所在地=函館市弁天町20番 市電函館どっく前下車 現・函館どっく構内
(貧弱な案内標識と平面図・不等辺6角形)
(海に築かれた台場と台場の入り口)
函館山展望台から市街地を見下ろすと、左側に大きなクレーンや船が見えるが、そこにこの西洋式台場はあった。
ペリーが浦賀沖にやって来て、開港を迫ったのが嘉永6(1853)年。
翌年、江戸・徳川幕府は下田、箱館を開港することにした。
箱館奉行は開港に伴う防備上の不備を幕府に訴えた。
その結果、箱館奉行所の移転(五稜郭へ)とこの弁天台場の建設が決まった。
設計は五稜郭も手がけた箱館奉行支配・諸術調所教授・武田斐三郎、石垣工事は江戸・品川台場も請け負った備前・岡山の石工・喜三郎であった。
総面積約32,340㎡(甲子園球場の1.1倍)、周囲約684m、高さ11.2m、築造費約107,300両。
大砲は50門を予定したが、実配備数は不明。
着手は安政3(1856)年、完成は元治元(1864)年。
箱館山の裏斜面から切り出した安山岩は、冬はそり、夏は船を用い運搬したが何しろ海を埋め立てて造る台場、工事は難航した。
明治2年1月3日、蝦夷地を占拠していた旧幕府脱走軍(榎本軍)に掃討令が下った。3月9日、品川を出航した新政府軍は、蝦夷各地で勝利を収め、5月11日は箱館総攻撃の日となった。
その時、ここを守備していた主力部隊は相馬主計率いる箱館新撰組(163名で編成)。
しかし、周囲を完全に政府軍に押さえられたため孤立、水、食糧、弾薬にも事欠き、台場はついに,同月15日に降伏し、ここに新撰組は終焉を迎えたのであった。
運命の11日、土方歳三はこの台場へ応援に駆けつけるため馬にまたがり、赤い陣羽織をひるがえし、抜刀し敵陣を切り抜けようとした。
その時、政府軍兵士の放った銃弾が・・・。
土方の体が冷たくなってなっていくなかで、日野の風景、京都生活、近藤や沖田の顔が浮かんだに違いない。
7日後の18日、榎本武揚以下全員が降伏、日本は近代化への道を一気に突き進むことになった。
明治29年、函館港湾改良工事に伴い台場は解体され、その石材は近くの函館漁港の石垣として再利用された。
異国の脅威のために造られた台場であったが、日本人同士が血を流す現場になったのはなんとも哀しいことである。
(※ 白黒写真は、盛岡中央図書館、函館中央図書館所蔵)
ミカエル