函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む50代店主の趣味と感じたことの
日記です。

年末SAIL!!

2016-12-03 | メガネ

今日からサポートグラス年末のセールです

一年の感謝を込めて

フレームレンズ、全て50%Off

勿論、除外品はございません

この機会にあなただけの一本を見つけて下さいね





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真田丸、運の良い男!!

2016-11-28 | 歴史

いよいよ女達による和平交渉が始まりましたね

女達といっても裏で動いていたのは男達ですが…

家康は和議の交渉中も以前にも増して激しく砲撃

を続けていたと言われています

少しでも有利に事を進めたかったのでしょうか?

連夜の砲撃により籠城している方は精神的に疲弊

していたでしょうが、当時の大砲は着弾しても爆

発はしなったので大した被害ではなかったと言わ

れています

しかし、砲弾の一つが茶々の住んでいた櫓に命中、

待女が亡くなるのを目の辺りにした茶々が狼狽

この時点で和睦決定です

 

ドラマでは…秀頼が大阪を捨てる条件として四国の

二か国が欲しいと提案していましたね

徳川からの返答は安房と上総の二か国への転封です

もし?この条件を秀頼が受け入れていれば家名を存

続出来た可能性がかなり高かったと僕は思っています。

家康も何が何でも豊臣家を潰そうとは思わなかった筈。 

関白家としての豊臣家が幕末まで続いていたかも知れ

ませんね


和議が整った後も両陣営に不穏な動きがありました

豊臣側では幸村が和議成立で油断している徳川に夜襲

を提案します

この案に反対したのが茶々だと言われています

幸村としては何が何でも絶対的な勝利を得たかったの

でしょうか?

一方の徳川では藤堂高虎や伊達政宗などが「将来に禍

根を残さないため秀頼を殺すべき!!」と進言しますが

家康は全く取り合わなかったと言われています

茶々と家康の判断で一触即発の事態は避けられたよう

ですね

 

通説では、大阪城の外堀だけを埋める条件だったにも

かかわらず家康が欺き内堀まで埋めたと言われていま

したが、二の丸・三の丸を破壊し内堀も埋めるという

事には豊臣も同意していた様です

この時点で秀頼が何処かへ転封していれば夏の陣は起

こらなかった筈です。

大阪城へ留まった事が最大の敗因

大阪城に秀頼が居る限り徳川は豊臣を見過ごす事が出

来ないのです

ところで…

浅井三姉妹の次女・初が交渉役として登場しましたね

初は秀吉の命令で京極高次と結婚します

京極家はバサラ大名で有名な佐々木道誉の末裔ですね。

高次の母は浅井長政の姉・京極マリアですが、名前を

見て分かるようにマリアはキリシタンです

初と高次は従兄妹同士という事になります

高次は武将としては大した人物ではありませんが、運

だけは相当の物です

本能寺の変では何故か?明智光秀に味方し、本来なら

処刑され京極家も取り潰しが当たり前

しかし、高次の姉・竜子が秀吉の側室となったお陰で

命拾い

その上、茶々の妹・初を正室として迎え入れられたの

ですから何と運の良い男でしょうか?

お家取り潰しどころか次期天下人・秀頼の縁戚となっ

たのですから驚きです

これ以上の幸運はありませんよね

関ケ原では家康に味方して大津城に籠城。

九州の智将・立花宗茂相手に善戦しますが、降伏して

高野山に入ってしまいます

運が良い事に降伏したのが関ケ原の戦いの当日だった

のです

当日という事は、宗茂が関ケ原の戦いに直接参戦出来

なかった事を意味します。

結果的に智将・宗茂を大津城で食い止めた功により越

前小浜を家康から拝領。

大出世ですね

運だけで大名として幕末まで家名を残した高次、運も

実力という事なのでしょうかね




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真田丸、最悪の交渉人長益!!

2016-11-21 | Weblog

平野長泰に唆されすっかりその気になっている信之

「わしの一生一度の馬鹿を許せ!!」と妻・稲の説得

にも応じようとしません 

ここで登場したのが、亡くなったとばかり思っていた

出浦昌相

さすが忍びの棟梁ですね。

「徳川に知られたら真田は終わりだぞ!!」と信之を諫

めますが、「父上も源次郎も散々無茶をしてきた。わ

しも一度くらいと駄々を捏ねます。」

ここで出浦からきつ~い一発。

「お前の無茶と父の無茶は全然違うぅー!!」と…

誰に何を言われても全く話を聞こうとしない信幸に最

後の一撃

出浦昌相は忍者なのです。

実際には有り得ない話ですが、出浦昌相再登場のシチ

ュエーションとしては面白い設定でしたね

ところで…

和睦交渉は冬の陣が始まった直後からすすんでいたよ

うですね

豊臣家の交渉役は大野治長と織田長益。

長益は当初から秀頼に和睦を進めていたみたいですが、

秀頼は応じなかったと言われています。

関ケ原では…織田家で唯一東軍に味方し戦後32000

の大名となった長益ですが、その後、豊臣の首脳の一

人として大阪城に入り茶々の叔父として権勢を振るっ

ていたようですね

家康が望んで長益を大阪城に入れたという説もありま

すが、終始和睦を唱えていたところを見ると可能性が

高そうです

長益は豊臣家にとっては最悪のネゴシエーターです

獅子身中の虫とは長益のような人物をいうのでしょう

かね

 

徳川では…圧倒的な兵力を背景に総攻撃をしたかった

秀忠でしたが、和睦交渉を進めていた家康に止められ

ます

何度も家康に総攻撃を懇願する秀忠ですが、全く相手

にされません。

征夷大将軍としては身の置き場がありませんよね

 

豊臣家からの和睦条件は…

「茶々を江戸に送る」「家康と秀忠の誓紙を差し出す」

「浪人達に領土を与える」というものでした

幕府としては、浪人達に領土を与える事は出来ないので

扶持を与えるという条件を出します。

交渉が決裂したのは幕府が提示した秀頼の関東二か国へ

の転封です

秀頼が望んだのは四国への転封だったともいわれていま

すが、何故?四国を望んだかは定かではありません??

茶々が江戸へ行く事も、秀頼の転封も豊臣家にとって障

害ではなかったようです

絶対に呑めない条件だと思われた二条件は交渉過程を見

ると最初から豊臣家も了承していたみたいですね



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真田丸、世に出た瞬間です!!

2016-11-14 | 歴史

明石全登がミサをしている最中に木津川口の夜討ち

真田丸ではなく兵の手薄なところばかり攻められた

のですから毛利勝永でなくとも内通者を疑いますよ

幸村も勝永と同じ事を考えていた様です。

一体、内通者は誰なのか??

幸村は確信していたみたいです。

城の西側・博労口が弱点だと徳川に伝わるのを前提

に有楽斎に囁く幸村

案の定、徳川は博労口を占拠。

犯人確定です

 

いよいよ冬の陣の始まりです

無駄に時間を費やせば否応なしに上杉と戦わなくて

なりません。

上杉の後ろに控えている信之の息子達とも…

一刻も早く戦いの火蓋を切らなくてはならなくなっ

た幸村。

戦いの口火は上田城攻めと同じく「高砂」の舞です

舞っているのは幸村ではなく息子の大助。

敵を挑発し真田丸に誘き寄せ、千挺ともいわれてい

る銃で一斉射撃

決起に走る前田勢をはじめとする徳川勢に完勝

冬の陣まで全く無名といってもよかった幸村が世に

出た瞬間です

数倍の敵を相手に一歩も引かず殲滅したのですから

驚きですね

戦いをじ~っと見ていた上杉景勝も思わず「日本一

の兵、真田左衛門の佐幸村ああぁぁ~!!」と絶叫。

リアルタイムでこの戦いが見られたら誰もがそう叫

んでいた筈です

この一瞬が後世の真田幸村像の全てと言っても過言

ではありません

一年足らずの間に人々に鮮烈な記憶を残し散ってい

った幸村、その記憶が後世にまで語り継がれてゆく

のです

そんな武将は後にも先にも真田幸村一人しか僕は知

りません

ところで…

ドラマでは…豊臣軍内での幸村の発言権が高そうに

描かれていましたが、実際はそれほどでもなかった

みたいですね

ズバリ!!発言力は兵力の数です。

いかに多くの兵を連れて来たかが重要なポイントな

のですが、幸村が連れて来たのは少しの家臣と金で

雇った兵だけ

ましてや、実戦経験も殆ど無い武将に指揮権を任せ

る事など有り得ません

父・昌幸が冬の陣に参戦出来ていれば話は別ですが、

真田の名前だけで10万とも言われている軍勢を動か

す事など初めから無理なのです


しかし、幸村の発言力不足で籠城策に決したにもか

かわらず幸村は諦めません

不利だと思われても最善の策をたて敵に挑みます

武将の本能なのか?培ってきた軍略を試してみたい

のか?

もしかして…死に場所を探していたのは又兵衛だけ

ではなく幸村も同じだったのかも知れません


幸村の戦い方を見ていると楠木正成を彷彿されます。

少ない兵力で敵の最前線に出城を作り、敵を誘き寄

せ奇策を労し殲滅、天性の才もあったのでしょうが、

14年も配流生活を送っていた武将が一朝一夕に出来

る技ではありません

おそらく配流先でも父・昌幸から戦の薫陶を受けて

いたのでしょうね

そう考えると、昌幸こそが楠木正成の再来といえる

のかも??

個人的には、昌幸が指揮する豊臣軍の戦いを見て見

たかった気がします

おそらく、あちこちで兵を挙げ敵の戦力を分散、長

期戦に持ち込む様な戦いをした筈。

謙信の小田原攻めもそうでしたが、小田原城が堅固

だっただけではなく長期の陣ともなると味方同士で

も疑心暗鬼に陥り内部崩壊を起こし撤退せざるを負

えなくなります

もしかして?意外と豊臣が勝つかも?と心変わりす

る武将が出てきても不思議有りません。


歴史にイフ?は無いと言われますが、イフを想像す

るのもやっぱり歴史の醍醐味ですよね




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真田丸、主は私です!!

2016-11-07 | 歴史

個人的には大好きな真田丸のメインテーマ

いきなりナレーションから始まり本編へ。

少し驚きましたが、これも三谷マジックなのでしょうか

いよいよ最終章へ向かっているという感じを醸し出して

いる様にも感じます。

 

二転三転、結局籠城に決まりますが、兵の配置で又も横

槍が

戦の素人が口出している様では勝てません

浪人達との間を取り持っている大野治長も次第に浪人達

の意を酌む様になりましたね

出城の着工も浪人達の配置も却下、愛想をつかし立ち去

ろうとする浪人達を何とか引き留めた幸村ですが、談判

した茶々までもが危機感全く無し

普通はここで諦める処ですが、城を出ると覚悟した又兵

衛と勝永に向かって「豊臣は見捨てる訳にはいかぬ!!

と宣言

何故か?これを聞いていた秀頼、「豊臣を見捨てぬと言

うのは真だな!!

と念押し。

「私が許す!!そなたらを信じておる!!」と出城の建設を許

浪人達の忠誠心を試していたのなら分からなくもありませ

んが、一番しっかりしなければならない主が右往左往して

いる様にしか見えないのは僕だけでしょうか??

事の次第を説明するため茶々の許へ行き異を唱える茶々に

むかい「この城の主は私です!!この戦い浪人達の力を借り

ねば我らの負けでござる!!」と迫真の弁明

秀頼の勢いに圧倒される茶々と大蔵卿ですが、ようやく一

城の主になった瞬間なのかも知れませんね

 

「御所柿は独り熟して落ちにけり、木の下に居て拾う秀頼」

家康が死ねば秀頼が政権を奪うだろうと言うような意味だと

思いますが、京の町ではこの様な落首がいたる所に書かれて

いたみたいですね

人々の多くは徳川政権も長くは続かないと思っていたのでし

ょうか?

家康も70才を超えいつ亡くなっても不思議有りません。

駿府と江戸での二元政治が続いているところを見ると徳川幕

府も盤石とは言えないようです

関ケ原の戦いから14年経過していますが、曲がりなりにも豊

臣家は健在

人々の心の中では戦国の世は未だに続いていたという事なの

でしょうね

 

先週、「信じられるのは真田だけじゃ~。」と茶々が言って

いましたが、実は幸村自身も徳川への寝返りを疑われていた

節があるのです

敵に狙われ易い場所に真田丸を作ったのも豊臣への忠誠心を

表したいからだと個人的には思っています。

味方をも信じられなくなっていた豊臣が勝利出来る可能性は

殆どありません

この疑心暗鬼状態は夏の陣まで引きずります

夏の陣で後藤又兵衛が討ち死にし、ようやく全軍が幸村の指

揮下に置かれるのですが、あまりにも遅すぎます。

ところで…

絶対不利とされた豊臣軍でしたが、意外と善戦出来たのは何

故なのでしょうか??

冬の陣は関ケ原の戦いから14年後です。

戦国の猛者達も亡くなり代替わりで跡継ぎは実戦経験が殆ど

ありません

初陣の様な武将達が抜け駆けして功を焦ったばかりの敗戦が

目立ちます

歴史上の14年は短いのですが、リアルタイムで生きてる人々

には意外と長い年月だという事なのでしょうかね??



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真田丸、密偵長益!!

2016-10-31 | 歴史

「勝てますか?」と茶々に問われ「私はその為に来た!!

と返す幸村

「私はどうなっても良いから秀頼を死なせないで!!」と言

う茶々ですが、モンスターペアレント状態ですね

家康攻めに大勢が決した後で軍議の決定をひっくり返した

茶々。

初めから大阪城の外で戦う気など全く無かったのです

何と愚かな決断なのでしょうか。

大阪城の主は秀頼ではなく茶々だったという事でしょうか

その茶々の周りには茶々の威を借りて指図する大蔵卿、徳

川の密偵として動いていた有楽斎などまともに戦を出来る

体制ではありません

浪人達の裏切りを心配するより近臣者の裏切りを心配した

方が良さそうです。

その近親者の筆頭と言っても良いのが茶々の叔父・織田長

(有楽斎)です。

ドラマでも惚けて掴み処のない長益ですが、実像にかなり

近い人物の様な気がします

因みに、長益の正室は信長に諫言する為自ら命を絶った平

出正秀の娘です

武将としては何の取り得も無い人物ですが、文化人、特に

茶人(有楽流の祖)としては一流のものがあります

短歌・源実朝、蹴鞠の達人・今川氏真、絵の達人・武田信

廉など平時であれば一流の芸術家として一生を終えられた

かも知れない武将も沢山います

長益もそういった人物の一人だったのでしょうね。

本能寺の変の時の長益の脱出劇には思わず吹き出してしま

います

変の折、長益は信長の嫡男・信忠と共に二条城に居たので

すが、明智軍に囲まれた信忠が自害を決意すると「自分も

一緒に自害する!!」と宣言

家臣に命じ自害の準備をさせている中、とっとと二条城を

抜け出し脱出してしまいます

何と言う男でしょうか

開いた口が塞がりません

どうやら長益は命を長らえる術には長けていた様ですね

余談ですが…

長益ですら抜け出せたのですから信忠も脱出出来た可能性

がかなり高かった筈です。

信忠は何故?信長に殉ずるより生きる道を探さなかったの

でしょうか??

信忠が生きていれば間違いなく織田政権が続いていた筈で

す。

窮地に陥った時の判断力が信忠には欠けていたのでしょう

かね




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真田丸、真田フランコ!!

2016-10-24 | 歴史

いよいよ大阪城に入った浪人達の権力闘争が始まり

ましたね

秀頼は総大将を幸村に任せたかった様ですが、中々

思うように行きません

豊臣恩顧の大名が一人でも味方に付いていれば話は

別ですが、烏合の衆を纏めるのは難しそうですね

総大将を辞退した幸村の案で十万の兵を五つに分け

各々有力武将が指揮する事に落ち着いたみたいです

「今後はこの五人衆の合議でことを進めていくこと

とする。」と決定。

五大老ならぬ五大将の誕生です

籠城戦なので兵を分けるのは案外得策なのかも知れ

ません

ところで

五人衆の中に後藤又兵衛と明石全登がいますが、両

名共黒田家の家臣から浪人しています

長政との仲違いで出奔した又兵衛と、如水の死後、

長政がキリスト教を禁止したので已むを得なく黒田

家を離れた全登

長政は両名の旧家臣が黒田家とは関わり合い無い事

を幕府に対して釈明しますが、不信感を持った家康

は長政に江戸留守居役を命じます

後藤又兵衛とは兄弟同様に育った長政ですが、二人

の間に一体何が有ったのでしょうか??

可愛さ余って憎さ百倍という事なのでしょうか??

不思議でなりません

戦国の不文律として「奉公構え」があります。

奉公構えに指定されると他家へ仕官する事が出来な

くなるのです

他家への仕官が事実上絶たれた又兵衛には豊臣の家

臣として戦う以外に選択肢はなかったのでしょうね

 

ドラマでは幸村への使者として現れた明石全登です

が、キリシタンとしても有名ですよね。

全登と幸村はかなり馬が合ったようですが、そんな

関わり合いだったのか??幸村もキリシタンだった

という説があります

真田フランコというのが洗礼名だったとか??

イエズス会の日本報告集に真田フランコという記述

があるのです

幸村の事なのか?別の真田なのか?確証はありませ

んが、信憑性は高そうです

幸村が大の仲良し明石全登の影響を受けキリシタン

に改宗したとしても不思議有りませんよね



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真田丸、挑発したのは豊臣かも??

2016-10-17 | 歴史

幸村が九度山を抜け出したという情報が広まっている中、

大阪城に入る幸村は老け顔メイクでしたね

14年もの隠遁生活ですっかり老け込み、杖を突きながら

入城する姿を見て周りはさぞかし驚いた筈です

片桐且元を追放した後、豊臣家を牛耳っていたのは大蔵

卿の息子・大野治長ですが、誰の目から見ても若輩過ぎ

ますよね

「豊臣には全軍を率いる武将がいない。血で血を洗う戦

にはなるまい!!」と言っていた信之ですが、まさか!!弟の

幸村が入城するとは思わなかったでしょうね

どうやら家康も信之と同じ思いの様です

しかし、烏合の衆を束ねるのは至難の業。

一騎当千の武将も含め10万もの兵を束ねるのは不可能です

流石の幸村でも荷が重そうですね

ところで

関ケ原の戦いが終わると家康は、西軍に味方した大名達の殆

どを取り潰し東軍の大名達に恩賞として与えます

そればかりではありません。

豊臣家の直轄地も秀頼からの御褒美として分け与えてしまっ

たので豊臣家としては普通の大名並みの領地しかなくなって

いたのです

秀頼様からの御礼と称し気前よく分け与えたのですから豊臣

家としてはたまったものではありませんよね

しかし、領地が減ったとはいえ財力では徳川と比べても見劣

ってはいません

当時の日本の首都・大坂には商人は勿論ですが、浪人達も溢

れていた筈。

財力にものを言わせ軍事力を増強するには格好の状態だった

訳です。

 

冬の陣の発端は有名な方広寺鐘銘事件ですが、家康が難癖を

つけ豊臣を挑発したと言われていますが、本当なのでしょう

か??

清韓が書いた文章の中に(国家安康)家康と(君臣豊楽)豊臣の

字が有るのは事実ですし、後に清韓が「祝意を込めて家康

の名を入れた!!」とも言っています

問題なのは豊臣は姓で家康は名前だという事です。

建前上豊臣家の家臣とはいえ現実的な天下人は家康だと誰も

が思っていた筈

これはかなりの非礼にあたります

しかも家康の名前だけがという文字で分断されているので

すから、確信犯だと言われても仕方ありません

見方を変えれば徳川が挑発したのではなく豊臣が挑発したと

見る事も出来るのです。

清韓一人の考えなのか?豊臣家の誰かの指図なのかは分かり

ませんが…

単に徳川に一泡ふかせてやろうと思った事が大きくなっただ

けなのかも知れませんが、策士策に溺れた感じもします

何れにしても、この事を逆手に取られ滅亡に向かったのです

から、豊臣家からすれば清韓の書いた書は悔やんでも悔やみ

きれません

ペンの恐ろしさはこの時代にもあったという事でしょうかね??




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真田丸、且元の裏切り??

2016-10-11 | 歴史

秀頼の使者として訪れた明石全登

にべもなく大阪城入りを断る信繁に「会わせたい人

がいると…」

まさかここで片桐且元が登場するとはビックリ

追放された経緯を話始める且元ですが、戦いを避け

る為に徳川から出された三箇条(秀頼の国替え、茶々

の人質、豊臣家の参勤)が且元の作り話だったとは

その言い訳が「悔しくて嘘をついた!!」とは二度ビ

ックリ

大坂の陣は且元が原因だったのですね

いくら何でもとは思いますが、三谷脚本なので…


実は、家康の意図は違うところにあったのです

形上は豊臣家の筆頭大老・家康が豊臣家へ遣わした

且元を秀頼が勝手に追放した事になるのです

家康は大阪城を攻める大義名分が欲しかったのでし

ょうが、いくら何でも無理がありますよね。

秀頼・茶々は勿論、且元を含めた豊臣の家臣達が、

すべからく家康の罠に掛かった事になります

あからさまに無理難題を押し付けても徳川に反発す

る大名はもはやいなくなっていたのです

 

いよいよ幸村を名乗る事になった信繁ですが、まさ

!!籤で決めたとは思いませんでした

幸村の名は江戸時代に入ってから講談などで語られ

ていた様ですが、現代では幸村と言う名前の方がし

っくりしますね

真田家の諱・幸と、信繁が持っていたとされる妖刀

正村の村から幸村の名を付けたとも言われています

が、こじ付けの域を出ません

何れにしても信繁の生前には幸村を名乗っていなか

った事だけは間違いなさそうです

ところで 

裏切者のレッテルを貼られている片桐且元

優柔不断な性格を家康に利用され豊臣家滅亡の道筋を

作ったかのように言われていますが、果たして本当な

のでしょうか??

検地奉行や普請奉行、唐入りに際しての食料・武器弾

薬の調達などなど…

官僚としてはかなり資質が高かったのは間違いなさそ

うです

関ケ原の戦いでは西軍に味方した且元ですが、裏では

嫡男を家康に人質として差し出しています。

三成が勝手に起こした戦に秀頼は関係無いと言いたか

ったのでしょうか

この事からして且元が戦いを望んでいなかったと思わ

れるのです。

東軍の勝利が決まるとすぐ家康に会い戦勝報告を述べ、

家康の護衛までしています

一連の行動は自分の保身の為ではなく、単に豊臣家存

続を考えての行動だと僕は思っています。

且元の考えの根底には、どういう形であれ豊臣家を残

したいという思いが強かったのではないのでしょうか

何が何でも秀頼を中心とした豊臣政権を維持したい三

成とは相容れません

同床異夢状態の三成と且元、豊臣の家臣としては同じ

ですが、着地点が全く違うのです

三成に且元の様な柔軟性が少しでもあれば豊臣家滅亡

は避けられたのかも知れません。

もし、西軍が勝ったとしても三成と且元はいずれぶつ

かる運命にあったでしょうね

 

且元が大阪城を退去したのは方広寺事件の調停が不調

に終わった責めを受けたからだけなのでしょうか??

家康から出された三条件は全く呑めない条件ではあり

ません。

木村重成をはじめとする大阪城内の強硬派による且元

暗殺未遂事件が起こったというのが直接の原因だった

様です

大阪城を退去するしか道が残されていなかった且元で

すが、この事を家康に利用されるとは

少し可哀想な気もしますね




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真田丸、即答したでしょうね!!

2016-10-03 | 歴史

サナール紐→真田紐、サナールと真田を掛けただけだったとは

全く知りませんでしたが、本当なのでしょうかね??

信繁が真田紐を考案して全国に売り出したという話は後世の作

り話だという説もあるくらいに確かな話ではなさそうです

何れにしても九度山での生活はかなり困窮していたみたいです

 

家康の側近・本多正信を通じ再三恩赦を働きかけていた昌幸親子

でしたが、昌幸に恨みを抱く秀忠が二代将軍に就任した時点でほ

ぼ絶望的

昌幸が亡くなると九度山についてきた家臣達も故郷・上田に帰り

始め数名しか残らなかったとも言われています

信繁は昌幸没後、出家して好白と名乗っていた様ですが、世に出

る望みも絶たれたせいか歯も抜けすっかり老け込んでいったとか

ドラマやゲームなのどの信繁のイメージとは似ても似つかなかっ

たみたいですね。

酒に溺れ自堕落な生活を送っていた信繁の許に突然秀頼から

の出仕の願いが届いたのですから信繁が断る理由は全くありませ

ドラマでは秀頼の使者として現れたのが明石全登ですが、大野治

長だったという説もあります

個人的には明石でも大野でもなかったとは思っていますが…

支度金として金200枚・銀30貫目、入城の暁には5000名の将とし

て遇し勝利した後は50万石の大名とする事を確約したと言われて

います

武士としての信繁の心に灯が着かない訳がありません

おそらく信繁は即答した筈

条件にも惹かれたでしょうが、「もう一度戦が出来る!!」、武士と

して生きられる事を噛みしめていたでしょうね

ここで問題になるのが脱出方法です。

信繁一人ならともかく、家族や家臣も一緒となるとかなり難しそう

です

浅野家から監視役を命じられていた村人を酔わせて脱出したとか?

脱出を知った浅野家に領民が信繁をかばって三日も前から不在だと

嘘の証言をしたとか?

元々親豊臣だった浅野家自ら監視を緩めたとか?

諸説ありますが、家族と家臣を含めるとかなりの数になるので村人

の協力が無ければ不可能だったのだけは間違いなさそうです。


いよいよ大阪城に入る信繁ですが、実は、大坂の陣以前の素行は殆

ど分かっていません

歴史に登場するのは大坂の陣からだといってもよいのかも知れませ

んね

裏を返せば、今までのドラマでの信繁はフィクションなのです

最期のほんの一瞬輝いた信繁の人生ですが、歴史に名を遺すほどの

戦いがいよいよ始まります。

次週からが『大河ドラマ真田丸』の本編だと思っている僕なのです



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栃の木伝説!!

2016-10-01 | Weblog

ようやく見つけた一冊

坪谷京子著・ほっかいどう むかしあったとさ 

欲しかった理由は、126ページ

僕のルーツ、栃の木山(白木神社)の連理木に纏わる伝説の由来が

載っているからなのです

和人・幸助とアイヌの娘・チヤサニの悲恋物語

何となくは聞いてはいたのですが、詳しく知りたかったので

資料になる書物を探していたのですが、ネットで遂にゲッツ

どうやらこの本の内容は、僕の御祖父さんから伝聞を元に書

かれている様です

幸助とチヤサニが亡くなってから800年の時を経て

2本の栃木から伸びた枝がしっかりと結びついてし

まったのです。

2本の木が1本になった瞬間ですね

栃木山・白木神社は縁結びの神として「恋の栃の木さ

」と呼ばれるようになったとか

因みに、白木神社と命名したのは、北海道開拓使長官

黒田清隆が栃の木神社を通った時に付けたと言われています










 

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真田丸、昌幸の遺言!!

2016-09-26 | 歴史

戦国の世では領土を守り抜くことさえ至難の業、しかも信濃の小豪族

に過ぎなかった真田家を大名にまで押し上げた昌幸の才覚は並外れた

ものがあったのでしょうね

昌幸がもし?大軍を動かせたならどのような戦をしたのでしょうか?

興味が尽きません

関ケ原のおり、黒田如水はあっという間に九州を占領して行きますが、

昌幸も如水と同じように甲斐に攻め込んでいたかも知れません

尊敬してやまない武田信玄の旧領を回復していた可能性すらあるのです

西軍に味方した時、三成から上田・小県・沼田は勿論、旧武田領も勝手

次第のお墨付きを貰っています

長期戦になれば上杉は勿論、伊達・佐竹・最上など元々徳川に心から臣

従していない大名と連携し一大勢力を形成、徳川と対抗出来たかも知れ

ません

昌幸にとっては返す返すも半日で関ケ原の戦いが終わった事が悔やまれ

ます

天地人と言いますが、昌幸にはどうやら天の時が無かった様です

やはり、全てが揃わなければ天下に名乗りを挙げるのは難しいのでしょ

うね。

 

九度山には家臣16名が同行したと言われていますが、普通の生活が出来

れば、和歌山藩から50石の扶持、信之からの仕送りもありさほど困らな

かった筈なのです

しかし長年しみついた大名生活を変える事など昌幸には出来なかったの

借金もかさみ頻繁に信之に手紙を出しています

昌幸が信之に対してお金のむしんをしたのは10年間で20回、半年に1度

は手紙を送っていた事になりますね。

そんな昌幸ですが、いずれ徳川VS徳川の戦いが起こると予言していたと

も言われています

その時、どう戦うか!!死の直前に信繁に秘策を伝授していたとも言われて

いますが、眉唾物臭い感じですね

 

死に臨んで昌幸からの遺言

「徳川に勝てるただ一つの道、10年掛けてわしが考えた策じゃ…」

真っ先に尾張を制し徳川が攻め来たら頃合いを見て尾張を捨て近江まで引

く……と。

一通り聞き終えた信繁。

「父上ならきっと上手く運ぶでしょうが、私には場数が足りません。」と

返答する信繁に対し「わしの策に場数など必要ない!!」と言い切る昌幸。

蟄居の後も戦の事だけを考えていたでしょうか??

戦をする為に生まれて来たといっても過言ではなさそうです

 

大坂の陣で信繁が大阪城に入城したと聞いた家康は、手を掛けていた戸

がガタガタと震えるほど動揺

「それは親か?子か?」と家臣に確かめたと言われています。

既に昌幸は亡くなっているのを知っていたにもかかわらず…

家康の狼狽振りが見て取れます

いかに昌幸が家康に恐れられていたかを物語る逸話ですね

 

個人的ですが…

第一次、二次の上田合戦を見ると昌幸と楠正成とだぶって見えます。

赤坂城や千早城に籠りゲリラ戦で敵軍を蹴散らした正成と、敵を誘

き寄せ側面やら後方からの攻撃は奇想天外

強きを挫く戦いは痛快ですね


 

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真田丸、何故?斬首だったのでしょうか!!

2016-09-19 | 歴史

徳川軍に大勝利を収めた昌幸ですが、西軍が半日で負けた

事が中々理解できない様です。

年齢からしても最後の大戦に掛けた昌幸の無念さが滲み出

ていましたね

信繁に諭され後を信幸に託しますが、開口一番「この役立

たずが!!」と信幸の微妙な立場も考えず罵声を浴びせます

直後に「済まぬ!!」と頭を下げる昌幸ですが、犬伏での約

束を思い出したのでしょうかね?

頭では分かっていても心がついて行かなかったのでしょう

か?

自分達は勝ったのに敗軍の将として流罪になる事を受け入

れるにはもう少し時間が掛かりそうです

 ところで…

関ケ原の後、逃亡していた石田三成・小西行長・安国寺恵

瓊は捕まり引き回しの上処刑されましたが、何故?切腹で

はなく斬首だったのでしょうか??

関ケ原の戦いは豊臣VS徳川ではありません。

家康はあくまでも五大老筆頭であり秀頼の後見人

豊臣政権の筆頭として処分を下した事になります。

建前上、三成ら三名は秀頼の名を騙って騒乱を起こし、豊

臣政権を混乱に貶めたという理由で処刑されたのです

五大老で表面上西軍の大将だった毛利輝元や上杉景勝も減

封にはなりましたが、処刑はされていません

関ケ原で西軍の主力として戦った宇喜多秀家ですら島流し

の処分で済んでいます

自害した長束正家は別として家康の目的は大々名を潰す事

ではなく、豊臣家への忠誠心が強すぎる原理主義者達の一

掃が目的だったのではないのでしょうか??


通説では…信幸が自身の恩賞と引き換えに昌幸・信繁の助命

を嘆願したとされていますが、流罪になったのにはそれなり

の訳があった様です。

関ケ原の戦後処理では首謀者以外で処刑された武将はいませ

二回にわたって徳川軍を翻弄した昌幸ですが、関ケ原の戦い

では西軍に加担した一武将にすぎません。

そもそも二度の上田合戦では昌幸に運が味方しただけの様な

気もします。

第一次では石川数正の出奔、第二次では戦局が思ったより早

く動いたため局地戦の上田城攻めに関わっている時間が無く

なっただけ…

絶妙なタイミングのお陰で昌幸は命拾いしたとも言えます

長期戦になれば間違いなく真田家は滅亡していた筈。

昌幸は強運の許に生まれたといっても良いのかも知れません

しかし、その強運も長くは続かなかった様ですね

昌幸は西軍が負けたのを知ると東軍に恭順の意を表し投降し

ます

首謀者でもなく投降した武将を豊臣政権筆頭の家康が処刑す

る筈がないからです

昌幸の強運は二回の上田合戦で使い果たしてしまったのでし

ょうかね??



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真田丸、リプレイを見ているようですね!!

2016-09-12 | 歴史

徳川の主力部隊による第二次上田合戦

総大将は徳川の世継ぎ秀忠ですが、上田攻めは秀忠の意思

ではなくあくまでも家康の命令です

上方での東西決戦が家康の想像していたより早くなりそう

なので秀忠軍に上田城攻め中止の伝令を発しますが、おり

からの長雨で利根川が氾濫、伝令も足止めされます

23日は遅れた筈。

すんなり伝令が届いていれば徳川軍の犠牲者も殆ど出なかっ

たでしょうね

それにしても、徳川精鋭部隊をもってしてでも昌幸に敵わな

かったのはどうしてなのでしょうか??

昌幸ほどの武将が同じ戦法を使う筈が無いと思ったのでしょ

うか??

敵を挑発し上田城へ引き寄せ鉄砲攻撃、逃げるところを伏兵

による側面攻撃、総崩れとなった徳川軍ですが、長雨で増水

した神川を渡れず撤退不能

昌幸はまたしても神川上流の堰き止め、時機を見て堰を切っ

たため神川は溢れ敵の応援部隊も為す術なし

まるで第一次上田城攻めのリプレイを見ているようです。

智将・真田昌幸の面目躍如といったところですね

 

犬伏の別れから三日後に開かれた小山評定。

上杉討伐軍に従軍していた豊臣の主力部隊がこぞって家康

に同調

徳川軍ではなく東軍として主力部隊を形成。

関ケ原の戦いは、見方を変えれば豊臣軍内の権力闘争とも

いえますね

豊臣軍の内部崩壊をまんまと家康に利用され、気が付けば

家康による天下統一の手助けをする事になっていたのです

秀頼誕生で身内を殺し、意味のない唐入りが発端で内部に

亀裂が走り、自らが亡くなった後に対立が頂点に達し内部

崩壊へと向かいます

そう考えれば秀頼誕生が豊臣家滅亡の引き金を引いた事に

なるのかも知れません

 

秀吉の急速な老いが判断力を低下させ老いた権力者だけが

残ったのですから豊臣政権滅亡は仕方のないところです

 

予告では…

再来週あたりに小野のお通が登場しそうですね

信幸と深く関わりあいのあった小野のお通

真田丸ではスルーされるのかと思っていましたが、満を持し

ての登場

実在したのは間違いないのですが、とにかく謎の多い女性で

そのお通の墓が真田の菩提寺・広徳寺にあるのです

この事から信幸の側室だった可能性があるとも言われている

のです。

信幸の次男・信政の側室・図子はお通の長女だとか

詩歌や書画、琴などにも秀でた才能を発揮、美貌も兼ね備え

た才媛だったお通、全く非の打ちどころのない人物ですね。

信幸が心を奪われたとしても不思議有りません

信長・秀吉・家康をはじめとする武将達とも繋がりを持ち、

皇族や公家や寺社との交流も…

謎に包まれたお通ですが、出生には諸説あり定かではありま

せん

家康の側近・天界もそうですが、お通の前半生も謎に包まれ

ています。

仲介者・交渉人としてはその方が都合が良いのかも知れませ

ん。

個人的にはどういう形で登場するのか今から楽しみです。

因みに、吉川英治の「宮本武蔵」に登場する武蔵の妻・お通

は小野お通がモデルだとか?

本当なのでしようかね??






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真田丸、三人に迷いは無かったのです!!

2016-09-05 | 歴史

今週は感動的な場面として言い伝えられている「犬伏の別れ」

でしたね

親子三人で議論を重ね、真田家が生き残る道を模索した結果、

東西に分かれたかの様に言われていますが果たして…

昌幸は石田三成の妻と縁続き、信繁は大谷吉継の娘婿、信幸

は家康の重臣・本田忠勝の娘婿と至極自然な形で東西に分か

れたのです。

三人におそらく迷いは無かったでしょうね


それにしても、ドラマでの演技には泣かされました

「豊臣と徳川に分かれても真田は一つ。」と言い切る信幸に

対し「良い策じゃ。」と頷く昌幸。

涙が止まらない信繁の肩にそっと手を添える信幸

真田家の嫡子としての振る舞いを感じます。

 

いよいよ天下分け目の関ケ原ですが、大谷吉継は何故?西軍

についたのでしょうか??

三成との友情から西軍に味方したと言われていますが、それ

だけでしょうか??

負けると分かっている戦いに吉継ほどの武将が挑むとは思わ

れません。

吉継には勝利する自信があった筈です。

東軍の主力は豊臣子飼の大名達です。 

秀頼がいる限り長期戦に持ち込めば勝つ可能性がかなり高か

ったと個人的には思っています。

吉継にとって誤算だったのは関ケ原の戦いが半日で終わった

事です

戦いが終わるまで少なくても半年から数年は掛かると考えて

いた筈

運が無かったと言えばそれまでですが、東軍に比べあまりに

も万全な布陣を敷いたのも仇になったのかも知れません

今、総攻撃すれば勝てると三成は思ったのではないのでしょ

うか??

長期戦に持ち込めなかったのが悔やまれます

 

敗戦が濃厚になると西軍の武将達はこぞって逃走を始めますが、

吉継だけは違いました

関ケ原の戦いで自刃して果てたのは大谷吉継ただ一人、その潔

さは信繁にも通じるものがありますね。

後に吉継と激戦した藤堂高虎が吉継の墓を建てています

敵の有力武将の墓を建てるとなると徳川から睨まれる事になる

かも知れません

そのリスクを負ってでも墓を建てた高虎の心の中には吉継に対

しての尊敬の念があったのでしょうか??

高虎の心を駆り立てたものは何だったのでしょうか??

家康も高虎を罰する事も無く不問にふしています

敵将からも尊敬の念を持たれていた吉継。

あまりにも潔い生き様ですね





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