ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第841号 幕末に動きあった箱館お奉行 

2014年01月18日 | 旧跡、史跡
今日は1月18日。
幕末の二人の箱館お奉行に、旧暦のこの日、大きな動きがあった。

① 1860(万延元)年1月18日
箱館奉行・村垣淡路守は、日米通商条約批准交換のため、
遣米使節として米国へ出発。
10月に帰国し、翌文久元年、箱館に帰任する。

この時に使われた軍艦は「咸臨丸」。
艦長は勝海舟。福沢諭吉も一団の中にいた。

② 1866(慶応2)年1月18日
杉浦誠、箱館奉行となる。
明治元年、新政府の箱館府に一切を引き渡した最後の箱館奉行。
明治2年、開拓使判官になり、10年1月まで函館に在勤した。

五稜郭内に復元された箱館奉行所は全体の3分の1の広さ。
これとほぼ同じ広さの、お奉行公宅が棟続きであった。
箱館で亡くなられたお奉行の家族のお墓は、近くの「大円寺」に
建立されている


防寒衣料もなく、暖房器具もない冬場の蝦夷地勤務は、
かなり厳しかっただろう。
昔の人たちは、強い精神力を持っていたのだ。



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第695号 忙中閑ありの五稜郭散策

2012年01月23日 | 旧跡、史跡
ミケが入院していた病院は五稜郭の近く。
18日は好天気に恵まれ、気温も上昇。
昼食の食器を下げてから、近くを散策することにした。

病院から100mほど離れた所に位置する五稜郭タワー。
函館観光客入り込み数のバロメーターになっている。
青い空、白い雲、白いタワーが美しい。

 

道立函館美術館正面に立つウエルカム像。
力強さを感じさせる堂々たる作品だ。

 

タワー周辺の桜の木々。
シーズンには、最も桜見物の宴で賑わうスポット。
今は美しい花を咲かせるためのエネルギーを蓄え中。

 

二の橋の欄干越しにお堀を望む。
結氷し雪が積もっている。
小学生の頃、ここは天然のスケートリンク。
”雪スケート”と呼ばれていたのを履いていた。
スケート本体を長靴にゴムバンドで固定するもの。
バンドは弱くて、よく切れ困ったものだった。

 

雪をかぶった奉行所。
郭内に住めれたのはお奉行と家族。
お女中に用務員くらい。
与力や足軽などは郭外の官舎住まい。
急病人が出ると函館山麓の病院から医師が駆けつけた。
夜間や雨雪日には難儀したらしい。

 

 防寒対策を施したものの、やはり昔風の建物。
「寒い!」の苦情に改善を余儀なくされた。
それでも「寒かった!」の声は聞こえる。

それと、今回復元したのは管理部門。
お奉行の公宅部分とお白州部分は見送られ、広さ三分の一にとどまっている。
これらの部分の復元も急いで欲しいものだ。

 

奉行所前の広場にある”枝垂れざくら”。
秩父宮妃殿下のお手植えになるもの。
それなのに雪の集積場とは・・・。
礼を知らない作業方法だ。

 

桜の剪定中。
毎年行われているこの作業。
1600本すべてを、梯子をかけ人力で剪定。
足場が不安定だから、大変だ。
この努力があってこそ、美しい花を咲かせてくれるのだ。

 

この石垣から箱館戦争時の不発弾が見つかった。
郭内には見隠塁と呼ばれる防御石垣が3箇所ある。
これは、奉行所裏の物。
平成になってから、この石垣の積み替え工事が行われた際に出土。
幸い信管はなく大事に至らず、自衛隊の手で処分された。

弾は、明治政府軍の旗艦・甲鉄からのもの。
フランスで建造され、アメリカ南北戦争で使われた中古艦。
函館港から発射された。

 

六花亭五稜郭店に入る。
ミケと同室の方へのお土産購入と休憩のため入店。
大きなガラス窓から見える五稜郭はまるで墨絵の世界。
春の桜の見事な紅の世界とは対照的。
でも、どちらも大額におさまっている名画に違いない。

 

店内にある軽食喫茶コーナー。席は25ほど。
コーヒーだけなら無料で飲み放題。
お客様へのサービスが徹底されていて、とても嬉しい。

 

二杯頂いて、病院へと向かった。
傍についている時の暇な時間を見つけての、気分転換となるひとときだった。


ミカエル

第564号 坪当たり900万円也! 箱館奉行所

2010年09月19日 | 旧跡、史跡

北海道で唯一の特別史跡「五稜郭跡」。
その中にようやくシンボル・箱館奉行所ができあがった。

最上部の「太鼓やぐら」は、土塁から飛び出していたため、明治政府軍の旗艦・甲鉄艦の標的にされた。
この時の弾丸は平成になってから、奉行所近くで発見された。

 

江戸徳川幕府が蝦夷地の要として造り上げた蝦夷地最大の建造物、それが
「箱館奉行所」だった。

今回の復元部分は全体900坪のうち3分の1の約300坪。
それでも27億円の巨費が投じられた。
一坪当たり実に900万円。復元ゆえの高額さに驚く。

最近の分譲住宅のチラシを見ていると坪約40万円前後。
いかに材質、腕、技法に吟味をしたのかが窺える。

入り口でビニール袋を手渡され、靴入れに。
入場券は近代的な自販機。これはいただけない。
昔ながらの手売りが相応しいと思うのだが・・・。

直ぐ右側にトイレ。
当初の設計図には「雪隠(せっちん)」とあった。

小学生のころ、農家や漁家の家では、外に独立した便所棟があって、便器はこのような木製だった。

 

 

畳の香りであふれている各室。
新しいから余計にそのにおいを感じる。
照明にも気配り。細やかな設計の心遣いを感じた。

 

天井裏の構造が分かるように、天井板の一部を開放している。
木組みの複雑さは、現代建物では真似できない精巧な工法だ。

 

以前、市立博物館五稜郭分館(昭和30年開館)があった位置に建つ、管理事務所。

 

同じ場所に建つ「お休み処・いたくら」。
飲み物やアイスを提供してくれる。

分館には何度通ったことか。
維新、新撰組、開港、箱館戦争などの特別展が懐かしい。
そうそう、土方歳三や片腕のイケメン剣士・伊庭八郎の写真もお気に入りだったなぁー。
こじんまりとした分館ではあったが、資料の密度は濃かった。
大阪、東京、山口からのお客様をお連れした想い出がある。

 

これが物議をかもしている貸衣装屋。
奉行所完成前から博物館分館前で営業していたから既得権なのかもしれない。
雨天は休業。
相応しくない光景は、新聞でも取り上げられたのだが・・・。

 

地元民として何度となく分館に足を運び、奉行所の全体図を知っているだけに、今回の部分復元は物足りない気がする。
「これが、箱館奉行所なの?」という、誤ったイメージをもって帰られるお客様が多いのではないかと思う。
全体の復元計画をきちんとたて、完全なる「箱館奉行所」を望みたい。

従事されている皆さん方は、親切で笑顔が絶えなく、温かな気持を与えてくれる。
黒のシックな制服も奉行所によくマッチしている。

アドバイスとしては、外国人のお客様への対応は十分なのか?
特に欧米の方々は、靴を履いたままの生活習慣だから、ビニール袋を渡す前に、外国語でのご案内が必要と思う。

計り知れないご苦労があって、ようやく公開にこぎつけた奉行所。関係者の皆さん、本当にご苦労様でした。
観光都市・函館の、さらなる発展の起爆剤になるように願っています。
全国の皆さん、ぜひお出かけください。
奉行所は、あなたのお出でをお待ちしております。

(お知りになりたい国、都市の時刻を表示できます。
左上時計欄の右下丸マークをクリックし、右上ボタンを下げますと候補国名などが表示されます。選びましたら「設定」をクリックしてください)

 

               

 

 


第551号 波乱の人生?咸臨丸終焉の地

2010年08月10日 | 旧跡、史跡

幕末から明治初期にかけて世界を駆け巡った「軍艦・咸臨丸」。
その名を見たり聞いたりしたことはあると思う。
この船の終焉の地がここ「サラキ(更木)岬」だ。

岬は、函館から松前に向かう途中の「木古内町」に位置する。
町は、厳寒期に若者数名による、ご神体の「海中寒みそぎ」が行われることで有名だ。

 

3本マストの洋式帆船・咸臨丸はどんな歴史を辿ったのだろうか?まとめてみることにした。

 

①この船は、今から163年前にオランダから購入。
スクリュー式の蒸気船で、時速は6ノット(10km)。
燃料は石炭だった。
長さ48.8、幅8.74m。
排水量は620トンと記されているから、遠洋マグロ船なみの大きさ
と思う。

②この船で、1860年に太平洋を横断。
日米通商条約の批准書交換に向かった。
勝海舟を艦長に、福沢諭吉、ジョン万次郎らが乗り込んだ。
航海中、アメリカ海軍の技術的応援があった。

③明治元年、幕府海軍副総裁、榎本武揚に引きつられ江戸・品川沖から蝦夷地に向かうが、台風に遭遇。
静岡まで流された。
明治政府軍は、乗組員を殺害。
遺体は「清水の次郎長」によって葬られた。

明治2年5月の箱館戦争においては、次郎長の流れをくむ柳川熊吉らが遺体の収容にあたった。

 

④明治政府の御用船となった「咸臨丸」は、戊辰戦争終結後、仙台藩の片倉氏の旧臣101名を乗せ、北海道・小樽へ向け航行中、台風に遭遇。
岩礁に激突、沈没し波乱の人生(船生)を終えた。

 

丁度、津軽海峡線の貨物列車が走行中。
歴史の事実を噛み締めながら、文明や土木技術の発達に心が動かされた。

 


                 

 


第544号 箱館奉行所、今月29日から公開開始

2010年07月20日 | 旧跡、史跡

特別史跡・五稜郭跡で復元工事を進めている「箱館奉行所」。
いよいよ29日、11時30分から公開となる。

先週行って見たら、周辺の舗装工事中であった。
それにしても、待ち望んでいただけに4年の工期は長かった。

 

公開を祝うかのように、これまで、お得な地域限定買い物券の発行、野外劇では、公開を知らせる瓦版が配られた。

今度は、地元清涼飲料メーカーから「燃える土方歳三」の赤サイダーが発売され、函館は大いに盛り上がっている。

      

我が家にも夏休み、お盆には来客がある。
自信を持って案内できる、素晴らしい観光施設ができとても嬉しい。
別棟にはなるが「お休み処」もあって楽しそう。

関係者の皆さん、お疲れさま、ご苦労さまでした。
奉行所の公式ウェブサイトはこちらからどうぞ。

 

               

 


第526号 龍馬が居間に居る

2010年05月29日 | 旧跡、史跡

NHK大河ドラマで放映中の、「龍馬伝」。
これに合わせるように、京都では「大龍馬展」を開催中。
会場は「幕末維新ミュージアム・霊山歴史館」だ。

ここでは過去にも、龍馬展が開催されており、そのときのポスターが我が家にある。
毎週日曜日には居間に掲げ、テレビ画面と対比しながら観ている。

龍馬の写真といえば、よっかかりの立ち姿が定番。
こんな座り姿を見るのは初めてだった。

  

函館でもドラマに放映に合わせるように、昨年暮れ「北海道坂本龍馬記念館(アクセス先)」がオープン。
連日、ファンで賑わいをみせている。

夏には、龍馬の後継者になった新政府役人・坂本直が勤務した「箱館奉行所」が完成し、公開される。

皆さんのご来函を、心からお待ちしております。

一週間ほど続いた、季節外れの蝦夷梅雨がようやくあがり、青空が広がってきた。
明日は市立小学校の運動会。
子供たちの元気な声が聞こえてきそうだ。

 

               

 


第484号 結氷の五稜郭

2010年01月23日 | 旧跡、史跡

函館山の麓・元町にあった箱館奉行所の移転新築地として、築造された五稜郭。
21日、その五稜郭へ足を運んだ。

冷たい強い風は体の熱を奪い、耳は千切れるほど。
一の橋手前広場は、前日の陽気で軟らかくなった雪にできた足跡が、そのままの形状でシバレ残っていた。 
こういう道はペンギン歩きが安全だ。

 

二の橋上から眺めた堀。
一面氷で覆われている。
小学生のころ、ここは市民スケート場になっていて賑わいを見せていた。
雪スケートという機種で、ゴム長靴にゴムバンドで固定し滑った。

明治初期に氷の切り出しが行われ、船便で横浜へ送った。
品質の良さが評判となって、欧米氷は値崩れを起こしたという。
氷は当初、医療に用いられていた。

 

中央に見える四角い黒い 穴は、郭内の雨水などを流すための排水口。
五稜郭は一の橋付近が低く、裏門橋付近が高い地形になっている。

当初設計では、全て土塁構造だった。
しかし、一冬過ぎるとシバレ凍上で土手は崩れたために、堀部分は石積みへと急遽変更された。

 

これまでの五稜郭の主役は「さくら」、「つつじ」、「ふじ」。
今年の夏からは、この復元中の「箱館奉行所」がその座を奪うことになる。
外観部分はほぼ完成し、残るは内装工事。

 

これは、太鼓やぐら。
見晴らしをきかす為に土塁より高く、銅板葺きでキラキラと光り輝いていた。
明治2年5月、明治政府軍は箱館湾に軍艦などを集結。
アメリカから購入した南北戦争時の軍艦「ストーンウォール号」が太鼓やぐらを標的にした。
発射した弾丸は命中し、半壊したという。

 

平成になってから、この奉行所近くの石垣から不発弾が見つかり、先の軍艦から発射されたものと判明した。

そんな事を思い出していると、高い高い赤松の枝から風花が舞い降りてきた。
ふと我に返り、雪と氷の五稜郭をあとにした。


                 

 


第436号 待望の奉行所の外観が・・・

2009年09月12日 | 旧跡、史跡

五稜郭にあった「箱館奉行所」。
元治元(1864)年に完成はしたものの、政権交代により明治5(1872)年に取り壊され、存命期間は僅か8年だった。

江戸徳川幕府は、開港後の外国船の入港に備え、函館山麓にあった庁舎では防御上不利という理由からこの地を選定。
奉行所を移転新築し、ここから松前藩領を除く蝦夷地全域に目を光らせ、幕府出先機関としては最大の900坪の威容を誇る建造物だった。

しかしながら、敷地である「五稜郭」は、五箇所の「半月堡(はんげつほ)」が一箇所より出来ず、幕末には幕府とても資金不足に陥り未完成のまま執務開始となった。。

復元面積は約300坪。
お奉行様の居宅部分が削られてしまったのは残念だ。

我々市民が待ち望んでいた復元工事が順調に進み、仮囲いが外され外観が見えてきた。 

 

完成は来年6月末で、公開は夏季に。
完成予想図は下図のとおり。

開会中の市議会に奉行所関連条例案が提案され、着々と準備中。
「早く内部を見たい。お客さんを連れて案内したいなぁー」のムードも盛り上がってきている。

 

写真を撮ったあと、一の橋手前の広場で秋花壇の展示会を見た。
高い空に雲が流れ、堀の水との融和が美しかった。

 

この度、「日本一魅力的な街」に選ばれた函館。
完成により、魅力に更に磨きがかかりそうで、とても嬉しい。

工事にあたっている名工の皆さん、どうぞよろしくお願いします。


               
                 

 

 


第385号 五稜郭桜咲きました

2009年05月02日 | 旧跡、史跡

昨日はうす曇りながら、今年最高の暖かさ。
予定通り市内の桜名所へ、ミケの友人二人と出かけました。

ミケはリハビリを兼ねての久しぶりの市内散策に大喜び。
三人は、ミケの歩行に合わせてゆっくリズム。
友達の細やかな心くばりに感謝しながら「市内のさくら旅」が始まりました。

友人宅へ向かう前に、五稜郭裏門近くでパチリ。
後で気がついたのですが「タワー」が。 

 

最初に向かったのは、函館山麓の「函館公園」。
公園の必要性を説いたのは、函館駐在英国領事・ユースデン。
明治12年に官民あげての労力奉仕で完成。
後年、桜が植えられ市民憩いの場になりました。

ところが、今年は「うそ」という桜の芽を餌とする小鳥が大挙来園。
「絵にもならない貧弱さ」。花見客をあてこんで開いた露店は閑散。
なにしろ、花見客の姿も場所取りのブルーシートも全くなく、夜桜の電飾もこれでは・・・。

諦めて千歳町のNHK函館放送局へ移動。
ここの前庭は数は少ないものの、種類は豊富な桜のミニ博物館。
でも、ちょっと生育か遅い状態でした。

そこで向かったのが本命地の「五稜郭」。
例年の通りお菓子の六花亭のショーウインドーからの眺め。
やはり見事な眺め。

 

ここから郭内に入り、一の橋手前から横津連山を望みました。
例年なら、頂上部が雪に被われた山並みを見られるの・・・。
残念!

 

振り向けばタワーが。
桜とのコラボレーションをパチリ。

明治2年、ここ箱館で戦死した新撰組副長・土方歳三殿は、もうもうと立ち込めるジンギスカン鍋の強烈な匂いに、目を覚ましたのではないでしょうか。

        

それにしても花見客で賑わう五稜郭。
函館公園の寂しさとは比較にならないほど。

ミケはなんとか頑張ってお花見巡りは結び。
少しずつ体調が回復、我が家のゴールデンウイークもこれでスタートした感じです。


                   

 

 


第304号 土方歳三も一息ついた温泉跡

2008年08月22日 | 旧跡、史跡

榎本武揚らが蝦夷地に上陸したのは明治元年の旧暦10月20日。
22日には、土方隊が五稜郭目指して噴火湾沿いに進軍した。
雪は30センチほど積もり、寒さが厳しかったといわれる。

 

この行軍での防寒服装はどんなものだったのだろうか?
土方は横浜で買い求めたアメリカ南北戦争で使われたリサイクル軍服を身に着け、長靴ていたのかも知れない。

しかし、一般隊士達はどんな服装だったのだろうか?
特に履物に興味があり、数年前に郷土史の先生に聞いたことがある。 
返事は「史料がなくわかりません」とのこと。
雪国で履いていた「わら靴」だったのだろうか?
まさか「わらじ」ではないだろうと・・・。

 

雪中行軍で、敵を打ち破っての入浴は、どんな癒しを与えてくれたのだろうか。
鶴の湯・山中旅館の面影は全くないが、近くに残る旧道だけがこの出来事を知っている。
(川汲~かっくみと読みます)

                   


第300号 奉行所工事現場の見学会

2008年08月11日 | 旧跡、史跡

五稜郭で進められている箱館奉行所の復元工事。
昨日、その現場見学会が行われ二人で参加しました。
先月から始まった見学会は人気で、抽選で決定するほど。
今回は180人が12班に分かれ、35分の説明を市役所建築課の方から受けました。

 

奉行所は、大きな仮設建物ですっぽり覆われスケールの大きさに驚きました。
よく調達したと思う太い木材、大きな瓦、壁に塗る土、その下地になる長くて太いヨシズ等など。
江戸徳川幕府が、威信をかけて建設した蝦夷地の行政府、立派だったのではと感じました。

どうして忠実に復元できるかについても説明がありました。
函館中央図書館には、設計図面、仕様書、資材の産地書、工事請負者名などの史料が保管されているほか、明治元年冬にフランス人が撮影した写真もあって、外観や瓦の枚数などが判断できたといいます。

 

もともとは、元町公園にあった奉行所。
開国とともに、海に近いこともあって外国船からの艦砲射撃を恐れ、大砲の弾が届かない内陸部・五稜郭へ移転、ここで執務を開始したのは1864年でした。
しかし、明治2(1869)年にはここを占拠していた榎本軍に、七重浜沖の官軍旗艦・甲鉄から砲弾が打ち込まれました。
兵器の発達の速さは、設計者・武田斐三郎の想像をはるかに超えていたようです。

 

完成は22年6月30日の予定。新しい観光名所になること間違いなし。
完成が待たれます。
見学記念として木材の切れ端を頂戴、家宝にしようかなっと。

応対してくださった市役所の皆様、有難うございました。


                    

 


第274号 五稜郭の主は満開!

2008年06月04日 | 旧跡、史跡

今朝の函館は10日ぶりに青空が広がり、カッコウが鳴き、蝶々も飛んで、とても清々しい気分です。
こんないい天気になろうとは予測もつかなっかので、昨日は曇り空ながら自転車で五稜郭へ出かけました。
(写真をクリックすると拡大できます。)
 

 
桜が終わったあとの五稜郭の主役は、「つつじふじ」。
例年より早く咲いたものの、その後の低温とくもり空のせいで花は長持ち、見るものにとっては嬉しい天候だったのかも知れません。

「ふじ」は、本数が11本、樹高約3.5m、根元周囲約70cm、樹齢約110年。
「ふじ棚」は、幅5.2m、長さ28.8m。
トンネルをくぐると、独特の匂いを感じます。
もともとは個人が植えたものとか。

園内で進められている「箱館奉行所」の復元工事。
これの完成に合わせ、園内全体も当時の姿に戻すために、「つつじ、ふじも撤去」のニュースが流れましたが、「市民のささやかな楽しみを奪わないで欲しい」と願うばかりです。

さて、このよいお天気。どこへ出かけましょうか?

                    

 


第220号 結氷の五稜郭

2008年01月23日 | 旧跡、史跡

大寒が過ぎた昨日は、最高気温がマイナス1度の暖かな晴れ。
久しぶりに五稜郭へ出かけました。
堀全面に氷が 張り、その上にうっすらと雪が。
今年の函館は、寒さこそ厳しい日が続きましたが雪は少なめ、舗装路面が顔を出し、車はスムーズに流れています。
(写真をクリックすると拡大できます。) 
 
一の橋を渡り二の橋の前に。
小学生のころ、この橋周辺は市民スケート場で賑わいました。
そばにあるボート屋さんの木の階段を下りるとそこはリンク。
当時のスケートは、長靴にゴムバンドで固定する”雪スケート”が主流。
バンドは寒さに弱く、よく切れて小遣いはバンドを買うと残りませんでした。
昼食は、経木と新聞紙にくるんでくれた”おにぎり”。
海苔ではなく、黒ごま。そして梅漬け。
冷たくなっていましたが、その美味しさは格別でした。

二の橋、ふじ棚をくぐって郭内へ足を運びました。
昨年11月に閉館になった博物館前で、珍しい組み合わせの光景を発見。
それは”雪つりと大砲”。
和と洋の不思議な融合に、思わずシャッターを切りました。
郭内のあちこちで、春の花見に向け、桜の剪定作業が真っ盛り。
切り落とされた枝を頂いて花瓶にさし、五稜郭桜が咲くのを待つことにしました。

                     

 


第201号 五稜郭の弟?~四稜郭

2007年12月04日 | 旧跡、史跡

所在地=函館市陣川町59番地

四稜郭は、五稜郭の北約3 km離れた丘の傾斜地にある。
分かりやすい案内標識が整備されていないから、市民であっても場所を知る人は少ない。
(写真をクリックすると拡大できます。)
 
平面は右写真中央の黒い部分のように、まるで蝶が羽を広げたような形状をしている。
空濠で石垣はなく、土塁(高さ3m、幅5.4m)が周囲を取り囲み、建物は雨露をしのぐだけの簡易な物よりなかった。
広さは約2万㎡で、五稜郭の10分の1、新撰組終焉の地・弁天台場の3分の2ほど。

明治元年12月に旧幕府脱走軍(榎本軍)が、蝦夷地領有宣言をして以来、明治政府は奪還しようとその時期を2年の春とした。
この情報を得た榎本軍は、五稜郭と箱館奉行が祀った東照宮を守るために、4月下旬に兵士200名と付近村民約100人を動員、昼夜兼行でこの砦を造り上げた。
洋式築造法によって築かれたもので、別名新五稜郭とも呼ばれた。

 

ここでの戦いは明治2年5月10日。
長州藩、備前岡山藩、徳山藩の官軍が刀剣で血戦に挑み、3名の戦死者を出したものの勝利、榎本軍は五稜郭に逃げ込んだ。
それは、明治政府軍が箱館総攻撃を仕掛けた前日、新撰組副長であった土方歳三が松前藩士・米田幸治の銃弾に落馬戦死した前日でもあった。

                               ミカエル  

 

 

 

 


第182号 土方歳三隊に落ちた松前城

2007年10月12日 | 旧跡、史跡

名称=松前城(福山城)
所在地=松前町字松城(北海道最南端、函館から車で約2時間)

十数年ぶりに松前城を訪れた。
役場の横から城へと続く坂道を上ると、積まれて間もない綺麗な石垣が正面に見え、復元工事がかなり進んでいるのよく分かる。
左折すると青い津軽海峡と日本海が目の前に広がってきた。
その海を睨むように造られた砲座に「よっこらしょ」の、加齢掛け声とともに腰をおろし、藩の歴史を思い浮かべた。

(写真をクリックすると拡大できます。)
 
(城入り口となる松前城資料館と復元なった城内。真新しい石垣が印象的。)

この城は、蝦夷地に唯一藩庁を置いた松前氏の居城で、築城当時(1606年)はその地名にちなんで福山城と呼ばれた。
その後、蝦夷地警備の必要に迫られた江戸徳川幕府は、松前藩に対し新城建設の命を下した。時の藩主は13代松前崇広(たかひろ)公。
1854(安政元)年、5年の歳月をかけ、三層天守閣、本丸、二の丸、三の丸、石垣、堀、砲台などを有する城は完成した。
またこの年は、箱館にペリー艦隊が来航した年でもあり、接待役を仰せつかった藩は多忙を極めた。

松前藩は、箱館戦争時には官軍についていた。
1868(明治元)年10月20日、蝦夷地に上陸した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍は、同藩に対し降伏勧告をした。
しかし、拒否したため、新撰組副長・土方歳三を隊長にした約800名の兵に攻められ、同年11月5日に抗戦むなしく落城。
藩主・松前徳広(のりひろ)公は青森へ脱出、弘前で病死した。

 
(当時の姿を残す重要文化財の本丸御門と昭和60年に復元された天守閣)

この戦いで松前藩は終焉を迎えたわけではなかった。
翌、明治2年4月9日、新政府軍は松前北の乙部に上陸、17日にはこの地を榎本軍から奪還した。
そして、5月11日の官軍による箱館総攻撃の日、松前藩士・米田幸治の撃った怨念の銃弾は、馬上の新撰組副長・土方歳三に命中、鬼の副長を北の大地に散らせたのである。

我が国最後の日本式の城として造られた松前城は、外国からの脅威に備えるのが目的であった。
だが、日本人同士が血を流し合う場になったのはまさに悲劇そのものであった。

城近くの寺には歴代藩主の墓所がある。
稲が育たない寒冷の地、津軽海峡を渡っての参勤交代など藩主の苦労は計り知れなかったと思う。
現在、道内一の桜の名所となっているこの憩いの地を、どんな思いで見下ろしているだろうか。
上空を飛ぶカモメの鳴き声で我に返った。

                       ミカエル