ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第788号 「八重の桜 ④」 教会での八重セミナー 大河ドラマのウラ・オモテ

2013年03月25日 | テレビ番組
NHKの日曜夜の大河ドラマ「八重の桜」で、函館はフイーバー。
なにしろ、主人公・八重の夫が新島襄だからである。
幕末に箱館から国禁を犯して海外渡航。話のネタには事欠かない。

1月に、函館放送局の主催で市民会館を会場に公開セミナー。
「新島襄・八重夫妻の北海道滞在ー人生で最も幸せな時間ー」というタイトル。
講師は同志社女子大学教授・吉海直人氏。満席だった。



今回の講演会の主タイトルは「新島八重の生涯」なのだが、副タイトルが「大河ドラマのウラ・オモテ」に人気があり、会場の教会礼拝堂は満席。
講師は、夫妻研究第一人者の同志社大学神学部教授・本井康博氏。











講師は顔の表情を変えずに、ユーモアたっぷりに語り、受講生をおおいに笑わせてくれた。
教授だけに話術の天才だ。

全国区では、認知されていなかった八重。
多くのドラマ主人公候補者を押し分けて、陽の目を見た理由は、あの東日本大災害。
「東北の復旧最適人は?そして女性なら誰?」という発想から八重の登場となった。

大河ドラマの主人公の決定までには、関係自治体・経済界からの強い働きがあるという。
署名活動やNHKへの陳情など考えられない動きが常態化とも。

ストーリーについてもこれからの内容が語られたが、それをこのブログに載せるのは、気が進まないので割愛させていただいた。

この教会は、もともとは西部地区にあったが、度重なる大火で移り、この地に落ち着いた。
「新島襄脱国の地に教会をぜひ!」という信徒の強い力が結集され、建設されたもの。
彼が上海で断髪した際の「チョンマゲ」の一部が保管されている。

一時間半にわたっての楽しい講義は、とても短く感じられた。
そして夜、教授のひとこと一言を思い浮かべながら、「八重の桜」を見ていた。

関係者の皆様、お世話いただきまして有難うございました。





ミカエル、

第787号 「八重の桜 ③」 新島襄と函館

2013年03月18日 | テレビ番組
昨夜の「八重の桜」のテレビ放映、長州藩が都に集結。緊迫した状況となってきた。



このころの八重の動向は手に取るように分かるのだが、将来の二番目の夫・新島はどんな人生を送っていたのだろうか?

新島襄は、現・群馬県下の安中藩士の子として生まれ、渡航前の名は「新島七五三太(しめた)」といった。
海外に新知識を求める志が強く、かねてから海外渡航を考えていた。
しかし、当時は出国はご法度で見つかれば極刑になるのは、長州の学者・吉田松陰の例により明らかだった。
そこで、失敗が少ないであろう蝦夷地・箱館港を選んだ。

彼が箱館にやって来たのは、1864年3月。
徳川から明治へと政権が変わる4年前であり、五稜郭竣工の年であった。

新島は、ロシア領事館司祭ニコライと親交を結び、日本語を教えながら脱出の機会を狙った。
また、イギリス商人が経営する商社で働く「福士成豊(後日再掲)」とも知り合った。
彼は新島が脱出するときの、大きな助っ人となったのである。

同年6月14日深夜、福士成豊(日本最初の私設気象観測所開設者)の助けを借り、現在の海上自衛隊函館基地(元の函館税関)あたりから小舟を漕ぎ出した。
舟底には変装した新島が伏せていた。
沖合いに停泊していたアメリカ船・ベルリン号へ。
船長の厚志に恵まれ乗船でき、国禁を犯した海外渡航は成功した。

船長から航海中「ジョセフ」の名で可愛がられたが、自らは「ジョー」と名乗り、
「襄」の字をあてた。

上海経由で渡米し、修学10年。明治7年に帰国した。
翌8年、京都に同志社大学の前身である「同志社英学校」を設立したが、明治23(1890)年、48歳の若さで没した。

新島が八重と結婚したのは、明治9(1876)年1月。32歳。八重は30歳だった。

現在、渡航記念碑の背後には、ヨット係留場があり、華やかな色の船がその体を休めている。

文中の「ニコライ司教」は、函館の老舗レストラン・五島軒の初代料理長・五島英吉氏とつながりがあったり、東京神田・ニコライ堂を建設するなど話題の多いロシアの人物であった。


ミカエル

第786号 「八重の桜 ②」 思い出薄れた会津若松

2013年03月14日 | 旅行  
約20年前の現職時代のころ、「忙中閑あり」に合わせて旅行を計画した。
行き先は、福島県会津若松市。
どんな理由でその地を選んだのか?よく覚えていないが、強いていえば「白虎隊」だったのかも知れない。

姉夫婦も誘い、総勢4名。
交通公社に依頼してそれなりのクラスに。

寝台車が福島駅到着をアナウンスし、早朝のホームに降り立った。
初秋で顔には冷気があたり、ひんやりさが感じられた。
駅を出て、近くの大衆食堂に腰を下ろし、朝定食を。味噌汁に旅の味を覚えた。

駅前から、9時発の会津行き観光バスに乗り込んだ。
大型バスなのに乗客は我らを含めてたった5名。
これではガイドさんが可哀そう。
途中、名所・旧跡で下車。丁寧な説明に大満足。

お昼は5人でドライブインへ。
豪華であろう夕食膳を創造し、軽い麺類で抑えた。


宿は会津の奥座敷「東山温泉」。藩の湯治場として賑わいをみせたという。
夕食、朝食とも、食べきれないほどの豪華さとボリューム。
いつもの格安団体旅行の食事とは雲泥の差。
でも、食べ残しが多くて、勿体無かった。(タッパを持参すべきだったかな?)

翌朝はハイヤーがホテル玄関までお迎え。
お見送りを受けて、出発。

①お城(鶴ヶ城)
天守閣までのぼれる。市内が一望でき、お殿様気分。
戊辰戦争では、明治政府軍の砲撃標的に。ズタズタになりながらも、倒壊は免れた。
強固な造りがうかがえた。
城壁には非常時を考慮し、乾物魚を塗りこんだそうな。

広い敷地には、驚いた。
政府軍との戦いで負傷した藩士を収容し、婦女子は治療手当てにあたった。

②家老屋敷
マネキン像の婦女子は鉢巻をし、白装束姿。
政府軍兵士による暴行を避けるために自決をしたという。
驚いたのはトイレの構造。便槽のかわりにトロッコ荷台。用が済むと使用人がレールの上を押して下げ、処分した。
藩の大方針として「火」の徹底した取り扱い。火災を恐れたのである。
そのために「かまど火」以外は一箇所のみ。
広いお屋敷であっても、「火鉢」が一つとは、さぞかし寒かったであろう。

③白虎隊
隊士が自決した飯盛山へは、麓から簡易リフトで上る。
おみやげ屋がずらり並び、呼び込みに熱心。資料館は観覧価値が十分ある。
ただ一人の生き残った隊士「飯沼貞吉」は、逓信省の通信技師として業務に精励。
誤情報による悲劇を、悔やんでいたのであろうか?

④ラーメン
このころ「喜多方ラーメン」が頭角を出してきた。
「きたかたし」は、会津から近い。
お店の選定は、タクシードライバーさんに一任。公道らしき広い道から、水田が広がる地区へ。
ポツンポツンと建つ民家。ラーメンの、のぼりの家へ。
あっさり味。なぜか新漬けがたくさん。どちらも美味しかった。

夕方、JR会津駅へ。帰途に1ついた。

会津旅行の思い出がだんだん薄くなってきている。
年をとったのだから、仕方がないのか?

現在行くとしたら、もっと時間をかけ丁寧に見て歩きたい。
方言や伝統料理も口にしたい。民芸品も見てみたい。
「八重の桜」の場面が、浮かび上がって来るかも。


ミカエル

第785号 「八重の桜」。箱館に会津藩のお屋敷があった

2013年03月11日 | テレビ番組
昨日は日曜日。夜8時からはNHKの大河ドラマ「八重の桜」を見るのが楽しみ。
この時間帯はこれまで、歴史上有名な人物が主人公。
しかし今回は、無名に近い「同志社大学開設者である新島襄の妻・八重」を。

彼女は会津藩武術家に生まれ、砲術やなぎなたに優れた才能を発揮していた。
今回の大震災で大きな災害を受けた福島県民を勇気づけるための企画だったのでは?

幕末の日本の揺れる政治模様、会津藩と京都が舞台。
京都守護職を命じられた藩主・松平容保。
その中に過去の大河ドラマ「新撰組」も登場させ、ストーリーを進めているのは憎い演出だ。
主演の「綾瀬はるか」さんの好演技も光ってきている。

ところで、幕末当時の箱館地図には、東北諸藩のお屋敷が見受けられる。
北海道は、「蝦夷」と呼ばれ、ほとんどが江戸・徳川幕府の直轄地。
蝦夷地に藩庁を置いていたのは松前藩のみ。
広大な蝦夷の警備には、この藩だけでは不安だった幕府は、東北諸藩にも警備を命じた。

現在の元町公園には、幕府直轄の箱館奉行所があった。
諸藩のお屋敷は、この周辺に建てられた。

奉行所に向かって左には、仙台藩、秋田藩、南部藩陣屋(旧NHK函館局舎用地)。
右には、会津藩、庄内藩とあった。

会津はここを蝦夷の本拠地として、どのように命令をこなそうとしていたのか?
興味は深い。

新島は群馬・安中藩江戸屋敷で出生。
大志を抱いて海外へ渡航するが、脱出の地として選んだのが箱館。
昨日のラストシーンには、「襄」が登場。

これからのストーリー展開に、目が離されない日曜の夜が続きそうだ。

今日で東日本大震災から2年。
皆様の一日も早い幸せが戻りますようにお祈りいたします。

ミカエ

第784号 夢だった「ひなまつり」

2013年03月06日 | 我が家のもろもろ
昨年5月に生まれた初孫にとって、嬉しい嬉しい「ひなまつり」。
息子がわざわざ我が家まで迎えに来てくれ、「今夜は泊まっていきなよ!」と。

パパ、ママにとって力の入れようは半端ではなく、それは私どもジジ、ババにとっても同じ。
また、ママのご実家も嬉しさいっぱい。
お人形さんを飾り、ご馳走も並んだ。

「♪ あかりをつけましょ ♪ ~ ♪ ぼんぼりに・・・」














マドモアゼルは、離乳食、ミルクのあとに、イチゴ(あまおう)のすりつぶしだけを賞味。
あとは、目からの味わい。
来年は晴れて箸を使っての「おまつり」になりそう。

それにしても、いまだに自宅に帰ることができない「東北の被災者の方々」。
一日も早いご帰宅をお祈りいたします。
皆様の状況を思い浮かべますと、我が家の孫は幸せ者ですね。
感謝、感謝の日々です。


ミカエル



第783号 大鵬関は「例の流行語」は、嫌いだった。

2013年03月02日 | スポーツ
地元北海道民が心を全開にして誇っていた「横綱・大鵬関」が、天国へと旅立った。
まれなる力量と体にも恵まれ、天才横綱と言われ、優勝回数は実に32回。
いまだに破る者なしの大記録をうちたてた。

関取が横綱に昇進したのは、1961年。私が17歳のときであった。
その当時の人気スポーツといえば、野球と相撲。
相撲は必ずラジオ実況中継があり、拳を握りしめ応援したものだった。

さて、
北海道出身の横綱を列記してみると

41代 1951年昇進  千代の山  松前郡福島町
43代 1954年昇進  吉葉山   厚田郡厚田村
48代 1961年昇進  大鵬    川上郡弟子屈町
55代 1974年昇進  北の湖   有珠郡壮瞥町
58代 1981年昇進  千代の富士 松前郡福島町
61代 1987年昇進  北勝海   広尾郡広尾町
62代 1987年昇進  大乃国   河西郡芽室町と、なっているので、近年の道内相撲界はさびしい気がする。

大鵬関が横綱に昇進した前後は、日本経済は高度成長期。
野球は巨人、相撲は大鵬、子供が好きな食べ物は玉子焼き。
そこで、「巨人、大鵬、玉子焼き」の流行語が生まれた。

生前の横綱の映像を見ていたら、新発見。
横綱はこの流行語が嫌いだったのである。

「私は一人で裸一貫。道具を使わずの勝負だ。
それに比べたら、巨人は団体での勝負。誰かが倒れても補充が可能。それと資金力。
私と一緒にされたら困る」と。
十分に理解できる理論である。

今月に入り、地元では「偲ぶ会」、「道路に横綱名を命名」などの関連行事が目白押し。
横綱の功績を、のちのちまで伝えてくれるよう、関係者の皆さんにお願いしたい。

大鵬関、お疲れさまでした。
ゆっくりおやすみください。




ミカエル