ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第98号 箱館から函館へ

2007年02月26日 | 珍話、懐古品、珍品

我家にお客様が見え、函館市内をご案内していると、「箱根の箱館から現在の函館になったのはいつからですか?」と聞かれることがよくある。
(このブログでも、新旧両文字を交えながら投稿している。)
「それはね、箱館戦争が終結してからですよ」と答えている。

確かに、明治2年5月18日に榎本武揚以下旧幕府脱走軍全員が、明治政府軍に降伏した日以降であることは間違いないのだが・・・。
では、その日はいつなのか?。
一般的には明治2年8月説と9月説があるとしながらも、後者が有力だとする見方が多い。

8月説~8月15日に「蝦夷地」を「北海道」と改称する旨の太政官布告が出されたのと同時に箱館も改めたという説。
9月説~9月30日、箱館に開拓使出張所が開庁する旨の布告が出された時に改めたという説。

しかし、市中でも政府公文書でも「箱館」「函館」は明治10年頃までは混用されていた。
改字理由は明らかでないが、竹や木で作られた弱弱しい「箱」よりも、材質を問わない大容量の「函」に改めることにより町の発展を願ったのではないかと思われる。
同時期、「大坂」も「大阪」に改字されている。

                    ミカエル 

 

 

 

 

 

 


第97号 新撰組終焉の地・箱館弁天台場跡

2007年02月22日 | 新撰組

所在地=函館市弁天町20番 市電函館どっく前下車 現・函館どっく構内

 
        (貧弱な案内標識と平面図・不等辺6角形) 
            (海に築かれた台場と台場の入り口)

函館山展望台から市街地を見下ろすと、左側に大きなクレーンや船が見えるが、そこにこの西洋式台場はあった。

ペリーが浦賀沖にやって来て、開港を迫ったのが嘉永6(1853)年。
翌年、江戸・徳川幕府は下田、箱館を開港することにした。
箱館奉行は開港に伴う防備上の不備を幕府に訴えた。
その結果、箱館奉行所の移転(五稜郭へ)とこの弁天台場の建設が決まった。

設計は五稜郭も手がけた箱館奉行支配・諸術調所教授・武田斐三郎、石垣工事は江戸・品川台場も請け負った備前・岡山の石工・喜三郎であった。
総面積約32,340㎡(甲子園球場の1.1倍)、周囲約684m、高さ11.2m、築造費約107,300両。
大砲は50門を予定したが、実配備数は不明。

着手は安政3(1856)年、完成は元治元(1864)年。
箱館山の裏斜面から切り出した安山岩は、冬はそり、夏は船を用い運搬したが何しろ海を埋め立てて造る台場、工事は難航した。

明治2年1月3日、蝦夷地を占拠していた旧幕府脱走軍(榎本軍)に掃討令が下った。3月9日、品川を出航した新政府軍は、蝦夷各地で勝利を収め、5月11日は箱館総攻撃の日となった。
その時、ここを守備していた主力部隊は相馬主計率いる箱館新撰組(163名で編成)。
しかし、周囲を完全に政府軍に押さえられたため孤立、水、食糧、弾薬にも事欠き、台場はついに,同月15日に降伏し、ここに新撰組は終焉を迎えたのであった。
運命の11日、土方歳三はこの台場へ応援に駆けつけるため馬にまたがり、赤い陣羽織をひるがえし、抜刀し敵陣を切り抜けようとした。
その時、政府軍兵士の放った銃弾が・・・。
土方の体が冷たくなってなっていくなかで、日野の風景、京都生活、近藤や沖田の顔が浮かんだに違いない。

7日後の18日、榎本武揚以下全員が降伏、日本は近代化への道を一気に突き進むことになった。

明治29年、函館港湾改良工事に伴い台場は解体され、その石材は近くの函館漁港の石垣として再利用された。
異国の脅威のために造られた台場であったが、日本人同士が血を流す現場になったのはなんとも哀しいことである。

(※ 白黒写真は、盛岡中央図書館、函館中央図書館所蔵)

                        ミカエル

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第96号 五稜郭桜、咲きました。

2007年02月20日 | 我が家のもろもろ

  

今月の8日、五稜郭桜の剪定(せんてい)作業の写真を撮りに行った。
その時、切り落とした枝を5本頂き、花瓶にさして居間の出窓に置いていたところ、
今朝「花」が咲き出した。
郭内の桜は、大半が大正3年に植栽された「ソメイヨシノ(染井吉野)」。
咲いてくれた花びらの色は白。
贅沢を言えば、赤が少し混じってピンクになっていれば最高なのに。

スイセン、チューリップなどの球根ものは、冬のシバレがゆるいと花の色の鮮やかさが欠けるという。
今年の冬は暖冬でしかも小雪。
桜の花びらにはこの言い伝えがあてはまらないと思うが、五月の大型連休には見事なピンクの桜樹海が、五稜郭に出現するのを楽しみに待っている。

                    ミカエル

 


 

 


第95号 五稜郭タワー アトリウム(イベントホール)

2007年02月17日 | 展望処

所在地=函館市五稜郭町43番9号

 

昨年の4月1日、新しい五稜郭タワーが完成し、多くの人達で賑わいを見せている。
その華々しいデビューの陰、旧タワーは42年間の使命を終えて壊され、跡地にこのホールが建てられた。
新タワーにばかりに目が向けられ、ホールの話題はあまり聞かない。

先週の8日、五稜郭桜の剪定作業見学の帰路、ホールを訪れてみた。
屋根、外壁にガラスを多く用い超明るい雰囲気。
広さは940㎡(畳570枚)、床から天井までの高さ12mとジャンボだ。
こけら落としの行事は、12月2日の「山本耕史トークショー」。
葉書による応募で見事二人分をゲット、圧倒的に多い女性の熱い歓声で大いに盛り上がったが、その中には私のお嫁さんの姿もあった。

土方歳三の立像、函館野外劇や五稜郭祭りには出番となる大砲もあって記念撮影の好位置も占める。

現在は、「北海道日本ハムファイターズ展」を開催中。(19日まで。9:00~19:00)

既存の六花亭、中央図書館に加え新タワーが全面開業し、さらには箱館奉行所が加わるなど界隈の未来は明るい。
函館観光の重要ポイントとして、その伸展は止まることを知らないようだ。 

                      ミカエル


 

 


第94号 「土方歳三ホタテバーガー」 新発売!!

2007年02月14日 | 美味満足技処、買い物処

                ラッキーピエロ五稜郭公園前店

所在地=函館市五稜郭町30番14号(五稜郭タワー斜め向かい)
電話=0138-55-4424

     
                               (この写真を拡大

五稜郭桜の剪定を見学してからの帰路、こんなポスターを発見した。

函館生まれの人気ナンバーワン・ハンバーグ店。
函館市内だけに止まらず、大沼駒ヶ岳の麓・森町にも進出し店舗数は13になった。
オーナー王氏の経営手腕は、先行きを見越した確かな眼力。
眠っていた街並みを見事に活性させるから不思議。

この店だって以前は何をやって長続きしなく、その都度経営者が交代していた。
進出した「ラッピ」は大当たり、活況を呈している。
店内は、若者に混じって子供連れの若夫婦、そしてたまには私のような老青年も。

そんな「ラッピ」で「土方歳三ホタテバーガー」が発売された。
現在の人気バーガーは、
①チャイニーズチキンバーガー ②くじら味噌カツバーガー ③酢豚バーガー
④トンカツバーガーの順。
山本耕史氏が来店し試食されたよし、上位に食い込むのは時間の問題か?

あっ、そうそう、今年の土方の祥月命日には、このバーガーを碑に供えなければ。

                   ミカエル

 


 

 


第93号 テレビ放映される五島軒

2007年02月12日 | 美味満足技処、買い物処

所在地=函館市末広町4番5号

             

函館が日本に誇る「老舗レストラン・五島軒」がテレビで紹介されます。

今春、創業128年を迎える同レストランのカレーが、バレンタインデーの日にフジテレビ系で全国放映されます。
かって「日本の3軒」と並び称された洋食屋のメニューを、中尾彬さんらが試食。
五島軒ファンの私にとっては、見逃せない番組です。
カレーの香りの中に函館の町の香りも溶け込んだハイカラな味は、どんな言葉で表現されるのかが見どころです。

放映日 ~ 2007年2月14日(水) 21:00~22:00
番組名 ~ フジテレビ系 「ザ・ベストハウス!123」 (函館・27チャンネル)
紹介されるレストラン 東京 ~ 精養軒
              新潟 ~ イタリア軒
              函館 ~ 五島軒

                  ミカエル

 

 

 

 


第92号 五稜郭桜は只今剪定(せんてい)中!

2007年02月08日 | 旧跡、史跡

所在地=函館市五稜郭町1番地

 
    (この写真を拡大する)           (壱の橋から弐の橋を臨む)

今日の午後、五稜郭を訪れてみた。
ここは、北海道唯一の国指定・特別史跡。
雪は少ないものの、風は冷たく、堀は氷で覆われていた。
観光時期に、二の橋から鯉に歓声を上げながら餌をやる観光客の微笑ましい姿を思い浮かべながら郭内へ足を運んだ。

チェンソーの音が聞こえてきた。
この時期行なわれる桜のせん定作業中だった。
「こんにちは、ご苦労様。作業ははかどっていますか?」
「そうですね、今年は雪が少ないから、いつもなら3月までかかるこの作業も今週で終わります。観光のお客様や市民の皆さんに美しい花を見てもらいたいですね」と、公園管理事務所の方は作業の手を休めることなく答えてくれた。

園内に生育する桜は、約1,660本。
ソメイヨシノが約1,560本で97%を占め、残りがサトザクラである。
この桜は、大正3(1914)年、五稜郭が公園として一般公開されるのにあわせ、函館毎日新聞社が1万号発行の記念事業として寄贈・植樹したもの。

函館地方の桜の満開日は、例年5月の大型連休中。
記録的な暖冬を過ごした桜たちは、どんな色の花びらを見せてくれるのだろうか?
春のうきうき景色を思いながら五稜郭をあとにした。

                       ミカエル

 


第91号 爆沈した朝陽艦らの戦死者慰霊碑

2007年02月05日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

所在地=函館市船見町6番8号

            

碑の名称は「己巳役(きしえき)海軍戦死碑」で、明治3年の建立。
己巳役とは箱館戦争のことで、明治政府軍の海軍戦死者(写真左)と乗艦していた箱館在住隊戦死者(写真右)の慰霊碑てある。

先号でご紹介した咬菜園前の急勾配坂を3分ほど上り、右に曲がるとこの碑はある。
明治2年、倒幕体制を整えた明治政府軍は、蝦夷地を占拠していた榎本軍に反撃を開始、5月11日の箱館海戦に臨んだ。

午前3時作戦開始。
箱館港内では、政府軍4隻、榎本軍3隻が砲撃を始めた。
午前8時、榎本軍軍艦・蟠龍が放った砲弾が、明治政府軍軍艦・朝陽の火薬庫に命中、大音響とともに爆破し沈没した。
碑には、この朝陽艦戦死者のほか、政府軍軍艦・甲鉄・春日・飛龍、箱館在住隊の計70名を刻んでいる。
左写真の碑石は、高田屋の亀石と呼ばる大石で、
箱館の豪商・高田屋嘉兵衛屋敷」にあった半分,高さは約4mもある。

満足な標準器がなく、波と射撃の反動でも揺れる艦から撃ち出される砲弾は、なかなか命中しなかった。
朝陽艦に積んでいた大砲は引き揚げられ、現在は市立函館博物館五稜郭分館前に展示されている。

                    ミカエル


 

 

 

 

 

 


第90号 幕府軍・最後の宴地 咬菜園跡

2007年02月02日 | 旧跡、史跡

所在地=函館市船見町3番8号(こうさいえん)

              
                   (この写真を拡大する)

安政4(1857)年、名主で慈善家として知られた堺屋新三郎が、箱館奉行から
約3,770㎡の土地の払い下げを受け、庵とともに各地の名花、名木を集め、美しい
庭園を造った。
これは住民にも解放され、箱館一の名園として親しまれた。
咬菜とは粗食のこと。五稜郭の設計・監督にあたった武田斐三郎が名付けた。

明治2(1869)年3月4日、蝦夷地を占拠していた旧幕府脱走軍(榎本軍)に追討令が下り、新政府軍艦隊は品川から出航した。
これを聞きつけた榎本は、3月14日、幹部6人とともに、この咬菜園に集まり、今宵が最後の宴とし飲み、かつ詩を吟じた。

この中に箱館奉行並で俳人の中島三郎助(元は浦賀・与力でぺりー来航時には応接係を務めた)もいて
「ほととぎす われも血を吐く思い哉」
「われもまた 死土で呼ばれん 白牡丹」の句をこの時詠んでいる。

今、庭園前の道路から五稜郭方向を眺めると真っ白いタワーがあって、目印となるが、当時は野原の中に大きな五稜の姿が見えたに違いない。
翌朝、馬を走らせ帰営する幹部の姿が浮かぶ。
旗艦・開陽丸をも失い、津軽海峡を制海できなくなった榎本軍、悲痛な覚悟があったかも知れない。
現在は個人の住宅地になっているので、見学時にはマナーを忘れないようにしたいもの。
                    

                         ミカエル