ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第63号 レイモンハウス元町店

2006年11月29日 | 美味満足技処、買い物処

所在地=函館市元町30番3号

五島軒を出て、二十間坂を少し登ると大谷派函館別院(第42号でご紹介)が見え、その正門前に位置する。

 
  (レイモンさんの胸像。そっくり!)         (レイモンさんの旧宅)

「おはようございます、レイモンさん」
「おはようございます」手をつないで散歩するレイモンご夫妻の話題が消えてから、何年経つだろうか?

ドイツ生まれのレイモンさんが日本人と結婚してここに住み、横の小さな工場でハム・ソーセージの生産を始めたのは大正13(1924)年。
手作りで出来上がった味の芸術品は、毎週金曜日の1回だけ近くの十字屋食料品店で販売されていたが、開店前から長蛇の列。
なかなか手に入らない、超人気品であった。

この十字屋食料品店、北斗市のトラピスト男子修道院の関係者が創業したと伝えられ、同修道院のバター、クッキーなども独占販売していた時代があった。

                 
        (レイモンさんの工場跡にできたレイモンハウス元町店)

昭和58(1983)年、日本ハムにブランドを譲り引退、4年後、味の魔術師は93歳の生涯を閉じた。
企業化された製品は「函館カール・レイモン」と命名され量産体制に入った。
現工場は市内東北部の鈴蘭丘町。、ここ元町店ではギフト製品の販売、軽レストランがあり、散策で疲れた体を癒してくれるから嬉しい。
2階は歴史展示館になっていて、レイモンさん愛用の製造器具から手作り時代を彷彿させる。
多くの人々に愛されたレイモンさんは、店の傍で皆様をお迎えてしている。

                       ミカエル

 

 


第62号 老舗レストラン・五島軒(参部構成の参)

2006年11月26日 | 美味満足技処、買い物処

所在地=函館市末広町4番5号

 
  (メモリアルホール・蘆火野)           (新館・雪河亭)

参部構成でご案内してきた「五島軒」。結びは店名の由来についてです。

明治12年4月に創業開店した西洋料理店の料理長として迎え入れたのが「五島英吉氏」 。創業者・若山惣太郎氏は何故「若山軒」としなかったのか?
その理由はこうであった。

4代目で現社長・若山直氏(3代目・徳次郎氏の長男)の祖母・フサさんは、
「商人である惣太郎よりも五島は身分の高い人。時が時なら、世が世なら、と考えれば惣太郎の気持ちが分かる。文明開化のご時世であっても五島は武士。その彼を雇う以上金銭を超えた処遇が必要であったのではないか」が持論。確かに頷ける。
では、五島英吉氏はどんな人物であったのか?

五島氏は徳川幕府の出先機関・長崎奉行所に勤務する役人で、支那語の通訳をしており、「宋 近治」といった。
幕末の混乱期、江戸から旧幕府脱走軍の軍艦・幡龍に乗艦し箱館戦争に参戦し負傷、明治政府軍の残党狩りを恐れた氏は、ロシア領事館敷地内のハリストス正教会(第45号でご紹介)に助けを求め、ニコライ神父によってかくまわれた。
同神父が上京後、アナトリイ神父の従者に任じられ、ロシアの料理、パン、菓子の作り方を教わり腕を磨いていった。

ニコライ神父との「教会内居住10年」の約束期間満了を迎えるにあたり、五島列島出身であることから「五島英吉」と名のった。
親しかった信徒の同郷者「若山惣太郎氏」と出会い、洋食店の料理長として入店、腕を振るうことになる。これが店名由来の顛末である。

今から152年前、アメリカの東インド艦隊司令・ペリー提督が箱館に来航した。
彼が江戸幕府と結んだ日米和親条約で、開港が決まったここ函館。
その影響で、国内でいち早くいろいろな異文化が入り込み、町の進路を大きく変えることを余儀された。
なかでも人間にとって、もっとも関心のある「食文化」への影響が挙げられる。

入港する外国船へのパンの供給から事業を起こし、幾度となく火災に遭いながらも苦難を乗り越え、西洋料理を伸展てきた。
その店が、わが町函館が日本に誇る市民レストラン・五島軒である。
このブログをお読みいただいてからの料理は、味に深みを感じると思う。
これからも美味しい味に期待し、結びとしたい。

3回にわたって長々とご案内した「五島軒」、アクセスしていただき本当に有難うございました。 

                    ミカエル

 


 


第61号 老舗レストラン・五島軒本店(参部構成の弐)

2006年11月24日 | 美味満足技処、買い物処

所在地=函館市末広町4番5号

 
   (登録文化財となった旧館)            (格式ある王朝の間) 

先回は創業から現在に至るまでの数々の負の面をご紹介しましたが、今回は吉の部分をご紹介します。

昭和2年 カレーライス10銭~12銭 公務員初任給75円
昭和52年8月13日 3代目徳次郎氏、北海道函館方面公安委員に任命される。
昭和54年11月3日 3代目徳次郎氏、函館市文化賞を受賞。
昭和56年6月20日 3代目徳次郎氏、函館更生保護教会会長に就任。

昭和59年6月 「メモリアルホール・蘆火野(あしびの)」オープン。
故船山馨氏の歴史小説「蘆火野」が、五島軒をモデルにして書かれたことから、氏の遺品などを展示。

昭和59年7月    3代目徳次郎氏、函館方面公安委員長に任命される。

平成元年9月18日 創業110年謝恩パーティー開催
帝国ホテル総料理長・村上信夫氏、女優・岡田茉利子さんら出席

平成元年10月2日 天皇・皇后両陛下行幸啓御昼食(王朝の間)
同席者~宮内庁長官、侍従長、侍従次長、女官長代理、侍従、行幸主務官、知事、道議会議長、市長、市議会議長
御献立~鮑のクールブイヨン煮、コンソメ、二代目若山徳次郎リッチ鴨カレー、季節のサラダ盛り合わせ、七飯リンゴワインシャーベット、マスクメロン、珈琲

平成5年8月8日 第21回赤十字北海道大会 
名誉副総裁・常陸宮妃殿下歓迎晩餐会

平成9年5月29日 登録文化財になる。
本店旧館が札幌市資料館(旧札幌高裁)とともに道内第1号となる。
質素な外観、格調高い内装がその理由。

平成11年5月 会長・徳次郎氏、フランスシラク大統領から「シェバリエ・レジョン・ド・ヌール勲章」を受ける。
料理文化の伝道者として、フランス文化の普及と日仏友好親善の伸展に寄与したのが受章理由。

平成11年9月 創業120周年記念パーティー開催。

資料が手元になく、来店された正確な日時が分からないものの、
オペラ歌手・三浦たまきさん、歌人与謝野鉄幹・昌子ご夫妻、アメリカ大リーグ選抜ベーブ・ルース選手、ルー・ゲーリック選手らの名も見える。
フランスの駐日大使、領事は期間中に必ず来店するという。
映画、テレビドラマ・料理番組などの撮影地として、多くの実績を持つ。
さりげなく飾っている絵や彫刻から、オーナーの芸術心が感じられた。

「料理は文化」という若山家の経営基本理念が味に表れ、幅広い支持を得て隆盛を誇っているように感じる。
次回は最終回、「なぜ店名が五島軒なの?」、この疑問に答えたい。

11月も今日が24日、ひと月後はクリスマスイブ。
退職後はのんびり過ごしているのに、現役時代と変らない時間のスピード。
1,2,3 信じられない!  ミカエル


 

 

 

 


第60号 老舗レストラン・五島軒本店(参部構成の壱)

2006年11月22日 | 美味満足技処、買い物処

所在地=函館市末広町4番5号

教会群や各国の領事館巡り、お疲れさま。
お腹も空かれたことでしょうから、お薦めの老舗レストラン・五島軒でお食事をしませんか。

 

内地からお客様が見えると、必ずご案内するのが五島軒本店。
深く輝かしい歴史を誇りながら、価格は手頃。
函館が日本に誇れるレストラン・五島軒、その歴史を3回にわたってご紹介します。

創業は明治12年4月、創業者は若山惣太郎氏。

氏の父は江戸で米問屋を経営、その長男として安政2(1856)年に江戸で生まれた。
明治11(1878)年に来函し、西洋料理店に勤務後、旧イギリス領事館西向かいあたりに自宅兼パン工場を建設して独立開業した。
すなわち、パン工場からのスタートであった。
以来、経営は若山家によって引き継がれ、現社長の若山直氏は4代目。
このように血筋が変ることなく西洋料理一筋に続けているレストランとしては、日本最古といわれている。

翌年の明治12年4月、当時の東浜町の連絡船桟橋付近に、ロシア料理、パン、ケーキの店「五島軒」を開業したが、のちに火災焼失。

明治19年7月9日、末広町15番地(八幡坂通り下)に新築。
フランス料理へ転換。商売繁盛で客室増築。

明治34年4月9日 基坂下、末広町1番地(日本銀行隣接地)に新築移転。
三階建て、撞球場併設。二代目徳次郎氏帝国ホテルへ修業に出発。
明治40年8月25日、大火焼失。

明治40年?月?日、現在地(当時は相生町6番地)に再建。
大正10年4月14日、大火焼失。

大正10年5月10日 旧桟橋前万世ビル4階と焼け跡地に仮店舗を設け営業続行。

大正11年?月?日 現在地に一部鉄筋コンクリート造地下1階、地上3階建の店舗を再建。2階の一部、3階にホテルを併設。
昭和9年3月21日、大火焼失。

昭和9年6月7日 焼け跡地、大三坂下、現大手町の3箇所に仮店舗を建設し営業。

昭和10年9月末日 現在地に本店を再建。
設計は函館出身の作家、亀井勝一郎氏の弟で亀井勝次郎氏。
函館市内で初めて神前式場を設けた。

受難はこれで終わったわけではなかった。
昭和20年10月~25年10月までアメリカ軍に接収され、第9軍団第77師団の司令部になる。
(昭和24年4月23日、1ドル=360円の為替ルート実施)

「これで本当に終わりだろうと思った」とおっしゃるが、
平成14年9月25日、本店が隣家火災によりもらい火となって、伝統ある「王朝の間」
が被災。同年12月10日、費用約1億5千万円をかけて復旧。

こうして創業から現在までの歴史を振り返ってみた。
まさに火災との戦いであったが、そのたびに力強い再建があった。
若山家のご苦労はどんなものであったろうか。

次回では、喜ばしい出来事をご紹介します。 ミカエル

 

 

 

 

 





 

 

 


第59号 世界に一冊だけの本・展

2006年11月20日 | 展覧会、催事など

 

 

展覧会名=世界に一冊だけの本・展
会場=函館市元町18番11号 FMいるか放送局1階 ぎゃらりー807

今日の午前、この展覧会に妻と二人で出掛けました。
昨年に引き続いて2回目の会は、ひと人で大賑わい。撮影するチャンス待ちに時間がかかりました。

心を込めて作られた作品は、その名のとおり個性あふれる本ばかり。
素材は布、ベニヤ板もあって、思いもよらないアイデアと内容で時間が経つのを忘れてしまいました。
遠くは鹿児島県、奈良県の方からの出展もあり、113点の作品から作者の作られている姿が浮んできました。
皆様もぜひお出掛け下さい。きっと、感動しますよ。

26日までです。      ミカエル

 

 


第58号 旧ロシア領事館

2006年11月19日 | 在日外国施設(領事館など)

所在地=函館市船見町17番3号

  

安政元(1855)年12月に締結した日露和親条約に基づき、安政5年9月初代領事ゴシケーヴィチが着任し、実行寺で事務を開始した。
万延元(1860)年、元町の現ハリストス正教会敷地内に領事館を建てたが火災焼失。

明治36(1903)年、現在地で領事館の建設を始めたが、翌年の日露戦争で中断、完成したのは明治39年であった。
しかし、この建物も明治40年に焼失し、現在の建物が完成したのは明治41年の暮であった。
このように、諸外国の領事館や教会が幾度となく火災に遭っているのは、函館が大火火災が多かったことを物語っている。

ロシア革命後の大正14(1925)年からは、ソ蓮領事館となり、昭和19(1944)年10月、最後の領事が本国に引き揚げ閉鎖された。
昭和39年に外務省から函館市に移管され、翌年5月から「道南青年の家」になり、青少年の宿泊研修施設としてオープンしたが、平成8年7月に「ふるる函館」にその座を譲り、近々札幌領事館の出先機関として新たなスタートを切る予定だ。

昭和40年の秋、ここに宿泊したことがある
右写真の白い出窓は談話室のもの。この部屋からは港が一望でき、LPステレオを聴きながらのムードは格別で映画場面を彷彿させた。
そして、内部の重厚で豪華さは、帝政ロシアの建築様式の片鱗をのぞかせ、ジェームスボンドが出てきそうな雰囲気であった。

ロシア領事館が開設されてから、函館には多くのロシア人が住むようになったが、ロシア革命後には亡命者もやってきて一気に増えた。
そんな亡命者の中にアルハンゲリスキー(元漁業監督官)がいた。
彼は、昭和3年12月にロシア語の新聞「週刊函館」を創刊し、購読料は一部15銭だった。 
また彼は、昭和8年に日魯漁業会社函館出張所の事業部外事課に入り、対ロシア業務をこなす一方、「露語講習会」の講師を勤めた。
北洋漁業の根拠地であった函館には、100人以上のロシア語通訳がいたというからその養成に大きな貢献をした。
昭和14年、52歳で亡くなり外人墓地に葬られた。

今日、近くの温泉銭湯に出かけた。
露天風呂傍の木々は、温泉熱で気温が高くなるためにまだ紅葉が見頃。
体も心も癒されての380円は安い。  

        ミカエル

 

 

 

 

 

 


第57号 デジカメ買い足ししました。

2006年11月17日 | 我が家のもろもろ

  

これまで使っていたコンパクトデジカメは、カシオの320万画素。
買い足ししたのは、同じカシオ製で1,000万画素。
きめ細かい綺麗な写真をお届けすることができると思います。
いろいろな機能もプラスされているようですが、果たしてその機能を見つけ出して
使いこなせるかどうかは疑問ですが・・・。

あと、プリンターはかなり酷使したようで印字に汚れが目立ち、修理に時間と費用がかかるとのことでエプソン・PMーG730に買い替えしました。
印字速度はこれまでの倍、音もかなり静かになりました。

右の写真は我家のPCコーナーです。
ここでブログを編集し発信しています。

今日の函館は晴れたり曇ったり。
デジカメ持って、元町地区へ。風が冷たくて手袋が必要。
2箇所撮影して帰宅。
これからの散策・取材は、だんだんおっくうになります。

          ミカエル

 

 

 

 


第56号 旧アメリカ領事館跡

2006年11月15日 | 在日外国施設(領事館など)

所在地=函館市弥生町4番(現=市立弥生小学校敷地内)

 

前号でご紹介した中華会館の交差点の斜め向かいに位置する。
安政元(1854)年に締結された日米和親条約で、伊豆下田とともに箱館は諸外国との窓口として翌年開港した。

安政4年4月5日、合衆国貿易事務官エリシャ・E・ライスが捕鯨船に乗って来港し、浄玄寺(市立函館病院跡地にあった)の別堂(この地)を借り受け、星条旗を掲げ貿易事務所を開いた。
以来、ライスは箱館に出入りする米国船舶の利益を守り、かつ在留する米国民の保護・取り締まりにあたり、1865年には初代米国領事に任命された。
牛乳の搾り方、綿羊の飼い方、西洋洗濯の仕方など文化を箱館に伝えた。

明治9(1876)年、領事館は一時閉鎖され横浜領事館の管轄となった。
その後、第45号でご紹介したハリストス正教会の北隣、さらに船見町3番(咬菜園跡東側)に移転、それぞれ領事代理に委嘱された宣教師や商人たちが執務した。
アメリカ領事館が函館での役割を終えたのは大正7(1918)年11月15日であった。

ところで、下田には「唐人お吉」の悲しい実話があるが、函館にも類似した実話がある。その名は「おたま」。
安政5(1858)年1月10日に、箱館奉行所はライスに「たま(21歳)」を引き渡した。
前年4月22日にライスから婦人を申し込まれていたからである。
幕府とも相談し、4人の候補者の中から選んだ。
仕度金6両、年給は130両だった。

それでは幕末の1両は、現在の円に換算するといくらなのか?
関係機関に聞いても政情不安定なこの時期、明快な答えは返ってこない。
目安として、腕のいい大工がひと月休まず働いての収入が1両、中級の旅籠にひと月連泊して1両だという。
たまがその後、どんな人生を送ったのかは分からない。

函館も12日に初雪が降った。
私は6日にタイヤ交換を終わらせていたから正解。
今日のガソリンスタンドは、平日だというのにタイヤ交換で超満員。
2~3時間待ちというからドライバーのイライラする顔が浮んでくる。
         
           ミカエル

 

 

 


第55号 中華会館

2006年11月12日 | 在日外国施設(領事館など)

所在地=函館市大町1番12号

 

華僑の集会所は、最初同徳堂といったが、明治40年の大火で焼失した。
二代目のこの総煉瓦造の建物は、釘を一本も使わない純中国(清朝)様式として日本に現存する唯一の貴重な建物である。
函館から中国への海産物貿易の盛んな頃に、在函華僑が信仰する三国時代
(220年~280年)の武将・関帝(商売と学問の神様)を祀る聖所として建設した。

中国から大工・彫刻師・漆工らを招き、煉瓦等の資材も中国から取り寄せ、約3年の工期と巨費を投じ、明治43(1910)年12月に竣工した。
内部は朱色の漆塗り、金色の関帝壇を中心として周囲に小部屋を配し、装飾、調度品は壮麗である。

会館は華僑の公儀場所、祭事と交際の場所として使われてきた。
中国領事館が置かれた時もあった。
戦後、日常的にはほとんど使われていないが、国慶節(10月1日)、関帝祭(5月13日)の祝宴、結婚披露宴、中国からの賓客の歓迎の場としても使われている。

昨年、中国本土で起きた反日デモの影響を懸念して非公開が続いている。
建物は、社団法人・函館中華会館の所有である。

急に寒くなり、周りの山々は白く薄化粧をした。
今日は、日中も暖房を入れっ放し。
今週、平地が白くなる予報が出て、いよいよ冬将軍の到来だ。
インフルエンザの予防接種も受け、冬を迎える準備はこれで一応万全!かな?

       ミカエル
 

 

 

 


第54号 旧イギリス領事館(開港記念館)

2006年11月09日 | 在日外国施設(領事館など)

所在地=函館市元町33番14号

 

国際開港地となった箱館に、イギリス領事館が置かれたのは安政6(1859)年のこと。アメリカ、ロシアについで3番目の領事館は、初代領事ホジソンが当時の称名寺に開設した。
文久3(1863)年、現在のハリストス正教会の西に領事館を新築したが、数度の火災に遭い焼失した。

この建物は、大正2(1913)年,イギリス本国政府工務省上海工事局の設計により竣工したもので、昭和9年の閉鎖まで領事館として機能していた。
その後、市が買収し市立病院の看護婦寄宿舎(花陰寮)、カルテ保管庫として使われた。
 
平成4年、市制施行70周年を記念し、開港記念館として整備し開放した。
中庭は洋式庭園。ブロンズの噴水、ヴィクトリア調のあずまや、16種類のバラ、素晴らしい眺望。ここで結婚式を挙げるカップルが全国から集まる。

英国から直輸入した生活雑貨やオリジナル商品、軽食、香り高い本場の紅茶を提供している。復元された家族居室、領事執務室などがあって、イギリスへと導いてくれる。素適な気分にしてくれて、サンキュウ。

市立函館図書館蔵で、幕末にアメリカ領事館員が残した記録によれば、箱館港からの主な輸出品は、アワビ、じゃがいも、石炭、硫黄、昆布。
昆布は輸出総額の三分の二を占め、イギリスがほぼ独占し中国へ。
中国では薬として高価で取り引きされたという。
それにしても、箱館港の賑わいは何処へ行ったのだろうか?

佐呂間町の竜巻被害、大きかったですね。
子供たちへのクリスマスプレゼント、故郷で迎えるお正月を楽しみにしていたお亡くなりになったトンネルマンたち。
雪を前にして家屋を失った人たち。
予測できなかった一瞬の出来事に、お見舞いの言葉が浮びませんでした。

                     ミカエル



 



 

 


第53号 庭の紅葉

2006年11月07日 | 我が家のもろもろ

今日の函館は強い雨が降ったり止んだり。

 

我家の庭の紅葉は、強い雨に打たれて葉を落とし始めた。
これから風が強くなるとの予報。
オホーツク海地方では竜巻が発生し、6人が亡くなったもよう。

雷様がゴロゴロ鳴り出し、一荒れが確実にやって来る。
明朝までにたくさんの葉が落ち、庭は冬眠に入る。
春まで「ゆっくり、おやすみなさ~♪い!」              ミカエル



第52号 元町公園

2006年11月05日 | 公園

所在地=函館市元町12番

   
   (旧北海道庁函館支庁庁舎)         (箱館奉行所跡標柱)

この公園・庁舎は、上にある旧函館区公会堂も含めた西部地区の修復整備事業の一環として、昭和57年に進められた。

この公園敷地の歴史は古く奥が深い。
江戸時代には松前藩の亀田番所、江戸幕府の箱館奉行所、明治維新後は開拓使函館出張所、函館県庁、函館区役所などが置かれ、行政府の中心 として栄えた。

左の庁舎は、明治42(1909)年に建てられた。
ギリシャのパルテノン神殿を思い出させるようなエンタシス状の柱に特徴がある。
ほかに明治のロマンを感じさせる技法が多く見受けられる。
一時、札幌にある「開拓の村」へ移設計画もあったが、市民団体の反対で阻止されたのは正解であった。
現在は1階を元町観光案内所、2階を写真歴史館として貴重な写真機材や資料を展示している。

箱館奉行所は、五稜郭内に移転するまでここで執務していた。
箱館が開港決定されてから、奉行は防備上の不備を嘆いていた。
◎外国人が市街地を歩くようになれば、函館山から奉行所内部が丸見え。
◎入港した軍艦から大砲で狙われたら、たちまち破壊される。
ほかに、外国業務の増加に伴い、役人の増員が必要なものの奉行所が狭く対応できない。

このような理由で、移転先を配下の「諸術調所教授役・武田斐三郎」に命じ、
五稜郭に新奉行所を完成させ、移転したのが元治元(1864)年であった。
7年の歳月を要したが、4年後に榎本武揚、土方歳三らの旧幕府脱走軍が占拠し、日本人同士が血を流したのは、本来の目的とかけ離れた出来事であった。

五稜郭工事中のころの地図によれば、奉行所周辺に、松前、南部、秋田、仙台、会津、庄内各藩の連絡屋敷があり、蝦夷地の霞ヶ関を想像させる。
また、ロシヤ、エゲリス、フランスの官吏住宅、アメリカ人住居、外国人居留地の点在記載もあって、国際色豊かであったことが伺える。
この繁栄が、もう一度戻ってきて欲しいと願う。

今日の函館は無風でポカポカ陽気、ひと月前の気温らしい。
窓ガラスを水洗いし、庭の整理もした。
昨年の初冬景色は、11月17日。ちょっと早いけど、明日タイヤを交換する。
これで冬の準備は万全・・・の筈・・・だが・・・。

               ミカエル

 



 


 

 

 

 


第51号 旧函館区公会堂

2006年11月02日 | 教育施設

所在地=函館市元町11番13号

  

函館はロケ地としての魅力があふれている。
この建物もそのひとつ。明治の頃、流行した和洋折衷で左右対称のルネッサンス様式に似たデザインである。
それにしても、見事な色彩感覚には脱帽する。

明治40(1907)年の大火は、函館区の約半数、9,000戸近くを焼失した。
この大火で区民の集会所も失ったため、「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。
当時の函館豪商・相馬哲平は、自分の店舗を焼く被害を受けながらも、5万円の大金を寄付、これをもとに工事費58,000円で明治43年9月にこの建物は完成した。

設計者、監理者、施工業者がともに函館人であることを誇りに思う。
屋根窓を置き、玄関、左右入り口のポーチの円柱に柱頭飾り、屋根頂部の飾り柵の
意匠や技法が高く評価されている。

明治44年8月、皇太子殿下(大正天皇)の行啓の宿舎とし、また、大正11年7月には摂政宮殿下(昭和天皇)の御来道にも使用された由緒ある建物である。
本館1,761㎡、付属棟138㎡は、昭和49年5月に国指定重要文化財となった。

昭和55年10月から57年3月まで、工事費約355,000,000円で修復工事を行なった。
御座所、御寝室、大広間などが華麗に蘇り、往時の華やかさを物語っている。
明治調の衣裳で記念撮影ができる「ハイカラ衣裳館」や、大広間でのコンサートが人気となっている。
貴女もお嬢様やマダムに変身して、パチリしてはいかがですか?
夢が広がりますよ。

今日は所属しているスポーツ同好会の練習が、体育館で行なわれた。
今月から練習日が大幅減。外で練習していた団体が、体育館にその場所を移したのが原因。使用は抽選で決めるから、当る確率はかなり低くなった。
「宝くじが当ったら会で体育館を建てよう」と、夢のような話に皆で大きな拍手をして練習は終わった。
               ミカエル