毛利も動かず孤立する三成、細川忠興を自ら

が説得に向かいますが、土産に持って行った干し柿を見て「人の心

分からぬのか?馬鹿にするのも大概にせい!!」とかえって怒らせ

始末

宇喜多秀家、小早川秀秋を除く殆どの武将は家康に走った今、もう

打つ手がありません

吉継が言っていた様に今は刀を納め時期を待つのが得策ですが、熱

くなった三成にはすぐには無理なようですね


話は逸れますが…

三成が関ケ原で負け、処刑される前に食べたのも干し柿でした

三成は干し柿が大好きなのでしょうかね


ところで…

三成の重臣、猛将島左近が登場しました

秀吉が言ったとされる「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近

に沢山の城。」

4万石だった知行の半分・2万石で召し抱えたとされているのが島左近

です

実際には半分の知行を与える筈がありませんので、かなり誇張した話で

すね。

もし?本当だとすればどちらが主君なのか分からなくなります

それほど優れた武将だと言いたいのでしょうが…

関ケ原での左近ですが…

通説では小早川秀秋が裏切ると最前線で奮戦

西軍総崩れが明確になると黒田長政の軍勢に突撃、銃撃により

死亡したと伝えられています

しかし、左近の遺体は見つかっておらず戦場から逃走、逃げ延

びたとも言われているのです

眉唾物ですが、京都・立本寺に左近の墓があります。

没年1632626日…

本当だとすれば関ケ原から32年後に亡くなった事になりますよ

当時としては天寿を全うした事になります。

左近は関ケ原の後、ひっそりと身を隠し生きていたのでしょう

生きていれたとすれば何故?大坂の陣に参陣しなかったのでし

ょうか??

左近ほどの武将なら居ても楯も居られなかった筈です

夏・冬の大坂の陣で名前が出て来ないという事は、左近が関ケ原

で戦場の露となったのは間違いなさそうですね

何れにしても島左近、謎の多い武将です





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真田丸、多数派工作!!

2016-08-15 | 歴史

政界に付き物の多数派工作がいよいよ始まりましたね

家康VS三成、誰の目から見ても家康有利は間違いあり

ません。

付け焼き刃の五大老・五奉行の合議制度が上手く機能し

ないのも仕方ありませんね。

血を流さずに独裁から合議制へと移行するのは至難の業

なのです

 

秀吉の死は新しい戦乱の幕開けとも言えます

長く続いた戦乱の気質は直には変われません。

家康は勿論ですが、他の武将達も虎視眈々と次の天下人

座を狙っていたのです

豊臣家の忠臣・三成も例外ではありません。

秀頼の名の許、実権を握ろうとする筈です

もしかすると?次々と政敵を陥れ鎌倉幕府の執権の様な

形で権力を握ろうとするか知れません。

権力とはそれほど魅力的なものなのでしょうか??

二番ではなく一番じゃないと満足出来ないものなのでし

ょうか??

凡人には理解し難いものがあります

 

禁止されている大名同士の婚儀の件で信繁が家康を問い

ただしますが、豊臣政権の筆頭・大老に向かって問いた

だすとは有り得ない話です

主人公なので仕方ないとは思いますが、個人的にはかな

り違和感を覚えます

「太閤殿下の死去が公表されていない以上、遺言は無効

!!」と言い返す家康ですが、五大老・五奉行の合議の

席では流石に言えなかったでしょうね。

信繁にだから言えたともいえますが…

 

三成一人では家康に太刀打ち出来ないと考えた大谷吉継が、

上杉景勝宛に密書をしたため信繁に託します 

しかし、肝心の景勝が全く頼りなく、合議の場で怒られた

子供の様にボソボソと話す始末。

実際の景勝はこれほどいじけた人物ではないとは思います

が、家康との人物対比としては面白い設定ですね。 

「声が小さい、耳に入ってこぬは!!」と一喝されディベート

上手な家康のペースを崩す事が全く出来ません

家康にやり込められ助け舟もいない三成、塩漬けとなった秀

吉の遺体の前で孤独感に苛まれている様です

結局、自分が動かなければと悟った三成。

次週では腹を括った三成がいよいよ実力行使に出る様ですが、

確か?史実には無かった筈…

どのように描くのか楽しみですね





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真田丸、家康暗殺!?

2016-08-08 | 歴史

遺言の書き換えに翻弄する家康と三成

遺言がどうであれ政治体制が盤石でない状態では

実力勝負です。

戦乱へ逆戻り、立身出世を望んでいる武将達にとって秀吉

の死は好都合

昌幸もその一人ですね。

秀吉亡き後、天下人となるのは家康だと殆どの武将が思って

いた筈なので、ついでに家康も居なくなれば混乱に拍車がか

かります

昌幸も大々名となれるかも知れません

 

死が近づいている秀吉から三成へ最後の命令が…

「家康を殺せ!!

忠実な三成は秀吉からの暗殺命令を昌幸に頼みます

血が騒ぐ昌幸と出浦昌相、「この話は聞かなかった事にいたそ

う。」と一応答えますが、やる気満々です

家康暗殺は結局失敗し、昌相は瀕死の状態で真田屋敷へ…

最後を迎える昌相ですが、まさか?ここで亡くなるとは

出浦は昌幸が九度山で亡くなり、信繁が大坂の陣で死んだ後、

信之に仕え生涯を終えたとばかり思っていました。

あくまでもドラマなので仕方ありません

昌相は忍者の棟梁だったとも言われているので、もしかして??

復活何て事もあるかも知れませんよね

ところで

あれほど無益な殺生を重ねた秀吉、せめて堂々と死を迎えて欲

しいと思うのは僕だけでしょうか

殺生関白とは秀次ではなく秀吉の事です。

伝え聞く信長の死に様とはあまりにも対照的。

朝鮮出兵などせず、官僚体制をしっかり整えておけば秀吉一代

で豊臣家が滅亡する事はなかった筈です。

天下を統一するのは難しい事ですが、維持するのはもっと難しい

のです

秀吉にとって天下統一が到達点だったのでしょうか??

そう考えると豊臣家滅亡は必然性があったのかも知れません。

秦の始皇帝も有能だった長男を遠ざけ宦官に牛耳られ滅亡します

が、秀吉も利休を殺し個人的には有能だと思っている秀次まで

も殺し、自ら豊臣家滅亡の原因を積み重ねていきます

いくら秀頼の事を頼んでも哀願だけでは人は動きません

因果応報とはこの事ですね



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真田丸、既に死んでいるのです!!

2016-08-02 | Weblog

必死に秀吉の異変を隠そうとする三成と信繁

それ自体かなり無理があります。

人の口に戸は立てられないのです

「殿下はいささか長く生き過ぎたのかも知れん。」と呟いた大谷吉継

の言葉が全てを物語っている様ですね。

晩年の秀吉は英雄だった欠片も感じません

権力に任せやりたい放題、罪の無い者まで手当たり次第に処刑すると

は…もはや老害以外の何物でもありません

一代の英雄・豊臣秀吉は既に死んでいるのです

醜い老人と化した肉体だけが残っていただけなのかも?

我が子??秀頼に対する愛情??だけが生きる術とは…

怒りを通り越して哀れみすら覚えます

家康の晩年と比べると月とスッポンですね。

 

兄・信幸から問われても真実を話せないでいる信繁

「太閤殿下が亡くなれば世の中は必ず揺れる。その時、真田は誰に付い

て行くのか見極めるべきなのだ!!」と信繁に詰め寄る信幸

真田家次男の立場より秀吉側近としての立場を優先しているとしか信幸

には見えなかったのでしょうね

豊臣家の家臣としての自分、真田家の人間として自分、二つの顔を持つ

信繁、板挟み状態ですが、信幸にはお見通しの様です

遂に信幸に秀吉の病状を打明けますが、その情報を持って信幸は直に徳

川へ直行

信幸には迷いはないのです

 

平時には居場所がない昌幸ですが、伏見城の普請に情熱を傾けていた矢先、

又もや大地震が…

すっかり気力を無くし吉野太夫にのめり込んでいきますが、その吉野太夫

も徳川の息の掛かった忍びだったとは踏んだり蹴ったりです

その昌幸も秀吉の病状を背中で聞き何やら息を吹き返したみたいですね

世が乱れれば昌幸は元気になるのです


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真田丸、山手殿の出自!!

2016-07-26 | 歴史

母・薫が菊亭晴季の娘だとばかり思っていた信幸・信繁兄弟。

遂に昌幸の口から真相が語られましたね

「薫は菊亭晴季の娘ではない、侍女だ。決して人に話してはな

らんぞ!!分かったらわしが殺される!!」と…

昌幸の正室・山手殿(ドラマでは薫)ですが、出自がはっきりと

していません

信玄の家臣・遠山右馬助の娘だとか?小笠原氏の家臣・宇多頼

忠の娘だとか言われていますが、真偽のほどは定かではありま

せん

真田家の資料では「京之御前様」と記されていますので、京都

出身の可能性が高いと個人的には思っています。


武田信玄の正室・三条の方は名前の通り三条家の娘です。

山手殿は武田家輿入れの際の侍女だった可能性が高そうです

三条家ともなれば侍女とはいえそれなりの家柄の娘が選ばれた筈

です。

昌幸が武藤喜兵衛を名乗っていた頃、信玄の命により三条の方の

侍女と結婚したとしても不思議ありません

武藤家は甲斐の名門です。

昌幸は名門武藤家を継いだのですから氏素性のはっきりしない女性

を妻に迎える筈がありません。

「京之御前様」言われるくらいですから、山手殿は京都出身でそれ

なりの家の出だったのでしょうね

 

ところで、信幸・信繁兄弟にも何となく亀裂が入ってきましたね

「お前は豊臣に肩入れし過ぎだ!!」と信繁をたしなめる信幸ですが、

兄弟といえども立ち位置にかなりの開きが出てきたようです

将来への布石でしょうか??

真田家存続を考えると信幸の考えの方に一理あると思いますが、豊臣

政権の中枢に入り込んだ信繁にとっては受け入れられないのも分かる

気がしますよね



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真田丸、秀次逃走!!

2016-07-19 | 歴史

ドラマでは…

拾の誕生で被害妄想からどんどん自分を追い詰めていく秀次

遂には関白職を投げ出し聚楽第から出奔

逃げ出した先が何と!!真田邸とは驚きですね

信繁の知恵で乗り切ろうとしたのでしょうか??

秀吉の怒りを恐れるあまり次第に情緒不安定になっていく秀次、

身の置き場がありません

信幸を伴い高野山へと又々逃走

まるで一人相撲をしているみたいですね。

実力を伴わない者に官位だけを上げて自滅させる位打ち。

意味は少し違いますが、秀次も位打ち状態だったのかも知れませ

実際には秀吉の命で切腹した秀次ですが、ドラマでは職責の重さ

や秀吉の恐ろしさに押し潰されノイローゼ状態で自刃した事に…

あくまでも秀吉に殺された様には描かれていませんでしたね

だとすれば少し無理があります。

秀次乱心のため自刃だとすれば妻や子供をことごとく殺す必要は

ありません

その中にはまだ嫁いでいない側室・最上義光の娘も含まれていま

す。

「わしを怒らせたらどんなに怖いか孫七郎に見せてやる」と言う

秀吉に対して「あの子はもう死にました。」とやり場のない表情

を見せるお寧

可愛さ余って憎さ百倍で済ますには辻褄が合いません

我が子可愛さのあまり…謀反の疑いがあった…素行が悪かったなど

など、秀次殺害には諸説ありますが、年老いた秀吉の命で三成を含

めた側近達の策謀だと個人的には思っています。

不思議なことに…この事件の後、三成は秀次の有力な家臣をかなり

召し抱えています。

もし、秀吉に見つかれば罰せられるかも知れません

危険を冒してまでも召し抱えた三成。

もしかして??

三成は秀次を殺す事に反対だった可能性もあります

勿論、秀吉の命令には逆らえませんが、光秀の本心は違ったところ

にあったのかも知れませんね


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真田丸、信幸の嫉妬!!

2016-07-11 | 競馬

妊婦の腹を裂いて子供を取り出したとか?辻斬りをしていたとか?

殺生関白と言われている秀次ですが、秀次を殺した事への大義名分

を作る為には秀次は悪でなくてはならないのです。

実像の秀次はかなり違った人物像だったのでないでしょうか

 

ドラマの中では秀次の娘・たかが秀次の性格を言い表していましたね

「父は弱い人なのです。自分が人にどう思われているか?気にし過

ている。悪い人ではないが波があるとも…」

意外と実像の秀次もそうだったのかも知れませんね。

 

秀次謀反、その可能性はかなり低く、秀吉又は秀吉を唆した石田三成や

増田長盛・前田玄以など側近の官僚達による謀略の可能性が高いと僕は

思っています


大和豊臣家(秀長)を継いだ秀次の弟・秀保が亡くなりましたが、跡取り

もいなかったため大和豊臣家は断絶となっています

本来なら秀次の子供に継がせ存続するのが豊臣家にとっても良い筈です

が、数少ない豊臣の身内を自ら排除していく晩年の秀吉を見ると絶対権

力者が老いていく怖さを感じます

豊臣家を潰したのは間違いなく秀吉です

一代の英雄・豊臣秀吉にも限界があったという事なのでしょうね

ところで

真田兄弟が目出度く官位を貰う事になりましたね
信幸→従五位下伊豆守、信繁→従五位下左衛門佐、どちらかと言うと信

の方が少し上でしょうか

しかし信繁の口利きで叙任した事を知った信幸は怒りをあらわにします

ましてや父・昌幸も知っていたとは「又、自分だけが蚊帳の外か~。」

と怒るのも無理はありません


「弟の情けで官位をもらっても嬉しくも何ともない。出来る事なら官位

を返上したい」と怒りをぶつけるのも分かりますよね

実直な信幸には立ち回り上手い信繁に嫉妬があったのかも知れません

その嫉妬心があった信幸だからこそ幕末まで続く松代真田藩の礎を作れ

たのかも知れません

徳川の時代に天敵・真田の家を残すのにはかなりの深謀遠慮が必要だっ

た筈です

信幸でなければ成し遂げられなかったでしょうね



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真田丸、きり危機一髪

2016-07-05 | Weblog

今週はあまりにコミカル過ぎて個人的には大河ドラマを

見ている感じがしませんでした

これが三谷ワールドなのでしようか


鶴松が亡くなり落ち込んでいた筈の秀吉ですが、謀反を

起こさない為と訳の分からない理屈を付けて唐入りに突入。

殆どの武将は無益な唐入りに反対だったと思いますが、秀

吉の暴走を止める事はもはや誰にも出来ません

日増しに悪化する戦況の中、名護屋城では秀吉発案の仮装

大会が始まりましたね。


最初はぎこちなかった昌幸ですが、日に日に瓜売りらしく

なっていきます

仮装大会にあまり乗り気ではなかった昌幸ですが、上達も

早く完璧な瓜売り状態、優勝間違いなし

と思ったところに何と秀吉も瓜売りに仮装するとの情報が…

秀吉の顔を潰す訳にはいかず止む無く病欠。

すっかり落ち込んでいる昌幸、後ろ姿に哀愁を感じます

せっかく練習を積んできた瓜売りをようやく披露する機会が…

何と!!母・とりの臨終の席

悦に入って瓜売りを披露する昌幸ですが、その母にまでウル

サイと言われては形無しですね

 

一方、きりにご執心の秀次、側室になって欲しいと哀願して

いましたが、ならなくて良かったですね

後に切腹した秀次ですが、秀次に関わった者は女・子供に関

わらず殆どが処刑されています

きり、危機一髪といったところでしょうかね





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真田丸、魔性の女??

2016-06-27 | Weblog

鶴松の死の影で何となく利休の死が薄れた感がありましたね

 

ドラマでは利休の見張りを命じられる信繁ですが、利休の邸

宅の周りには上杉をはじめとする3000の兵が取り囲んでいた

と言われています

何故か?利休の見張り役を命じられた信繁ですが…主役なので

仕方ありませんよね

その信繁の問いに「人の命を金で操る業の深い商人である自分

は、それがゆえに茶をたてるのだ。茶の道を究める事が出来た

のは、その自分の業が深いからだ…」と答える利休ですが、何

となく理解出来なくもありません

大徳寺の木造の件では「あれで足元を掬われた!!一言でいえば

定めだ!!」と言っていましたが、答えになっていません

利休の木造が欲しいという茶々の我が儘で木造を作った利休で

すが、寸法を間違え等身大利休が完成

置く場所に困った茶々の一言「大徳寺に預かってもらえば~。」

この一言で利休の運命か決定。

とすれば…やはり茶々は魔性の女ですね。

利休からすれば茶々の要望を聞いたあまり三成や吉継に隙を見

せてしまったという事なでしょうか??

 

鶴松危篤の知らせにニンマリしている武将が二人

50を過ぎた秀吉には跡取りが出来る可能性が殆ど無く、豊臣も

秀吉一代で終わり、乱世へ逆戻りとほくそ笑む家康と昌幸

家康はともかく、息子・信繁と同じような立ち位置では生きら

ない自分に昌幸は気が付いていたのでしょうね。
昌幸は乱世でしか才能を発揮出来ないのです

 

ところで…

一度権力を手にした者はそれを失う事を必要以上に恐れると言

います。

もし、権力を失うとすれば身近にいる実力者が…

 密室の茶室は情報交換の場としては最適、情報が洩れる事も殆

どありません

利休の弟子である武将はあまたいますが、その武将達と権力を蓄

えた利休が共謀すれば…

秀吉が疑心暗鬼にかられても不思議有りません

陰の実力者として動いている分には良かったのですが、財力も兼

ね備え発言力も増してくると絶対権力者から見て脅威でしかない

のです

利休失脚は必然性があったと僕は思っています。

秀吉から蟄居→切腹を言い渡された利休は一切の弁明もせず受け

入れたと言われています

茶の湯を通したネットワークと情報力を持っていたがため秀吉に

重宝された利休ですが、それ故排除されたとも言えます。

秀吉からすれば諸刃の刃だった訳です。

もしかして?利休は何れこうなると思っていたかも知れません

生き様も含め、分かっていても後戻り出来ないのが人生なのでし

ょうかね


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真田丸、北条幕府?何てことも??

2016-06-20 | 歴史

この時点で惣無事令違反に当たるは、北条と伊達ですが、

名胡桃城を乗っ取った北条と蘆名を滅ぼし領地を併合した

伊達と比べれば誰が見ても伊達の方が重罪ですよね

本来なら伊達を取り潰し北条が生き残るところですが、秀

吉の裁定は違いました

実の母に毒殺さかかった正宗ですが、その為予定より遅れ

て小田原に到着します

得意のパフォーマンスで秀吉の心の中に素早く入り込み攻

め滅ぼした蘆名領のみの没収で一件落着

流石に秀吉の御前でズンダ餅の作り方までは披露しなかった

と思いますが…


一方の北条ですが…氏直は早くから秀吉に下る道を模索して

いた様ですが、氏政が中々首を縦に振りません

家臣達も相変わらずの小田原評定、当主・氏直と実質的な権

力者・氏政のツートップも決断を下せず時間だけが過ぎてい

きます

氏政・氏直父子の決断力、政治力の無さには目を覆うものが

ありますね


武田が滅んだ後、北条の領土は最大になります。

氏政は凡庸な国主だと言われていますが、政治家としてはと

かく、武将としては優れた資質を持っていたと僕は思って

います

この時点での石高から見れば豊臣の次が北条です

秀吉としては240万石の大々名をそのまま残しておく訳には

いかなかったのです。

北条を取り囲むように伊達・上杉・徳川も犇めいています。

その他、佐竹・里見・最上などなど…

もし、これらの大名達が反豊臣を掲げ結束すれば流石の秀吉

でも太刀打ち出来ないかも知れません

その時に盟主となるのは240万石を領している北条です

北条幕府!!源頼朝の再来、何て事も絵空事ではなかったのか

も知れません。

秀吉は北条を潰し、その後に徳川を入れ、伊達・徳川の楔と

して旧蘆名領に蒲生氏郷を配置、睨みを利かせます

災いの種を無くそうとしたのでしょね

 

 

三成が攻めた忍城ですが、秀吉の命で水攻めを敢行。

決して三成自ら水攻めを主張した訳ではなさそうです

攻め難い湿地帯にある忍城ですが、周りは平地。

水攻めともなれば大規模な土木工事が必要になります。

現地視察を終えた三成は水攻めは難しいと考えていた様ですが、

現地を見ていないとはいえ秀吉からの命令には逆らえません

小田原征伐で唯一落ちなかった忍城ですが、そのため戦下手の

レッテルを張られる羽目になった三成

忍城攻めは水攻めに固執した秀吉の失敗といっても良いのかも

知れません。



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